ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:丁寧語

 
  楽山の放屁・追記3
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
 追記分を改めて批判。
 
 
聖書の言葉は、キリストの言葉は、謎解きのように読み解いて自慢するものではなく、私たちの心に、雫(しずく)のように与えられ、折に触れて、生きて活きることを教えています。
 
ゆえに、乾燥した鮫肌に擦られても、ひび割れた地上に倒れても、温もりと潤いに生き続けててくださることを願っています。
 
楽山は、ねちねちと実に言い訳がましい追記をしてきました。自分の言いたいことだけを言って、相手の言い分を受け取らず、自分で勝手に終わったことにしてきました。これは議論ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。楽山の優しい言葉は、罠です。
 
 
◇◆ 追記 2020.7.26 ◆◇
*スルーの理由
記事を読み返してみて、ちと不親切と感じたので、スルーの理由について以下に補足説明してみた。
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
楽山は、議論など出来ません。賛同者と世辞の遣り取りをするだけです。そして、あたかも、議論したかのように、議論できるかのように、論者であるかのように、見せかけているだけなのです。私の批判記事に、反論も弁明も、一度も成り立ったことはないのです。楽山はペテン師です。
 
「リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できる」・・そんなことはありません。生涯にわたることもあるでしょう。その都度、保留して、整理して、考えてゆく姿勢が必要です。理路を追えない楽山は、嘘と詭弁で、成り立たないことを言って、まともな気でいるだけです。
 
楽山は、あらゆる真実追求の理路において、破綻し、欠落し、妄想的にショートカットして、フリーズして、逃げてゆく人です。その言い訳にもならないことを、また書いてきました。付き合い切れないなら、何も書かないことです。
 
 
・真理…世の中には、真理を多角的に理解できる人もいれば、理解できない人もいる。たとえば、ueyonabaruさんはこのようなコメントをしていた。
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
 」
 
だまされた人がいるようです、いや、いたようです。2013年ですか。ずいぶん前ですが、楽山は、そういうところまで持ち出さないといけなくなったようです。気持ち悪さは変わりません。昔は、こんなにも、軽く、だましていた、という思い出話でしょうか。
 
楽山は、反キリストです。楽山が、多角的視野と言っているのは、何も結論が出せず、いい加減に、信じると信じないを、さまようことを意味しています。楽山も、さまよっているように見えますが、実際は、否定して悪用しているだけです。何の助けにもなりません。
 
多角的視野など、楽山は、全く持っていません。折々に多角的に逃避してる人です。批判に何も返せない楽山は、自己満足の自己愛だけで、書いて、だまして、やさしいお人柄ですね・・などと、褒められることが大好きです。くれぐれも、だまされないように、決して、関わらないようにしてください。
 
 
これはつまり、HS教義とは違う考え方であっても、アンチが言ったことであっても、真理は真理だと認識できていることを示している。またその考えが何の影響を受けているのかも分かっている。こういう人とであれば信者とアンチという立場を超えた議論は不可能ではないだろう。
 
意味不明です。「真理は真理だと認識できている」「何の影響を受けているのかも分かっている」・・すごいことを、平気で言っていますが、そういう人はいないので、楽山と議論できる人はいません。何を思い上がっているのでしょう。
 
楽山とは、いかなる議論も、交流さえも、不可能です。しっかりした立場など、楽山にはありません。だから、気持ちよさを維持するために、曖昧なボンヤリ言語で語り、不都合を無視し、反省せず、責任を負わないで済まそうとしていることが、文章に表れてきたのです。
 
 
でもHS教義に合致していないものは真理ではない、アンチがいうのは真理ではない、アンチで退転者の楽山が言うことに真理はないという風に、党派的、護教的な決めつけばかりで、真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論ができるはずもなかろう。
 
すでに、上で、真理は真理だと認識できていると、軽く書いた時点で、真理についてはアウトなのです。楽山の言葉は、病質によって腐っているようです。楽山は、あらゆる人間の真実に背いている卑怯者です。この人に、他者を云々する資格は、全くありません。
 
楽山の、真理は、思いつきのように、あまりにも、軽いのです。かつ、お伽噺かホラー話のように幼稚です。楽山の視野は、おもちゃ箱以上ではありません。病質者に真理も真実もテーマとして扱うことは出来ないということが明らかになってきたのです。
 
「真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論はできるはずもなかろう」などと書いていますが、楽山は、真理の何たるかを語る資格はありません。自己愛の自尊過大に凝り固まって、あらゆる真実に背いているのが、楽山です。
 
有頂天の煽動者、誇大妄想患者、無反省・無責任の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、決して近づかないでください。楽山は、自分の言いたいことだけを言って、後は、雑言だけで逃げ回っている男です。許してはいけません。
 
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
無暗ではありません。根拠を示して、楽山の人格の偏向、自己愛性人格障害と、無益な教え方をしている自己満悦を、指摘し、批判しています。責任を負わず、反論も弁明も出来ないなら出てくるな・・という批判です。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、自らの欠点など非を認めることが全く出来ないのです。そして、いつも、見下ろす視線で、学者気取りで教えたがります。高みから見下ろしている人とは、議論も交流も、出来はしないのです。
 
根拠のない嘘や悪意の詭弁を武器として、無反省で無責任な人格的欠損によって、何事にも、共感できず、感動できないので、共感や感動や反省という言葉だけを多用しています。全部、言葉だけの飾りのオモチャに過ぎません。
 
その嘘を、ごまかすために、専門用語とか、さらに、反省とか、トホホとか、書いてきますが、文脈においても、記事の流れにおいても、何も、良い方向に変わっておらず、芝居に過ぎません。楽山は、自分さえ満足できればよいだけの利己主義の自己中の、嘘吐き、詭弁家、精神の詐欺師です。
 
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。とくに当事者間に悪感情がある場合は、ただの喧嘩になるだけだ。
 
思想と宗教は、事実関係とは限りません。むしろ、知性と感性の両方を必要とする精神の作業です。しかし、楽山は、理路の調和も情緒の共感も成り立たないために、言葉の字面を細工する詭弁に終始してきたのです。
 
楽山は、自分が出来ないものだから、平行線に終わると言っています。・・平行線は、決して終わることはないのです。放り出して無視するから終わるのです。楽山という基準のない平行線が、ガラス片のように、人を傷つけ、人を滅ぼしかねないから批判を続けています。
 
こういう楽山の言い分こそが、自らの非を認めず、人のせいにする自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。思想も主義も信仰も感性も持っていない楽山と、話し合おうなどと思ってはいけません。否定し続けることだけが批判であり、逃げることだけが安全保障であります。
 
楽山は、批判や議論を、喧嘩になるだけと短絡をしています。こういう短絡も、楽山の特徴です。深く感じることと考えることが、楽山は、できないのです。だから、すっ飛んで、他者を無視することに専念し、逃げているのです。一気に楽になりたいカルトの特徴的な習性でもあります。
 
「喧嘩になる」種を、いつも、バラまいているのは、楽山です。そして、無視、無反省、無責任、訂正不能、自己中の誇大妄想なら、議論など、成立するはずもないのです。楽山は、議論の場から、まず最初に追放されるべき男です。
 
少なくとも「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という問題について、「答えのない」「あまり意味はない」と決めつけている楽山こそ、答えもなく、意味もないのです。人間は、人生の様々な問題に直面して、その都度、考えることで成長してゆくのです。
 
 
・公平…人は身内に甘く、敵対者には厳しくなりがちなものだ。だから少々のタブスタはやむを得ないことではある。
 
ダブルスタンダードが止むを得ないのではありません。違う定めに生きている人もいるという共感によって、許容できることがあるということです。それに、楽山は、相手を疲労させることで、既に、とてもいやらしい報復だけをしてきたのです。ダブルスタンダードではなく、楽山には軸がないのです。
 
恐らく、楽山には、本当に身内と呼べる人はいないと思います。共感できない楽山は、規範のほうを、いい加減なものにして、自分かわいさだけで、正当化して、二重規範(ダブルスタンダード)などと言っているだけです。これは、妄想信念による自慰行為です。
 
 
ただそれには程度があるのであって、他人のコピペブログを強くしつこく批判していながら、お友達のコピペブログは殆ど不問に付すとか、自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわりしておきながら、多数からネットストーカー扱いされている問題児が、自分の論敵に喰いついてるのをみて、正当な批判が行われているかのようにいうのは、ダブスタにもほどがある。こういうダブスタ人間とは、意義ある議論は期待できなかろうと思う。
 
「自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわり」・・楽山がやってきたことです。実に、きたない。また、程度などという曖昧な言葉で表されるような問題ではありません。楽山の、自己に慢心している様子が、楽山の発言に表れています。
 
人間の規範は相対的ですが、楽山のように、同時に2つの、特に相反する規範を持っているのは、詭弁であり、人格乖離か精神分裂かもしれません。真実追求とは違う目的があるとしか思えないのです。楽山は、人を傷つけることに快感を感じているとしか思えません。それはサディストと言います。
 
そういうとき、楽山は「疲れたんじゃないですか」などと言うことがあります。気遣いや思いやりなどと思わないでください。サディストが、うまくいったと、独りで満悦しながら、勝利宣言みたいに、上から見下ろして、同情芝居をしているだけです。今までの、楽山の、鈍く冷たく粗野な性格が根拠です。
 
また、批判に答えないまま、反省しないまま、修正しないまま、学習も成長もなく、ネットストーカーのように、自己満足の詭弁の記事を書き続けて、公に垂れ流し続けているのは、楽山のほうであります。つまり、楽山は、ブーメランとなって、精神の崩壊という自分の病理を、自分で語っているのです。
 
 
・地雷…巷には、プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる。こういう人と議論すれば、易怒性を誘発し、面倒なことになるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。以前はこういう人の存在は知らなかったが、いまはこの手の人物が存在することはわかったし、批判があったからといって、相手がどういう人物か確かめぬうちに、すぐに議論に応じるような迂闊な真似をする気にはなれない。
 
楽山は、高等感情が鈍麻しているのに、自尊が過大で、粘着した雑言を妄想して語ります。ゆえに、怒らない人のように見えることがありますが、感じていないからであり、人の意見を受け取る器がないからなのです。やさしい柔和と、うすぼんやりの鈍麻を、混同しないようにしてください。
 
「プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人」・・怨念が根底にあることを知れば、これが当てはまるのは、楽山だと分かるでしょう。表に出すと、現実的に、見放されるので、ボンヤリ丁寧語の一点だけ保って、客観的に見せかけて、正体を分かりにくくしています。
 
楽山の、スルーは、無視であり、アドラー教(アドラー心理学)の、気に入らないことは無視しましょう、という説教を書いていたのは、他でもない、楽山その人であります。どこまでも、フンドシ担いで逃げまくる楽山のような男は、追放する以外ありません。
 
私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気はありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。楽山の発言は、誰にとっても、全く参考にも糧(かて)にもなりません。かつ、言論の責任を負わない人に言論の自由はないのです。
 
楽山は、迂闊なのではない。楽山は、能力的にも、議論や話し合いのできる人ではなく、人格欠損による無責任であり、都合の悪い他者を平気で無視して、作為的に、賛同者だけを選んで、世辞を言います。いかなる反対意見にも、全く答えることの出来ない人です。
 
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。楽山日記には愛読者ならぬ、嫌読者もいるようだけども、自分は嫌読者が何を書いているかいちいち見に行くほどの興味関心はない。
 
「批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある」・・楽山には出来ていません。嘘と詭弁だけを返してきました。批判に興味もなく、反論も出来ないでいて、言説の皮だけを、まともに見せかけようとしても無駄なのです。
 
「あんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう」・・これが、楽山の、怒気であります。「下らぬ批判」は、楽山の判断基準に過ぎません。感情的な表現ですが、楽山は、内心、怒り狂って吠えているのです。発言が何時も無意味な楽山です。
 
これが、楽山の心を満たしています。日頃、隠していることが、批判されることによって、表れてきます。楽山は、言論と交流において失格の、病的ナルシストです。丁寧語が通用しなくなって、楽山がキレるとき、どうなるかを思うと、恐怖です。
 
結論だけで、根拠が全く示されていない、という特徴を見逃さないでください。これが、楽山の、無視の、実体であります。悪口や罵詈雑言を、論者風味の学術用語や、インテリ風味の引用で飾って、見た目、柔和を装う楽山の記事が出来ています。
 
つまり、楽山は、自分以外に「興味関心はない」のです。また、興味や関心で議論が成り立っているという楽山の曲解でもあります。ということは、自己中の楽山と、議論をしている、交流している、などと思うのは、勘違いです。何も進行しておらず、ただ、疲労だけが積み重なります。
 
楽山にとって、他者は、利用して自分を飾るための対象でしかないのです。それが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。ほぼ、不治の病です。関わらないようにすることだけが、自己防衛になります。どうか自衛してください。
 
 
・わけあり…通常の感性を持っていれば、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じることはできないだろう。いまだに信者を続けているということは、それ相応の理由があるのだろう。たとえば、「持病があって苦しんでいたが、信者になってから体調がよくなった。信仰に疑問はあるけれども、退会したら体調が悪くなるかもしれないし、止めることはできない」「夫婦で信者になったが、つれ合いは熱心信者のまま亡くなった。自分は疑問を持っているが、さきに亡くなったつれ合いのことを考えると棄教できない」「二世信者で生まれた時からずっと信じて来たので、おかしいとは思いつつも、すべては嘘だったとはどうしても受け入れ難い」など。自分はこういう人たちと議論し、退会を説得したいとは思わない。
 
思いやりのある自分をアピールするための芝居です。ここでは、意見の違う人を、やすやすと無視してきた履歴が、楽山を否定します。楽山に、思いやりの欠片(かけら)もありません。もっともらしいことを書いてきますが、楽山には、共感という高等感情はないと判断しています。
 
楽山は、高等感情の鈍麻によって、共感や感動も得ることはないでしょう。楽山の筆致に、概念的、通念的、そして、無味乾燥の粉みたいな感覚を覚え、生き生きとした活性を感じないのは、そのためだと思います。盲目と混乱と疲労と鈍麻をばらまくだけの、浴びてはいけない有害言質です。
 
 
・弱味…ブログ村騒動のときの信者らを見ていたら、アンチによる大川隆法批判はほぼスルーしていたのに、自分が批判対象にされたときには、わあわあ騒いでいた。自分はこれはみっともないことだと思ったので、不当に貶められている他者を庇うことはしても、自分に対する批判はスルーを基本にした。
 
自分が批判されたら、反論か弁明をするべきであり、スルーを基本にしてはいけません。スルーは無視することであり、楽山のような無反省で無責任な者の特徴です。楽山は、元々、議論する気はなく、自己満足の快感を得たいだけの病質者です。
 
他者の意見を「わあわあ騒いでいた」くらいにしか見ていないことを、楽山自身が証言しています。何を根拠に「わあわあ騒いでいた」のかを書けない楽山こそ、このような記事で、いたずらに、内心わあわあ騒いで、スルーを決めこんできたのです。楽山は、人の意見も気持ちも分からない人です。
 
 
そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
無責任な男です。むしろ、誤読し、曲解しているのは、楽山のほうに頻繁に見られます。聖書がそうです。キリスト教思想がそうです。楽山は、基本的な理解力がないのです。無視・放置・スルーをするなら、それだけ、自己中を自分で証明することになります。
 
楽山には、人間らしい理路と共感性がないのです。だから、人間としての節操や弁えが育たず、平気で書いて、平気で人を無視して、かつ、この記事のように、ネチネチと詭弁を垂れ流すことが出来るし、今のような事態を迎えても、書き続けることが出来るのです。
 
楽山は、自己愛が勝ってしまうので、無反省、無遠慮、訂正不能が、ベースとなり、関わる人は、疲労するだけです。楽山は、無益で粘着性の、この記事のように、執拗な自己正当化の詭弁によって、だまされる賛同者・犠牲者だけでなく、誰にとっても、有害な他罰的人格となっているのです。
 
 
大体、スルーの理由についてはこんな感じだ。
これに対しても、文句を言う人もいるだろうけれども、こちらは上にある漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。侮辱するつもりはないけれども、一部例外を除いて大概の信者さんの話は総裁の受け売りばかりなので、さほどの興味は持てないのだ。
でもどうしても批判を読め、議論に応じろというのであれば、当ブログのコメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。以上。
 
楽山が、必要性によってではなく、興味本位で書いていることが分かると思います。つまり、自分がリードして面白ければ書き、面白くないと、スルー=無視して、保身するのです。本質的に自己中であり、それは、楽山の病質によるものなのです。
 
こんな感じでスルーしていたのだから、真実の追求など出来るわけもなく、我執の追求だけをしている楽山だと分かるでしょう。でなければ、この記事のように、成り立たないことを、ぐずぐず、ねちねちとクレームにして書くのではなく、黙っておればよいのです。
 
訂正不能の結論と感情を、わめいているだけで、スルー・無視の、理由・根拠になっていません。楽山は、読書も同様で、全部読むと言っても、字面に目を通すだけで、理解してはいないと思います。「心の理論」「奇跡」について、救いがたい曲解をしています。
 
「一応全部読むくらいのことはするつもり」・・「一応」「くらいの」?・・楽山の言の端々に出てくる高慢ですが、真摯に読むこととは、真逆の見方が表れています。このような楽山に、軽く扱われたり、あしらわれる人になってはいけません。
 
楽山は、正常人とは、見えてる世界が全然違うのかもしれません。完全な自己中心世界なのでしょう。霊が分かるっぽい、と言ってたから、妖怪か幽霊かファンタジーでも見ているのでしょうか。ですから、決して、楽山ブログに、コメントなど書いてはいけません。
 
「一応全部読む」ことなど、楽山には出来ません。楽山には、ふつうの読解力もありません。自分にとって好都合か不都合かを見ているだけです。楽山は、好都合なら世辞を言って利用するだけで、不都合ならクレームのような当てつけを繰り返して疲労させ、無視して去るのを待つのです。
 
 
楽山は、目の悪いナルキッソスなのでしょう。とても醜い自分を、水面ではなく、歪んだ鏡を見ながら、うつくしい!と、うっとりして、水仙の咲いている泉に、ではなく、昔のポットン便所から落ちて、糞まみれになって、気づかないでいるようなものだと思います。
 
それで、なおも、自分を、美しくなければならないという強迫観念でもって、様々な嘘と詭弁の気取りだけで飾ってきたのでしょう。その害は、測りしれません。自分の失敗に、他者を巻き込むことに、他者のせいにすることに、何のためらいもなく、遠慮もない、一種のサディストなのです。
 
今まで3年以上見てきて書いた批判記事の数だけ、楽山は、全部、間違っていると、私は主張しているわけです。こういうことが起こるのは、今のところ、楽山とシャロームだけなのです。ふつうは、何かしら、良いところが人間にはあるのですが、二人には皆無なのです。
 
社交ではなく、真剣な議論や交流は、興味を持つとか持てないとかの話ではないのです。不都合を、何でもかんでも、無視できるというのは、尋常ではない、常人ではない、常軌を逸している、体質的病人だということです。
 
正体を知れば、いままでの、楽山の、霊が分かるっぽい、霊能者気取りと、学者・評論家気取りは、目を覆わんばかりの著しい妄想的曲解でした。楽山が、そういう自説を、そして、そこで生まれた自身の高慢と誤った自信を、根底から否定し修正しない限り、楽山に対する批判は、止むことがないのです。
 
楽山は、過剰な自己愛による自分信仰カルトです。本名は分からないし、名前を変えてHN使えば、何でも言えると高を括っているのです。そういえば、楽山は、私が本名を出していることを、自己顕示欲だと言ってきたことがあります。私は、修正可能なので、文責を明確にしているだけです。
 
念のために言っておきますが、楽山にだまされる人はいても、楽山の発言によってこちらが修正するべきところは、未だ、一つも見つかっていません。楽山が何も受け取らないで、考えないで、思い込みだけを言ってくる人だからです。
 
本名を出さず、責任を明確にしないうえに、嘘と詭弁ですから、楽山に、思想を、宗教を、カルトさえをも、批判する資格はありません。楽山に近づくのは、怪しい薬局で、わざわざ副作用だけを買うようなものです。楽山には、薬効のような作用も成分もありません。
 
楽山の言は、楽山だけが、楽になるためです。既に、自己愛性パーソナリティ障害NPDの資料になっています。粉末性の放屁を放つインテリ気取りの楽山が、何を書いても、理路の破綻も、詭弁も、詭弁臭さも、表れてきます。どうか、一言も、吸い込まないようにしてください。
 
もう一度、書いておきます。私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気は全くありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。真実を追求してゆくような大きなテーマについては、言論の責任を負わない者に、言論の自由はないのです。
 
 
叩けば有毒のホコリが出る

叩けば有毒のホコリが出る
 
 
(2020年)
(2021年) 
(2022年08月17日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
 
また、楽山は、無責任に、引用だけの記事を書いて、空しい印象操作をしています。
 
 「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
 2021年08月09日 幸福の科学とは何だろう?
 (記事引用省略)
 
 
「悪魔呼ばわり論争」だそうです。映画などに表される超常の悪魔について、私は知りません。しかしながら、悪意だけ、嘘と詭弁だけ、だまそうとする意思、無反省、無責任、という、人間の悪を集めたような精神をもって言動している者は知っています。楽山であります。
 
悪魔性と書いたことはあります。悪魔と書いたかもしれません。これは、明らかに、人間のすることとは思えない場合です。人間なら出来ないようなことを、楽山は、平気で、しかも長期にわたって、してきました。それが体質だから治らないのかもしれません。弁明できない楽山です。
 
楽山は、私の批判記事においても、さんざんに批判されていますが、それを、完全に無視して、総ての罪を、他者、特に批判者のせいにして、平気で書き続けています。そのようなことは、人間ならばできないはずだと判断し、楽山を、悪魔性と呼んでいます。間違ってはいないと思います。
 
したがって、この記事は、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山の、嫌がらせと言ってもいいでしょう。その証拠に、楽山は、自分の意見を、全く説明できないのです。ただ、憑りつかれたように、悪魔呼ばわりされていることを、不当だと、無根拠に、婉曲的に、言い続けているのです。
 
私は、楽山の非道について書いてきました。楽山は、嫌がらせ以外、何も返したことはありません。この記事もそうです。この人にだけは、誰も関わらないようにしてほしいです。楽山が執拗に、引用という、ぼかした手口で書いてくるのに対して、私は批判記事を書き続けています。
 
もはや、だいたいにおいて、同じような返しをすることしかできない質の低い楽山ブログです。思想を考察して磨くことをしない者は、結局、同じような無責任発言を繰り返すことになります。引用だけで、"悪魔呼ばわり" を書くのも、今までと同じ、悪魔性の、糞尿性なのです。
 
 
 
  悪魔の臨終

軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 (抜粋のいくつか)
 
 
悪魔はイエス様の生誕を知っていて
神様に勝てないことを知っていて
少しずつ居場所が減っていくものだから
残った隙間に上手に入っていこうとするんだ
 
それは子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ
 
 
怒りと災いがふりかかる中
乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
 
魔術を捨てよ。超常を知ったと思ってはならない。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の言は、今まで、ずっと、他者の言葉か、通念か、偏見か、安い先入観か、芝居、思いつき、嘘、詭弁に過ぎませんでした。体質的な悪意は、悪魔性かもしれません。思いやりと共感の欠如、反省と責任感の欠如は、性格だから・・では、済まないのです。
 
 
 
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  偽善者の語り口2
 
 
特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉
 
 
"ですね攻撃"
 
シャロームにおいて顕著です。
 (シャロームの言)
1「少しも実践していないようですね。」
2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」
3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」
 
1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。わざとらしい丁寧語が、鼻に突きます。
 
自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。
 
シャロームにおいては、あと、大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチャンじゃろ、という安易さが、しばしば見られることです。過ぎた讃美は、信仰自慢であり、同時に、カルトに特徴的な自画自賛でもあるということです。
 
 
"ボンヤリ言語"
 
楽山において顕著です。
 
「ていうか」「かなあ」「っぽい」などという大人の言論に相応しくない、くだけた表現のつもりの、わざとらしい言い方で、かつ、断定を避けています。いわゆる、言葉を濁して、責任を回避したい表れです。「と言えなくもない」という言い方もあります。
 
「本当に決めつけないなら、「一度もないということだ」と断定できず、「一度もないように私には思われる」という」・・断定しないのならば、「一度もない」、という強い表現を用いながら、「私は思われる」という曖昧な言い方をつけるほうが、むしろ、変です。
 
楽山は、語尾だけ、いい加減に、曖昧に、細工して、断定していないと言い逃れているのです。日本語のバランスや調和や整合性が理解できていないと思います。
 
総ての言論に『と思う』は暗に付いてくることを知らず、「思われる」等々の、濁す語尾を、いちいち付けないと気の済まないのが楽山の強迫症状です。これで、断定していないから責任を逃れられると思うのでしょうか、成り立ちません。言葉の勢いとか情緒といったものを理解できない楽山にありがちなことです。
 
そういうことを気にして、ロボットのように機械的にこだわって、ボンヤリした表現を進んで使いながら、そのボンヤリ言語に、断定していないから責任はないといい、作為の印象操作や刷り込みの誘導を含ませてくるのが、楽山であります。
 
 
楽山は、神がいるなら、どうして災いが起こり悪がはびこるのだ!とクレームをつけてきます。災いや悪は、他動的に起こる、即ち、神が起こすか、神が止めないから起こる、という言い分のようです。
 
これこそ、自らを省みることのないサイコパスが、自分に起こった災いも、人類に起こった災いも、神のせいにして、楽山の、自己に慢心の醜態から、神さえも上から見下ろしているつもりで裁こうとするのです。宗教も信仰も知らない楽山の見当違いもいいとこです。
 
このようなことは、考えるだけ虚しくなるだけだから、小学生にも笑われそうな、幼稚な短絡です。それを、楽山は、あたかも真理を語るかのように、恥ずかしげもなく書いてくるのです。
 
いかに楽山の言語理解のレベルが低く、同じことを言い続けているほど、学習も進歩も成長もないということを表しているのです。こういうのに付き合わされたほうは、たまったものではありません。このように、恥とか醜態とか嘘とか誤謬とか罪悪とかに、自覚も反省も学習もないのが、楽山であります。
 
 
"トホホ言語"
 
私が、楽山のことを、無反省、共感性がない、と言った後あたりから、楽山が盛んに書いてきたことがあり、「反省。トホホ」などとも書いています。謙虚芝居でもあります。「共感」という言葉も使うようになりましたが、その前と後で全く変わらないことで、反省も共感も嘘だとバレています。
 
楽山は、実感というものを持っていないので、言葉を書けばいいと思っているだけなのです。中身がないから、たとえるなら、言葉の、深い意味を考えもせず、文字列を真似て繰り返し、ハンセー、ハンセー、キョーカン、キョーカンと、オウムが鳴いているだけのようなものになっています。
 
楽山が、あざとく、いくら卑下して見せても、その前と後で、変化が見られないならば、だまし目的の受けねらいで同情をひくためだけの、柔和芝居、謙虚芝居だと分かるのです。同情を求めて、というより、同情をひくことを狙って、いくら大仰に書いても、無駄です。
 
 
人の日常感覚で、神を語ることは出来ません。大事なのは、確定的には何も語れない超常ではなく、絶対に対する私たち人間の相対性、即ち、私たちの不完全性=罪の性質について考えることです。そのための絶対の存在であります。
 
勘違いしないでほしいのは、絶対の神は人に対して救われる生き方を与える御方であり、決して、話を合わせる仲間同士の世辞の頷きを求めているのではないということです。
 
人は日常感覚しか持っていないのに、その感覚で、超常の神の意志と行為を、先入観と偏見に満ちた固定観念の決めつけで語っているのが、楽山であり、自分のお粗末な日常の理屈で、自ら反省することなく、神を、楽山の頭の中の、机上の、貧弱な空想の、材料にして、おとしめているのです。
 
人の日常感覚で、根拠もないのに、超常の意志が分かったつもりになり、あげくの果ては、神が自分に、不変の好意だけを向けてくるという信じ方をしているのが、シャロームであります。自身のお粗末な日常の理屈で、反省せず、悔いることなく、やたら、神を賛美して、結局、自分を褒め讃えているのです。
 
信仰は、人間が良心のある成長可能な人間になることを促すのであって、決して、人間が、超常の感覚や境地を持つことではありません。何故なら、超常の感覚を求めるようになると、だんだん、日常の感覚に注意を向けなくなったり、良心の人間的な感性と働きを疎かにする罪の性質が人間にはあるからです。
 
キリスト者にも、先入観にとらわれている人はいると思います。しかし、そういう人に、批判で斬りこむことは、事態を悪化させることもありそうなので控えています。楽山は既に悪化して、他者の悪影響を与え続けているので批判しています。訂正不能に固まった思想は、人を生かすことはありません。
 
シャロームと楽山については、恐らく、"キリスト教、くみやすし"、と思っているような、反キリストの偽善者であろうという推測からの判断ですから、事態を悪化させることを恐れて和んだり調子合わせをすること自体が、最悪の事態ですから、偽善者と見なして、全否定で批判しています。
 
特に、楽山は、批判して、あとで、賛同みたいなこと書いたら、プラマイゼロで断定していないから責任問題は発生しないみたいなことを言っていました。無反省のまま、間違っていたと訂正しないで、ころころ主張の方向を変えることは、しっかりした思想を持っていない証拠です。
 
楽山は、いかなる話し合いにも議論にも相手にしてはいけない人です。楽山は、正常な一人前の大人になっていないと思います。そういうことだから、トラブルが発生しても、嘘と詭弁でごまかす習性だけが身についたのだろうと思います。ごまかせない事態は、いずれ訪れるのです。
 
私も経験済みですが、楽山は、付き合えば付き合うほど、異常な精神疲労をもたらします。正常人ではないと思って、相手にしない、関わらない、付き合わない、近づかないことが必要です。
 
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(2)〈KENTO氏の主張〉
 2021年01月31日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、好きなだけ、様々な、多くは故人の、言葉を、自分に都合のよいように、偏って引用して、偉人もこう言っている、という書き方で、楽山の快感と都合を通そうとするのです。つまり、楽山の倫理性は、客観性も安定もなく、メチャクチャになっているということです。
 
偽善というのは、悪が善人のふりをすることです。楽山は、さらに、批評家のふりをします。そして、他者を責めるのです。他人のゴシップは大好きだが、自分の反省はしない楽山です。これからも、そういうことは、多々あるでしょう。
 
法的に問題となる盗用よりも、深刻な問題が、楽山の精神性にはあります。他者を責めて、はしゃいでいる異常者特有の快感が表れているからです。
 
 
「無断引用」とは、当該卒論は、一定の条件を満たし容認される無断引用ではなく、一定の条件を満たさず決して容認されない無断引用がされていたという意味であり、盗用というのを最大限に婉曲に表現したということなのだろう。
 
こういう法的な意味とは別になる問題があります。人をあざける者の悪意の反倫理性という問題です。楽山としては、一部を指して、ひどいこと、やってる、自分は引用だから、まだマシ・・という逃げ道を、あらかじめ用意して、キリスト教を否定するために、有名人や学者の引用を利用してきたのです。
 
不正は不正として、裁判にもなるのでしょう。それよりも、法に触れないことをよいことに、責任を負わないまま、悪意の羽をバサバサと好きなように振り回して、誤解~曲解を、悪用して、煽動してきた反倫理性が、言論において、そのまま放置されることはないのです。
 
完全自己中の笑いが見え透いてくる楽山の、他人のことだけは責めて、自分を責める批判には、耳を貸さず、スルーというが、実際は、不都合を無視することでしか凌げないのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽言論なのです。
 
 
*裁判
私見ながら、裁判の可能性についても一言述べておくと、この件は当人にとってはもちろん、HSにとっても大学にとっても不名誉なことであり、大事にはしたくないだろうし、研究者は若い人を訴える気にはなれないだろうし、当事者および関係者には誰も裁判にしたい人はいなかろうと思う。
 
このように、楽山は、裁判の可能性を書いていますが、自分の、勝手な引用は、どんなに引用元をおとしめても、引用元の多くは故人でもあり、関係ないという担保の上で、あぐらを掻いている姿勢です。
 
まさに高みの見物のように、楽山が、恐らく倫理や人間としてのあり方を責められて、そのストレス解消のために、やじっている風情となっています。一方的な思い込みの言論と、作為の丁寧語の書き方です。
 
楽山に、他者を責める資格はありません。隠し事と、嘘と詭弁で、だましておいて、平気でいる異常な心性の気晴らしに、法的問題をあげて、裁判、裁判、大変だ、という、筆致とは裏腹な扇情的内容です。よく書けるものだ、やはり異常者だからだろう、などと思わせる記事であります。
 
自分が責められているときに、自分は何事もなかったように、別件をあげて、他者を責めるのが、楽山のストレス解消法のようですが、いずれ、総てが瓦解するときには、そういう行動パターンも、姿勢も、併せて、責められる対象となるでしょう。
 
 
特にHSは、週刊誌記事に対しては何度も訴訟を繰り返しているにもかかわらず、この件についてそういう話は聞かないことからすると、大事にしたくないという思いは特に強いのではあるまいか。
 
不正を大きな事件にしたくないHSを、暗に責めていますが、楽山は、一時ではなく、私が関知する、少なくとも3年にわたる自らの不正を、大きな事件にしたくなくて、無視して、隠蔽している人です。そこに、継続して批判する必要が生まれています。
 
 
将来的に咲也加氏が存在感を増し、目立った動きをするようになれば、マスコミは再びこの件を喧伝するだろうし、そうなった場合、HSの対応も変わってくるかもしれないが、現状では当事者の中でこの件を蒸し返したい人はおらず、訴訟になることはあるまいと思う。
 
このように、楽山は、敵対する者を、いずれ、大騒ぎになるぞ、とばかり、面白がっているようです。楽山が法的制裁を受けるかどうかは、今後の問題ですが、大騒ぎというより、多くの人を無視した分、多くの人に無視されてゆくでしょう。
 
ネズミのように逃げ回った者は、早く巣に戻って口を閉ざし、じっとしているべきですが、何せ異常で過剰な自己顕示欲のために、信頼を失っても、何か言って、自己満足したい楽山の、飽くことのない自己顕示欲の執拗な衝動であります。
 
楽山の記事には、ツイッターからの引用コピーが豊富に載せられています。本当に、自分の問題を、全く自覚しないで、他者が責められるのを、話題にして面白がる、という楽山の悪趣味の厚顔無恥と傍若無人ぶりが、鮮やかに表れている楽山の記事です。
 
楽山は、次は、ウイルスのように潜在して、蔓延して、また、誰かの欠点を、あざ笑うのでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、楽山は、人の振り見て責めるだけ、人の振り見て我が振りを直すことが出来ません。
 
言うまでもなく、批判を無視して、楽山が隠蔽している楽山固有の不祥事について、楽山が気晴らしに他者の不祥事でストレス解消している実態を、逆に、あばくことで、また、無視して別の他者のことだけを言う楽山という気楽なお山を、批判されるというストレスで埋め尽くすことが目的ともなるのです。
 
 
人を責めてストレス解消?

人を責めてストレス解消?
 
 
祈り
「主よ、他にする人がいないようなので、できると思ったことをしております。相当、悪者になりました。疲れています。御心でしたら、しばしの安息へ、お導き下さい」
 
 
(2021年02月01日、同日一部修正)
(2022年02月02日、再録+加筆修正)
 
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  もう無能
 
丸い種はもう蒔かない
四角い種ももう蒔かない
 
実のなる木はもう見ない
金のなる木はすでに知らない
 
いっせいに飛び立つ海鳥
砂浜に一人
波が上手にさらっていく
足元の砂の足元
光る波の一滴
乾いた
風に砂の一粒
去り際に払って
砂浜にはもう別の人々
 
砂をまく
水滴を
風を
気を
 
悪い種はもう蒔かない
木のなる実はざっくり笑って
果肉は誰の腹の中
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いません。特に、反省は、しなけれ人格低格化が進むことを理解していません。「難しいんだよな」ではなく、反省しなければ、成長しないのです。「恥ずかしながら、自分もそんな風」「人間の性」ではなく、楽山だけが、際立って反省しないと言っています。
 
 
 
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  カルト発言2
 
 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マリア型)
  (嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。)
  (キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない)
  (キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない)
  (キリスト信仰は呪術ではない)
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけません・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
●神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
  《キリスト者も注意するべき発言》
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
  
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があるのです。
 
不完全で罪深い自分を憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直であることだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、忍耐強い信仰のことです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には隠しているようなことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。
 
 
否定、決めつけ、神聖、妄想

否定、決めつけ、神聖、妄想
 
 
(2019年12月11日)
(2020年12月27日、加筆して再録)
(2021年01月02日、加筆して再録)
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見ての感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、ストーキングというより、因果応報だと思います。
 
 
 
 
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  丁寧語の災い2
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   過去記事を再録+
 
 
シャロームは、バカ丁寧な言葉で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽善者でしかなく、反キリストでしかなく、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業であり、シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。
 
シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればいいじゃろ・・と思っているのです。総てが崩れているのに。つまり、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、デパートの売り場を巡るように、和みを表しているつもりの世辞とともにうろついている亡者なのです。説得力の欠片もないからです。
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
 「精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。」
 「あなたはあなた。私は私、でもできることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然なのです。」
  」
いいですね!
 
私が、個人のこととして書いたことを、好きなように持ち出して、あたかも一人前が半人前に説諭でもするように、いいですね!と、ここに至って、丁寧語でごまかしていますが、シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、シャローム自身に対して私が出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼であり、侮辱なのです。
 
反キリスト丸出しのシャロームに対しては、書いてくる嫌がらせについて、根拠をもって否定するのみであり、好意的に出来ることなどありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストの実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、持ち前の丁寧語という害毒で、思いやりを示したつもりのようですが、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘、すなわち、偽善なのです。
 
シャロームの発言を、長く受けておれば、むしろ、いっそう、嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けるしかなくなってゆくということです。
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
あなたの見解など、何も聞いておりません。私は、あなたシャロームの日本語には、ずいぶん以前から、理路もなく共感も感じないと言ってきました。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。しかも、何かの本から取ってきた言葉で、シャロームが理解しているとは思えません。
 
そして、境界線を守ることを他者無視と自分勝手と置き換え、母性社会の未熟を境界線がないことと置き換え、自他未分化を批判者に当てて、自己正当化をしたつもりなのです。しかし、総て、シャロームのほうの自己中・身勝手・人格の未熟・自己中に従わない他者への侮辱の正当化の詭弁です。
 
そういう話を何度も聞かされている者、つまり、こちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、食傷する独り善がりなのです。シャロームこそ、自他未分化で、自分の言うことに他者が従わないことを考えることができず、何の対処も弁明もできない人です。
 
シャロームは、恐らく、自他未分化だけでなく、人神未分化の状態でしょう。だから、自己の妄想を、そのまま神意として、前には、聖霊による導きだと言っていました。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況と前後関係からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということだけであり、それを弁えることも出来なくなっているシャロームです。
 
鬼のような顔の次の瞬間、仏の顔真似だけしてくるのは、嘘吐きの詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。状況の把握ができない証拠です。シャロームの丁寧語は、そういう本質を持ちます。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
シャロームは、ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。私は、護憲派ですが、嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、決して受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。シャロームの、体のいい話に、体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。
 
シャロームは憲法の精神を全く理解していません。憲法によって守るべき個人の尊重は、それが、公共の福祉に反しない限り、という制約が吐きます。反社会的な詐欺師などの犯罪者が個人の尊重によって無罪になることはありません。
 
であれば、自己中妄想に凝り固まって嘘と詭弁をばらまいているシャローム個人の場合、強制的に刑罰を与える対象でもないのだし、言論で批判対象とすることは、何ら憲法に反することではありません。吐き気のするようなシャロームの詭弁の大嘘です。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
このような話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。脅しに近い極端な言い方を好みます。シャロームは、預言者気取りなのでしょう。実質は、真逆です。
 
シャロームの言論が統合を失調しているのは、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視している、つまり、話の筋を追えないのが、シャロームの文章です。シャロームの言のベースに理路はありません。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めてきた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのだ!という誇大気分で豪語でもしたくて興奮したときに、並べ立てるボロクソ節であります。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと人真似と誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。
 
このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、逆に、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
3. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、嘘を吐くな、と言いたい。これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、それよりも、信仰において、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、神に対しても、人に対しても、全く持っていません。
 
>統合の道は主の道か?
 
先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。
 
「随分悪態をつき」・・あなたのことですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ています。楽山より先に、信頼度ゼロになったシャロームです。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」という信条も、今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。また、嘘を吐いています。
 
「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、信仰の希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
14. shalomです。 おはようございます
 2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間だからです。あなたシャロームと違って。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないからです。
 
あなたからの殺意を感じるからです。あなたはサイコパス、人の滅びも死も、何も気にならないで、横暴な人格となった者です。人間らしい感受性がなくなっています。
 
そういう人だと思うようになっているから、低い評価の中でも、さらに低く、邪悪だ、という方向になってきたということです。よって、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
※ シャロームは、現在、ネット上も所在不明ですが、シャロームの記事とコメント、そして、私の批判記事は、約十年にわたっていて、既に、資料となっていますから、時々、見返しては、典型的な偽善者に対する批判記事として、加筆して公開しています。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
シャロームは、神の意志とヤフーブログ閉鎖を、結び付けています。こういうとことは、いかにも、カルトの思い込みだと分かるところです。神への恐れを知らないシャロームです。
 
いちばん邪悪な偽善は、神の意志と行為である導きを、人が決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。
 
自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、具体的に道を備えて下さった、開いてくださった、と決めつけながら、見極めることができない、と書いています。シャロームには、何も整っていないから、見極めるどころか、何も実がないのです。
 
つまり、自分に都合の良いようにだけ、決めつけていることが、明らかになっているわけです。今までも、ずっとそうでしょう。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら、表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、「つれない」などと、白々しい嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、生息してきたシャローム。どこにも、弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の開き直りと強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。
 
この悪意は、易坊に通じる筆致。
 
そうだ、いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を失った者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの中の、とても醜くて、醜悪な気質として、よだれを垂らしているイメージ、そして、その臭いです。
 
あなたシャロームの文章を読んでいると、喉を鳴らすのが、聞こえるようであり、汗と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようであります。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの書く、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じていました。
 
丁寧語は、ある意味、暴言よりも悪質になります。どんな批判を受けても、自分は安らかで冷静で、びくともしない、ということを表すために丁寧語を使う者がいます。実際は、すべて無視しているだけなのです。
 
 
くさい、くさい

くさい、くさい
 
 
(2020年01月06日、同日一部修正)
(2021年01月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
 
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  楽山の謙虚芝居
 
 内村鑑三とスピリチュアリズム(「死後の生命」内村鑑三著)
 2021年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
白々しい楽山の芝居と、結局、いつものように、尊ぶようで、実は、おとしめる、という、キリスト教を侮辱して自らの優位に立ったつもりで満悦したい欲望が、表れています。不感不応の性懲りの無さだけが特徴です。こちらとしては、まともに相手しないことが大事になる繰り返しです。
 
*内村鑑三とスピリチュアリズム
岩波の「内村鑑三選集」をつまみ読みしていたら、『第八巻 生と死について』の「死後の生命」で、スピリチュアリズム方面に触れている箇所があったのでメモしておきたい。
 
つまみ読みを、メモした記事なのだそうです。そういう軽さが、楽山の趣味的扱いの宗教と信仰?なのです。そして、スピリチュアリズム、つまり、安易に、死後の世界に直結させています。宗教も信仰も、そういうものだという、邪悪な固定観念を隠さなくなっています。
 
といっても、スピリチュアリズムについてそれほど深く語っているわけではなくて、死後生命はあるとする内村鑑三自身の主張を補強するために、近代的、科学的な方法によって死後の生命の存在を証明しようとした人々もいたとして、フレデリック・マイヤーとその言葉を紹介したり、、W・L・ウォールカーの『霊と受肉』、ウィリアム・オスラーの『科学と死後生命』、ウィリアム・ゼームスの『人間永生論』にある一文を抜き書きしているという程度ではあるが…。
 
そして、早速、死後の生命の話になっています。宗教と信仰は、そういうもの、それが宗教という考えで、一方、いちばん大事な、生きるということを、楽山は、考えようともしないために、ボロクソの精神を露呈することになっています。楽山が関わると、死後の話は、死語の話になってしまいます。
 
スピリチュアリズムはキリスト教および教会に対して批判的なところがあるので、キリスト者が自説を補強するためにスピリチュアリズム側の人物の言説を用いるというのは少々意外な感じがしないでもないが、内村鑑三は外国の宣教師には複雑な思いをもっていたり、教会と意見の相違はあったようなので、スピリチュアリズムとはある程度の共通点があり、そこまでの悪感情は無かったということなのかもしれぬ。少なくともこの文書を書いた時点では。
でも両者の関係については、自分はまだ何も知らないのと同じなので、少しずつでも調べてみたいとは思う。
 
内村鑑三を、そして、キリスト教を、スピリチュアリズムと関係づけています。何が本質かを、全く知らない者は、こういう決めつけ方をして、宗教と信仰を、奇跡と超常の不思議話じゃろとばかり、卑しめてくるのです。
 
*信仰者
ちなみに内村鑑三は、この文章の中で、次のような理由で死後の生命を信じるとしている。
死後生存について、「其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其者が来世存在に関する強力なる証明の一である」
 
人間は、神の存在も不在も証明できないように、人間は、超常を、来世を、証明することは出来ません。いつ見ても、楽山の興味と都合に合わせた同じ傾向の文章の一部だけを引用してきます。内村鑑三については、無教会派のことのほうが、よっぽど重要でしょう。
 
「現世は人の限なき知識慾を充たさんが為には余りに短小である、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈をくだすことは出来ないのである」
 
こういう死後・来世の話は、推測・試論・説としては、可であります。しかし、楽山の手に渡ると、恐ろしいことに、こんなことを真理だと思っているのがキリスト教なんですよぉー・・という印象操作にされてしまいます。あくどい作為の持っていき方が、ずっと変わらない楽山の因業です。
 
「十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る」
 
このように、内村鑑三は、愛について、喪失について、つまり、人間の切実な話について、悲しみについて、書いているのに、楽山は、そういうことを、自分の言葉で書けないのです。
 
「汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確認するに至るであろう」
「死後の生命は信仰を以てする冒険である」
当たり前の話ではあるが、こういう言葉を読むと、内村鑑三は根っからの信仰者なんだなと改めて思う。
 
このように、内村鑑三にとって、来世の話は、地上の必然である愛と悲しみの話であり、人の道を説くために心を砕いた話なのです。楽山は「信仰者なんだな」としか書けません。言葉というものの表層的辻褄に生きていて、心が無いからです。
 
*余談
同書に収録されている「不死の生命に就いて」の冒頭には次の文章が見える。
若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。
「不死の生命に就いて」内村鑑三著
 」
 
ここを、不死の生命は、有るから有るんだという確信の強さと受け取っているようです。しかし、内村鑑三は「有るとすれば」と条件法で書いているのです。
 
同じく同書に収録されている「死後生命の有無」にはこうある。
死後の生命は人の固有性にあらず、信仰の報償として彼に与えらるうものである。
「死後生命の有無」内村鑑三著
 」
これらをまとめると内村鑑三は、死後生命について、「死後の生命」(大正8年)では人類は古来より強く求め信じるが故に有るとし、「不死の生命に就いて」(大正13年)では人の願望や信仰に関係なく客観的に存するとし、「死後生命の有無」(昭和4年)では信じるから与えられるとしており、なんだかその時々で微妙に話がちがっているようだ。
 
ここでの楽山の言い分が、いちゃもんであることは明らかです。内村鑑三には、地上で知りえない死後という前提があり、楽山には、何でも知っていないと気が済まないという前提があって、後者の前提で前者の前提の話を読むと、このような、話が違うというクレームにしかならないのです。
 
楽山の幼稚な二進法・二者択一への短絡です。0か1、有か無、という短絡二元のみで、その場で確定的に不死も死後も語ろうとし、それによって、キリスト教はそういうものと思い込んできたのでしょう。それで、物知り顔の評論家気取りで書いてくるから、これ以上の迷惑はないのです。
 
さらに、他者の話を「微妙に話がちがっている」と言って、著者についてクレームを書き、なのに、自分の意見は書かず、その場で、結論を出したつもりになる楽山です。
 
超常の話は、あくまで、推測か想像であり、せいぜい仮説であり、ゆえに、確定ではなく、改めてもよいので、自由に話してよいものとなっています、そこに信仰の中心があるわけではないからです。
 
それを、楽山が、中心においてしまうのは、病的ナルシストの特徴でしょう。それで、キリスト教を揶揄したり、おとしめたりの、知ったかぶりをする楽山の、無理解前提の世界など、人間にとって、何の役にも立ちません。その場で、真理をつかんだことにしないと気が済まない楽山の、強欲の因業でしかないからです。
 
人の考えは変わるものであり、矛盾を抱えているものであろうから、その意見が変わったり矛盾があったとしても、それは当たり前のことであって取り立てて非難すべきことではなかろうが、内村鑑三であってもこうだというのは少々驚かないではいられない。
 
「非難すべきことではなかろうが」と言いながら、「少々驚かないではいられない」という丁寧語の非難めいたことを書くのは、一挙に真理を知ったことにしたい楽山の強迫観念からであり、不満なときの、楽山の嫌らしいマイナスへの誘導の筆致であります。そうして、結局、少々ではなく、内村鑑三を侮辱しているのです。
 
ドラマの悪役の上司が言いそうな、婉曲的な言い方を、下司にもなれない楽山が言っています。楽山は、責任逃れのために、こういう作文の醜い書き方だけを積んできたということでしょう。
 
でも現実はこの通りであって、偉人賢人であろうが何だろうが、人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはないんだろうな。自分は、誰かを尊敬してしまうと、すぐに心酔しきってしまい、この人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖があるのでよくよく注意したいと思う。
 
「人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはない」・・今ごろ分かったのかと言いたいほど、当たり前のことですが、前にも見かけ謙虚なことを書きながら、楽山自身は、全く、その自覚がないことだけが表れてきたのです。
 
楽山に限って「人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖」の自覚はありません。何故なら、自己愛・自己中の楽山は、自分以外、誰も信用してなどいないからです。そういう自己満悦の訂正不能の言を、ずっと繰り返してきたのです。今になって、嘘の弁明が通用すると思っていることに、あきれるばかりです。
 
温もりと潤いのない、即ち、思いやりといった悲しみに共感する高等感情が育っていない人格が、作文をすると、知性も理路も、無反省で無責任になり、感じることのできない部分を、辻褄合わせだけの、実感のない、言葉面の形骸を、もっともらしく並べて、ごまかすようになるという筆致が、否応なしに表れてきます。本人だけが気づかないのです。
 
楽山が書けば書くほど、それを読めば読むほど、あきれて、相手にしたくはないのですが、キリスト教を、オモチャにしていることは看過できないので、批判を続けています。どうか、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
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(2021年01月17日)
 
 
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