ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不完全

 
  良心4
  
 過去記事「良心」+加筆
  に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。人間としての知性と感性を捨てて信仰は成り立ちません。人知を捨てて有頂天に従うのはカルトのやり方です。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
 
信仰によって良心が成長するのは、人が、自らを神より低いと自覚している場合です。また、人間の良心に、神の導きはあるけれど、人は、それを確定できません。ゆえに、聖書の言葉を唱えればよいということではなく、御言葉を自らの人生において考えることが大事なのです。
 
神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。人に理解できない魔法のような奇跡を期待することは、信仰ではありません。
 
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は、神への冒涜というより、祈るとき既に、神によって見抜かれています。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰だから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖に捧げるものが、神聖に対する決めつけであれば、神への冒涜です。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定はできません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総ての結果をご存知の、神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
良心のない一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。人間の良心は、信仰者であっても、完全ではないということを、私は書いてきました。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、実際は、自分の自由意志の選択と判断で行動しています。自分の言動を神の御心で正当化するのは、背教ということです。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰ではありません。私たちの言動は、祈りによって、神に前に捧げるものであります。でないと、自分が、神の意志を代行するかのように思い上がります。できる努力をして、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこととして聖書に親しみ聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、完全とはなりえない自覚をもって、精いっぱいの自分の良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえない私たちに、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、信仰は、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。祈る時の飾りのない心の比喩だと思います。
 
聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、人間として良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだという自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを弁えています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。良心のないところに信仰はありません。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっておらず、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からないのです。反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。彼らに論などありません。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
神は完全なる御方として信じています。人は完全を知らないので、完全なる神を恐れます。神を信じる理由は、神に比べて人間は不完全だという自覚を持つためです。そこに、過剰な熱は取り去られ、祈りが生まれ、命が生まれ、成長が生まれます。
 
万能や超常を語る宗教と信仰は、神を知りません。シャロームや楽山などの、偽牧師や反キリストの無神教カルトは、自分を神?として、その醜さだけを表す因業の路程をうろつきます。彼らが語り否定する神?は、キリスト信仰の世界の、どこにもいない神?=言葉=概念=紙なのです。
 
牧師気取りのシャロームも、学者気取りの楽山も、玩具の遊び方のような幼稚な概念しか持っていません。似たような無神教カルトが他にもいるようです。騙されないでください。人間に完全な境地などありません。その自覚が、地獄のような巷(ちまた)から、人間を救うのです。
 
 
 
人間としての正しさを

人間としての正しさを
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月25日、再録+加筆)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  修正可能4
 
  2018年11月25日
 「修正可能」を修正再録。
 
 
キリスト教に傾倒する人で、しばしば完全なる成就が一気に自分のものになることを、そして完成して揺るがない平安を他者よりも早く欲しがることがありますが、そういう悟りの境地は、有限で成長可能な人間性に、そぐわないもので、人間の獲得するものではないと思います。
 
私は何度も、修正可能ということを強調してきました。キリスト信仰は不変の境地ではなく、成長するための道だということです。修正可能は、一般的にも、成長するためには必要なことです。修正可能だから成長可能になるのです。
 
とりわけ信仰については、人は不完全であるがゆえに修正可能こそが神の恵みだと思っています。もちろん、人間に分からないところで神の導きもあるでしょうけれど、人間が認識できる恵みとしては、恵みを受け取る人間側の条件として修正可能の心掛けだろうと思います。
 
そして何よりも、悔い改めこそ他でもない修正なのです。何度も何度も、欲から神への生きる主軸の修正です。その機会が一生を通じて与えられていることは、あるとき間違えて、ふてくされて神のもとを去ったとしても、いつでも悔い改めることで、戻ることが許されているという恵みなのです。
 
キリスト者になるとき、洗礼を受けるときには、私の経験から言うと、罪について殆ど分かっていなかったと思います。教えられるから認めることにした概念のようなもので、やさしい神様、やさしいキリスト、そのイメージと一生付き合うという決意のようなものでした。
 
洗礼によって自分が俗人と違う特別の存在になったという自己神格化みたいになってはいけません。神の民となることは、より御心に適う人間として成長する、という人から神への、決意の意志表示であり、洗礼の神秘つまり神の秘密については、人は知り得ないのです。
 
信仰は完成ではなく成長です。信仰者になって、悟ったかのように思い込み、のぼせ上がり、預言者気取りになって、思考が誇大的になり、世界を相手に、それこそ天国から物を言いそうなほどの有頂天の陶酔気分が、若かった私にはあったような気がして、反省しています。
 
つまり修正可能は、すなわち折々の悔い改めであり、微々たるものであっても成長であり、キリスト者になってから、ますます必要になってくるということです。悔い改めは、一生にわたることですから、信仰告白と洗礼で、完成して済むということはありません。
 
偽牧師シャロームshalom のように、悔い改めをしなくてよいなどというのは、まさに人が神に成り上がろうとする背教、そして、反逆に他ならないのです。そして、それに賛同したのが、楽山であり、何も分かっていない証拠となります。楽山とシャロームは、反キリストであります。
 
神の民になったから完成ではなく、完全になるわけでもなく、目指すべきは、信仰者として、即ち、人間としての成長であり、学習による修正可能すなわち悔い改めが、さらに必要であり、その機会と、そうしなければいけない機会とが、恵まれてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として、訂正不能に信じ込むことをしてはいけません。解釈は人の解釈であり絶対ではなく、学びの糧以上ではありません。変わらないのは、神聖であり、人ではありません。そして、人においては、同じ言葉も、聖書と体験を通して、その都度、新しくなってゆくのです。
 
自分の生きる力になることを、体験と祈りから、時々に受け取ってください。たとえその後に人が道を踏み外すことがあっても、神は、いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。人間が勝手に固定してはいけません。祈りも、信仰も、恵みも、みな、生きているのです。
 
洗礼の機会も大事ですが、信仰を問われて受洗証明みたいな書類を出してくるようなカルトもいますから、もはや洗礼は人にとって信仰と告白の出発であり、完成とか到達とかの意味ではありません。はっきり言えば、洗礼の有無にかかわらず、悔い改めるとき、そこに信仰があるという証なのです。
 
生きていて、陰性の感情が激しくなるとき、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、失望、絶望、それらのときに正直な祈りのうちに慰めと癒しを得て、悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは、キリスト者の義務というより、神が誰にでも与えている恵みであります。
 
正直に祈る人は、祈りを聞いておられる神によって、改めて癒しと赦しを与えられ、神と人の双方向の絆に包み込まれ、秘密のうちに恵まれる温もりと潤いによって、愛と共感の悔い改めを通して、心と体の、新しい時と所へ導かれるでしょう。
 
前に引用した聖句ですが
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
私は、社会的には落ちて堕ちています。仕事も出来ず、心身の病気も患って、老化して、今以上に、よいことがあるとは思えません。この地上を去る時を待っているような暮らしです。ただ、正直に祈ったときの解放感を忘れられないので、できる唯一のこととして、ブログを書いて過ごしています。
 
 
信仰は成長

信仰は成長
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年12月13日、再録+加筆)
 
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように
 
要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
「 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般にあることみたいに、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などに必要な高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山は、極端に走るのがよくない、ということを言っていました。つまり、自分は極端ではなく、バランスが取れて柔和と思っているのでしょう。その前提に自分を置いている既に人格の偏奇なのです。楽山は、自己愛によって、無反省な訂正不能の極端さを示してきました。
 
殆ど死んでゆくしかないようなほど傷ついた魂を癒すのが信仰で、その体験を持つ人は、楽山のような自己愛性人格障害から語られる神?についての反証めいた机上の理屈など、何の意味もありません。ただ、楽山の婉曲な丁寧語を受け続けると、ひどい疲労か、さらに、人格破壊に至る可能性があります。
 
楽山が嘘と出まかせを広めることに対して、できることをするのが、信仰者の務めです。批判をする普遍的な必要性は、楽山の、一見まともで、付き合えば付き合うほどに疲労しか与えない無反省と無責任とキリスト教の曲解を指摘し否定し、情報を敷衍(ふえん)することにあります。
 
一生の間に、楽山のような病質人格に出会わないならば、それだけで幸福だろうと思っています。出会ったからには、半端な根性では乗り切れない攻撃性を、楽山は、結局、表してきます。それは、人が傷つくのを見て得意になるサイコパスならではのことなのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは信者あるあるですね。
信者は、自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき、
「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」
といって事実と向き合うことを避ける。
これを乗り越えてこそ、本当の信仰者になれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する。
 
楽山「あるある」です。楽山は「自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき」「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」と、現実と向き合うことを避けるのです。そうして、自分を見ずに、正義の味方気取り、助言者気取りで、今日も、罠をかけ続けます。
 
今日も、人のことばかり言って、「これを乗り越えてこそ、本当」に「なれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する」ので、なおも、オレがオレが・・を、書き続けるのです。しかし、楽山は、何も乗り越えたことはないから、楽山は、何の助けもにならないのです。
 
信仰の敵である楽山に「本当の信仰者」は分かりません。楽山は自我の欲望の奴隷です。何も「乗り越えて」いません。楽山は自分の「事実と向き合うことを避け」て逃げてばかりいます。「信者あるある」があれば、楽山のように "亡者あるある" もあるということです。楽山に騙されないでください。
 
 
 
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  妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
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  信仰と思想
 
 
正しい道、正しい信仰、
正しいキリスト教、正しいキリスト教思想などと、
正しさを強調する向きがあります。
そういう向きは
神と人の違いを分かっていないのです。
神をどのような御方として信じているか
という自覚がないのです。
 
全知全能、絶対完全、永遠不変
神の性質として言われているこれらは
人間の性質として否定されるためにあります。
人は神ではないことを示しているのです。
間違えても目指すなどと思ってはいけません。
キリスト教に戒律があるとすれば
まさしくこの弁えであります。
 
神の正しさを
人間が持つことはあり得ないのです。
これは強く思います。
信仰の敬虔に直接かかわる問題だからです。
 
私は、罪深さを、しばしば、不完全という言葉で表しています。
不完全から、罪を犯す必然性、罪性を考えているからです。
 
私たちが求めるべきは正しさではありません。
信仰が与えるのは正しさではありません。
 
真・善・美、いずれも同様です。
人間が完全な真善美に至ることはありません。
 
人の善行を施す。
人に意見を言って正す。
これは、完全が、不完全に教えることではありません。
不完全が、不完全に、
正しい道へのヒントを伝えているに過ぎません。
 
神の、全知全能、絶対完全、永遠不変
人が地上で持つことはありません。
 
したがって強気で豪語できる信仰はありません。
その自覚が敬虔であります。
 
人間に、信仰者に出来るのは、
ことに際して精いっぱいの真善美です。
だから、なおさら、不完全の自覚が必要です。
それを、敬虔、謙虚、などと呼びます。
神に対する人の弁えであります。
 
信仰には、のぼせるということがあります。
若者に多いですが中高年にも起きてきます。
中高年は、教える側にいることが多く
年齢から、社会における位置から
豪語しがちであり訂正不能になりやすいのです。
 
自分の言動が
いかに正しいと思えても
そこに絶対完全の称号を与えないのが信仰です。
 
人間には神の視野はありません。
人間は不完全です。
しかし
人間には理路があり感受性があります。
人間は生きている限り学習し成長する生き物です。
 
不完全で罪深い人間には
学んだことを生かす能力があります。
 
そこで
完全で訂正不能の思想を持ってしまうと
学習したつもりになって
成長したつもりになって
実は
自己満悦だけを求めるようになります。
 
自分の不完全の自覚と
神という完全絶対者を仰ぐことで
祈りを通して告白と反省の機会を持つのが信仰です。
 
超常現象の奇跡
即ち、聖書にある歴史や奇跡の話、
これらを信じ込むのが信仰ではありません。
超常の奇跡は
元々人間を超えたものとして語られています。
 
神やキリストとの合一化は
人間の傲慢を表す反キリストの所業です。
罪と偽善だけを表す者と成ってはいけません。
それらは人間の滅びの見本になるだけです。
 
聖三位を讃美するだけの信仰は
わかってる、わかってる、わかってると
神に対して思い上がりを表しているのです。
 
信仰から
神に向かって
わかってる
知っている
守っている
と言うことは
信仰においてはあり得ません。
分からない
知らない
守れない人間を憐れむのが神だからです。
 
人間は
被害者であり
加害者であります。
プラスマイナスゼロということではなく
比較できることではなく
どうしようもないところから
信仰は生まれて成長してゆきます。
このようなあり方は
信仰以外では生まれてこないでしょう。
 
科学の一部の者が信仰を否定するのは
観察も実験も出来ないからです。
現象の再現性がないからです。
つまり
科学も
いかなる学問も
信仰を対象に出来ないからです。
 
無神教カルトがしばしば口にする台詞があります。
「神の存在を証明してみろ
 そうしたら信じてやる」
証明できるなら信じる必要はないのです。
 
信仰のことで
科学めいた話をする者を警戒してください。
自分が対象として理解できないことを否定するのは
神を対象としてしか考えられない者です。
大方、自己中心の人格です。
科学という学問の弁えすらない者です。
 
人は生まれて
必ず死ぬように造られています。
人間は永遠には耐えられないからです。
人間は
全知全能絶対完全永遠不変には
耐えられないのです。
これが分からない、あるいは、否定するのは
人間が分かっていない証拠です。
 
キリストは、
傷や病を負うた者
社会から低く見られている者など
思い上がりようのない人たちに
信仰の義を与え
救いを宣べ伝えました。
 
一方キリストは、
高ぶっている者
高い地位を自慢して
罪人を指して
あのようでないことを感謝する者
これら信仰の目的を自己正当化に
悪用するものたちです。
キリストは激しく批判しています。
 
豪語はもちろん
世辞や丁寧語で
信仰を否定する者を信じてはいけません。
信仰は命の問題であり
決して世辞や豪語では語れません。
 
信仰の動機も切っ掛けも知らない者が
知恵足らずのまま大人になって
神と信仰を否定してきます。
自分より上の存在を想う心がないからです。
彼らは慢心して笑っており
放屁して自分の臭さを知らない者たちです。
 
キリスト教会組織や人の口で
一方的な権威をもって侮辱された人は
その教会から離れてください。
 
神とキリストの教会は
また本当のキリスト者は
いかなる人も
脅威にならない限り
批判や侮辱はしません。
 
加害者の傲慢にも
被害者の卑屈にも
毒されずに生きる道があります。
 
 
※ この記事は、今後、修正加筆する必要があるかもしれません。
 
 
飾りのない道を

飾りのない道を
 
 
(2022年11月16日)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  地の塩
 
人をすなどろうとは思いませぬ
人をあやつるなどは以ての外
されど狭き小屋から眺むるに
物はあふれ
口から厠へ落ちるばかり
やがて商うことも
贖うこともできなくなりましょう
渇ききった
飢えたる魂のあるところ
何処の海を二つに分けて
何処の山へ
国へ
祭壇へ
導かれようというのでしょうか
荒れたる狭き庭を眺めては
地になりたし
塩になりたしと
思うこの頃
 
※ 塩は、味付けに欠かせないものとして、キリストの教えの中の譬えとして聖書に書いてあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 
 (マタイ5:13、新約聖書)
 
 
 
楽山の害毒メモ:抜粋
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省もしないし、責任も負わないくせに、長きにわたって、白々しく、まともに見せかけた記事やツイートで書き続けた楽山に、言論の自由はないと思います。嘘と詭弁で保身して、罪悪感がない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。関わらないでください。
 
 
 
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  不都合4
  
    (加筆修正再録です)
 
 
キリスト信仰の立場から書いてゆきます。不都合は、不幸、災難、悲劇と言ってもよいでしょう。
 
生きておれば、必ず、自分にとって不都合なことに出会います。それ自体を避けることはできません。その不都合を無視したり、敵視するなら、思いこみの自己正当化をする人にしかなれないでしょう。
 
不都合に出くわしたとき、いつも怒りと憎しみだけを生じるのはサイコパスの特徴です。不都合をいつも誰かのせいにする心性なら、他者への恨みと憎しみに生きる人生になるのでしょう。サイコパスには、悲しむ心、罪悪感、反省し学習し自らを修正する心、などが欠けています。
 
そういう欠けた人格を持つ人は、実に、いろいろなところにいると思います。
特に、ネットでは、それなりに企んだ策略をもって存在しているようです。
 
 
不都合に出くわしたとき
しんみりと悲しめる人は幸いだと思います。
とても大切な人間性を与えられている証拠です。
 
悲しみは、悲しむだけでなく、
涙や、うつ状態だけでなく、
不都合を自分の反省の機会にして
学習と成長の機会とすることが出来るからです。
 
もちろん不都合が全て自分のせいというわけではありません。
 
恨みや憎しみを持つこともあるでしょうし、
むしろそういう陰性の感情についても
意識して自覚しておくほうがいいと思います。
 
他人は、ときに、勝手な見なしを相手に当てはめている場合があります。その見なしから、物を言うことがあります。あんたが、オレの、何を知っているというのか・・と言いたくなるような場合があります。
 
その時、恨みに生きるよりも、そのような時にも、自分を失わず、他者に引きずられることもなく、自らを成長させて、対処する力を身につける機会を経て、身勝手ではなく、忍耐強くなることが出来るでしょう。それは、より深い人間性の理解でもあります。
 
 
もちろん、しょっちゅう、悲しんで、しょっちゅう、成長しましょう・・などと言うのは、言うだけで、既に、かなり疲れてしまいます。
 
決して招いていない悲しみですが、悲しみを克服したときには本当の喜びがあります。それを幸福と呼んでもいいと思っています。しかも、それによって、悲しみをもたらす不都合に対して、悲しみが訪れる前よりも、積極的な耐性が出来ているのです。
 
 
人間は不完全な存在ですから、遅かれ早かれ、大なり小なり、悲しみをもたらす不都合は、必ず訪れます。人間としての正常な感受性があればこそ、必ず訪れます。不可避な、不都合がもたらす悲しみは、人間の成長の機会です。
 
悲しみに沈むことは、あるいは、涙を流すことかもしれません。
涙が出るということは、発散および治癒過程ですから、むしろ幸いなことです。
 
 
涙が出ないような、呆然とするだけの悲しみは、病気にもなる可能性があり、長びけば命の危険すらあります。下手に働きかけるよりも、サポートして、専門家に相談するほうがよいと思います。その場合は、薬物や入院治療などが必要になる場合もあるでしょう。
 
 
悲しみは成長し強くなるのに便利だから利用しましょうとか、もっと悲しみましょうということではありません。悲しみが訪れることを総て避けることはできないが、訪れた悲しみを経て成長してゆくのが人間です。
 
そのためにも、カルトが宣伝するような、悲しみなど無いかのような異常気分を求めるのではなく、しんみりと悲しい気持ちによって、ときに涙とともに、内省し反省し、祈り願うことは、欲望よりも野心よりも、後悔よりも、深い広がりをもって、人生を眺めることが出来る人を育てるでしょう。
 
何故なら、そこにあるのは悲しみの克服であり、浮かれた上気や怒りではなく、一時的な陶酔でもなく、安易な辻褄合わせでもなく、敵意や恨みでもなく、欲望や野心の成就でもなく、立ち直りへの希望と努力に裏打ちされた肯定感であり、学習と成長に導く心の強さだからです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
 (マタイ5:3-5、新約聖書)
 
 
信仰者として言えることとしては、この教えの、悲しみの「さいわい」は、慰められるだろうという慰めだけではありません。それだけなら、誰でも言えるような、世辞の激励みたいになってしまいます。考える機会を与えられているということです。
 
悲しみという感情は、喜びよりも、はるかに正直であり、悲しみの感情には、嘘や飾りがなく、それゆえに、悲しみは、しんみりとして、沈んだ、言い換えると、静かになった感情から、赦し、癒し、慰め、導き、という信仰の賜物を受け入れやすい器を、人の心の中に造るということです。
 
 
怒りに刺激される憎しみは、人の心を、自己中心に、復讐に、秩序のない欲望に、誘います。
 
祈りと共に過ごす悲しみは、人の心を、静穏に、反省に、熟慮に、修復に、節操に、導きます。
 
聖書の教えは、一貫性をもって、つながっています。聖句の、心の貧しさ、悲しみ、慰め、柔和、受け継ぐ心、そして人生の最後へと、さらにつながるでしょう。
 
私は、分かっているわけではありません。
その時々に考えればよい、ということを知っているだけです。
 
帰るところがある、今は、そう受け取っています。
 
 
悲しんで 再生 そして 帰るところ

悲しんで再生、そして、帰るところ
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年11月10日、再録+加筆)
 
 
 
  退行昇天
 
狭く冷たく暗く長い
トンネルを抜けると
笑っているんだ
わけもなく笑っているんだ
もはや快も不快もなく
食う心配も寝る心配もなく
装うことも着ることもなく
それこそ素っぽんぽんで
機嫌のよい赤ん坊ほどの
痛覚さえなくなって
笑い続けるんだ
一日中いや永久(とわ)に永久に
笑い続けるんだろうけど
そういう天国なんて
恐らく永遠の鉄格子の中にあると思う
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
 
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 
  永遠の友
   (人間のための信仰)
 
人格は
人格を超えるものを
理解できない
 
人間の心を動かせるのは
あくまで人間が受け取れるものであって
人間を超えるものではない
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエス・キリストに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
こんな事を言う信者は初めて見た。
これをやられたら、非常識な信者をさらして「これがHSの典型的な信者ですよ。HSはこういう非常識な団体ですよー」と吹聴できなくなるというのはその通り。
非常識な信者がいても、それを注意する信者が大勢いれば、それは典型でなく一部例外にすぎないとなるので。
午後8:00 · 2021年10月18日
 
楽山は「非常識」な変質~偏執者ですよ・・ということを、私は書いてきました。非常識な楽山がいても、それを注意する常識人が大勢いないようなので、私が批判しています。楽山が他者に向かって発した言葉は、楽山に返ってゆきます。楽山のように自分の悪を自覚できない者は、そうなるのです。
 
楽山は、今までの、嘘と詭弁などのペテンの罪業ゆえに、誰かに何かを言う資格などありません。それくらいの病的疲労の災いをもたらす無反省と無責任の男です。楽山が何か言ってきたら、何言ってるの?、バカなの?、資格ないでしょ・・とでも言って終わりにしたほうがよいと思います。
 
楽山の意見を少しでも受け取って、議論でもするつもりになってしまうと、地獄が待っています。見苦しい言い逃れには、一部の事実の不都合をもって全体を否定する、などといった詭弁が含まれます。あとは、嘘、悪口、当てつけ、自身の不都合の無視・・などを繰り返してくるだけの楽山です。
 
楽山ほど、卑怯で、的を外して、平気で嘘を吐いて、結局、何の役にも立たない雑言を発信するだけで、人を言ったことなど完全に無視していられる厚顔無恥の卑怯者はいませんでした。楽山に出会って対話などを試みることは、いちばんの退行と不幸への、落とし穴であり、罠なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
コウさんの視野、情報網は、こちらが想像してたよりずっと広いようだ。その通り、いくら注意していても話は漏れますよ。
だから、サラディンさんの提案はあまり効果は見込めない。むしろHSは隠蔽体質、秘密主義だという批判を呼び込んでしまうことになるだろうと思います。
午後8:12 · 2021年10月18日
 
楽山は、いつも丁寧語で、良さそうに見せながら、真実について、曖昧であることをもって、責任逃れをしてきました。無責任と無視と無反省は、正常な成長を妨げ、変質させてゆきます。そうして、楽山は自己愛性人格障害の害悪を、何か言うたびに表すようになってきました。
 
楽山は、宗教や思想や信仰など真実について、平板な先入観や偏見を乱雑に並べるだけで、何も糧になるようなことが言えません。上から目線だけで、茶々を入れたり、嘘と詭弁でごまかしたり、いつも、評論家気取りで物を言い、責任を負うことだけはしません。とても卑怯で醜い人です。
 
楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDは、体質的なものですから、恐らく一生治らないのでしょう。バレてしまえば、あっちに行け・・と言われるだけの男です。"スルーする" などと言って、山と積まれた自身の問題点を、けろっと無視して、何事もなかったかのように、まともを装います。
 
肉体を破壊したり、金銭を奪ったりする犯罪者もいますけれど、一応、警察がいます。楽山は、精神と人格を破壊するエナジーバンパイアです。楽山に出会うこと、楽山と関わること、これこそが、人間世界における最大の、不都合、災難、悲劇、・・だと思っています。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄
 
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
楽山は「人間で在り続ける」ことを、拒み続けています。そして、人を消耗させて、ニヤニヤ笑いながら、優越感を味わうことが生き甲斐のようです。楽山の真顔と本音は、とても汚い虚偽の暗黒への誘導であります。
 
楽山のレスですが↓
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山が「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いないことを表しています。学習と成長のために、当たり前に、しなくてはならない反省を「難しいんだよなあ」「自分もそんな風です」と、ふつうみたいに言っています。これが詭弁の誘導です。実際、反省しない楽山は、学習せず、成長しません。
 
反省して正そうとしない、嘘ばかり重ねる、保身が悍ましい、魅力も能力もない、退くべき時を意識しない、思いつきだけで、考えが浅いのに、屁理屈をこねる、良心がない、人間性がない、それで、一人前を気取る、大事なことが分かっていないのは、「人間の性」ではなく、幼稚な非人間の性であります。
 
 
 
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