ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:凶暴

 
  騙されていた頃
 
 st問題資料集(1)初期コメント
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
ウイルスでしょうか。入力が、約10秒刻みで、フリーズと再開を繰り返しています。今回の記事は、楽山が批判されて裏切られたとでも思ったのか、昔の遣り取りを出してきました。時間は過ぎ去るのです。楽山のような男に、長続きする信頼関係など成り立ちません。
 
私が楽山に騙されていました。恥を晒しておきます。社交の世辞に騙され、数か月、楽山を信用していた時期があります。その分、本性を知ったときには、今まで知らなかった罪悪感のない無反省の楽山には驚き呆れました。こんな種類の人間がいるのかという驚きとともに、決意を新たにしました。
 
人間は学習するのです。ゆえに、昔はこんなに愛されていたのに・・などという思い出話は、楽山の愚痴に過ぎません。本性を知れば、とんでもない人だったということです。楽山は、人間は不変と思っているのでしょうか。成長のない楽山が明らかになります。
 
もし私が書けなくなったら、楽山のことを、それぞれのサーバーに報告してください。楽山は、手段を選ばないようです。
 
 
*初期
st問題に関連したコメントを整理してみました。
まずは、st氏が当ブログに来訪し始めた頃のコメントから。
*例一
以下は、「★カルト体験 (新興宗教を信じたら、心の冷たい人間になってしまったという話)」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月03日 11:56
この体験とご意見は敷衍するべきだろうと思いますが、転載させていただいてはいけないでしょうか。ブログ記事設定で転載可としていただくとうれしいのですが。
2. 楽山 (自由)2018年08月03日 20:26
転載OKです。転載可にしときました!
3. st5402jp2018年08月05日 03:10
自由さん
転載させていただきました。感謝いたします。拝。
4. 楽山 (自由)2018年08月05日 14:57
確認してきました。拙文を転載してくださり、こちらこそ感謝してます。ありがとうございます!
 
つまり、こういうことを書いてくるのは、楽山が未練がましい人だということです。それは、議論とは何の関係もありません。ここに表れているのは、楽山が、交流とか議論というものを理解していないということです。真実を求める意志がなく、愛されることを求める未熟者だということです。
 
議論の中身は、議論の経過によって変わってくるという常識が、楽山にだけはないのです。これこそ、楽山が、異次元的な見当違いの男だという証拠です。人間として成長不全なのです。丁寧語で、いつまでも、ごまかせる、騙せるものではないのです。即ち、楽山は言論者ではありません。
 
 
*例二
これは、「【st自由同一人物説!?】「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月18日 16:55
記事本文とリンク先を読ませていただきました。分析力に感心します。全部把握しているかと言えば分からないけど、読みごたえはありました。私は、信仰者でもあり、また性格的にも、かっとしやすいところがあって、反省しない人にならないように気を付けたいと思います。ありがとうございます。拝。
2. 楽山 (自由)2018年08月19日 06:37
コメントありがとうございます。
前によく議論していた某団体の信者らに対して、この種のこまごました記事を書くと、「屁理屈言うな」「もっともらしいことを言っても騙されないぞ」「粘着するな」と酷評されることが多かったので、褒めてもらえるとうれしいです。
私もけっこう短気なので、そこは注意したいと思います。
 
楽山は、短気ではなく、粘着性の嘘吐きです。社交の世辞以外は、何も持っていません。その異常な精神で、人を騙して、操ろうとしてきます。精神の詐欺師です。粘着する人格異常者です。ゆえに、昔のことを持ち出して、言い訳になると思うのでしょう。
 
 
*例三
こちらは、「アブラハムと信仰義認 (アブラハムは義人と認められたのか?)」でのやりとりです
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
2. st5402jp2018年08月31日 04:43
アブラハムが、間違いを犯さない完全な義人ということになると、息子を殺すことも正しい、ということになりますが、神は殺そうとしたのを止めたわけですから、そのときの神の気持ちは軽々に分かると言ってはいけないならば、人間である自分が分かってないんだということで保留にするしかないのです。カルトは、誰にでも偉そうに語ろうとして、分かったことにしないと気が済まないようです。
 
楽山は、神の正しさを理解できないのではなく、神を知らず、神を、信仰を、奇跡を起こさないからという理由で否定してくる極めて幼稚な反キリスト・反信仰です。楽山は、希望を持ち得ない自分信仰者に過ぎず、深い思慮も分別も共感性も常識も持っておらず、荒らして快感を得る慮外者です。
 
 
3. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:00
コメントありがとうございます。
でもこの記事は、みなさんの議論を読んだ後に書いたもので、もろに、後出しじゃんけんになってます。ですから、もしこの記事によいところがあったなら、それはみなさんの議論が良かったというですよ。
4. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:01
おっしゃる通り、あちらの方は、分からないと言うことに抵抗があるみたいですね。
私が、とあるクリスチャンから「聖書は四十年、勉強してきたけど、まだ全然分からない」という話を聞いたというのに対して、そんなことは極々、内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ、分からないものを人に勧めることはできないから、それを言ったら伝道できなくなる云々と批判されてたと思うので。
5. st5402jp2018年09月02日 03:49
自由さん
>>内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ
>>分からないものを人に勧めることはできない
正直でないなら真実でもないし、何だか、企業戦略の話みたいで、おかしいですよね。
 
「外部に言わない」とは、気づかれないように騙してくる楽山の、保身と秘密の精神なのでしょう。「分からないものを人に進めることはできない」というのは、宗教も神も分からないなら否定するという楽山の自己愛~教祖気取りなのでしょう。実に、楽山は何も分かっていません。
 
 
6. 楽山 (自由)2018年09月02日 08:38
そこはすごく違和感ありましたね。どうも、分からないということに対して、自分とはちがう受け止め方をしてることは確かっぽい。
ちなみに自分の受け止め方はこんな感じですね。
「聖書は分からない ⇒ 聖書はとても奥深くて、そう簡単に『分かった』なんて言えない」
「神の心は分からない ⇒ 神は偉大であり、はかり知れない存在である。どのような賢者であっても、その心を忖度することさえかなわない」
「宗教的体験から、聖書の一節、神の心の一端を『分かった』と実感することはありえるし、これは尊いことではあるが、聖書全体、神のすべてを『分かった』とするのは危ない…」
7. st5402jp2018年09月03日 03:06
自由さん
ほぼ同意します。
聖書の一説については、あるとき分かったということはありますが、一生を通じて正しいか、神の前に正しいかは、やはり分からない。私の知っている世界と人生は、そのごく一部だ、という弁えを敬虔と呼んでいます。しかし、そのときの気持ちとして、大事にはします。
8. st5402jp2018年09月03日 03:08
大事にしているから、まあ、記事に書いたりもします。後日、間違いに気づいたり、それ以上に大事な理解が与えられたら、修正するのが成長だと思っています。
 
分からないと、楽山は言いながら、キリスト教の神を、何度も否定してくる反キリスト・反宗教です。つまり、混乱させて、退かせるという楽山のやり方が始まるのです。実際は、神もキリストも聖書も、曲解して妄想を伝染する偽善者です。
 
 
9. 楽山 (自由)2018年09月04日 19:19
stさんのコメントを読んで、なんとなしに、仏教の筏の譬えを思い出しました。
ある男は、川を渡れずに難儀していたが、筏を使うことで無事に向こう岸につくことができた。
でも、このときに、いくら筏が役に立ったからといって、この後もずっと担いでいこうとするのはおかしなことであって、川を渡り終えた後は、筏はその場に置いてゆくべきであるという話。
これは、仏法(筏)にさえも、執着してはいけないということらしい。
分かったという気付きについても、これと同じことが言えるかもしれないと思います。
 
教訓を垂れたい楽山です。こういう説教好きなところに教祖願望が表れてきます。その実質は、ただのペテン師であり、知識にも思考にも感性にも捨てられてきた排泄物に過ぎません。柔和や中庸など持っておらず、自己顕示欲を満たして悦に入る悪意のネット浮浪者なのです。
 
 
お山のペテン師 陰険 陰険 陰険

お山のペテン師 陰険 陰険 陰険
 
 
(2023年01月11日)
 
 
 
 まだ終わってなかった(アマミ氏と遠江氏)
 2023年01月10日 幸福の科学とは何だろう?by 
  を批判。
 
 
*思ったこと
この手のやり取りを見ていると、議論になっているテーマについて意見をいうよりも、相手の心を悪く想像した上で、その人格を否定し、その意見を無効化しようする人が案外に多い。こういうのは傍から見ていても気分が良いものではない。
 
もはや犯罪者の楽山は、自分を表していることに、恐らく、一生気づかないのでしょう。楽山こそ、ただの自己愛ではなく、サイコパスであり、心がないために、他者の心を傷つけて、他者の意見を無視してゆく人です。最近では、今、最悪の状態にあると思います。
 
 
人の振り見て我が振り直せというし、自分も気をつけるようにしよう。
 
人の振りを見ず、我が振りを直さない楽山です。恐らく、今後、殺すか殺されるかの事態を招くのではないかと危惧しています。実に恐ろしい男です。私が出会った中で最低の男です。人間とは思えません。決して関わらないでください。楽山の日が早く落ちますように。
 
 
 
  満たされよ
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
 
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
 
それが邪悪の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
 
うちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と心に語りかけよ
 
力が抜けて
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
ゆるやかに へりくだり へりくだり
神のふところに消滅せよ
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、ただの荒らしではなく、もっと凶悪な人物のようです。自己愛性パーソナリティ障害NPDというより、反社会性が強いようで、サイコパス(精神病質psychopath、反社会性パーソナリティ障害)で前科もあるのではないかと思います。決して近づかないでください。
 
 
 
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  凶暴な詭弁3
 
 『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』定方晟著
 憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 楽山日記(LD) 2020年04月12日 (再録+)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、獣性を抑制できなくなってきています。"聖なる憎悪"というのを肯定しているようです。神の怒りがどうであるかは、神に任されることです。私たちは、ただ、できることをしている姿を、神に捧げて、神の前でだけは正直に、祈るだけです。それが信仰だと思います。
 
 
タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。
 
これを、わざわざ書くというのは、強調でしょう。ようやくこの記事において、キリスト教への憎悪からの批判が楽山の本質であり本音であることが表れています。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の本性がむき出しになっているのです。
 
すなわち、今までの丁寧語やボンヤリ言語は、総て、作為の、うわべだけの、騙しの、刷り込みの、嘘っぱちであることを、楽山本人が認めたことになります。つまり、この記事によって、悪と敵意のモードに入っています。
 
今まで、反省という言葉は使っても、前後関係で反省が表れたことが一度もなく、一途にキリスト教とキリスト信仰を、子供だましの、実に軽く幼稚な筆致をもって、おとしめようとする意図だということを、楽山が表しているのです。それで、公共の場でも通用すると思っているのです。
 
このように、自己正当化の、訂正不能の、さらに、上から目線の、学者という他者の名による無責任筆致が、今まで、何の説得力も持たなかったのは、ナルシスト~サイコパスの、なんでも人のせいにするという、罪悪感と羞恥心の欠如、言い換えれば、良心の欠如によるのです。
 
 
自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。
 
先ず、この記事は、さらに、この楽山ブログの宗教に関する記事は、楽山の、キリスト教への憎悪から、書かれていること。さらに他者の口を利用して、キリスト教を悪者にしようという意図が、今回は、はっきり表れています。
 
楽山自身の、嘘、偽り、詭弁、刷り込み、などについて、何の反省もしないで、楽山は、不遇だったから、そして、批判されたから、憎悪し、他者の口を借りて批判してくる、無根拠に貶(おとし)めてくる、という、この事実から、自己中という不都合を総て人のせいにする等々。
 
今まで私が書いてきたことが実現しているわけです。楽山はホラーです。楽山は、キリスト者から批判されて、おのれを振り返る反省も節操もなく、私のせいにし、神のせいにし、また、キリスト教のせいにし、しかも今までのように詭弁を手段としてボンヤリ言語で書いてきました。
 
そして、ごまかすことをやめたのか、と思ったら、このあと、また、理路にならない理屈を、引用元についても述べて、既に、助けを借りている引用元をなじり、結局、中立で正しいのは自分だけ、ということを出してくる卑怯さなのです。
 
敵と味方であろうとなかろうと、いちばん嫌で、いちばん関わりたくなく、いちばん、どんなに批判しても足りないと思うのは、"卑怯者"であります。楽山というナルシストが、いかに、悪意に満ちているか、そして、いかに、自分を飾らないではおれないか、ということが表れています。
 
 
自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。
 
楽山は、キリスト教を、映画の復讐劇で語ろうとしています。復讐は神に任せよ、とは言われていますが、それは、神の裁きに任せよ、ということを言っているのです。神の名によって復讐するのは、信仰でも宗教でもありません。
 
まるで、人情の、刃傷の、殺し合いの、かたき討ちのような、憎悪vs憎悪に、神聖の裁きを持ち出した時点で、楽山は、アウトなのです。このように、楽山が、いかに、神を、自分より劣った人格のように見ているか、という証拠で在り、悪魔性なのです。
 
全知全能、完全絶対、永遠不変、という神を、人間には不可知という想定では気が済まず、楽山は、自分の、甚だ、みすぼらしい人間無理解と宗教曲解を、神に当てはめてくるのですから、キリスト者としては、たまったものではありません。
 
楽山は、神を手のひらに置きたがるほどの、思い上がりと欲望の人、なのに、思考の貧困者なのです。勘違いを、勘違いであげつらい、勘違いと気づかず、満悦して、人の言うことを聞かないものだから、さらに、勘違いで勘違いを深く深く、直腸指診のように、臭く掘ってゆくのでしょう。
 
 
邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。
 
忠臣蔵をあげてきました。忠臣蔵は、たくさんの映画とドラマになっていますが、復讐を美化するだけでしょうか。復讐劇は、現代劇もありますし、多くの復讐劇は、そこに考えるべき人間の課題を提供しているのであります。
 
しかし、ヒーロー気取りで、そういう広い視野を持たない楽山は、人間が考えるべき課題を、卑しい反宗教のための食材にしているだけで、まるで考えていません。アドラー教に従ったつもりで、自分の課題ではないと思っているのでしょうか。
 
 
でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。
 
楽山には、敵に向かって「地獄に落ちろ」というのは、ただの暴言でしょうか。復讐を果たさないとしても、人間は、公の裁きが十分に働かない場合には、敵に対する怒りと憎しみが増大するということに、それは正しくないと言うだけの評価をして、満悦するのです。
 
このように、単純な道徳であっさり否定して、何の共感も表現せず、言い得たと思う楽山なのです。深い意味を考えず、深い情感を感じない、こういうのを、一面的思考というのでしょう。しかも、それを、宗教と神に当てはめるのだから、楽山の理解は、単純すぎて拙劣すぎて、恐怖なのです。
 
 
もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。
 
だまされないでください。責任逃れに「冗談なのか、本気なのか判然としない」と書いていながら、「当然ではあるだろう」と結論している楽山です。楽山は、こういう汚い書き方をします。楽山の悪意の闇は、こういうところから明らかになってきました。

ユダが敬虔で従順であったということが聖書に書いてあるのでしょうか。書いてあるなら引用するべきでしょう。既に、楽山が、聖書を、まるで読み取っていないことが明らかになっています。
 
またしても、知恵の足りない、勉強も足りない、そのくせ思い上がる楽山は、ユダを英雄化したいようです。ユダが、金にこだわる男であったことは聖書に書いてあるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 
12:4-5
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 
12:6
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 (ヨハネ書12:3-6、新約聖書)
 
楽山が「神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然」と書いています。反キリストの本性を隠さなくなったということです。楽山は、ユダが大好きな、キリスト教に対する破壊者であるという私の判断が証明されています。
 
ユダについて、同情できるのは、ただ一点、キリストを売って死に至らしめたことを、後悔していることです。ここが、いわば、性格としては、ユダと楽山の違いです。ユダは後悔する人、楽山は、他者を無視して、後悔しない人。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切った後、悔いて、自殺しました。楽山は、ユダを利用して、キリストを、今殺しているようなものです。宗教に関しての楽山の殺意は、ユダに勝るとも劣らない悪魔性に貫かれているようです。楽山のこの記事を見ていると、ユダがかわいそうに思えてきます。
 
 
ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。
 
聖書を逆説的に解釈する、というのは、ゆくゆく参考になるかもしれない一つの解釈のあり方です。しかし、楽山は、悪意で受け取り、キリスト教を侮辱しているに過ぎません。何の成長も期待できない人格のむごたらしさを、楽山が体現しています。
 
そして、キリスト教が仏教レベルに近づいてきたかのよう・・と言っています。楽山の破壊された理路において、キリスト教も仏教も、同じ尺度で単純に測れると思っている時点で、アウトです。楽山は、結局、自分を高めたいだけの男ですから、仏教の方々も、気をつけたほうがよいと思います。
 
楽山のお気楽宗教品評会は、総ての、真面目な宗教人の敵です。何も分からないくせに、鼻ヒクヒク高々に得意がって見栄を張ってきただけの自己愛性人格障害者です。
 
どうか、楽山という、この果てしない自己絶対化の、ごまかし詐欺師と、このハンドルネームを忘れないでください。最後まで実名が分からないことに、楽山はしがみつくでしょうから。
 
 
次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。
 
何でも、単方向にしか考えられず、今度は、仏教をおとしめています。結局、自分が、いちばん柔和で中立だという教祖願望の表れです。とても、醜く卑怯なインチキ教祖になるでしょう。どこまでも腐った根性だけが噴き出してくる楽山です。
 
褒めた後で、仏教を理想化しすぎ、と言っています。楽山は、自分はバランスが取れていて、偏りがない、と思われたいのです。褒めたり、批判したりが、同居しているのが、楽山です。つまり、こういう人の主張は、信頼するに値しないということです。
 
こういう筆致は、暫定的な結論さえ出せない、つまり、まとまった主張を持たない、という経過になってきたのでしょう。いい加減さが目立ってきて相手にされない者が、自分だけ、通ると思っているナルシストの誇大妄想の偽りがここにあります。
 
反キリストのシャロームが、身勝手信じ込みの醜い妄想的確信によって、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、人だけがするべき悔い改めを、神が与えたらする、と言って悔い改めないのを、楽山は、無条件で支持しています。
 
シャロームと楽山は、ともに凶暴な、反キリスト、反宗教です。なお、キリスト教系カルトというのは、キリスト教を曲解して出来ています。同じように、仏教系カルトは、仏教の曲解か悪用なのでしょう。両方とも、理解できないばかりでなく、反省もせずに、曲解して、否定しているのが楽山です。
 
宗教とカルト、両者は全然違うのですが、楽山は、カルトの問題があることを、仏教が平和的でないことの根拠の一つとしているところ、見逃さないでください。勝手に決めて、表面的で、ゴシップ的で、一方、本質に入ることなく、万事、いい加減な、怠慢な、詭弁屋の、楽山です。
 
 
でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。
 
正当に反している典型が、凶暴なナルシスト、それこそ、楽山なのです。決して、気を許してはいけません。誰にとっても、出会うことが、そのまま、不幸としか言いようのない男です。楽山に同調することは、田舎の香水(肥溜め)に浸かるようなものです。偽善者のサイコパス、楽山、論外の大嘘です。
 
 
著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。
 
ここでも、分かるように、楽山は、まるで、自分を中立の高みに置いて批評する気分で書くのです。引用しておきながら、「説得力を欠」いて「ヘイトに傾いている」「残念」などと、中立を装います。だから、神をも恐れず、自分を高めて、堕ちてゆく落差を自分で作ってゆくのです。
 
いちばん「説得力を欠」いているのは、詭弁屋の楽山です。ベースには、人間と社会へのヘイト、即ち、憎しみと怨念があると思います。誰の役にも立たず、無機能、かつ、有害な、インテリ気取りです。
 
実際には、このことから、自分の言い分の根拠にした後は用はない、とでも言うような、他者を使い捨てと見ている楽山の自己中と底知れない悪意の魂胆が見え隠れしているわけです。
 
楽山は、自分だけは、キリスト教よりも、仏教よりも、中立だから出来がよいとでも言いたげな、自慢と慢心があることを見逃さないでください。楽山は、中立ではなく、どこにも、よって立つ所がない人なのです。楽山ブログは、自慰行為に過ぎません。
 
そして、このような魂胆を見るたびに、私は、楽山に対して、一片の同情の余地もない病質者であることを再確認するという経過となっています。
 
自己修正不能の楽山とシャロームが反面教師として残す教訓は、人間が自分を絶対化すると、このような思慮と情緒の人格破壊が進むということです。ここが、自己愛性人格障害という病と、単純に自慢したがる性格特徴だけの人との、決定的な違いです。言うまでもなく、楽山は前者です。
 
楽山とシャロームについては、同一人物の成りすましも、疑うべきかもしれません。
 
単純に自慢好きなだけの人というのは、自慢するけれど、自分のせいで大きなトラブルが起きたりすると、打って変わって、驚いて、慌てて反省もするでしょう。それと楽山は全然違います。
 
そういう、がっかりして、後悔して、反省して、というのが、全くないのが自己愛性人格障害です。そして、彼らは、柔和を装います。うわべの丁寧語を真に受けないでください。
 
ひどくなれば、人を傷つけ、殺しても、罪悪感が湧かず、むしろ、笑っていられる人格です。犯罪行為に及べば、警察の仕事になります。それ以前に、できることは、批判だけなのです。
 
言論の義務としての双方向を守らない者に、言論の権利はありません。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、ケダモノ根性の荒らしです。したがって、楽山には、言論の権利も自由もありません。楽山は、そういう乱暴者として既に資料になっています。それだけです。
 
 
凶暴な偽善者

凶暴な偽善者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月19日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像イズム
 
イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは
 
主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
 
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている
 
思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない
 
信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である
 
本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるような
イデオロギーでも教条ではない
 
多くの宗教人が信仰の名の下に
そして間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている
 
 
弟子たちは
ゆくゆく誰が一番偉くなるか
などと議論していたらしいが
 
主は人の罪を贖うために
その生涯の結末もご存知であった
 
総て承知の上で
地上に来られたのである
 
罪深い人間を救うために
精神と肉体と命の全てを捧げるために
人間に最高の共感を表すために
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:38-39、新約聖書)
 
そして、私たちは、次のような有り様なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 
 (マタイ26:40、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
 (マタイ13:14、新約聖書)
 
そして、次のような罪を犯しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
新共同訳において「女」を「人の妻」と書き換えました。この罪は偽善であります。
 
神レベルの教えであり、人が守れない不完全からの罪深さ、つまり、既に、あなたがたは罪人なのだ・・という原罪の自覚からの神への恐れと信仰の義という不可欠なテーマを表しています。それを、不倫はいけないですよね・・という言い古された安い道徳におとしめてしまった軽薄な誤訳であります。
 
 
 
神を恐れず、虐殺の果てに、なお、反省せず、改めず、正義めいた嘘を吐き続けている偽善の指導者、また、それを支持している偽善の宗教指導者が、露者にもいるようです。あれだけ殺しておきながら、政治信条?とか語れるのは、罪悪感の欠如であり、到底、人間とは思えません。
 
 ※ 
 ロシアは、ウラジミルВладимир・プーチン、ウクライナは、ウォロディミル/ウラジーミルВолодимир/Влади мир・ゼレンスキーで、名前のほう、ほぼ?同じみたいで、以前の記事で、裏地見る・・と皮肉ったのは、プーチンのほうでしたが、不適切でした。失礼いたしました。
 
被害者にお構いなく、加害者が、自己正当化の妄想と詭弁と嘘を言い続けている有り様は、楽山と、とても似ています。もはや、人間とも信仰者とも思えない人々が、さらなる災いを及ぼして、人間の最も醜いさまを表しています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
聖書が教える義の欠片も、理解せず、守ったこともなく、正しい解釈への思考をすべて捨て去って、だましと嫌がらせに人生の大部分を費やしてきた楽山は、人であり続けることが出来ず、ダークサイドに堕ちて、白々しい嘘で自分を飾り、物を言えば悪臭に塗れている自分を表してゆきます。
 
 
 
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