ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ボンヤリ言語

 
  ボンヤリ言語の誘導(7)2
 
 自分を映す鏡としての幸福の科学
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言は、批判を向けられても、いっさい、気にしないという他者無視と一体の執着から出来ています。宗教と信仰における異常者とは、教祖的強引さだけではなく、ペテン師の嘘と詭弁という場合もあることを示している楽山です。
 
人間らしさ、謙虚さ、断定を避ける、そういうところに破壊の根を持つカルト妄想は、罪悪感と羞恥心を全く欠いているので、何を言われても、何ごとも無かったかのように、誘導を続けます。素顔が血も涙もない仮面の芝居なのです。こうやって、誰に対しても、人間性喪失に向かって誘導してきます。
 
 
前々から薄々気が付いていたことではあるけれど、自分にとってHSを批判するということは自己を知ることであるらしい。
 
自分についての真実を追求する楽山の言を一度も見たことはありません。楽山の言は、いつも、他者に向いており、印象を植え付け、シンパ(シンパシー、共鳴、同情)を求めてくるという柔和芝居であり、そのためのボンヤリ言語なのです。
 
その分、教祖として豪語し、従え、という妄想家カルトより、むしろ、悪質と言えるのでしょう。楽山のやり方では、人間を、心という器(うつわ)から破壊してゆきます。
 
 
たとえば現在のHSは、神は人に信仰を求めており、信仰を持たない者には神罰が下されるとしている。自分はこれに対して、そのような神は祟り神ではあっても、真の神であるはずもないと異論を述べるのだが、これは表向きはHS批判ではありつつも、別の面ではHSに反発することで自己の持っている神のイメージを再確認しているという面もあるのだ。この意味で自分にとってのHSは自己を知るための鏡だといえる。
 
楽山は「真の神であるはずもない」と言いながら、信じてもいないのに「神のイメージを再確認」と言っています。統合失調の傾向とも見えますが、無節操であることは確かです。神は、イメージでも概念でも捕らえられる対象ではありません。楽山は神を文字だけで語っている心無い無神教カルトです。
 
このように、カルト批判を装って、そこから、自らを高めてゆきます。神のイメージを再確認、などという言葉は、楽山が神を信じる者ではないことの証拠です。神は、確認できるような御方ではありません。ゆえに、信仰対象となるのです。
 
 
ちなみにこの構図は自分がHSの会員だった頃も同じだ。当時HSは神は愛であり、人を裁いたりはしない、人は死後に神に裁かれてではなく、波長同通の法則によって天国的な心の人は天国へ、地獄的な心の人は地獄に赴くことになると説いていた。
自分はこれに共感することで自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができたのだった。
 
楽山は「波長同通」という妄想的なことを、当たり前の言葉として書いて、なお、否定しないわけです。神についての話で「共感」と言うのは楽山の嘘です。ましてや「自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができた」などは、神とは何の関係もない妄想だと思います。
 
 
自分は無宗教の家で育ち、特定の宗教教義を信じているわけではなかったので、神の存在を信じつつも、その神とはどのような存在であるかを説明できなかった。でもHSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができたのだ。
 
上の説明で「自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言っていることが、楽山の思考の幼稚さが表れています。いかに、楽山の神?が、いかに安い出来であるかを知ってほしいです。「神を言葉という形で知ること」など出来ません。楽山の安易な曲解からの大嘘です。
 
ここは、神を、例えば、あ、分かったよ、知ってるよ、と言っているような、救いがたいほどの浅はかさが表れているのです。まともを装う表面的な筆致とその内容の浅さ幼稚さの、決して一致しない対照が、ボンヤリ言語なのです。
 
 
自分は昔と今とではHSに対する立ち位置は会員から批判者へと百八十度変わっている。
 
変わっていないと思います。うまく利用したつもりなのです。
 
 
でも上に書いた通り、HSによって自己を知るという点では少しも変わっていない。
会員だった頃はHSへの共感によって、批判者になってからは反発によって自己を知る機会としている。HSにとっては迷惑なことではあろうが、どうもHSと自分との関係は前からこのようなものであるらしい。
 
上のほうで「HSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言ったばかりです。どこが「反発」なのでしょう。日本語を壊して使うのがボンヤリ言語で、楽山は、HSを、適当に、不適当に、気分次第で、利用しているだけなのです。
 
 
 
 神秘体験と宗教の正邪
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、悲惨な、分かるんだ、知っているんだ、体験したんだ、自分は特別なんだ、というアピールが、神聖に対する微塵の恐れも謙虚さもなく、さらさらとボンヤリ言語で、表れています。
 
 
幸福の科学(HS)の会員だった頃、会員の集いで皆と神理の話で盛り上がった後の帰り道で不思議な感覚を味わったことがあった。これは光輝く神と出会っただとか、その声を聞いたというような派手なものではなかったが、とにかくそのときの幸福感は圧倒的なものだった。
自分にとってこの体験は一体何だったのかということが長年の疑問だったのだが、先日ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、自分の体験と同種のものと思われることがいくつも紹介、考察されていて驚いた。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己顕示欲から、自分の、宗教が分かるっぽい、心霊が分かるっぽい、という印象を、学者の名前を通して、まるで既知であるかのように刷り込んできます。楽山は、感動、理解、共感、ということから、最も遠い人です。「幸福感」は一種の異常気分ですが、嘘だと思います。
 
 
もちろん本書で紹介されているものと比較したら、自分の体験は随分とつつましく、貧弱なのだが、それでもその本質的な部分では共通するものがあり、同系統のものと思われるのだ。
 
このように、ぼんやり、謙譲から自慢へと、当たり前に成立しているように、本と体験が共通、同系統、というボンヤリ言語の言い方です。実際には、心霊についての自分の超能力をを肯定する自慢話になっているのです。
 
 
このことからすると、どうやらあの体験は、宗教的にはそれほど悪いものではないようだし、またHSに限定されるものではなく、他宗教でもあり得るものであってそれほど特殊なものではないようだ。
 
「それほど悪いものではないようだ」・・何なのでしょう。こういう言葉で信仰と神を表すこと自体、何も理解していない証拠です。珍味のグルメレポートでしょうか。しかも、内容は皆無なのに、他宗教でもと、一般化したいようです。楽山は、いかなる宗教も知りません。
 
 
よく言われることだと思うのだが、神秘体験というものは宗教に属するものではなく、個々人に属するものであり、もっと言えば、その時、その場所、その心境に依存するものであるというのは真理の一面を表してはいるのだろう。
 
(ネットより)
神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98
 
神秘は、言ってみれば、神の秘密であり、人に属することなど無いのです。楽山の、すっとぼけた慢心が、神という真理の秘密を「人に属する」つまり、自分は分かると言わせています。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山や、神の啓示だから議論の対象にならないと言うシャロームなど、こういう者が、妄想をもとにカルトを捏造してゆくのです。
 
 
だからカルトでも神秘体験はあり得るし、神秘体験があったからその宗教は正しいものであるとはいえないのだ。
 
神秘体験=宗教、という安っぽい先入観を否定して、逆に、カルトでもありうる、などという誘導は、詭弁以外の何ものでもありません。ここは、神秘体験はあり得ると言って、宗教の正しさではないと言い、結局、自分にも、そういう神秘体験があると言いたいのでしょう。発言の軽さに驚きます。
 
カルトでも、宗教でも、人間が神秘体験を根拠にし始めたら、人間性を捨てる方向に向いてしまうので、宗教による人間の救いは、終わりなのです。楽山は、どこまで、デタラメを言い、自分を霊能者気取りで高めるために、嘘を吐き続けるのでしょう。
 
 
HS信者をみていると、残念なことに自身の神秘体験とHSとを別個に分けて考えることができず、両者を安易に結びつけてHSで神秘体験があったからHSは本物であり正しい宗教だと主張する人が散見される。
 
実に軽く、安易に、神秘体験を扱っている楽山です。いかなる神秘も、すっとぼけた軽口の楽山に縁(えん)はないと思います。神秘は、神の秘密、人間が驚くテーマであっても、人間が扱えるテーマではありません。
 
 
聞くところによると、オウムでもそういう信者はいたという。この二つを分けで考えることは口で言うほどやさしいことではないのでそれも致し方ないことではあるが、判断をあやまらないためにはここはぜひとも気をつけなければならないことではある。
 
他のカルトを引き合いに出して、宗教と神秘体験を分けると言っていますが、神秘は、結ぶことも、分けることも、できないから、人知を超えた神秘なのです。神秘体験にこだわっている間、神秘からの救いはないと言っても過言ではないのです。
 
「やさしいことではない」ことを、実に気楽に書いてくる楽山です。人間らしい良心を失った、あるいは、捨てた、楽山の心性は、特別の存在になって、神が分かる、体験した、神秘体験だだだ・・と、機関銃のように言わないと気が済まないようです。
 
 
なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分もこの点についてはまだまだ徹底することはできず未熟であるし、この点よくよく自戒したいと思う。
 
だったら、偉そうなことなど書かなければよいのです。自戒する精神を持たず、偉そうなことだけを書きたい楽山であることが、もはや、ザルのように漏れ出てきます。実に恥ずかしい男です。
 
楽山については、思い切りバカにしていいのではないかとさえ思います。求めること、学ぶこと、反省すること、成長すること、これら一切をしなかったゆえの、常識と良心のない知恵足らず、と申し上げておきます。霊が分かるっぽいと思ったときから、そうなってきたのでしょう。
 
 
 
 拝み屋さんと伝統宗教に対する偏見2020年05月02日
 
 
楽山という人は、やさしいと書いて、やさしさを知らず、思いやりと書いて、思いやりを知らない人だと思います。良心に欠ける部分を、温もりを表す感想の言葉の飾りだけで補うことなどできません。温もりは、良心の産物だから、言葉以上に、体験の実(じつ)を持っているのです。
 
楽山に、発言の実(じつ)はありません。その代わりに、温もりのない楽山は、言葉で、べた褒めという手段を使うことになります。それを、思いやりと言ったり、共感と言ったりして、自己満足する言葉の稚拙さから、嘘も詭弁も思い込みも妄想もバレてきました。
 
そういう言葉の技(わざ)で、でっちあげても、楽山のボンヤリ言語では、芝居に過ぎず、わざとらしい言い過ぎになったり、ピント外れであったりするために、今までの記事の流れを考えて読むと、不自然感満載の文章だと分かるのです。
 
そのことにも、楽山だけは気づかないのでしょう。だから、平気で、どんなもんだい、わかってるんだとばかり、図々しく書いてくるのです。記事の中の言葉だけでなく、今までの楽山の記事の、反キリストの主張の流れというものが楽山を否定する、ということにも、楽山だけは気づかないのです。
 
今回の題材は、すなわち、楽山の自慢のネタにされているのは、拝み屋さん、祈祷師と呼ばれる人たちです。自分の霊感以外を正当と認めることのない楽山に褒められることは、災いでしかありません。
 
 
HSの教義はその時々で改変されるものなので、いまはもう変えられたかもしれないが、自分が会員だった頃のHSでは、拝み屋さんや伝統宗教についてはかなり否定的な見方をしていたのだった。拝み屋さんのほとんどは偽物で悪霊に憑依されているとか、伝統宗教は形式主義に陥っているだとか…。
 
楽山の狙いは、自らが、柔和で、視野が広く、人間味に溢れていることを主張したいがために、拝み屋さんも認めていますとアピールしたいようです。楽山が、今まで、しばしば、ボンヤリ言語で、やさしさ芝居をしてきたことを忘れてはいけないと思います。
 
どんなに詭弁を弄しても、頑強にキリスト信仰を否定してきた今までの流れから、策略としか見なされないだろう、という予測すらも出来ない楽山であります。そういう鈍麻の無頓着から、何を言われても、平気で記事を書いてきたのでしょう。
 
 
自分は会員だった頃はこれをそのまま信じていたのだが、退会したあとは、実際に拝み屋さんと会ったり、宮司さんの仕事ぶりを見る機会があったりして、段々とそういう考え方からは離れて行った。
まず自分が会った拝み屋さんは物静かで、落ち着いた雰囲気の人だった。悪霊に憑依されていると感情の起伏が激しくなり、ちょっとしたことで激怒したり、常識から外れた奇行が出たりするというけれども、そういうところは全くなかった。神様のことを信じていて、神様の話をすることが大好きで、迷っている霊がいればたすけてあげたいと思っている優しい人だった。
 
楽山こそ、いつも「物静かで、落ち着いた雰囲気」を装う嘘吐きであります。実際には、自分が否定したことにも、肯定したことにも、訂正不能に凝り固まっているのに、一貫して無責任です。つまり、どちらも、言ってはみたが、忘れるか、ぼかすかして、一定の主張に達することがないのです。
 
言葉だけの神様、即ち、紙様の話をするのが無責任に無反省に大好きで、人が本当に優しいかどうかなんて簡単に分かるはずもないのに、気安い世辞を言って、神霊に結びつけ、神霊の話をでっちあげて、自分と結び付けてくる楽山です。
 
そのことは、批判記事に対して以前返してきたのが詭弁だけであり、結局、不感不応で訂正不能である、ということを楽山自ら証明してきたデタラメな記事の流れに表れているのです。何をネタにして語っても、ペテン師とバレた以上、一切は無駄なのですが、病質によって、気づかない楽山です。
 
 
肝心の儀式の際には、拝み屋さんは祭壇に向かって正座をし、二、三時間にわたって一心不乱に祝詞を唱え続けていた。その間、背筋を伸ばし、膝を崩すこともなく、気を引き締めて、本気で祈りつづけていた。それでいてお金はロウソク代という名目で二千円だった。
 
2~3時間の祈祷で二千円だからと、拝み屋さんが良い人のようだからと、その宗教と信仰自体を、本気だと、本物だと、判断してよいものでしょうか。ここに、楽山が、宗教と信仰を、いかに軽く見なしているかが表れています。楽山は、いつもそうです。
 
 
次に伝統宗教について書くと、自分が出席したとある神葬祭における宮司の祝詞は、故人の生涯を語り、労い、讃え、平安を祈るものであって、もし故人が聞いたらきっと喜んでくれるにちがいないと思えるものだった。この宮司さんは神葬祭のときはいつも、遺族から故人の話を教えてもらい、それをもとにして祝詞を用意する人だとのことである。きっとそれだからこそ、宮司さんの祝詞には、参列者のみなが熱心に聴き入ったのだろうと思う。これはどんな詭弁を用いても、形式主義に陥っているなんて言えなかろう。
 
楽山の、根拠にならないような、嫌がらせの、言いがかりの、いやみったらしい、今までの、キリスト教とキリスト信仰に対する攻撃からは、楽山が、祈祷する人が一生懸命な態度であったら形式主義ではなく、本物の宗教だと思っているなんてのは、これまた、大嘘としか思えないのです。
 
楽山には、積み重ねられてきた負の、狡猾な悪の、偽善の、凶暴な悪意の履歴があります。みんな自分に好都合なように、その時その時で、出まかせを言ってきたのが、楽山です。だまされないでください。楽山に付き合うと、精神が鈍麻して奴隷のような精神を植え付けられる恐れがあります。
 
楽山は、恐らく、宗教を、超常言葉と儀式くらいにしか見なしていないのです。その宗教は、まるで、悪くない習慣のようなものでしょう。楽山には都合が良いのでしょうが、それで、人間が救われることはないと思います。
 
 
もしかしたら自分が出会った拝み屋さんも、宮司さんも宗教界では例外的な存在であり、自分はたまたま当たりを引いただけなのかもしれない。でも自分は根がお人好しにできているせいなのか、これが普通であるように思えてならない。拝み屋さんにしろ、宮司さんにしろ、基本的には善い人が多いのではないかなと…。
 
ここで、たまたま当たりを引いた、お人好しにできている、良い人が多いと、謙譲な善人芝居をしてきます。これら一切と、今までの、キリスト教への妄想的誹謗中傷は、全面的に、矛盾します。褒める、という、気持ちのよさそうなことを、楽山は、めいっぱい、悪用する人です。
 
 
そういうわけで、先に書いたようにHSでは他の宗教者を低く見るところがあって、自分はそれを信じてしまったこともあったけれども、いまははっきりとそれは間違いだったんだと思うようになっている。
 
楽山の謙譲は、ことごとく大嘘です。楽山は、自分と自分の主張だけを100%客観的だと信じ込んでいる病的ナルシストです。明確に間違いなのは、楽山に、まともに関わることです。無駄な疲労をもらわないように、人格を破壊されないように、楽山にだけは近づかないでください。
 
記事全体が、ホンヤリ言語、世辞、嘘、という楽山の詭弁の罠であります。反省という要素が全くなく、まともな情緒が育っていないにもかかわらず、やさしさ芝居の台詞だけで、言い得たと満悦することのできる非情・冷酷の機械的な仕掛けを持つ欲望が、楽山なのです。
 
 
落日に追われる者

落日に追われる者
 
 
(2020年)
(2022年05月14日、再録+加筆)
 
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  初夏
 
夏の光めがけて
手元がくるった
水があふれる
きらきらと
小さく跳ねる水の光
閉じこめられた夏
 
 
  処理
 
耳ザーザーと鳴って
目のまわりや
顔のこわばり
皮脂の具合など気にする
 
累々と並んだ屍を
無雑作に引きずっていく男達
今日のうちに彼らも
この列に並び横たわるかもしれぬ
 
耳ゴーゴーと鳴って
筋肉の痛み
胸のつかえ
骨のねじれた感覚のために
眠ることかなわず
食欲低下し
衰弱して横たわる
 
穴を掘る
大きな穴
小さな穴
屍を放り込む
そのとき
男の眉間に黒い点現われ
そのまま穴の中へ落ちてゆく
一人処理が済んだ
 
耳サーサーと鳴って
横たわったまま
口をきかなくなる
最後に痙攣して
動かなくなる
 
真っ先に
いなくなる人達
涙は
メディアの向こうで乾いてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害のもたらす大きな災いは、成長しなくなることです。反省しないために、新しい学習をしなくなるので、身につけるのは自分に都合のよいことだけという生き方で、金太郎飴のように同じような顔のままです。金太郎飴と異なり、無駄に肥厚するのは、堕落という経年劣化なのです。
 
 
 
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  楽山の害2
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
◯ 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
批判する意志を持たずに読めば、気づかないうちに、楽山を、そう言えばそうかな、みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになります。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、自己満足して、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが鈍化してゆくでしょう。これは、成長の要素が皆無であり、人格破壊と言ってよいと思います。
 
似て非なる言葉の同一視による刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「自分を貫く」といった平板で曖昧な妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、上の3つは、個人の意志の尊重であり、自己中とは全く意味が違います。
 
楽山の、極めて有害で人格破壊的な詭弁としての、「と言えなくもない」「と否定できなくもない」「なさそうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」「なんだろうな」という言い回しは、責任回避のための、異常な婉曲表現です。
 
〇 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。
 
ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが大切です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による詐欺行為であります。つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄面皮の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、感動、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘なのです。
 
楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けてはいけません。楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てることも出来ないことが、深い理解もなく、気安く、オモチャを並べるような文章に表れてきたからです。
 
そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけの表れであり、訂正不能になっています。楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。
 
本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、楽山自身の、軸のない先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。偉そうな人の文章を、偉そうに、分かったふうに、引用して論じているつもりになっているのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。本や有名人の名前を出してきても、信用してはいけません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧になることはないわけですから、楽山の無反省は、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用~悪用して、飾って、だますしかなくなるのです。悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為もバレないと高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、約3年も批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような記事とツイートを書いてくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師だという判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
私自身への害だけを考えるなら、関わらず、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至ることはありません。今後、生きておれば、必要なら加筆して、再録することになりそうです。楽山は、偽善者の典型的な病質の実例なのです。
 
 
荒廃

荒廃
 
 
(2020年12月16日)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
 
  慙
 
沸沸と込み上げてくる
筋を切り道を荒らし押しのけて
辻褄(つじつま)を引き裂きながら
 
胸を叩き頬を打ち
(過ぎた幸運は転落のための落差だ)
乱れた髪を何度も何度も
掻き毟(むし)るように掴(つか)む
疲れ頽(くずお)れて
眠る
 
暗い部屋に座して
項垂(うなだ)れている黒い影は
黒い雫(しずく)を落とす
涙でも汗でもない
影の雫を落としながら
毀(こぼ)れてゆく
 
自分の頬を自分の手で思いきり引っ叩(ぱた)いたことありますか
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の、誰にでもあるじゃろ・・という、ごまかしの言葉「自分もそんな風」「人間の性」という詭弁に、だまされないでください。実際には、詫びない、正さない、嘘ばかり、保身だけ、卑怯者、魅力の欠片もないという種類であり、質(たち)の悪い自己正当化なのです。
 
楽山、同一だと思われる、rakuは、リツイートで、ごまかしています。takaは、ブロックされたままのようです。(12月21日、午後12:53時点)
 
反キリスト楽山と偽牧師シャロームshalom というHNは、観光案内や、お店の宣伝や、趣味のブログに、似たようなHNやタイトルを見ることが出来ます。楽山は、最初から、そういうHNを選んで似せたのかもしれません。
 
 
 
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  楽山の駄々
 
 ★こも/楽山日記3
 
 
数日、ブログの記事を書いていない楽山は、その分、我欲の知ったかぶり欲求を、ツイッターで発散しているようです。ますます何が言いたいのか分かりにくくなっていますが、はっきり言えるのは、何の反省もなく、人のことばかり言って、得意になっているだけということです。
 
楽山の、ストレス解消でしょうか、しかし、もはや、どこに書いても、何を書いても、信頼を得ることはないでしょう。多弁で、執拗で、これが、楽山の、ネチネチ言論ですが、言い捨てるクレームであり、独り言であり、言論になっていないのは、自分を見る目を、全く持っていないからです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
結局、こも氏は『やめた自分が正しくて、総裁やHSや信者が間違っている』と言いたいのかな。
これが「執念の源泉」なのかな?
 」
私が言ってるのは、「Pさんはいい加減なこと言ってる。信者ならちゃんとORの教を学び、守りなよ」ということです。
 
楽山は、アンチとして批判している立場を自認していたような気がしますが、信者に、ORの教えをちゃんと学び、そして、守れと主張しています。優位に立てると思ったら、立場はお構いなしになっていることに、アンチでない楽山が表れています。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
私は基本的に、きちんと教えを学び、守ろうとしてる真面目な信者さんにはごちゃごちゃ言いません。でも、いい加減な信者に対してはその限りではありません。
 
楽山は、ごちゃごちゃ言いたいようです。きちんと教えを学ぶように教えています。どこがアンチなのでしょう。自分が何を言っているのか、分からなくなってきたようです。"気取り" だけだと、批判の軸がなくなるのが、よく分かります。楽山は、何も言うべきではありません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、
Pさんは、言葉を軽視しすぎて、人の言葉を正確に読み取り、理解しようという意識が感じられないです。大川隆法の教えに対してもそうです。
「言葉にとらわれないこと」を「言葉を軽視すること」と勘違いしてるのでしょうか。もしそうなら気をつけたほうがいいです。
 
今まで、ずっと、人の言葉を正確に読み取り、受け取って、返すということが、まるで出来ていない楽山です。楽山は、ずっと、都合の悪いことを無視し、都合の良いことだけを、自分のために利用してきました。体質的に、議論の邪魔しか出来ない人です。
 
今まで、言葉を軽視、というより、言葉を愚弄し、自己中心に悪用してきたのは、他でもない楽山です。詭弁と嘘で出来ている楽山は、自分を見ないので、他者に言った言葉が、ブーメランとして、自分を斬っているのですが、それも分からないのが特徴です。
 
「気をつけ」る、ということが、まるで出来ていない楽山が言っても、無意味なのです。楽山は、アンチではありません。我欲が、混線~暴走しているだけです。気をつけたほうがいいのは、楽山のほうですが、本人だけが、気づかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
文言だけを切り抜けば
真逆の事を書いている箇所はいくらでもあるんだよ
そんな「言葉のコレクション」を付き合わせて比較しても、非難しても
何の意味もないのサ
これがこの世とあの世を貫く仏法真理だよ
 」
一口に「真逆」といっても、その中身はいろいろです。
 
楽山のボンヤリ言語です。"いろいろ" について、何も説明できない楽山の駄弁が始まります。気をつけてください、純粋な人ほど、傷が深いです。楽山には、罪悪感がありません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
例を挙げればこうなる。
・方法論の場合(反省と光明思想など)
・事実認定の場合(きょう子夫人は文殊菩薩と認定するも、後に裏切りのユダとするなど)
方法論として真逆の教えを説くならまだしも、
事実認定がコロコロ変わるようでは失笑されても仕方ないです。
 
これで、何か説明したつもりなのでしょうか。楽山は、都合の悪いことを全て無視してきたので、方法論とか、事実認定とか、何を語るにしても、理路を通したことがありません。これが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命なのです。
 
よく読めば、自分の言いたいことが、まとまらず、理路の組み立てが、まるで出来ていないのが、楽山の特徴です。だから、「こうなる」と言われても、説明になっていません。公開しても、誰にも分からないように書いているのでしょうか。楽山の自己満悦に、付き合わないでください。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あとは、思想の方向性というのもあります。
ORは「唯物論は間違いだ」とはいっても、「唯物論は正しい」とはいわないでしょう。
また、「神、霊界、霊的法則を信じることは救いにつながる」とはいっても、「神、霊界、霊界法則を信じても救われない」とはいわないでしょうね。
 
楽山は、ORの、良き理解者なのでしょうか。アンチを自認してもアンチとして成り立たない者が、理解者として成り立つでしょうか。とても幼稚なことを言って、理屈倒れの無残を、露呈しています。"霊が分かるっぽい"自覚があるからでしょうか、いえ、ただの鈍感です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
つまり、HSの中核理論の一つという事ですね。
 」
92、3年頃から断続的に説かれてるという話から、
正心法語、仏陀再誕でも説かれてる中核理論だと変わってきてる…。
なんか、自分のトンデモ発言を正当化できる文言を必死に探してるみたい。
 
いかにも他者の言うことを把握しているかのような書き方ですが、だまされないでください、楽山は、他者の言うことを受け取ったことはないのです。つまり、人のことを言う楽山の言こそ、トンデモ発言であり、自己正当化の詭弁であります。問題外とするべきです。
 
数か月の遣り取りと、その後の、約3年にわたる楽山ブログ批判によって、楽山には、まとまった主張などないことが分かっています。楽山が理屈っぽく言っているのは、本質ではなく、楽山の自己顕示欲によるもので、それについて、考えること自体が、無意味です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
今回の例では…。
・『高級霊の存在や次元構造や波長同通と憑依の関係じゃ人も社会も救えないんだよ』
(神、霊界、霊界法則は救いに関係ない。唯物論的)
・『高級霊の存在や次元構造や波長同通と憑依の関係だけじゃ人も社会も救えないんだよ』
(神、霊界、霊界法則は救いの一条件。宗教的)
 」
★こも/楽山日記3
@komo266
つまり、「だけ」があるかないかで、唯物論か、宗教的かが分かれる。
だからこれは下らない文言問題ではなくて、大きな思想問題になる。
さらには、こっそり「だけ」を付け足して意味を変えるのは、嘘、誤魔化しであり、卑怯な行為になります。
 
楽山は、HSの味方をするために書いているようです。楽山の、難しそうな書き方を信用しないでください。上の2つの命題の比較にしても、救うプロセスが、霊ではないのか、霊以外にもあるのか、という全否定か部分否定かの違いであり、唯物論か宗教的かが分かれるわけではありません。
 
宗教が何なのか、まるで分かっていない楽山には、宗教における理路も、成り立ちません。宗教について、楽山は、机上の辻褄だけで語ったつもりになりますが、そこは、大きな勘違いです。それを、訂正もせずに、今も語っているのは、妄想と教祖願望に過ぎないということです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
『高級霊の存在や次元構造や波長同通と憑依の関係じゃ
人も社会も救えないんだよ』
総裁先生も同じ事を言ってるし
 」
もう何度も注意してることですが、
総裁は言ったではなく、
自分解釈だとした方がいいです。
でないと、嘘つきになりますよ。
 
嘘吐きが、人のことを、嘘吐きと言っています。これが、楽山の厚顔です。無反省、無責任、自己中、訂正不能の自我の誇大妄想、嘘と詭弁のペテン師、霊能者気取り、言いたいことはあるが聞きたいことはない・・という楽山には、他者の嘘を指摘する資格は、全くありません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
Pさんは、ORは90年代初頭から何度も『高級霊の存在や次元構造や波長同通と憑依の関係じゃ人も社会も救えないんだよ』と言ってるというけど、大方、この手の誤読をしてるだけでしょう。
HS本の引用があれば誤読を明確に指摘できたろうけど、引用はしなそうだし、いい機会だからここで書いときます。絵文字(握った手)
 
楽山は、誤読というより、曲解しかしてこなかった人です。読書しても、読んだ・・という慢心だけで、実際は、自分に都合のよい文言を漁って引用して、自己正当化をしてきただけです。反省、とほほ・・などと書くことがありますが、その前後で、何の変化もないという大嘘吐きです。
 
なお、楽山は、誰とも、手を握ることも、手を合わせることもありません。それが、自己愛性人格障害です。自らが教えてやる・・というスタンスで生きてきたのでしょう。それは、人の交流において、いちゃもん屋にしかならず、決して、生き方にはならないものです。
 
楽山を、決して相手にしないでください。異常に疲れるだけです。楽山は、小中学校以後、成長していない人で、子供じみた理屈屋で、幼稚な教祖願望~野望をもって、ハナタカになっているだけの人です。楽山は、高慢が、詭弁付きで、訂正不能になっている精神病質者なのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、これはPさんのいうような文言問題ではないです。
Pさんは総裁が信仰を否定する唯物論的なことを言ったと主張するから、私は驚いたし、その証拠を求めたのです。総裁が本当にそんなことを言ったのか(思想問題)、Pさんの勘違いなのか(誤読問題)、その他諸々のことを確認するために…。
 
楽山は、人の言うことについて、文句を言ってきますが、正当な理路も直観も見られない、つまり、いちゃもんに過ぎません。楽山は嘘吐きです。楽山の読書は誤読で出来ています。思想問題も誤読問題も、楽山が、他者に対して指摘するのは、笑止であります。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはあくまで想像であるし、まちがってるかもしれません。ただそれでも、信者でありながらこれだけのトンデモ発言をしたということは、Pさんの思考回路は相当すごいことになってそうではあります。おそろし 絵文字(握った手)
 
「pさんの思考回路は相当すごいことになって」・・婉曲的な言い方ですが、侮辱です。楽山が、いちばん、快楽に浸るところです。自己愛性人格障害の言論サディストが、楽山の本性です。真剣には何事にも興味を持てない人なのです。
 
「想像で」物を言ってはいけないところで「想像であるし、まちがってるかもしれません」と書いてくるのは、楽山の、責任逃れの言い方です。白々しい謙虚芝居に過ぎません。楽山の言ってることに、決して理路を読み取ろうなどと思わないでください。理路は、楽山には、ないのです。
 
楽山は、散乱して使い物にならない自らの理路と鈍い感受性をごまかすために、丁寧語や反省言葉を書いてきますが、それは、保身のための、保険的な詭弁なのです。ゆえに、楽山は、卑怯者です。楽山には、人が発言するために必須であるところの、共感や思いやりなどの高等感情がないのです。
 
楽山と遣り取りをすることは、時間をドブに捨てて、心身をグルグル空回りさせるようなものです。批判する気のない人は、決して関わらないようにしてください。悪意と慢心を相手にして、いかなる議論も成立しません。そういう人だと知らせるために批判があります。
 
楽山は、頭に浮かんだ理路の断端を、まき散らして、評論家やインテリ宗教家を気取るペテン師です。自分の言ったことを分かりやすく説明するすべを持ちません。相手が理解するかは気にしないようです。楽山の頭は、まとまりません。そのような学習をしてこなかったからです。
 
 
散り散り断端のみ

散り散り 断端のみ
 
 
(2021年12月04日)
 
 
 
  々々破綻
 
無々と考えてあぐねて
捏(こ)ねた駄々が残るだけなら
むしろ念々に生きて
何も望まず
何も諦めず
虚々と鳴く鳥のように
何も信じず
何も疑わず
否々と猫のように
 
しかし叶わぬこと
すべてを疑い
すべてを信じ
すべてを諦め
すべてを望み
空転する日々
昏倒する年々は千々に綻び
離々と破れてゆくばかり
もはや何も
空々と痩せ犬のように弱音を吐いて
吼(ほ)え哮(たけ)ることも出来ないまま
 
 
  老いたる男
 
独り暮らしの老いた男は
もはや写真にさえ写らないのだ
彼だけしか使わないカメラによって
撮られた景色に彼が
いるのは確かなのだが
彼がシャッターを切る限り
彼は決して写らないのだった
写真は存在でも不在でもない
 
トイレで放屁二発
近所の犬が二声吠(ほ)える
フ、何吠えてやがる
ここから聞こえるのかな
と苦笑した後
はたと思い出したように
今日は満月だったかと
狼男は外に出て
欠けた牙の歯肉炎を
空に向かって剥(む)き出すのだった
ぽつりぽつり雨粒が顔に落ちて
頬を伝って流れていった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。
 
自分を見ないで人のばかり言ってきた楽山の、人間離れの悪と罪と偽善です。最近は、ツイッターで、いちゃもんを書いていますが、公開するに値するような、読者を理解を考慮した書き方が全然できていない、つまり、独り言なのです。
 
 
 
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  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、自分がそうだ・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、当然ながら、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる楽山のような者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。自分の評価だけ、有頂天なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。したがって、楽山に、保守も革新もありません。今も、最低の自惚れが、楽山を動かしているだけです。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。
 
楽山は、自分を飾る材料として、字面だけで、意味を理解していないから、なんでもかんでも、いっしょに見えるのでしょう。そして、無知蒙昧の、とてつもなく思い上がった山上の快楽の奇態を晒してゆくのです。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき的外れの悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、言葉の字面だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための見かけの丁寧語、すなわち、根拠のない婉曲のボンヤリ言語です。
 
そして、ときに、反省や努力などの、言葉だけ書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っているのでしょう。それで、賛否両方なら何を言ってもよいという言い方で責任を負わないのです。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。そんなもので、だましてくる楽山を、信用してはいけません。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、主張を変えたときには、ちゃんと修正したというメッセージが、ときには、謝罪が、必要だという人間の必然的な視野が欠けているのです。恐らく、真剣には、何も考えていないのだと思います。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表してきます。
 
他者が読んで受け入れてしまうと、その先に刷り込まれる影響が、楽山ん本人に起こっているのと同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。楽山の無反省と無責任は、受け入れることで伝染します。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
他者を、面倒臭くさせ、疲れさせ、傷つけ、壊してゆくのが、楽山です。今さら、改めて書くのではなく、早く書くのをやめることだけが、世の中のためです。
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
いちばん自分を客観視できない自己愛性妄想の楽山が言っています。こういう、病識のない、見え透いた自慢を書いてくることで、自信ありげに見せかける狙いでしょう。
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・まさに、楽山の持ち物です。
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。嘘と詭弁だからです。そういう人に、証明を・・と言われるのは、気の毒、不運としか言いようがありません。
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
真否と是非という重要な問題を、特殊という自覚に、ズレを解消する問題に、すり替えています。楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観だけなのです。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。さらに、楽山は、「きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」と言って、自分はきちんとしていることを、暗に宣伝しているところです。やはり、教祖願望があるようです。
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
一例をあげると、↓
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。楽山は、どちらでもなく、自分が、いちばん、客観的だから、偉い・・と言っているだけなのです。
 
今まで、自分勝手な、妄想的で、先入観的な、小学生レベルの、幼稚な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。つまり、「仏教もキリスト教も正式に学んだことがない」のは、楽山その人です。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償している自慰行為ではないだろうか、などということも考えています。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同の事実も頷(うなず)けます。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して、近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 
霊が零となる日

霊が零となる日
 
 
(2020年08月26日)
(2021年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
 
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
(かなり昔の作)
 
 
 
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  楽山の偽り方2
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。
 
私は、反キリスト楽山の資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
霊言、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、明らかであります。丁寧語で書いて、且つ、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。
 
断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方をして、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定なのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しなければ、断定できず、判断も出来ず、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる知恵であるかのように、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、中身がないだけに、煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、何も書くなと言っています。奇珍の理路、無感性、無共感、無反省、そして無責任。
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところであります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・と言っているようなものです。
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
「捨てる」楽山は、かなり断定的に判断しています。言った傍から、「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、自己矛盾も甚だしいのです。自分で何も、考えないけど、自分は頭がいいので、有名になりたい、というのが、楽山の、悪い夢になるプロセスなのでしょう。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、中学生~高校生の時に、私もいだきました。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山には、神と取引しているかのような、存在の身の程知らずなのです。
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無だと思います。そういうものを見せたことがないからです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観は、なにかしら心を解放するものだけが是とされるでしょう。楽山には見られたことがありません。
 
理屈は、欲しく思って、ある程度、付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、ないものねだりです。
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
楽山の無難・穏当は詭弁であり、トンデモを退けるなら自らの言葉をを退けるべきです。この楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないのトンデモです。既にバレているのです。楽山こそ、インチキなのです。
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
理路は、ほどほどで満足するものではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していないと思います。参考にもなりません。ただただ、害になるだけです。
 
楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものでした。それで満足すること自体が、楽山の言論不向きな根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
だからトンデモを退けるなら、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。真実の追求に、いちばん邪魔な障害物です。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の姿勢って、メチャクチャです。
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。どうして屁理屈が必要なのでしょう。楽山自身が、いつも屁理屈だけを言っているからです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要です。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないところです。
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。常識的で穏当なものは、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないことが多いのです。それに、楽山には、常識はありません。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、信仰は、世俗の見方によっては、裏切られていることが多いからです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け成長をしない楽山には、分からないところです。
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の持ち物です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいて、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、ペテン師であるだけです。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。聞くだけ、有害です。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だから、とても異常なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の慢心は、「(笑)」を楽山にもたらします。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症候群をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、醜さが付きまとうでしょう。
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない、楽山であります。
 
私が楽山に対して批判として書いた感性と良心のことを、楽山が、今、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っていないと判断しています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書かないでください。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いで進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
食えないことを書き続ける

食えないことを書き続ける
 
 
(2020年08月23日)
(2021年08月25日、再録+)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
(二千年代か)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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