ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の病質3
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる興味本位の性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのでしょうか。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、責任を負わなくてよいのではなくて、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこでどうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない楽山という病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
内村鑑三不敬事件(ウィキペディア)

 
 
この3年あまりで、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。悪口を言う自分に都合のよいところだけを受け取って満悦するのです。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
聖書を読むときに、多くの人が犯す過ちは、超常の奇跡を受け取って、大事なことを見逃していることです。信仰=奇跡を信じること・・というのは間違いです。いちばん大事なことは、キリストが、どういう人に共感して救いを宣べ伝えたか、どういう人を厳しく批判したかということです。
 
 
キリストは、病人、弱い人、誇れるものを何も持っていない自覚のある人、余計な先入観のない心貧しい人、を救いの対象としました。一方、傲慢で、自分を正しい人と見なして、そうでない人を見下し、優越感に生きている者たちを、キリストは敵としました。その批判は、とても辛辣です。
 
後者は楽山のような人です。丁寧語で書いて、学者気取り、人格者気取り、バランスの取れた人物気取り、等々。実際は、誰よりも偏狭で訂正不能の偏見に生きています。コメントの遣り取りをしても、こちらの意見に対して雑言しか返せず、徒労に終わります。
 
自分の非を認めないのに楽山が議論したがるのは詭弁でやり込めたいからです。勝ち気分だけに生きているようで誰とも共感することはないと思います。「反省」「共感」など言葉だけ書いてきますが、文脈や前後関係に、実質として表れたことはなく、楽山と議論すると徒労と疲労だけが返ってきます。経験済みです。
 
 
冷たい暗闇から怨念を燃やす者

冷たい暗闇から怨念を燃やす者
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月25日、再録+加筆)
 
 
 
※ (2020年12月、2021年2022年12月、再録+))
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、3年以上経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。老後がやせる・・。
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意を込めて
答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
  記憶よ
 
わが身の出生の記憶
わが身の死没の記憶
生きとし生けるものの死の記憶
を持ち得ぬまま
宇宙と時空の中で
限りなく無に近く
あまりにも微小で
あまりにも玉響(たまゆら)に過ぎる
生存の揺らぎ
わずかに残る生と死の記憶よ
空色のように儚(はかな)い形
奥行き
深み
体のない
肉親の死は
記憶となり得ているか
 
(※ 父は死にましたが、母は、まだ生きています。腰を傷めて、介護付き老人ホームにいます。来年100歳になります。役所から、賞状と記念品、もらいました。)
 
(ネットより)
たまゆら(玉響)は、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」(瞬間)、あるいは「かすか」を意味する古語。ただし『日葡辞書』には「草などに露の置く様」とある。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
遅れましたが、集団が苦手なので教会にも行かず、ツリーもケーキもパーティーもなく、メリークリスマス・・です。古い暦では、夕方に日付が変わるそうで、12月24日夕方からクリスマスです。クリスマス・イブは、前夜祭ではなく、クリスマスの夜、ということだそうです。
 
(ネットより)
クリスマス・イヴ(英: Christmas Eve)、クリスマス・イブは、「クリスマスの夜」である。教会暦における12月25日の夜、すなわち常用時における12月24日の夜、(ユリウス暦では1月6日の夜) を指す英語の音訳である。日本では、誤って「クリスマス(12月25日)の前夜」と認識されることが多い。
クリスマス・イヴ(ウィキペディア)
 
 
 
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  楽山の怖さ3
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 (画像省略)
   を改めて批判。
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような、また、逆に、気づかない水漏れのような、あるいは放射能汚染のような、見分けにくい潜熱の勢いがあります。
 
批判されにくいように文章を画像で示したりもしますが、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。説明やコピペを面倒くさがる怠け者の安易な印象操作という詭弁の手段です。
 
今回は特に、楽山が他者を批判するとき、その批判が、楽山に返ってくるというブーメラン現象が顕著です。楽山は、病識のない体質的精神障害なので、気にせずにいられるのでしょう。実に、感情、情緒、感性などの面が、楽山には欠如しています。さらに、知性も、学習しないことの災いが顕著です。
 
今までのことから、楽山には読書障害があるようです。ウィキペを調べる様子もなく、説明をすることがないまま書いて公表し、批判に答える意志がありません。こういう人は、アドバイザーの監視下で意見発表する権利はありますが、自分で書いて自己責任で発表する資格はないと思います。
 
 
*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)
傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
 」
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。
 
楽山の自我の壁は、厚かましく、高慢で、固着して訂正不能です。楽山は、今まで、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」しました。提言者としても批判者としても失格です。この一点において既に問題外なのに、楽山は、なおも、正義の味方気取りで、書き続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、詭弁も嘘も壁も、カルトより怖いのかもしれません。怖い顔を表に出さず、うちに燃やし続ける強迫性の恐怖であります。
 
他者を批判すれば、同じ理由で自分が批判されることはないと思っているのでしょうか。実際は逆で、楽山が他者を批判すれば、いちいち、自分はどうなんだ、という問いが、楽山に向かってゆきます。つまり、楽山が、その因業によって、自らへの批判を強化してゆくのです。
 
 
*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエス、トルストイ、ジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。
 
信仰者が、その信仰によって、宗教や思想を考えるのは普通でしょう。楽山は何を言っているのでしょう。楽山には、元々、信仰など無いのは明らかですが、にもかかわらず、信仰や宗教の文句ばかり言ってきます。信じないのは楽山の自由ですが、分かったつもりで語ることは、とても迷惑です。
 
楽山は、自分に「反するものは受け付けない」し、成長しない自分の「枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶する」のです。どうして、他者のことばかり平気で言えるのでしょう。やはり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状と思うしかありません。
 
知識人のつもりの自己中心に凝り固まっている楽山は、固着した不感不応の壁によって、社交の世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように無視しながら、同じことを繰り返し書いてきます。恥を知る人間には出来ないことです。
 
楽山の知性の枠は、恐ろしく子供じみていて、狭いオモチャ箱です。できないことを、できているふうを装います。何を言われても、何も受け取らずに、なお、同じようなことを繰り返します。柔和を装いながら、狭い妄想の箱の中で、不都合を、ことごとく無視しているのです。
 
 
「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。
 
楽山は、アンチではない、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、未熟から変質へと進行して、罪悪感も羞恥心もないサイコパスであり、自分は他者を批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、弁明も反論もできないのです。
 
 
・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
・高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
・大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、反省せず成長しないまま、"いつか分かる日" を勝手にイメージして、他者を低く見て、心で笑っています。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。楽山にあるのは、恐らく、教祖願望だと思います。
 
 
*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。
 
このように、楽山は、聖書までも、神までも、短絡した解釈で、一面的にしか見れない人です。楽山は、自己愛のために、感受性が無いにもかかわらず、外から眺めて、浅薄な先入観だけで、あれこれ言ってくる厚かましさだけは持っているのです。こういう症状は実に迷惑です。
 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。なのに、楽山は、神という超常を、分かっているかのように机上で玩んで汚すほどに、厚顔無恥です。
 
召命などの神の導きは、神秘であり、希望することは出来ても、あったなかったを、人が決めつけることは出来ません。人は、聖書と体験から、信仰を学習し、自分で判断し、できることをして、正直に祈るのです。そういう体験と学習経過の成り立たない楽山は、信仰から、最も遠い人です。
 
そこを自覚しない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場を弁えずに扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 
 
*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。
 
楽山からの聖書や宗教についてのアドバイスは、一切、無視してください。楽山は、何も分かっていません。ただ、病質によって分かったことにしてしまうのです。さらに悪いことに、その高慢から、人にあれこれを勧めてきます。小学生並みの知識と思考で、勧められてはたまりません。
 
神の怒りは、今の、特に、日本人には、理解できないものもあると思います。それは、信仰者も分かっているわけではないのです。それ以上の共感と愛を聖書から受け取った人がキリスト者(クリスチャン)になるのです。楽山は、無知で無恥で、愛も共感もないものだから、神の悪口を言うだけです。
 
理解できないことは、保留すればよいのであって、聖書に書いてあるから、人殺しの神だと決めつけるのは、楽山のように、書いてあることを、全部、分かったことにしないと気が済まず、短絡して、神を否定するのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だからです。
 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。楽山は聖書を、まともに読んでいないと思います。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。アブラハムが、神によって、神を恐れているかどうかを試された話です。
 
 
(創世記、口語訳)
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 
22:12
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 
(創世22:11-12、旧約聖書)
 
 
神は、理由なく殺すことはありません。神の御心は、私たち人間には、分からないことがあると思うしかないこともあります。何らかの試練を与えた可能性がありますが、歴史の絡んでいる話については、ユダヤ教の民族主義や風習が絡んでくるので、私は解釈を保留することが多いです。
 
楽山は、理由なく、根拠もなく、キリスト者のキリスト信仰を殺したいようです。心に共感性がないために、理解力がないことを、神のせいにして、いちゃもんを言っています。こういう人に、つかまってしまうと、本当に、楽山と同じように、共感性を失うかもしれません。
 
楽山は、自己愛の病理によって、保留ということが分かりません。人間には分からないことがあるということさえ理解できません。だから、空しく神の辻褄を追って、短絡したまま語るのです。楽山は、無知と無恥によって、神も人も決めつけるので、共感も信頼も生まれない反キリストです。
 
神が、人に与えた尊いものの一つには、良心というものがあります。愛も、愛による戒めも、全て、そこにあります。愛も共感もない楽山が、物を扱うような実験か悪戯の病質で信仰を試そうとするのは、悪魔性の企みに他なりません。
 
人間離れしていない正常な信仰者は、人殺しを悪としか思えないので、殺せと命じられても、私を殺してくださいと、神に祈る場合もあるかもしれません。そういう心が、自己愛だけの楽山には、分からないのです。良心を捨てた楽山の悪意ある臭い詭弁の設定ですから何の意味もありません。
 
それ以上に、神が人を殺せと言ったら殺すか、などという問い詰めは、様々に考えるべき状況を無視した極めて乱暴に短絡した前提であり、神の愛と祝福を、自己愛のために受けることの出来なくなった楽山のような、良心のない者の、妬みからの嫌がらせに過ぎないのです。
 
 
HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。
 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。こういうところから、楽山が、神と悪魔の、どちら側にいるのかということを推測することは出来ます。楽山は、整えることをしない宗教の破壊者です。
 
 
*カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。
諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。 
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。
 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで神髄を知ったかのように気楽に記事に載せるという振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。自らの無知を弁えず、神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 
「自己責任を基本とする」のは、大方、言論でも同じですが、楽山は、指摘された責任を負うたことがありません。そういうとき、楽山が、相手を無視して、返してくるのは、執拗に自説を繰り返す気持ち悪さだけです。楽山は、客観的な視野の共有が、全くできない人です。貶めるだけで理解しないのです。
 
 
*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、
 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。しかし、完全に正しく守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」キリスト教文学の小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であるだけでなく、失格といってもいいでしょう。知ってるつもりだけのピエロです。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、無知と無恥をさらし、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。楽山にとって、けがさない尊い存在は、自分だけなのでしょう。こういう学習と訂正が不能である表れとしての曲解~妄想のために、楽山の人格は崩壊してゆくのです。
 
 
HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。
 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と見なして揶揄していることだけでも、楽山には敬虔の欠片もないのです。いつも、他者を下に見て、多くは、決めつけて、侮辱し、都合によって嘘のベタ褒めする、という卑しい根性が、楽山のやり方です。
 
 
また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。
 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な言い回しでも悪意がバレている楽山その人であります。正直の欠片もない人だと思います。
 
 
*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。
 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働いて利用~悪用しているのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと言い続けています。楽山を無神教カルトと呼んでいます。
 
 
◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。
(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。
 
楽山の、美意識のみならず人格そのものを全く信頼できないので、楽山は、何かを批判したり揶揄したりする能力は皆無です。全て侮辱になるでしょう。それが自己愛性なのです。楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて白々しくて、寒気のするものです。
 
人の詩を、とやかく言うことで、自らの未熟を、まるで自覚していないことが、バレてゆきます。万事が同様です。楽山は、反省しないために、自覚というものが出来ないのです。楽山は、誰を批判する資格も、評価する資格も、全くありません。あらゆる分野で出入り禁止であります。
 
楽山には、揶揄して笑う体質しかありません。楽山は、いかなる救いも、全く語れません。宗教を、見分けることも出来ないまま、いちゃもん漬けにして、分かっている出来た人を気取って楽しんでいるだけの自己愛性人格障害者に過ぎません。
 
 
あらゆる門で 出禁

あらゆる門で 出禁
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月08日、再録+加筆)
 
 
 
  歩く小石
 
いつか歩くのだった
ここは河原かもしれない
あるいは荒野かもしれない
しかし歩くのだった
小石に足を滑らせながら
足元の小石しか見ないまま
遠くがどうだか
前が後ろが
周りがどうだか
興味を示さずに
眼下の小石の重なりだけを見つめて
しかもそれに足を滑らせ転びながら
感情はあるらしいのだが
たまってくると
ホォオー・・・ッ
と奇声を発して吐き出していた
わかっていたのだ
小石以上ではないと
必要十分なことはわかっていたのだ
 
 
  私の出入り
 
みみ に はいる ふるえ
ひびき に するのは わたし
こえ に するのは わたし
め に はいる ひかり
かたち に するのは わたし
いろどり に するのは わたし
 
もの に するのは わたし
いみ に するのは わたし
ムードに するのは わたし
イメージに するのは わたし
 
つくるのは わたし
おぼえていくのは わたし
わすれていくのは わたし
こわすのは わたし
こわれるのは わたし
 
こわすのは だれ
わすれるのは だれ
おぼえるのは だれ
つくるのは
だれ
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
大川隆法は、高橋信次を批判しているものの、その考え方は、高橋信次の教え(九次元、裏側、仙人、霊能力信仰批判など)からは一歩も出てないという…。
 
自分の妄想から一歩も出てない楽山が言っていることです。今回はOR批判のようですが、見ての通り、人間には理解不能な超常言葉を並べて、見抜いているとばかり自己の優位性を、空しく叫んでいます。楽山の精神というのは、このように、上から、妄想を見せびらかすことなのです。
 
しかし、楽山もまた、ふつうではないのだから、理解できるわけもなく、自分を賞賛し、自分を信頼することを、詭弁で誘導してくるわけです。一歩も出てないと楽山は言いますが、霊が分かるっぽい?楽山も、既に、恐ろしく脱線して、常識を失ったところから妄想を語ってくる人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
要は、大川隆法は高橋信次を否定しつつも、その世界観は継承している分派ということだね。
レムリアが、大川隆法は否定しつつも、その世界観は継承した分派だというのと同じ構図。
 
(ネットより)
レムリア(英語: Lemuria)は、イギリスの動物学者フィリップ・スクレーターが1874年に提唱した、インド洋に存在したとされる仮想の大陸[1][2]。
また、オカルト系の書物において同一名称の大陸が登場するが、上記の動物学の仮説とはまったくの別物である。
 
楽山は、他者の世界観の分派と同じと批判して、自身は、何を主張したいのでしょう。科学から、こぼれ落ちてきた不思議の国を、カルトも、楽山も、大いに、テーマにしてきます。なぜでしょう。否定の証明も出来ない性質を持つ超常の異説だからだと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
無知という盲目から、楽山が、どう進んでも、神の心、神の子、完成、実現、神の御慈悲、神の愛、という神聖に至ることはなく、信頼度ゼロの発言を、いくら積み重ねても、真実や真理の入り口にさえ至ることもないのです。決して楽山に近づかないでください。
 
キリスト信仰は、聖書に学んで、自らの、人としての不完全や小ささや罪深さを知って、それを告白する相手を知ることから始まります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、反省は、誰もが、正常ならすることです。
 
楽山は、ツイッターで、他者に、議論?のつもりで、いちゃもんをつけて遊んでいるようですが、何を書いても、自己中の思い込みだから批判対象にしかなりません。それでも書いてくるのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって羞恥心も罪悪感もないからでしょう。
 
楽山は、理解力も発想力もないから、節操もなく、近いと感じた他者の話を利用~悪用して、自分も分かっているアピールをしてきます。楽山の、上からの評論めいた話は、夜店のインチキより、あくどいものです。楽山には、感想文も評論も、交流ではなく、自分の飾りに過ぎないのです。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動2
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
ぺマ・ギャルポ:ウィキペディアより
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自分を高めるために、評論家気取りで利用~悪用するのです。
 
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。食欲のように話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか書けないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。そして、具体的なことは、何も語れないのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。自分に何が降りかかってくるか、何も気づかない人です。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。間違っても楽山を信頼しないでください。
 
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは将来の脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に口を出してくるのは現時点の大きな災いです。私は楽山を強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
本当なら「不気味」ではなく恐怖です。総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいかのような、自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」と、あっさり楽山特有のボンヤリ言語で言うのは、迂闊な暴言です。高等感情鈍麻の楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
迂闊(うかつ)危険

迂闊(うかつ)危険
 
 
(2021年)
(2022年11月29日、再録+加筆)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
 
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
  診断基準
(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
 
誇大性,賞賛の要求,および共感の欠如の持続的なパターン
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
 
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
無条件に賞賛されたいという欲求
特権意識
目標を達成するために他者を利用する
共感の欠如
他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
自己愛性パーソナリティ障害(MSDマニュアル)
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の症状
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
(ウィキペディア)
 
 
 
 私としては、シャロームshalom、楽山を見てきて、
加えて、
 
笑いと怒り・憎しみの感情はあるが、
共感がないのと同様に、しんみり悲しむ悲しみの情がなく。
他者を責めるが、自分を責めることがない。反省しない。
ひやかして笑ったり、皮肉や雑言を言うが、説得力は皆無。
真剣味がなく、洞察がなく、皮相であり、深みがない。
評論家気取り、インテリ気取りがあり、学術用語を使いたがる。
罪悪感や羞恥心がない。
批判されても受け取らず、不感不応。弁明・反論が出来ない。
代わりに、平気で同じ結論を言い続ける。
 
言い方だけ、丁寧語を使うことがある。
都合が良いと他者の言を、褒めるが、表現は月並みで、大袈裟である。
・・などなど・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではないし、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。砕けた言い回しに、騙されないようにしてください。
 
 
 
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  楽山の妄想理路
 
 神について考えたこと
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 2022年10月14日
  を批判。
 
 
恐ろしいほどの足らざるオジサン、楽山の滅裂な短絡と妄想が暴走しています。神を語る理路と情緒とは何の関係もない駄弁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)が、増悪して脱線を繰り返しています。楽山の語る偏見が広まらないようにと、あえて批判しています。
 
今回も自己正当化に明け暮れる楽山の無意味な日常に過ぎませんが、加えて、一人でも巻き添えにしようと、詭弁の迷路の罠を用意しているようです。書いても何も表していない空疎な迷路に、引き込もうとしています。これが疲労だけを与える楽山の悪意に満ちた筆致であり、全て、屁理屈です。
 
 
*忘れないうちに
 前記事に保存した対話の中で、論点になったものについて、忘れないうちに自分の考えをメモしておきたい。
 
楽山は、神を、決めつける対象としている時点で、神について何も知らないし何も理解できないということです。神について、頭の中で考えたところで、先入観と偏見と敵意だけが明らかになってきました。こういう人が何を書いたとしても、自己顕示欲に過ぎず、神について何のヒントにもなりません。
 
 
*神の定義
まず一つ目は神の定義についてである。これには下のようにいろいろあると思う。
高級諸神霊(諸天善神など)
山川草木に宿る精霊
先祖の霊(祖霊)
宇宙を統べる法則
絶対神(唯一神)
生き神様(教祖など)
その他
 
人間に神を定義することはできません。神は超常、人は地上の不完全なのです。血迷った楽山が、何を書いても、反信仰・反キリストの雑言に過ぎません。楽山は、神を陳列しているようですが、神は、求める者にとってのみ、神であります。楽山が神をどうのこうのではなく、楽山には神はいないのです。
 
求める心を持たず、否定するために、いちゃもんを付けてくるだけの者に対して、神は、いつまでも無意味な徒労の石灰を与えるだけです。そのことは、3年以上にわたって表れてきたのです。加えて、神霊を、ホラー映画やアニメのレベルでしか書けない楽山の言は、宣伝ビラよりも信頼性がないのです。
 
 
個人的なことながら、自分は無宗教の家で育ったので、幼少年期は神や信仰についてさして考えることはなく、神社仏閣に祀られているのが神様なんだろうと思っていた。山川草木、先祖の霊などに手を合わせることにもさして違和感はなかった。
 
楽山は、特に宗教と信仰については、思考力がありません。「さして考えることはなく」「だろうと思っていた」「違和感はなかった」・・これは信仰の態度ではありません。「山川草木、先祖の霊などに手を合わせる」ことも、楽山の場合、信仰を示してはいないと思います。
 
全く異質な勘違いを、楽山は、ずうっと書き続けてきたのです。指摘しても理解しない楽山だからこそ、今も、似たようなことを平気で書けるのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の怖さを感じます。これが宗教の文章などと思われては心外なので批判しています。
 
 
青年時代になると、HSに傾倒するようになり、宇宙を統べる法則が神だと説かれればそのように考え、教祖を神として信仰すべきことが説かれればそのように考えるようになった。
 
楽山は「宇宙を統べる法則」などという大袈裟な超常言葉が好きなのでしょう。宗教は、楽山にとって、空想の世界にあるもので、心がないために、身近に感じることがないのだろうと思います。いつも、外から眺めるだけで、これが宗教、これが信仰と、思い込んできたのでしょう。
 
 
しかしHS退会後はそれらの影響は薄れ、近年は人知を超えた超越者を神と考えるようになってきている。ただこれは頭ではそのように考えているということであって、現実生活では幼少年期の感覚に戻ってきており、諸天善神、山川草木、先祖の霊などを神様または神様に準ずる存在として拝むことにさして抵抗はない。
 
頭だけで考えてきた楽山です。感じ取る心がありません。つまり、上のほうの「諸天善神、山川草木、先祖の霊」というような、いわば、仏壇か、神棚か、お墓のようなもの、そして、楽山の気安い見方で見た自然のものなどに、宗教を見るような、ついでの気安さでは、宗教と信仰を語ることはできません。
 
 
*超越者
「無」は言葉では表現できないという考えがある。「何にも無いことを表現しようとする場合、『無』と言うと、そこに無が有ることになるので、『無が無い』と言わなければならない。でもそれだと、無が無い状態が有ることになるので、『無が無いが無い』と言わなければならない。でもそれだと…」という具合に、延々つづくことになってしまうというのだ。
 
低級な論理遊びです。このような未熟なことを、まともに言っているつもりの楽山のような者には、無限の無が訪れるだけになります。この世に生きる、という労苦の中で、無に遊ぶことを宗教と考えている楽山の、成長し損なった病人の、とんでもなく外れた顎々日記に過ぎません。
 
 
「超越者」にも、これと同様の問題が有る。「人知を超えた超越者」という表現は、人知を超えたと言いながら、しっかり認知していることを示しているからである。だから、超越者を適切に表現しようとすれば、無の表現と同じようなことになってしまう。
 
「人知を超えたと言いながら、しっかり認知している」と見なすのは、楽山の、教祖願望でしょう。楽山こそが、難癖をつけるのは神を認知しているつもり?の立場からであり、それは信仰ではなく、とても気安い概念の思い込みに過ぎません。自らの不完全を認識できないのと同様の知恵遅れなのです。
 
神については、その、ほんの一部の恩恵から、人間の一生を支える信仰が生まれてくるということです。楽山のように、その恩恵に触れていない者が、浅薄な知識だけで云々してしまうのは、身の程を知らぬ悪意と病質が進んでいるからに他なりません。
 
 
「人知を超えた超越者」→「『人知を超えた超越者』を超えた超越者』→「『人知を超えた超越者を超えた超越者』を超えた超越者…」という風にだ。
 この辺りのことは、言語表現の限界ということなのだろう。
 
否定するための言葉遊びによる詭弁です。全知全能を、わけの分からないものと嘲るための詭弁です。楽山の言語表現の限界であって、信仰者は、体験からも、神の恵みを知ることが可能であり、語ることも可能です。楽山のような邪悪な煽動者の、幼稚な短絡に惑わされないようにしてください。
 
 
*超越者と信仰
上の問題を読めばおよその見当がつくように、超越者を神とすれば、信仰は不可能であり、無意味とされることになる。人知を超越しているということは、人にはその名を知ることはできず、想像することもできず、信仰の対象として思いを向けることもできないということだからである。
 
楽山は、自らの狭窄した視野からの妄想を、誰でも「見当がつく」ことだと思い込んでいるようです。楽山の見当は、宗教でも信仰でもありません。短絡した妄想であり、それを決めつけてくる固定観念に過ぎません。まことに、楽山には、自由な思考と感性が、何も成立していないようです。
 
 
ただ信仰は不可能としても、それによって自己の進むべき方向は定めらる。
たとえば、キリスト教には否定神学というものがあるという。「神は~である」というのではなく、「神は~ではない」という風に、神でないものを否定していくことで神を探究しようとするものらしい。
 
楽山が進んでいるのは恣意という方向か拡散であり、何も正当に定まってはいません。そこからは何も発見できないところに、楽山は、わざわざ、身を置いて安住しているつもりなのです。そこから好きなように語りますが、それが良い影響を与えたことは一度もないと思います。
 
人が、神を対象として探求することなど不可能です。人に出来ることは、聖書と、体験から、また、交流から、楽山とは逆に、柔軟な思考と感性を養うことです。楽山のように頑なで視野の狭いコチコチの精神になると、何でも決めつけないと気が済まなくなって、書きなぐるだけになります。
 
 
また禅宗には「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ」という言葉が伝わっている。定説とは異なる解釈になってしまうかもしれないが、これは「認知したものは全て神ではないから即、退けよ」という意味もあるかもしれぬ。
 
神は、認識や認知の対象になる御方ではありません。なのに、楽山は、認識しているかのように、神という言葉を玩(もてあそ)んでいます。そこで、楽山の思考は死んでいるのです。楽山が、神について何を言っても、どこにも響くことのない雑音に過ぎなくなっています。賽の河原のようです。
 
 
要は、神は超越者だとすることは、「これが神である」という信仰ではなくて、「神とは何か」という探究を志すことなのだと思う。
 
神については、人が、対象として探求することは出来ません。「神とは何か」を、楽山が語るとき、そこには妄想しか生まれません。今までの楽山の言が、クズのような雑言に過ぎなかったことが証拠となるでしょう。楽山は、何も語れないのに、何でも語ろうとする、尾ひれだけの存在です。
 
 
*信仰と探究の相違点
信仰者は上に書いたように「これが神である」と言い張ることが多い。たとえば、このような論調はよくあるだろう。「私が信じているのは正しい神である」「私には正しい神を見抜く判断力がある」「『これが神である』という私の判断は正しい」
 
楽山は、いたるところで、神はいないと言い張ることしか出来ません。楽山の一切の言説は、子供にとっても大人にとっても通用しないような、落伍者の負け惜しみに過ぎません。この3年以上、楽山の言は、とても醜く、理路にならず、詭弁と嘘に満ち、まともな大人が書いたとは思えないものでした。
 
正常なら、批判に返せない原因を、自分で探すものですが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、返せないのに、根拠のない雑言を、繰り返し繰り返し言い返さないと気の済まない病理の衝動に流されて、性懲りもなく繰り返してくるのです。
 
 
一方、探究とは何かといえば、「これは本当に神だろうか」と疑問を持つことである。「これが神だ」という自己の判断を過信せず、謙虚さを維持することである。
自分は信仰者であるよりは、探求者である方が性に合っていると思う。
 
「「これは本当に神だろうか」と疑問を持つこと」は、内外の偶像を排除するためですが、楽山は、いちゃもんばかりを投げかけて、何も生産的なことが言えたことがないのです。鈍い自己中というのは、何も分かっていないし感じていないのに、さも知っているふうに詭弁を弄する毒魔です。
 
 
*神の存在
神についての議論では、「神とは何か」というテーマ以外に、「神は存在するか、しないか」という議論もあるが、これは神の定義次第では意味のない議論になる。
 
楽山は、自己愛を満足させるために、思いついたことを、まるで反論であるかのように、言わないと気が済まない病気なのです。だから議論は不可~禁忌です。反論者として付き合うための、いかなる節操も理路も、持ち合わせていないからです。自分とは何かを考えない人だからでしょう。
 
 
たとえば神はこの世ならざるものであり、見えも触れもせず、体積も重さもないとしたならば、「存在するか、しないか」という三次元的唯物的な判断基準ではかれるものではなく、そんなことを問うても無駄だということになる。
 
今はそう言っているだけの楽山の思いつきの台詞が続いています。神を必要としないなら、楽山は信じないというより、ずっと、楽山に神はいないのでしょう。それで終わりです。「三次元唯一物的」などと学問みたいに書いても、楽山の、無学、無知、無節操、無神経が、見苦しいだけなのです。
 
神について、体積や重さなどという物理的なことを言うのは、とても幼稚なことなのですが、幼稚な楽山には気持ちよいのでしょう。楽山は、元から、あらゆる節操を踏みつぶして、人の嫌がるようなことを平気で言って、混乱させるのが目的~快感なのです。こんな人種もいるということです。
 
念のために言いますが、楽山が、学問的な言葉を書いてくるのは、自己愛からの自慢に過ぎません。楽山は、神も信仰も理解していないのと同じように、それらの熟語を理解したことはないと思います。そのように、さも知っているかのように振る舞うのが、インテリ気取りの楽山の手口なのです。
 
 
ましてや、この世もあの世も、物質も霊も、存在も非存在も…全てを超えた超越者を、有る無しで判定しようとするのは無茶なことだ。有無を超えているものを有無で判断できるわけもない。
 
騙されないでください。楽山が上のようなことを書くのは、有無で判断しないのではなく、神を否定するためです。今まで、うんざりするような迷路を書いてきて、ここでも、口が減りません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質的執着は、混乱だけを与える害毒であります。
 
楽山だけが、神を同じ地平の存在のように扱って、有る無しにこだわってきたのです。つまり、上のように書いても、なお、有る無しにこだわって、存在するかどうかについて、いちゃもんを言うことを止めないのです。神を否定してきたくせに「有無で判断できるわけもない」と言い換える卑怯さです。
 
 
正直なところ、「神は存在する」「霊は存在する」ということにこだわるのは、唯物的な思考に染まり、この世を超えた世界についてよく分かっていない証拠ではないかと思う。
 
神を語るのに、しばしば唯物論を持ち出してきたのは、楽山であります。唯物論も科学も、神を否定も肯定もしません。信仰は物ではありません。目に見えるものと、空想とで、実存を無視した楽山の世界が出来ているらしく、それゆえ思考が心から乖離して、自己中心から滅裂となっているのです。
 
 
*神を感じたとしても…
巷には、神を感じると、即、神は存在すると思い込む人がいる。実を言えば自分もそのクチである。神の臨在は現実以上にリアルなので、ついそう結論付けてしまうのである。
 
楽山は、神を感じたことはないと言えます。これまでの発言の、いい加減さが、とても神を感じる人の感じ方ではなかったのです。楽山は、現実の自らの欲望を追いかけている亡者に過ぎません。この男から、症例であること以上に、学ぶものは何もないと言ってよいでしょう。
 
 
しかし実際には、自分が神を感じたからといって、それが妄想でも、錯覚でもないとは言い切れず、そこに神が存在した証拠にはならないのだから仕方がない。人にできるのは、神を感じたと思うことまでで、そこから進んで神はこういうものだとか、絶対に存在するとか、そこまで言い切ることはできないのだ。
個人的に心の中で確信を持つことは自由ではあろうが、確実な証拠もなしにそれを他人に向かって主張し、受け入れさせようとするなら、それはいささか無責任な行為であるとお思う。
 
楽山は、極めて幼稚なことを言っています。妄想や錯覚と区別できないなら、それは、人を生かさないものでありますから、神を感じることとは全く別のものであります。それを「神を感じた」と言っている偽哲学の楽山は、病気であることを自ら証明しているに過ぎないのです。非常に迷惑です。
 
 
*誰もが無神論者である
とある無神論者はキリスト教信者を皮肉ってこう言っている。
「誰でも、自分の信じていない宗教については無神論者である。私は、君たちより信じない神がたった一つ多いだけなのだ」と。
つまりキリスト教信者は、自分たちの唯一の神だけを信じて、他宗教の神々は存在しないとしているが、無神論者の自分はそれに加えて、キリスト教の唯一の神も信じていないというだけのことだというのだ。
 
「というだけのことだ」と、責任回避している楽山ですが、聖書の神を信じていながら、他に神?がいるなどと思うならば、それは、楽山のような卑怯者の、無責任が支配する因業に過ぎません。愚かにもほどがあるというものです。あらゆる信仰を見下す自己愛者に、耳を貸してはいけません。
 
 
こうしてみると、「無神論者」というのは相対的なものであって、立場によって変わるものだということがよく分かる。どんなに熱心な宗教信者であっても、もし信じない宗教があるならば、その宗教については無神論者なのである。
 
もはや、詭弁しか書けなくなっている楽山です。言論の理路というものを、読み取る心がないままに、表面的な辻褄だけで進めてゆくと、このように、宗教を物扱いする迷路になります。精神疲労として起こりますが、迷路でもあり、楽山には常習として見られる症状なのです。
 
信仰者と非信仰者を問わず、誰にとっても「信じない宗教」は数多あるのです。当たり前なのに、それがおかしいと言っている楽山です。異教の神を信じないのは当然であって、それを「その宗教については無神論者」というのは、実に馬鹿げた詭弁です。長年の悪意で脳が腐っているのです。
 
「その宗教については無神論者なのである」・・信じない宗教の神は信じないという当たり前のことを、楽山は、その宗教では無神論者と、呆れた言い方です。「無神論」を強調したいのか、論理もどきの救いがたい詭弁で、印象操作でしょうか。驚きました。これは、何とも、愚かです。
 
楽山は、言論による真実追求の妨害者であることが、その幼稚な詭弁によって、明らかになっています。楽山には、真理発見!・・の気分なんでしょうか。小学生でもやらない曲解と詭弁です。恥ずかしくないのでしょうか。異教について無神論者とか、当たり前過ぎて、意味をなさないでしょう。
 
この詭弁は、例えば、正しさとは誤りのないことだ!大発見!・・と言っているようなものです。楽山は、人に見せる文章など書けない証拠です。真実追求など出来ない人です。楽山は、いかなる論理も評論も論文も思想も、公開文書として書くべきではありません。大迷惑です。退行しつつあるのか。
 
 
無神論者にしても、信仰者にしても、そういう分類は特定の立ち位置から勝手にレッテルを貼っているだけのことであり、さして意味のないことだと思う。
 
信仰者には、今を生きるため、という意味があります。全く意味のないのが、楽山であります。いつまで空しい言を玩ぶつもりでしょう。その都度、批判を書いているのに、反論も出来ず、受け取っていない空っぽの精神から、似たような自己中詭弁を、作っては書き、作っては書きしてきたのです。
 
言論の初心者であっても、心を込めて書いた文章からは、何らかの思いを受け取ることが可能です。しかし、楽山のような自己愛病質者に限っては、何も受け取れるものがないのです。全て、安っぽい嘘で出来ていて、それは、実質ではなく、抽象でもなく、とても有害な腐敗臭として鼻を突くだけです。
 
「勝手にレッテルを貼っている」のは、楽山であります。また、ブーメランで、楽山に返ってゆきます。救いがたい勉強不足の詭弁屋が、論文めいたものを書こうとすると、自己満悦の分、論理さえも、腐らせてゆくのでしょう。だから、意味など、どこにもない楽山です。
 
 
自己満足の暴走

自己満足の暴走
 
 
(2022年10月16日)
 
 
 
  夏から秋へ
 
天気予報がまた
夏から始まった台風の
遅い到来を告げる
しかし熱を吸い取られるように
すでに秋が来ている
 
緑から黄へ
紅葉へ
落ちてゆく前の
ゆるやかな命
きらめいて
やがて土の表を
流れ
土へ
帰る
 
かつて熱していたもの
色あせてゆくもの
身を引いてゆくもの
沈んでゆくものの
語録をゆっくり閉じてゆく
 
枯れてゆくもの
別れてゆくものの
見過ごしてしまいそうな
ほんの小さな元気を残して
 
秋の色と
思い出をたたんで
後ろ姿を見るように
汗をなつかしむ
 
大地はまわり
大気は移り
多くの肌に触れて
風と呼ばれる
知らず知らず
秘められた語録に向かって
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間
排泄するために
欠けていく勾配
 
 
 森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを暴きたくて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、どういう育ち方だったのでしょう。恣意だけが太くなって妄想化しているのは、よほど相対する意見が乏しかったか、楽山が無視してきたかなのでしょう。ここまで来ると、楽山の執拗さが、いちばん厄介な症状のように思えてきます。何を言われても、本人だけは、正常人のつもりなのです。
 
人格障害は、説得が効きません。矯正しようと思えば、賞罰による長期の条件付けしかないのでしょう。しかし、異常人格を、まだ人格だと思っている人によって、楽山のような言論破壊者が、まかり通っています。何か書くたびに批判が返される反復学習以上の、強制力が必要ではないのか。
 
楽山を真面目に相手にしてはいけません。また、楽山は、自分の過去と罪を無視しますから、楽山の現在を無視してください。楽山に出会うことはウンチを踏むより不運です。楽山の詭弁の罠に嵌らないようにするには、関わらないことだけが、予防策であります。関わることに何のメリットもありません。
 
 
 
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  印象操作と陰謀2
 
   楽山日記(a)
 
 
HSを脱会したと言い、アドラー教を宣伝し、似たような体質を持ち、クリスチャン芝居をし、一方で、キリスト教に、幼稚な疑問を当てつける否定の印象操作をする、という、とても、いい加減な楽山が、また、反省もなく、訂正もなく、よりによって、カルトとマインドコントロールについて書いてきました。
 
自己正当化の言い逃れであることは言うまでもありません。このように、自己中で、何を言われても無視して平気でいられるのが、楽山やシャロームなどの軟派カルトであります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だろうと思っています。
 
 
>・【書評】「カルト宗教信じてました。」を、カルト教祖の息子が解説します!<
 
楽山は、こういうところを、利用して、カルトはひどいですね、などと言う感じで、アンチカルトに共感があるかのような文章を書いて、自分は安心で大丈夫と、カルトとは無関係を装うのでしょう。そのための賛同の受けねらいの意図のようです。
 
 
*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。
 
楽山の「気持ちが高まってくるなあ」は悪意が興奮することだろうと思います。楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分かないっぽいのに驚いたと言ったことがあります。心霊や超常の話に興味があることを表し、仏様や霊の気持ちが分かるみたいなことを言っています。
 
カルトなどの超常現象に惹かれるゆえに、カルト寄りの楽山が、今回は、硬派カルトの、うるささや汚さや体罰的なことを表している動画を見て賛同し、ヤバいことをする奴らは特別だからと、共感を装いながら、自分は全然違うという印象を吹き込もうとしています。
 
つまり、カルトはどこも一緒で、おかしいところがすぐ分かる、という印象操作をしています。実際は、硬派カルトだけでなく、友だち関係を求めてくるような、やさしさを装う詐欺みたいな、軟派カルトというのもいると思います。そして、その典型が、無神教カルトの楽山です。
 
楽山の主張は、自己中、身勝手、訂正不能で、広まれば社会悪になる可能性を持っていると思います。そして、楽山は、遣り取りや、交流が、全く成り立たない人です。相手にすると、とても異常は疲労を与えてきます。関わってはいけない人です。楽山は、理路も感性も偽物で、有害だと思います。
 
つまり、カルトが、どこも一緒ではないことは、楽山とシャロームを見れば分かるわけです。つまり、この二人は、先ず、受け入れられるために、やさしい人柄を装ってきます。それが、シャロームの丁寧語と、楽山のボンヤリ言語なのです。
 
しかし、よく見て考えながら付き合っているうちに、宗教についての記事やコメントから、宗教と信仰についての無理解や、社会悪につながりやすい性質、つまり、自己中心、訂正不能、無反省、自尊過剰、理路の単方向、他者への軽蔑と上から目線などが見られます。
 
表面的なものや法制度上のことに話をすり替える意図ですから、それに乗って騙されてはいけないのです。カルトは、犯罪が明らかになるまで、カルトではない、と言いたい楽山は、その発言からカルトに甘いこと、むしろ、カルト寄りであることを明らかにしているわけです。
 
カルト批判ではなく、自分は違うと見せかけるための、カルトのひどいイメージを借りて批判に見せかける偽装なのです。カルトの定義を、警察につかまらなきゃカルトじゃないよ、と印象付けたいのです。直ちに取り締まることは出来ませんが、批判するのは自由です。
 
 
*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。
そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。
 
今度は、カルトは愛想が悪い、ぶすっとしている、などと言う印象を与えようとしています。自分は全然違うでしょ・・と言いたいのでしょう。典型的な印象操作です。それと「みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌」云々・・は、先入観による乱暴な決めつけでしょう。
 
「いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態」
 
いい年した大人の男性は、みなが笑顔でいるところでは、笑顔でなければいけないでしょうか。楽山の見方は、一面的で、人それぞれの事情をかえりみない、みんな井戸端会議か社交みたいに見なして、笑い合い世辞を言い合うというのは、相当、偏った奇妙な考え方だと思います。
 
ぶすっとしていることは、カルトを示すこととは関係ないでしょう。こういうところにも、印象操作と刷り込みの意図を感じます。このように、楽山の理路というのは、根拠と成りえないことを決め手のように語ってくるので、真に受けてはいけないのです。
 
カルトが、誘導する目的を持っているなら、柔和そうな、パリピのような、楽しそうな、友達みたいな、物わかりのよさそうな、にこやかに近づいてくるキャラを装っても不思議はない。まさに、楽山とシャロームは、薄っぺらに表面的に、そういう柔和芝居のキャラで近づいてきます。
 
楽山の「だなあ」「ていうか」といった若い人に共感があるかのような書き方や、以前の、いかにも、共に自分も考えています的な、共感ありげな「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」、「やっぱり正しいように思える」などという婉曲的な言い方も、共感芝居の刷り込みでしょう。
 
 
*マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。
 
これも、カルトの極端な主張です。誰もが、おかしいと感じることを書いて、自分はそんなことは言いませんよ、という暗示によって、楽山は、カルトと対極にあり、カルトを分析しているかのような態度をアピールしてきます。
 
しかし、このような、あざとい、戦術的な言論の持っていき方が、既に、十分に怪しいのです。これは、今までの経過の中で、シャロームの肩を持ったり、当たり前や幼稚なことを、さもキーポイントであるかのように語る楽山の口車に表れてきたことです。楽山は、策士なのです。
 
楽山もシャロームも、世辞以外に、非を認めたことがありません。弱さ、不完全さを実感しているような文章を書いたことがありません。見せかけで書くのは、動機が分からないような文脈での、わざとらしく謙虚ぶる態度でしかありません。
 
楽山は、ペテンの芝居をするので、要注意です。自己顕示欲が強いために、陶酔するような芝居もありますが、心の感性が鈍麻しているために、子供だましの下手さ加減が分からないのです。文脈の流れで読むと、気色が悪く、わざとらしい大根役者でしかありません。
 
 
ちなみに先の記事に取り上げた本だと、疑問に対して「今にわかるよ! もっと勉強せねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思えるかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。
 
楽山の、友だちのように親し気に近づいて、勉強しなくても分かります、分かるでしょ、みたいな、ねちねちした誘導の仕方も要注意~恐怖なのです。楽山は、カルトの特徴の目立つところだけを書いています。目立たないところに潜ませる誘導や印象操作や詭弁が、本当は怖いものだと知ってほしいです。
 
 
当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、そんなことは分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。
 
楽山は、カルトの教義と言うべきところを、宗教の教義を学ぶことが、マインドコントロールされることだと言っています。殆ど、カルトと宗教を区別しないところも、宗教は、みんな、いっしょに、ひっくるめている、いい加減さが、滲み出ているのでしょう。
 
マインドコントロールされて初めて宗教が分かるなどと言う楽山は、カルトではない本当の宗教の恵みと幸いを何一つ分かっていません。宗教もカルトも一緒にして、侮辱してくるのが楽山です。そして、楽山こそが、宗教をバカにしながら、自前の、一種異様な無神教カルトを広める教祖願望なのです。
 
楽山もシャロームも、宗教人ではなく、宗教を利用して、カルト的な教えを広め、自分の自尊心を満足させたい病的ナルシシストだと思っています。彼らは、基本は、宗教嫌いなのです。宗教嫌いが、カルトを広める、これは、宗教を舐めてかかっているゆえに最も陰険な恐怖の企みであります。
 
教義の鵜呑みが、いちばん、カルトへの近道になります。それは、硬派カルトだけでなく、誤った未熟な宗教理解をする者によって、硬派カルト以外でも遠回しに教えられているかもしれません。そういうところからは、勇気をもって、きっぱり縁を切り、完全に離れることが必要です。
 
それと同じくらいに、あたかも、みんなと同じ常識人であるかのように振る舞って、その奥底に、誰が何と言っても何も聞き入れない自尊の固まりによって暗躍しているのが、楽山とシャロームのような、汚らしい軟派カルトの悪意の産物なのです。
 
シャロームは、いつも、自分が正しいという前提で物を言い、もはや、なんの資格も正しさもないことが明らかになっても、修正が利かなくなっている廃人のような存在です。丁寧語で世辞を言って、それだけで、自分は柔和だと思い込んでいる人格の病人です。関わらないでください。
 
楽山も、自分が正しくて中立な立場でいる人、自分はまともなことを言う人、という固まっている前提があり、修正不能であり、人の言うことを聞きません。そういう心性のために、未熟なまま、大人になり、今も、神について同じ疑問を書いて、真実を語ったつもりでいるお粗末な自己愛が支配する人格です。
 
シャロームより、狡賢く、言い方を変えてくるのが特徴です。関わらないでください。そして、二人とも、結託しているかのように、ともにキリスト信仰の心を無視~否定し、ときには一緒に、嫌がらせを書いたりもしました。
 
楽山批判の文章にシャロームの名前が出ると、嫌がらせのコメントをライブドアの私のブログに書いてくるので、シャロームのほうは、楽山の手助けをしているつもりなのでしょう。二人とも、仲間意識で結び付いているようです。
 
その仲間同士の無条件同意以外では、理路も、共感も、成り立ったことがありません。彼らの仲間意識には、人を生かす共感がありません。彼らには、欠点のある人間同士、という共感による付き合いが、まるで成り立たないのです。宗教とは対極の自尊の固まりが寄り添っているようなものです。
 
そういうことから、楽山とシャロームは、同一人物の成りすましではないかと疑うようになりました。この疑惑は、ネットでは証明は困難ですが、その可能性を知っていることは必要だと思っています。誰が誰に化けているか、分からないのがネットなのです。
 
 
教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。
 
楽山の話を、間違って受け容れると、やさしい人柄だから、きっと、バランスのとれた話をしてくれるんですよ・・みたいな感想を持つかもしれませんが、その時が、既に、危険信号なのです。その根底には、企みはあっても、ふつうに通用するような共感の素地が全くないからです。
 
楽山やシャロームのような、共感性の欠片もないのに、そのことを隠している危険人物に、間違っても、受け入れたり、同じになりたいなどという経過になってはならず、そのためにも、好意的に関わってはいけないと思います。
 
腹黒いシャローム、陰謀家の病的ナルシスト楽山、という印象を持っています。その判断を改めさせるような彼らの言論は、今まで、一度も見たことが無いという現状です。
 
 
マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。
 
また、楽山は、この記事で、重ねて、カルトのマインドコントロールというものを、ホラー的に常識からズレたものであるとして、自らが行っている誘導、詭弁、ボンヤリ言語による刷り込み、印象操作を、それに比べさせて、大丈夫なものという暗示で、刷り込もうとしています。
 
いつも、文章を、企みの目的をもって書いてくるのが楽山です。暗示と刷り込みに遭わないためにも、決して関わらないでください。楽山がこの記事を書いたのは、社会にとっての悲劇としてカルトのことを語り、自分とは異なるものという印象を重ねることが目的なのでしょう。
 
ということは、既に、このような印象操作が功を奏したことがあるのかもしれません。そうして、気軽に、友達、お気に入り仲間として、付き合って、言葉を交わしているうちに、知らず知らず、楽山の言うことには、いつのまにか、頷(うなず)いてしまうようになってゆくのかもしれません。
 
どこかで、軽いぜ・・と、味を占めてきたのだろうか。従来の豪語する硬派カルトにも、楽山やシャロームのような軟派カルトにも、惑わされることのないように、祈っています。拝。
 
 
※ 
 
キリスト信仰も、キリスト教も、堕落して、カルトになることはあり得ます。それは、神に対する節操としての、人間の不完全、すなわち、罪の性質を自覚するのではなく、逆に、信仰?ゆえに、自分は大丈夫だと確信してしまうところから生じてきます。
 
そうして、恐らく、神の前にも、こんなことは言ってはいけないというタブーが生まれ、祈りを飾るようになるのかもしれません。そこさえ間違わなければ、信仰者は、いつでも、主のもとに帰ることが出来るでしょう。
 
人が自分で勝手に確信して信じ込んで訂正不能にしなければ、人は、いつも赦しと憐れみを必要とする神の民であるからです。
 
キリスト信仰者は、おもに、旧約聖書の神の存在によって、自らの不完全性と罪性を自覚し、神への恐れと敬虔を学びます。そして、おもに、新約聖書のキリストの存在によって、人生におけるその同伴という共感という愛を知るのだろうと思います。
 
キリスト教によって、私たちは、罪と恐れと敬虔を学び、
私たち一人一人は、キリスト信仰によって、罪と赦しと愛を知るのでしょう。
 
キリスト教は、キリスト信仰の知識のベースであり、キリスト信仰のためにキリスト教があると言えるでしょう。
 
聖書にある物や肉体の奇跡の話は、神の偉大さと、神聖への恐れを伝えています。
福音書にある心~魂の奇跡の話は、キリストの人に対する限りない共感を伝えています。
 
どういう人がキリストによって救われ、どういう人がキリストの敵となったかを読み取ることが、聖書を読むうえで一番大事なポイントだと思います。
 
救われた人は悲しみを知る人でした。
悲しみを持ちうるかどうかが、信仰と、反信仰を分けるのです。
 
キリストの敵となった人たちは、悲しみを知らず、不都合に際して、誰かに怒り、誰かを憎む人たちです。そのサイコパス的な憎しみがキリストを殺しました。
 
私たちは、キリストの死の意味を深く理解するべきです。キリストの死を思わず、キリストは復活したのだからと済まして、讃美に明け暮れるのは、信仰者の態度ではありません。
 
 
悲しみへのいつくしみは共感

悲しみへのいつくしみは共感
 
 
(2019年)
(2022年07月27日、再録+加筆) 
 
 
 
  ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
 
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証も導きも悟らぬ者よ
 
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ祈りへ
 
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 
 (コリント1,13:4-8、新約聖書)
 
 
興味深いのは、この章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることです。知識があっても、信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということであります。
 
愛と、悲しみと、共感する心によって、信仰は成り立っています。キリストが、お手本なのです。しかし、キリストのようになることは出来ません。キリストを目指すのでもありません。私たち信仰者は、キリストの民であります。そして、しばしば反逆の民であります。
 
その反逆の罪を知り、折々に、悔い改めることが祈りです。感謝と讃美より、大切なのは、正直な告白です。神は、人の言動を、既に、余すところなく、ご存じなのですから、正直以外、神に通用することはありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はまたストローマン論法を使ってる。
私の意見は①です。
①「『仏陀再誕』の仏陀への帰依は、HS信仰の基本だ」
②「HS信仰は、『仏陀再誕』の仏陀への信仰だけだ」
私の意見を②の形に歪めた上で、反論してもダメですよ。
 
(ネットより)
ストローマンとは英語で案山子のような「人間のフリをさせるための等身大藁人形」を指す。ストローマン論法とは、相手の主張を取り違えたり歪曲したりして出来上がった脆弱な主張をストローマン(相手の代理)として打倒し、そのことによって相手の主張を論破したことにしようとする論点すり替えによる詭弁である。ストロー(藁)マンを直訳して藁人形論法(わら人形論法)とも呼ぶ
ニコニコ大百科
 
楽山は、信仰を語れる人ではありません。なのに、HSも、キリスト教も、同じように扱い、揶揄してきます。正常な分別を持たず、詭弁に生きています。真実を求める気はなく、自分の優越感を満たすためだけに書いてきます。精神衛生のために、決して、直接の遣り取りをしてはいけない人です。
 
楽山は、論客気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど、気取りだけなのです。実際は、理路を組み立てることも理解することも共感することも出来ません。真実の追求などする意思も能力もありません。既に真理を得ているという腐った高慢の悪臭が、書くものに染みついて表れてきます。
 
楽山は、文脈の理解に至らず、ただ、相手をストローマン(藁人形)のように見なして、その端くれの汚れを、中心であるかのように指摘して否定してゆきます。しかし、楽山は、心が無いので、実際は、何も理解していないのです。相手にしようなどと思ってはいけません。
 
ブーメランのように、楽山から出たものは楽山に返ってきます。本人が気づかないだけで、楽山の言は、楽山を責めているのです。楽山は、良識と良心を持った人間ではなく、人の不備を突いて悦に入る自己満足が生き甲斐の、それこそ棘(とげ)付きのストローマンなのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも宗教でもありません。人類の敵は、良心と罪悪感を持たない楽山のような無反省で無責任な病質人格、つまり、反社会性人格障害≒自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、ひと言で言えば、サイコパス(精神病質者)なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘吐きで詭弁屋で無神教カルトの楽山が、悪意の文脈によって実に軽々しく決めつけて否定する神は、キリスト教の神とも、キリストとも、何の関係もありません。楽山は、自ら捏造したキリスト教?の神?の安っぽい概念を、神として否定したために、永い批判にさらされることになっています。
 
 
 
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