ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:信仰者

 
  信仰者と偽善者2
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。共感、感動、説得力を大切にして、事実から当為(「べき」の付くこと)を導く思考について。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、言い換えると共感~感動があるかということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたいという心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか結果とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。そして、私たちは、良いことをしようとして、したつもりで、効率の悪い見当ちがいなことをすることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書)
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を求めてゆく生き方になります。つまり、神を、具体的には体験と聖書を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、迫害が迫りつつある状況で、今ある命を喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。偽善者と親しくならないために、偽善者の情報を学習することも必要です。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、余裕があるような芝居をします。聖書の文字面を唱え、いつも白々しく讃美しており、それが信仰だと思い込み、吹聴します。そして、いつも、笑っています。批判されると、怒りと憎しみに走ります。しんみり悲しむという深い情緒がありません。
 
偽善者は、余裕ありげに、作り笑いを浮かべ、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません・・、つまり、中身よりも、うわべを装うことで、上から、高みから、下へ教えを垂れるように、新しくもないことを、だらだら言ってきます。
 
信仰があるから、いつも讃美する、さらに、いつも笑う、というのは、嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われることがある、ということに気づくべきであります。偽善者は、信仰ではなく、悟りの高い位置を自慢したいだけのペテン師なのです。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、讃美を勧め、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
(マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 
教えと体験

教えと体験
 
 
(2020年)
(2022年11月27日、再録+加筆)
 
 
 
  群衆の中に
 
たくさんの頭が見える
それぞれ上下に弾みながら
喧騒のはずなのに
音がしない
ときおり顔が半分
見えたり隠れたり
顔はそれぞれ違うのに
笑顔も泣き顔もない
その中に自分もいたような気がする
でも通勤ラッシュの経験はない
学生の頃か
何かの列
何かの群れ
思い出せない
これからの行く末の一齣(こま)を
垣間見たのかも知れない
 
 
  きぼう Ⅱ さびしさ
 
だれも しらない ところにある
なみの ない
つめたい いずみに
てを つけるような
さびしさ
 
なみだ が でないからといって
なみだが ないわけではない
 
あした の ない
ひとりの せかいから
あしたを
おもうほか
することのない
いま へ
わたされる
ひややかな
かぜ
 
あせ が でないからといって
あせが ないわけではない
 
きっと だれも
そして じぶんも しらない
ねがいが
かみしめた くちびるのうらがわで
そとへ でようと
あせっている
 
みのり が みえないからといって
みのりが ないわけでは ないのだと
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍(そば)にいる
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
仮面の裏で口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
不眠不休で残務に追われながら
燃える札束に轢(ひ)かれる人の、
死の床の痛みが撥(は)ねて繰り返す吃逆(きつぎゃく)の
不眠の過去を呪うしかない人の、
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
あなたはいつも傍にいる
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか、まるで
いつも一緒にいながら遂に
認め合うことのない者たちの一人
ででもあるかのように、しかし
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
殺されながら無視されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
引用ツイート
>>
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
11月23日
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。
(『聖書に見る人間の罪』)
<<
2022年11月23日
 
訂正不能に、繰り返し、言い張って、さらに、それらしく見せかける引用で、自己正当化するのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山であり、典型的に「自分のほうが正しい」と思い込んでいる病的ナルシストです。自分の欠点を他者に当てつける常習者です。
 
このような引用による空しい印象操作だけしてくる卑怯者が、楽山です。卑怯で、見苦しい異常人格であり、今まで、一度も、正当な批判も弁明も反論も出来たことがありません。なのに、引用という手段で当てつけてきます。良心も罪悪感もないので、反省も後悔もしないからです。
 
「自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく」・・執念深くリツイートまでしてくるのは、自分で言い訳できないからです。以前、書いてきたことは、全く的外れの、幼稚な主張の繰り返しと論理遊びに過ぎず、相手を疲れさせ退かせるためでした。決して関わらないでください。
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
>>引用ツイート
弁護士がネット公開した情報で噓をつくと思いますか?弁護士が嘘をつくはずがないと思うならこの記事の内容を信じてください。
<<このスレッドを表示
午後10:03 · 2022年11月13日
·Twitter Web App
 
以前から、私は、楽山のことをペテン師と呼んでいます。ペテン師には、罪を認めて償わない限り、ペテンをあげつらう資格はありません。しかも「わからん」ということだから、こういうのに本気はなく、オチャラケを言っているだけです。目くそ、鼻くそを笑う・・楽山です。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴
 
「自己愛性」と聞くと、なんとなく「自分大好き!」な人が浮かびませんか?周囲にいる自分大好きな人…自分の自慢話ばかり…人のことなんておかまいなし…ちょっと迷惑な存在ですよね。
 
けれど、自己愛性パーソナリティ障害は、「自分大好き」な人ではありません。反対に、「あるがままの自分を愛せない」人達です。自分を愛せないし、他人も上手く愛せません。自己愛性パーソナリティ障害は、愛情という感覚が働けなくなった状態とも言えるわけです。
 
自分の失敗や否を、絶対に認めようとはしない
他者の評価に対する過剰な反応
他者への愛情の欠落、思いやりの無さ
自分の問題への無自覚
 
自己愛性パーソナリティ障害の方との付き合い方
距離を保ち、相手の言葉に動揺しないようにしましょう。
困った時は、「相談」という形で病院に受診できることが多いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
聖書のパリサイ人、偽善者、サイコパス、精神病質、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、ペテン師、詭弁屋、読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、などを、楽山について書いてきました。笑いと怒りがあり、悲しみがない人です。
 
 
 
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  反面の偽善者3
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対してだけはは正直しか通用しない。
それだけでよいゆえに万人の救いとなる。
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ自分で体裁を整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しに包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
  反面の者
 
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
ああでもない、こうでもない、ていうか
それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
ずっと神聖に向かって
立小便をしている者たちだ。
真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
こうなってはいけない
というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
罪の門口に行って
やがて来たるものを待つためだろうか。
 
反面教師、即ち、悪い見本がいて、しきりに教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言う能力も資格もない。
 
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
滅びを自覚できない。
 
彼らは
自覚しないまま
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
信仰者は
信仰にとって破壊者となる偽善者に近づいてはいけない。
彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
偽善者を知ることは、ある意味、重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は、神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
信仰者は、神聖に対して、神聖の真理を知らなくても、救いの希望として、信じ仰ぎ祈るのです。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
偽善の色

偽善の色
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月31日、再録+加筆)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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