ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:厚顔無恥

 
  後悔しない楽山2
 
 後悔しない生き方(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』)
 2021年06月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に見られるところの、わざとらしさ、うさんくささに気づいてほしいと思う記事です。
 
 
ザビエルの書簡集をつまみ読みしていたら、川で溺れて九死に一生を得た男の話が紹介されていた。この男は救けられたあとで、水中で死を覚悟したときをふりかえって「生きているあいだ中、自分が死ぬための準備を何もしていなかったこと」、修道院に入りたいと思いつつも「何も実行していないこと」の二つを後悔したといっていたという。ザビエルはこの話を次のようにまとめている。
私は友人や知人が、善い考えや主なる神に奉仕したいとの望みを抱きながら、実行に移す時を延ばしていると、いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまうのではないかと、気の毒に思っています。
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』河野純徳訳、平凡社〈東洋文庫579〉、1994年、pp.62-63)
 」
これは出来すぎた話のようにも思えるが、この教訓はまったくその通りではあるし、それだけに耳に痛い言葉だ。自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋で、何でも先延ばしにして、せっぱつまってから慌ててはじめるという風なので…。
 
「耳に痛い言葉」「昔から怠け者の面倒くさがり屋」という卑下が白々しいのです。「せっぱつまってから慌ててはじめる」・・何を始めるというのでしょう。知りもしないキリスト教と信仰を、浅知恵で決めつけて否定するだけです。何も始まっていません。
 
歴史的に有名な人物の書いた書簡を、「つまみ食い」するのだそうです。恐らく、聖書も、他の書籍も、いかなる有名人の名言も、同様だったのでしょう。だから、おつまみ程度に、いい加減な記事を、趣味的に書いてきたのでしょう。書くべき必然が、どこにもありません。
 
楽山は、「いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまう」というザビエルの言葉を受けて、同情を誘いたいのでしょうか。しかし、「耳に痛い言葉」「反省。」「自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋」「せっぱつまってから慌ててはじめる」は、大嘘です。
 
楽山は、「反省、とほほ」と書いたことがありますが、その前後で、全く変わりなく、今に至るまで、ずっと、自己中の、偏向した記事でした。自分を見ることが出来ないのです。また、楽山は、他者の言うことを、世辞以外、すべてと言ってよいほど、無視してきました。何も変わっていないのです。
 
したがって、他者の言葉が、「耳に痛い」こともないのだろうと思います。平気で、無視して、平気で、同じようなことを繰り返し書いてくるのです。人間として大切な反省をせず、責任を負わないのですから、「面倒くさがり屋」ではなく、邪悪で、怠慢で、学習意欲がないのだと思います。
 
都合の悪いことを平気で無視するので「せっぱつまってから慌ててはじめる」のではありません。あわてて訂正や反省を書いた記事があるはずですが、全く見られません。前に、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という信条?を書いて宣伝して、そのまま実行しているのでしょう。
 
このように、楽山の軽々しい芝居は、うさんくさくて、嘘だと分かる人もいるでしょう。楽山というHNを見たら、あるいは、話に出てきたら、嘘吐きだと教えてあげてほしいと思います。この2年間、いいほうには何も変わっていません。
 
今になっても、こういう白々しいことを書いてくるところを見ると、やはり、原因は、元々訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。平気で、嘘を吐くのです。それに引っかかって、「やさしいお人柄ですね」というコメントが付いたこともあります。あくどい。
 
今でも、そういう嘘が通用すると思っているのです。知性・感性・洞察力・共感力は、自己中によって鈍麻しています。だから、また同じことを言えるのでしょう。ふつうなら、察しが付くところを、気づかない哀れな人です。それにしても、よくも、また、白々しいことを書いてくるものです。
 
 
こういうところは本気でなおさなければならないなと思う。
 
ですから、これも、嘘です。この2年余り、楽山の本気は、自分を改善する方向に向いたことはありません。楽山に、本気はないと思います。「なおさなければならないと思う」も嘘です。前から書いてきた自己愛性人格障害によって、楽山は、自分を直す必要を感じないからです。
 
直す気があるなら、とっくに、反省して、この記事のような言葉面だけでなく、記事の内容に、はっとさせる何らかの変化があるはずです。何もないとしか言いようがありません。はっきり言って、こういうことを言うときの楽山は、笑っていると思います。嘘が上手いつもりでいるのです。
 
ただ、だんだん、白々しさが増しているようです。人格破壊が、また、進んだのかもしれません。少しずつ、内面に比例した、下手くそを、否応なしに出してしまう、という傾向はあるでしょう。嘘の理路、自己中の辻褄合わせは、いずれ、無理を生じることが考えられるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ナタリー・ポートマン守護霊の霊言では、その美しさを強調しているが、
本人は、見た目で判断することに思い切りダメ出ししとるじゃないかい。
・ナタリー・ポートマン、女性を見た目で評価する軽薄な価値観を批判
午前7:07 · 2021年6月13日·Twitter Web App
心機一転★こも楽山
@komo266
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」という話があるが、これもその例か。
午前7:11 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
何も信じておらず、人を惑わし傷つけるだけで、無反省・無責任の、反倫理・反キリストが、楽山です。今日も、霊言とばかり、知ったかぶりで、女優のことを言っています。こういうゴシップと、宗教・信仰とを、同じオモチャ扱いで、雑に、批評する軽々しさが、楽山の特徴です。
 
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」などという決めつけは、反キリストならではの暴言です。キリスト教の悪口だけは忘れないようです。好きなだけ、ゴミをばらまいて、自己満悦の散歩でしょう。日課のように公共を荒らしています。それしか出来ない人です。
 
今まで、理路は好きなように捻じ曲げ、知識は小学生レベルの拙劣な理解、共感の深みは皆無であり、我執だけが強く、芸能・作家・宗教家・学者など、遠慮もなく勝手に引用して、同じ悪口を、繰り返し言ってきます。真面目な態度が皆無で、様々に言っても、結局、偏向した揶揄の域を出ません。
 
楽山は、何気なく書いているつもりでも、揶揄しか出来ない体質は表れてしまいます。自己愛性人格障害の因業だと思います。それを隠そうとする欲動と、自慢しようという欲動によって、楽山は、だんだん、曇りガラスのような、正直も本音も見えない人になってきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、我執と怨念によって、同じことを繰り返し書いたり、思いつきを書いたり、安定しない、いい加減さを、表してきました。それもこれも、一切、責任を負わないし、負えるだけの芯を持っていないことを如実に物語っているのです。
 
※ 
 
こういう楽山のような人は、書いてくる文章を観察し、筆致を、つまり、書き癖のようなものを、できるだけ読み取ってゆくしかありません。したがって、継続的に、経時的に、今まで3年間余り、そして、これからも、楽山の記事を、読み続け、批判してゆく必要があるのです。
 
楽山の体質は、人の言うことを無視して平気でいることです。それを利用して、鈍麻した警戒心と散漫な注意力のために平気で書いてくる記事が、資料となりうるのです。楽山には、バレるから書かないでおこう、という選択肢が想起されないのだろうと思います。白々しさに気づかないからです。
 
 
偽善者は笑う

偽善者は笑う
 
 
(2021年06月14日)
(2022年06月15日、再録+加筆)
 
 
 
  惑いの台詞
 
わかっているさ
 が
 繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
 が
 映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
 が
 教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
 
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
 
ちつ【×帙】 の解説
[名]書物の損傷を防ぐために包む覆い。厚紙を芯 (しん) とし、表に布をはって作る。文巻 (ふまき) 。文包 (ふみづつみ) 。
[接尾]助数詞。帙入りの本を数えるのに用いる。「和本三―」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%99/
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
 
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごい面白かったよ」
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
 
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
 
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
 
 楽山のツイッター追加ですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HSの場合、
「神に従順であれ」というのは、
「大川隆法に従順であれ」という意味になってしまうからね。
大川隆法の教えに、異論を述べたり、従わなかったりすると、
「従順でない」「自己中だ」と叱られてしまう…これはもう話にならん(笑)
午後7:20 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
楽山は、いかなる不正も批判する資格はありません。楽山はアンチではありません。楽山は、自己愛性人格障害です。他者を揶揄して遊んでいるだけです。だから今日も「((笑))」と書いて結んでいるのです。軽薄で、表面的であり、真摯さ、真剣味が、何もない人です。
 
自己中の楽山を鵜呑みにすると、人格を破壊されます。人を誘導して、だますような、楽山に従順であってはいけません。自分の害悪に気づけない病気の体質なのです。悔いることも改めることも反省することも責任を負うことも出来ない人ですから、近づかないでください。
 
楽山は、いつも正しく中立な自分に従えと言いたいのです。サイコパスでサディストで、他者を下に見て、学者気取りで教えたがるのは、カルト教祖気取りの人格です。ゆえに、双方向が成り立ちません。一見、まともなことを言っているように見せかけている分、いちばん悪性度が高いのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪悪感がなければ、悔いることがなく、ならば、学んで成長することもないのでしょう。上から眺めては、善悪や正邪の判断を、自分で決めつけてきますが、自分については、決して非を認めることがないのです。上に、反省は難しいと書いていますが、ふざけて「反省。とほほ」と、何度も書いてきました。
 
反省と書けば、反省したことになるのでしょうか、否です。反省したならば、その前と後で、違ってきて当然です。実際は、何の変化もありません。さらに「とほほ」は、反省するときに書かないでしょう。反省と書いたから、ええじゃろ・・と嘲笑っているのです。ふざけているのです。
 
 
 
 
無神教カルトにけしかけられて、神の存在の証拠を巡って論争するのは愚の骨頂です。証拠があれば、信じる必要はないのです。さらに分かりやすい証拠をもって存在する神は、キリストが表し、信仰者が信じる神ではありません。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変の神は、不完全な人間に、ご自身を容易く表し理解させるような安い神ではないからです。
 
 
 
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  楽山の詭弁と傲慢
 
 2022年04月12日
 「アンチ論法 ー詭弁とは何かー」を読んだ
 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を再度、批判。
 
 
先ず、楽山からの批判は無視してよいと思います。論理的に見せかけているだけです。論理の代わりに、楽山は迷路を用意しています。いちいち読んで返そうと思うと、精神疲労から人格破壊にもなりかねない危険な罠(わな)なのです。楽山については、次のようなことが言えるでしょう。
 
無反省、無責任、無理解、高等感情鈍麻、罪悪感の欠如、羞恥心の欠如、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自己中によって、人を傷つけることだけを狙った論理に見せかけた論点逸らしです。乗ってはいけません。卑怯なポイントを指摘するにも忍耐力が必要です。
 
楽山の偽善~悪意の言については、問答無用です。楽山からの反論めいた言は、全て、自分を見て反省することのない病質者の卑怯な詭弁です。相手にして関わるのではなく、全否定を向ける必要があります。決して、楽山の言い分に乗ってはいけません。
 
 
*アンチ批判
 塩氏がアンチ批判を書いていたので、その感想を書いてみたい。
 
感想を書くのだそうです。反論でも弁明でもないのです。楽山の遊びなのです。そういう者への返事は、皮肉か、辛辣な比喩か、皮肉か罵詈雑言でも十分でしょう。楽山は、訂正不能に悪質です。捨てるべきゴミ人格という前提で準備していたほうがよいと思います。
 
 
ちなみに、塩氏は名前を「春」に変えたが、ここではこれまで通り塩氏としておく。
アンチ論法 ー詭弁とは何かー 
①反対する事だけが目的 なので、相手の意見に噛みつく。自分の意見は希薄。
②枝葉末節に難癖で傷をつけ、全体の否定へ誘導する印象操作 。
③相手の主張の一部分を抜き出し、継ぎはぎし、勝手な作文を創作。 
④この時に「事実の列挙」と称してスクショする事がある。
午前8:56 ・ 2022年4月11日・Twitter Web App
 」
・アンチ論法は楽で便利な論法ですが、
・これを使い出すと止められなくなり、
・だんだん「駄目な人間」に落ちて行きます。
・麻薬のようなモノですね。
・ご注意下さい。
午前7:11 ・ 2022年4月12日・Twitter Web App
 」
*感想
まず塩氏のツイートをざっと読むと、今回もまた、アンチはこういうものだと決めつけるばかりで、その根拠は提示していないのが目につく。
 
楽山は批判されて都合の悪いことは、「決めつけ」と決めつけてきます。これは常習です。根拠を示しても無駄です。真摯な意見を、全て無視するだけのサイコパスだからです。ロシヤの裏地見るとプッツン誰かに似ています。決めつけられて反論するなら、決めつけだと証明しないといけなくなります。
 
楽山は、遣り取りしてはいけない相手です。理路の迷路に誘導されて、混乱させてきます。そういう手段だけを学んで蓄えて体質として染みついてきたのが楽山です。一見、詳しく論述しているように見せかけていますが、楽山に理路は成り立ちません。ベースとなる良識と良心がないからです。
 
 
たとえば、アンチは「反対する事だけが目的」だとしているが、そういう判断をした根拠は提示されていない。これ以外の「相手の意見に噛みつく」「自分の意見は希薄」「枝葉末節に難癖」「全体の否定へ誘導する印象操作」…などについても同様だ。そのため読者には塩氏の判断が妥当かどうか精査することは困難となっている。これではいかんだろう。
塩氏はこういう決めつけを繰り返し、いくら注意されても改めないことからすると、自分が悪いことをしているという自覚は全くないのだろうか。
 
アンチの人々には、カルトについて議論・反論してほしいと思いますが、楽山についてだけは、誰も関わってはいけないと思います。精神衛生上、楽山のような者は、役に立たず、糧にもならず、疲労と混乱という害だけが残ります。それだけを狙って、楽山は、長たらしい記事を書いてくるのです。
 
 
*事例(1)
 さて、一応、塩氏がこれまでにやってきた決めつけの例も提示しておこう。
アナタのやってる事は、全部、愚痴ですよ。
愚痴は自分で始末して下さいね。
午後0:43 ・ 2022年3月25日・Twitter Web App
 」
まず塩氏はここで、相手の意見を「愚痴」だと決めつけている。どこがどう愚痴だという説明はなく、ただ決めつけて嘲笑している。
 
楽山の言ってきたことは、全部、愚痴のようなものです。のみならず、悪意の神経疲労物質です。つまり、相手の精神にダメ-ジを与えることで、疲れさせ、退かせてゆくのです。楽山は、受けて答えるということが出来ないのだから、こちらも、楽山の言を受けて返す必要は、全くないのです。
 
それこそ、虫が好かない、話しても受け取らない、自己愛性人格障害だ、正常な受け答えが出来ない、自分の言いたいことだけを執拗に繰り返す、反省しない、責任を負わない、・・そういう屑(クズ)が、楽山です。楽山の臭い言に、吐き気を何度も味わってきました。
 
他のアンチと違って、楽山については、説き伏せるのではなく、追放することのみを目的とするべきです。でないと、こう言ったじゃないか、何を言ってる、という苛立ちだけで、むしろ、こちらの理路が乱れてしまい、精神衛生上の危機を迎えるからです。楽山は臭い屁、それで十分なのです。
 
 
*事例(2)
こちらでは、二世問題を描いた漫画には、事実誤認、冒涜、すり替えがあるとダメ出しするだけで、どの部分がどう間違っているという指摘はない。事実誤認が沢山あると決めつけ、悪印象をふりまいているだけである。  
私見です。
菊池真理子氏が描いた『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~第5話』を信者目線で見た場合、
・明らかな事実誤認・・・6カ所
・信仰の対象や教義等に対する不当な侮辱的描写、冒涜・・・13カ所
午前10:50 ・ 2022年4月9日・Twitter Web App
 」
・親子問題と自立の問題を信仰の問題にすり替え・・・10カ所
を確認しました。
作者におかれては社会に是非を問いたい気持ちだったのかもしれませんが、「多数の人を巻き込むデリケートなテーマ」なのでもっと丁寧に描くべきと思います。
午前10:51 ・ 2022年4月9日・Twitter Web App
 」
 
楽山には、誰に対しても、一切、批判をする資格はありません。楽山は自分の発言に責任を負わないからです。肯定し否定したから責任問題は生じない・・などという、幼稚な言い分でしたが、そういうことは、言論では、一切、通らないことを知らないのだから、実践して否定するしかないのです。
 
どう書くべき・・などという楽山の言い分は、自己愛絶対からの、自己中心による、いつのまにか、上から物を言う楽山の人格障害の症状です。他者は自分より下という前提だから、教える立場しか持つ気のない楽山です。理路など無く「悪印象を振りまいているだけ」なのは、楽山なのです。
 
どこが、どこがと、問い詰めてくるのは、理路を混乱させるための楽山の常套手段であり、詭弁であり、楽山自身は、言ったことの大方を忘れています。無責任の体質が、そうさせているわけですから、楽山を真に受けてはいけません。楽山と不毛の言い合いになる愚を避けてください。
 
単方向の言い合いになるくらいなら、批判をぶつけるのではなく、自分の記事として批判して、非人間の楽山を、最低の評価とともに、全否定してゆくしかないのです。
 
 
*事例(3)
こちらは、詭弁と決めつけずに、その根拠をきちんと説明すべきだと言われたときの返答である。
私は、アナタが「詭弁師」に見えます。
アナタは「あー言えば、こー言う」だけの人であり、
言葉に「信」や「真」や「芯」が見られません。
だから、これ以上のツイートは不要です。
残念です。
午後8:47 ・ 2022年2月18日・Twitter Web App
 」
どうやら、塩氏にとっては、自分に詭弁に見えたら、詭弁ということになるらしい。また相手の言葉に、信、真、芯が感じられなければ、それが無いことにもなるらしい。これではどうにもならん。
ところで、事例(1)、(2)、(3)の引用元を確認したい方は、引用文の最後の日付をクリックすればよい。そうすればツイッター上にある議論全体を見ることができるし、塩氏の決めつけの酷さが、より理解できると思う。
 
「自分に詭弁に見えたら、詭弁」「信、真、芯が感じられなければ、それが無いことにもなる」・・普通そうでしょう。そして、楽山は、何も返せないのです。返ってくるのは、上のような単純なクレームか、前に言ったことか、決めつけを根拠とすることだけなのです。
 
楽山には、良心がないと思います。楽山は、本当に「どうにもならん」人なのです。議論全体を見る必要はありません。私は、今まで、3年余り見てきて、病質が明らかと判断し、それ以上の議論は、健康を破壊されるので拒否しています。楽山は、精神衛生上の病原であります。
 
 
*おまけ
おまけとして、塩氏の昔のアカウントとされる棒氏の発言を貼っておこう。
「(画像省略)
2020-03-16 【二つの顔】 アンチは必ず嘘をつく
 」
これについては、アカウントごと、すべてのツイートは削除されているのだけれども、「アンチHSは必ず「嘘」を付く」という断言から、決めつけの酷さが分かると思う。ふつうの人は、いくら大嫌いな相手に対しても、なかなかここまでは言えまい。
 
アンチはどうか知りませんが、楽山は必ず嘘を吐き、詭弁を弄します。それは、3年余り指摘してきましたが、楽山は無反応です。こちらは、ある時点から、直接の遣り取りを拒否して、楽山からの異常な疲労の病原を浴びないようにしています。楽山は、つまり、宗教よりも、精神衛生上の敵なのです。
 
 
*まとめ
というわけで、アンチ論法なるものは、塩氏が決めつけているだけという結論になる。「詭弁とは何か」と書いているので、それなりの論証があるかと期待したが、それは間違いだったようだ。残念。
 
全然「まとめ」になっていません。楽山の勝手な見なしに感情的になってはいけません。楽山が無視する分、健康のために、楽山を無視するべきです。何か言ってきたら、「残念」ではなく、くだらん・・の一言でもいいと思います。決して、まともに相手にしてはいけない病質者が楽山です。
 
 
ただの感想や悪口であれば、「こう見えた」「こう思った」というだけでもいいかもしれないが、きちんとした意見を言おうとするなら、その根拠や論理も明示しなくてはならない。塩氏にはこの辺りのことを理解した上で発言して欲しいものだ。
 
楽山は、悪口を言うときにも、冒頭のように「感想を書いてみたい」などと書いてきます。つまり、楽山において悪口と感想は区別されていません。楽山は「きちんとした意見」を書いたことなどありません。なお感想も意見も、物を言うときには同じで、根拠と論理がなくていいということはないのです。
 
 
◇◆ 追記 2022.4.12 ◆◇
*念のため
蛇足ながら、上の議論に関連した私のツイートへのリンクも貼っておこう。こうしておけば、上に貼った塩氏のツイートが削除されても、議論の場所が分からなくなることはあるまいと思うので。〈 事例(1)、事例(2)、事例(3)〉
 
リンクは省略します。楽山は、議論したこともなく、核心を突いたこともなく、蛇足しか書けません。むしろ、核心から外してゆくのが、楽山の詭弁の常套手段なのです。リンクをつけるどころか、楽山の言は、一度も見ないのが幸いであります。
 
 
*投影?
今日の議論で、「アンチ論法」と塩氏の論法の共通項について指摘されていたので、そのリンクも貼っておこう。〈その1〉
もし塩氏のツイートが削除されて全体像が見られないなら、こちらを見ると良い。〈その2〉
それにしても、塩氏はアンチに噛みついては、返り討ちにあうことを繰り返しているけれども、なんでそんなことをするのだろうな。
 
楽山は、しのびやかに企んで、人を傷つけます。いつのまにか混乱させてゆくのです。「返り討ち」ではなく、最初から議論など出来ないので、議論に見せかけた迷路を用意してきます。いわば、楽山は、地獄を用意して、笑いながら待っているのです。これほど陰湿な悪意は珍しいです。
 
楽山の詭弁を受けないためには、楽山が何か言ってきたときは、バ~カですか・・とでも言って構わないと思います。さらに言ってきたときは、また、バ~カですか・・と言って、出禁だと言ってください。議論が得意な人も、楽山という詭弁だらけの変質者とは、受けず答えずにしてください。
 
話を聞いたら楽山のペースにはまります。アンチであろうとなかろうと、楽山を、部外者で、話にならない奴という見なしを与えてください。楽山のアンチは、他者と社会に向けたお笑いの「投影」に過ぎません。楽山の言を見ることは、毛虫を見るのと同じです。毛虫と議論は出来ません。
 
 
見せかけの言論者

見せかけの言論者
 
 
(2022年06月02日)
 
 
 
  むごい死
 
むごい死体だ
親しい友人もいなかったという
近所付き合いもほとんどなく
発見が遅れて
死後どれだけ経っていることか
少ない関係者から話を聞くにつれ
ひょっとしたら死ぬよりもずっと前から
すでに生きてはいなかったのかもしれぬ
昔は集まりや宴会にも出ていたし
ありきたりの付き合いをして
正直でおとなしく
酒を飲み過ぎて吐いたことも再三あったと聞く
 
他殺の線は消えた
病死らしいが
ここ数年は家にこもってばかりで
ろくに食事もとっておらず
栄養失調もあったらしい
孤独病・慢性自殺とでもいうか
最近はこういうのが多い
身元はすぐに割れた
番号や記号の類だから
身元確認だけは造作もない
 
最近はああいうのが多い
もっとひどくなるかもしれない
ときどき見かけるのだ
決まったルールの関係は多くても
関係をつくれない底辺が増えている
システムに乗り遅れた老人が
鼻をかんだチリ紙をじっと見つめていた。
マニュアルになった文書を抱えて
番号になった顔を隠して
システムの中の
数になることを拒んだ若者が
路上で激しく黙っていた
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自らの信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、「反省」は「大事」と言いながら、「実践」したことがない。「恥ずかし」と言いながら、恥を知らない。つまり、言ってること、全部、嘘。「そんな風」を吹かせながら、今日も、楽山という人間離れの性根は、また、嘘を吐き続けています。嘘吐き楽山のウソッピ物語です。
 
 
 
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  厚顔無恥3
 
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。"名無し"からの荒らしコメントです。シャロームの開き直りです。
 
私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白するから、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。嘘吐き、偽善者、ペテン師の、シャロームです。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
「血潮に罪贖われ」などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。どんな罪でも、甘々の自己中心に受容して気にしないシャロームです。信仰者が求めるのは、神に、罪を赦され、生きることを諦めないことであります。
 
自分信仰者の偽牧師シャロームの、汚い詭弁は、その罪を隠そうとして、隠せず、かつ、自己満悦に至って、人間とは思えないほどの、醜いイメージとともに、脂汗の不潔であり、もはや永遠に、神に受け入れられることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていない、という、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。言い換えれば、シャロームは、導かれていないか、導きを拒んでいるかであることを、自ら、表しています。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" を、自己正当化して、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。つまり、シャロームは、「すべてよかった」・・には含まれていないということです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。すごい詭弁です。
 
"すべてはよかった" は、天地創造の話です。被造物は、よかったと言っても、すぐ堕落の話になるわけです。その典型であるシャロームが、よかったことは、ないと思います。さらに、"人は指一本もなしうることはありませんでした" で、自分は何もしなくていい・・にはならないのです。すごい詭弁です。
 
この聖句にしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの悪意と反キリスト全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。
 
誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。楽山と、同一か、同じ体質だからです。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが自己愛性人格障害の悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らない楽山とシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。シャロームは、何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。あなたは、あなた自身の言論失禁の惨状に、もはや気づかなくなっています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
楽山は詭弁が、シャロームは偽信条がバレています。書いてくるのは、罪を感じないからなのです。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、発言しても、他者を引用しても、楽山とシャロームの穴だらけのパンツが臭く濡れてゆくだけなのです。
 
 
私たち人間は、人格的な知性と感性から交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のみのものです。したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。
 
その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけが表れています。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。あなたシャロームは、福音に聞かない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているだけです。
 
パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、見抜かれて、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。楽山とシャロームは、彼らの憎む神から、最も憎まれている者たちです。
 
ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁などを、好きなように言って、傍若無人を通してきた楽山とシャロームです。履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善と批判の集積という莫大な負の財産=記録=資料を残すことになります。楽山は3年、シャロームは10年分です。
 
 
憎しみへの絶対

憎しみへの絶対
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
(2022年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを自覚しません。素直さを持っていません。ゆえに、自らを正すことが出来ません。嘘と詭弁を重ねて、一人前に、出来た!と思う楽山の心性は、何の魅力もなく、卑怯で、既に失敗しているのに気づきません。自覚や反省という人間の当たり前の分別を、まるで持っていない楽山です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(絵文字:口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用リツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前8:14 · 2022年1月23日·twittbot.net
 」
 
モラルと人格へのハラスメントを生業(なりわい)とする楽山の本性を実感すれば「口を開けて冷や汗をかいた顔」になるでしょう。むしろ、「良識人であるという顔」をして、人を「≪悪者≫」にしてしまうのが、楽山です。ゆえに、楽山からの批判は、ことごとく楽山に向かうことになります。
 
こういうブーメラン現象が起こるのは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分を省みることが出来ず、人のことばかり評論家気取りで言う、という楽山の負の学習の結果なのです。それを知ってしまうと、楽山の文章は、とても恐ろしく感じます。
 
 
 
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  楽山の低格化
 
   神はいるのか、いないのか?
   (『あさっての風』三浦綾子著)
   2022年01月10日 楽山日記(LD)
    を批判。
 
 
楽山は、坊ちゃん、えらい、とでも言われたいのでしょうか。幼小児期から、物心が自己愛に置き換わって、信仰もないのに、救い、救われる幻想を見続けて、とても醜い垂れ流しの自我を、人前にさらして、恥を知らなくなりました。そして、厚顔無恥の凶暴性を表し、増悪ています。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の恐ろしく狭い視野で、論理遊びをしている楽山です。自分を見ないで生きていると、自分を排泄することしか出来なくなります。そこに、人間はいません。人無きがごとく、独り言を書いて、学問しているような自己陶酔に巣食い、巣食われるのです。
 
*偶然?
前記事を書いたあと、何気なく三浦綾子のエッセー集を開いてみたら、こんな文章があった。これはまさに前記事でテーマにしたものである。こういう偶然があるから読書はおもしろい。
神の実在を証明できないということは、神の不在も証明できないということにほかならない。
証明できないものを「ある」というのも、「ない」というのも、実は同じく非科学的なことなのだ。もっとも科学的な言葉は、
「神はいるか、いないか、どちらかです」 ということになろう。
(『あさっての風』三浦綾子、角川書店〈角川文庫〉、昭和52年、p.71)
 」
 
「神はいるか、いないか、どちらかです」・・当たり前です。どんなものもそうでしょう。神と神の存在を云々することの空しさを伝えているように思われます。楽山は、共感性がなく、深い考察が出来ないので、言葉面だけで、単純な命題として受け取っています。楽山の傍迷惑な低格化が進んでいます。
 
読めない、理解できない、理路がない、感受性がない、それでも書き続ける楽山は、無理の人となり、不感の人となり、不応の人となって、自らの内界の疎隔体験を、何やら、超常に解脱した悟りのように、思い込んだのでしょう。人間から遠ざかり、ガグガグと軋み外れる様相を呈しています。
 
*可能性
「神はいるか、いないか、どちらかです」というのは、その通りなのだろう。
しかし神がいる可能性と、いない可能性は半々ではない。
 
「半々ではない」・・なぜ、そんなことが、楽山に分かるのでしょう。つまるところ、自分は特別に偉いんだと言っているのと変わりありません。「半々」ではなく、皆無という言葉が当てはまるのが、楽山の言の中身です。楽山らしく、まるで実感のない文章が続きます。
 
たとえば神の存在は人類が何千年かかっても証明できておらず、現代では自然の成り立ち、人類の起源など、多くのことが神を持ち出すことなく説明できるようになっている。
 
楽山は、神の証明という虚しいことを蒸し返し、人の話など聞いてないことを表します。すごく単純に、お気楽に、科学の大問題を取り上げて、「人類の起源」「証明できるようになっている」などと言っています。真理も真実も、オモチャのように扱って遊んでいるのは、楽山という髭の生えた幼児です。
 
これらを考慮すると、神がいない可能性は非常に高く、いる可能性はほとんどないと結論するのがもっとも理性的な態度と言えるだろう。
 
「神がいない可能性は非常に高く、いる可能性はほとんどない」・・すごいです。呆れます。何をもって「言える」のでしょうか。楽山は、何も示していないのです。楽山は、空をちぎって食べるのでしょうか。自分の思考の不毛と不在を語り続ける楽山です。理性のない楽山の信頼度は、既にゼロです。
 
とある人は「神がいるのか、いないのかは分からないが、多分いないと思う。だから自分は不可知論者ではあるが、限りなく無神論寄りの不可知論者である」と言っていたが、理性的な人ほどこれに同意する人は多いのではないだろうか。
 
「無神論寄りの不可知論」は成り立ちません。ないことと、知りえないことは、全然違います。前者は、否定であり、後者は、人間の能力の不完全を表します。楽山が、いかに、神と信仰の否定の言葉を漁っているかが分かります。論ではなく、涎(よだれ)です。お腹の空いたケダモノの所業です。
 
「神はいるか、いないか、どちらかです」と考える時は、前記事にある思考のトリックにはまりこまないよう気をつけることが大事である。
 
「神はいるか、いないか」を理屈で考えること自体が、考えて答えが出ると思うこと自体が、楽山の、人をだますための思考のトリックなのです。楽山の仕掛けた、とても安っぽい罠にはまることのないように、お願いします。楽山は、書くたびに破綻が進み、安さ、軽さ、薄さに、退行してゆくようです。
 
 
落ちる、堕ちる

落ちる、堕ちる
 
 
(2022年01月11日)
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている

拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
  泣きべそ
 
笑いの中に花が開いて
その花を閉じたところに
人の手がほんの少し触れて
さらにそれを
自分の手で強く握り締めてしまったから
泣きべそがポロポロ
落ちている次から
次へ違った
いびつさになっているだけなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、誤りを認めず、ゆえに、訂正不能の妄想となり、そこに、人格を、どっぷり嵌って、精神機能の代わりとしているのが、楽山です。そこで慢心してしまうと、楽山=妄想という人生になります。自分だけ成り立ったと思うことで慰めとして、口走ることが、いかに恥ずかしいか、気づかないのです。
 
 
 
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  無恥なる天狗
 
 自分の判断力を過信しないということ 
 (モンテーニュ『随想録』)
 2014年03月15日 楽山日記(LD)
 
 
(ネットより)
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne [miʃɛl ekɛm də mɔ̃tɛɲ], 1533年2月28日 - 1592年9月13日[1])は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者[2]。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。
、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。
モンテーニュ
 
どんな人足でも、無知な女でも、自分相応に分別をもっていると考えなかった者は一人もいない。われわれは容易に他人のうちに、勇気、体力、経験、敏捷、美貌などの優越性をみとめる。けれども、判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない。
(『世界の大思想7 モンテーニュ 随想録(エセ―)下』松浪新三郎訳、河出書房新社、昭和48年、p.211)
 
楽山は、「自分相応に分別を」持っていません。自分不相応の高慢を持っています。その表れが、無反省に書いてきて、人の言うことを聞かず、一切、責任を負わないことなどです。この性質が、自己愛性パーソナリティ障害NPDであり、実質無き思い上がりの惨劇となっています。
 
「判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない」・・言論の達人ならば、発言ごとに、逐一、根拠を述べることが出来るでしょう。楽山は、一度も、そして、ひと言も、根拠を示すことなどできなかったのです。
 
これには首肯しないわけにはいかない
自分は、まったく、ここで指摘されている通りの人間である
 
楽山は、全く、上に指摘された人間ではなく、そこから、ほど遠い未熟と怠慢の典型例です。
 
自分なりに、謙虚さは大事だと承知しているつもりだし
過去に判断をまちがったことも何度もあるというのに
それでも
「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」
という自惚れを捨て去ることはできないのだから
我ながら懲りないやつだなあと思う
 
楽山には、丁寧語でごまかすだけで、謙虚さの欠片もありません。「「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」という自惚れ」という自覚があるなら、訂正・修正もするし、懲りるはずなのです。楽山自体が、既に、節穴なのです。
 
自分の判断力を妄信することなく
物事を冷静に見極めるというのは
本当に難しい。
 
妄信をやめることが難しいなら、言論しないことです。冷静に見極めるなど、できるはずもないからです。その無自覚の結果として、楽山が書くたびに、冷静も真理も真実も裏切って、ゆがみと偏見と詭弁と嘘の醜態が、あらわになってきたのです。
 
 
 
 思いと言葉
 楽山日記(LD) 2014年03月15日
 
 
古い壁画のなかには
外気に触れると
急速に劣化して
ダメになってしまうものもあるという
秘めた思いも
これと似たところがあって
言葉に出した途端
ダメになってしまうものもあるかもしれない。
 
楽山においては、秘めた思いが、偽りと不合理に満ちて、腐っており、表した言葉が、嘘と詭弁に満ちて欺いていると思います。秘めた思いなどは、つまるところ、楽山においては、隠し事に過ぎず、最初からダメであり、言葉を公開すれば、このように醜悪になります。
 
 
 
 昼と夜
 2014年03月16日
 
 
昼と夜ではなく、表と裏の顔を持つ楽山です。柔和芝居、同情芝居、謙虚芝居、など、数えきれない三文芝居で、大根役者の楽山が、何か書けば、必ず、恣意の、作為の、詭弁と嘘が、着いてくるからです。まさに、虚偽は、楽山の衣服であり毛皮であり毛嚢なのです。
 
電車の窓は
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつります
自分の心も
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつるようです
 
知恵の足らない者ほど、ちょっとしたことに、無駄な意味づけをするものだと、詩か何かの本に書いてあったのを思い出します。楽山は、外界も、自分の姿も中身も、ほとんど見えてないことが、今まで楽山が書いてきたことに表れてきたのです。
 
洞察は皆無、共感も皆無の楽山です。楽山が、映ったというも思い込みを、外に反射させないでください、人に見せないでください。それは、とてつもなく有害です。
 
自然はうまいことできているもんです
 
楽山は、うつる自分の姿が、自然だと言うのでしょうか。楽山こそ、邪悪さのために不自然な世迷言を書いてきた人です。ですから、ここも、その一つなのです。何やら、哲学者の達観や警句であるかのように書いて、実際には、汚れた自分の尻を吹いているだけの楽山です。
 
 
 
 楽山日記(LD)
 2014年03月16日
 天の倉に富を積むことの是非
 
 
楽山の悪意は、底を知らず、天を知らず、地を知らず、無節操に、言葉を乱用して、他者の心を壊してゆくのです。宝や倉の代わりに、楽山の地底の牢獄の罪状が積まれるだけなのです。
 
他所で
天の倉に富を積むことについての
いろいろな意見を読みました
たしかに
天の倉に富を積むことを意識しすぎるのは
よくないかもしれません
 
よくないのではなく、意識しにくいということです。何故なら、天を知らないからです。ゆえに、天に宝を積むとは、地上の富を求めてばかりいる災いと不幸を明らかにするために語られているのです。地上の富は、大方、欲望によるものだからです。
 
そんなことも分からずに、底意地が悪く、かつ、理路も情感も弁えない楽山は、「天」を、詭弁の具材として悪用しているのです。そうして、楽山は、だまして使う従者、即ち自らの奴隷の数を積みたいのでしょう。楽山は、地上の最も悪質な狩人の部類であります。
 
トンデモ解釈ですし、嫌味な見方ですけど
天の倉のことばかり気にしている人を見ると
金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいという教えは
地上の富に執着する人ばかりでなく
天の蔵に執着する人についても言っているのかもしれない
という気がしてきます
 
「天の蔵に執着する」という言葉を机上でいじくる詭弁です。誰が、それを明確に意識できるというのでしょう。地上の富だけでなく、楽山のような甘言による詐欺的説教に頷くことも含めて、この世の偽りの富や慢心よりは、もっと求めるべきことがあるだろうという意味に受け取っています。
 
トンデモ解釈は、詭弁屋の楽山の持ち物です。そして、書くたびに唾のように撒き散らすのです。それが、いかに汚いかを、暴いてゆく必要があるゆえに、楽山批判は続いています。天の蔵に執着するのではなく、楽山のように、有頂天自己愛執着にならないことが何より大切です。
 
 
 
 真実か? 幸福か?
 2014年03月19 楽山日記(LD)
 
 
得意気に、デタラメな言葉を、次から次へと並べて、あげつらって、詭弁を吐く嘘吐きの楽山です。だまされないように願います。
 
真実と幸福とは、必ずしも両立できるとはかぎりません。
幸福のためには、真実を知らない方がいいときもあります。
真実を知りたいなら、幸福をあきらめなければならないときもあります。
真実と幸福、どちらも同時に手に入れられたら、それはとても運がいいことだと思います。
 
真実を知ることの幸福を考える、ということを出来ない楽山です。だまされて幸福になることを想定してしまう楽山です。まさに、真実を知らせず、幸福っぽい丁寧語を吐いて、だまそうとしている楽山だからでしょう。
 
実に、質(たち)の悪いペテン師、楽山の、吐き気のするような詭弁です。真実も幸福も、運ではありません。人間が真摯に求めるものです。真摯、誠実、良心、などのない怠慢な楽山には、縁のないのが、真実と幸福です。
 
 
 
 2014年03月19日 楽山日記(LD)
 無神論は信仰か
 
 
身の毛がよだつ詭弁屋の楽山です。
 
無神論は神はいないという信仰にすぎないという意見があります。これには一理あるかもしれません。けれども、わたしは、これとは違う考え方をしています。無神論は“ほぼ”現実であり、そんな現実を直視した上でもなお神を信じるのが信仰ではないかと思うのです。
 
神はいないということを現実だという前提で語ることについて無反省かつ無責任な楽山です。人間の日常ではなく超常については、生きる縁(よすが)になるかどうかだけが問題です。楽山の、無神論が現実を前提として神を信じるなんておかしい、ということを材料にする悪質な誘導です。
 
つまり無神論は現実にすぎず、信仰はその現実(無神論)を超えるものではないかという考え方です。わたしはこんな考え方なので、神を信じることも、信じないことも同じ信仰だとして両者をならべることは、信仰をこの世の現実(無神論)のレベルまで引きずり落とす行為のように感じられます。
 
信仰が現実と無神論を超えるもの・・なんて、楽山は毛ほども考えていません。神はいないのが現実じゃから、信じるほうがおかしいじゃろ・・という方向への誘導です。信仰を引きずり落としているのは、楽山であります。
 
神について、信じることと信じないことを、並列できないのは、信じることには祈りなど言動と務めが伴い、信じないことには楽山のような怠慢が蔓延りやすい、という違いがあるからです。嫌らしい詭弁を使って、信仰を貶めようとしてくる反キリストの楽山を決して相手にしてはいけません。
 
 
 
 いろいろな神様
 2014年03月21日 楽山日記(LD)
 
 
神様は、楽山の未熟が語るような「いろいろ」ではありません。
 
この世界を創造し
人々を見守り
祈りを聞いたり
時には奇跡を起こすこともある
慈悲深い神様
 
これは誘導としての世辞です。
 
この世界を創造したあとは
人々を見守ることも
祈りを聞き届けることも
奇跡を起こすこともなく
何の干渉もしない神様
 
何の干渉もしないか、しなかったか、これは、人間には分かりません。楽山の視野に、洞察力がないために起こる先入観であり、神否定のための砂を蒔いているのです。このように、楽山は、いつも、全能の神を、俯瞰するような態度で見下しています。そこには、一片の洞察もありえないのです。
 
この世界の秩序のもととなるものであって
霊界法則などの超自然的なものではない
物理的な法則としての神様
 
楽山には、前から言っているように、心がありません。ゆえに、神についても、人についても、心についても、物理法則などと言ってしまいます。「霊界法則などの超自然」・・こういうものだけを、楽山は、神と呼んでいるために、宗教も信仰も、人間離れしてゆくのです。
 
正直な感想を言えば
一つ目の神様には
どうしてこの世の悲劇を放っておくのだろう
と疑問に思わないではいられませんし
二つ目の神様には
さみしいような、物足らないような心地がします
三つ目の神様は
その存在にこれといって疑問はありません
 
神を仮定したうえで、楽山は、バーゲンのように、自分の好みと必要に合うかどうかを考えています。楽山は世界のことなど考えていませんから、結局、実際には、どうして自分の悲劇を放っておくのか、という疑問~怒り~怨念だけがあります。自己愛性人格障害の特徴と言えるでしょう。
 
楽山が、捏造する神には、何の真実味もありません。全部、楽山自身だからです。慈悲深いという嘘、鑑賞しないという嘘、それは、摂理も理路もない楽山なのです。詭弁を書いて、詭弁の神を否定して、自分がいかに偉いかを語るピエロ、それが、楽山です。
 
 
曇天境地

曇天境地
 
 
(2021年10月06日)
 
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
 
切られたものが見当たらない
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
 
目の上にピッ
何かが撥ねた水滴
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
 
  狂気の椅子
 
狂気は病院にではなく
病人にでもなく
ありふれた口や顔が
集まり離れるところ
いつも何気なく
さりげなく
何事もないかのように
様々に色を変えて働く
 
個がなくなるとき
同時に声を変色させ
同じ色に眼を曇らせ
手を上げ押し寄せ
叩き痙攣する
 
個が過剰になるとき
刃物を探り
爆発の炎に燃え
殺意の来客を迎え入れて
白昼から密談する
 
ここに狂気がある
同じように正気がある
一皮むけると切符を握り締めて
どちらかが口になり顔になるのだ
 
危うげに揺れる明け暮れに
虹色と土色の暇(いとま)を転がしている
誰もが一度ならず腰を触れ
誰も見えない椅子の上
 
 
 
 
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