ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:厚顔無恥

 
  楽山の空想~症状
 
 『小説 地球万華鏡』大川隆法著
 2021年09月21日
 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
 
 
楽山は、結局、脱会は表札のようなもので、実は、ORが好きなのでしょう。ORのようになりたい、教祖になりたい、多くの自分の信者に崇拝されたいのでしょう。実質のないリーダー願望は、超常趣味を通して、結局、カルト妄想へ向かいます。空想の故郷から、離れられないのでしょう。
 
*はじめだけ
 『小説 地球万華鏡』がツイッター上で話題になっていたので、はじめの三編ほど読んでみた。以下に感想を書いてみたい。
*あらすじ
まずは、はじめの三編のあらすじをメモしてみる。
第一話では、天災地変のことを天照大神、天御祖神の神罰と考えている人が、カエルやヘビになった人たちと会って問答してる。
第二話では、閻魔大王が現代人の宗教心のなさに苛ついている。特に不可知論にダメ出ししている。最後は一話目と関連をもたせている。
 
「カエルやヘビになった人たち」「閻魔大王」・・楽山の大好きな超常ホラー話のようです。お伽噺とも言えるでしょう。大人になれなかった楽山の、憩いのひとときなのでしょうか。それで、カルト批判を書くとは、どれだけの嘘と虚妄に生きているのでしょう。
 
第三話の主人公は、著者自身がモデルらしい。心臓の病で重体となり、一人目の妻がどうした、再婚してどうしたとか書いている。後半は広瀬すずがモデルらしい霊がでてくる。最後は、すず霊とは前世で男女の仲だったのではないかと期待したのだが、そうではなく父娘の関係だったと分かって残念がるのがオチになっている。
 
結婚、女優、前世の話、男女の仲、・・楽山の夢想と願望が無意識に抽出されているような気もします。楽山の父子の関係はどうだったのでしょう。恋愛と結婚はどうだったのでしょう。こういうことを本にするORへの憧れでしょうか。羨ましいのでしょうか。
 
*場面
上の三編を読んで脱力してしまったので、あとはぺらぺらと飛ばし読みするだけにしたのだが、その時に目に入った場面をメモしておく。
白人女性とホテルに入ったのだが、シャワーを浴びている間にお金を盗られた話。
ゲイは当時はホモと呼んでいたという話と、パンツを下ろされた話。
…ふう、自分はここらでぺらぺら飛ばし読みでも力尽きてしまった(笑)。
 
ぺらぺらと飛ばし読みしたところを、わざわざ書いてくるのは、「お金を盗られた」「パンツを下ろされた」ことでもあるのでしょうか。しかし、読む側としたら、余計なことですから、全体の感想文を、くだらないものにしてゆくでしょう。そういうことに気づかないようです。
 
*感想あれこれ
以上のことについて、自分はこんな感想を持った次第である。
大川隆法とその周辺の人々がモデルとなっているらしい作品は、HSウォッチャーにとっては面白かろう。
 
HSウォッチャー、まさに、楽山自身ではないかと思われます。自分を見ることだけは出来ない楽山は、他者を批判すれば、批判する資格がないことを指摘される立場です。ゆえに、古巣?に、回帰するような気分が動機なのかもしれません。居心地が、よかったこともあったのでしょうか。
 
以上の文章では、批判者の立場を守っている自分を見せるために、表面的な事柄について、ゴシップのように、いちゃもんのクレームをつけています。本質的な宗教と信仰の問題から、空想の方向に目を逸らしていることに注目するべきでしょう。
 
三作品については、小説としての味わいは皆無。名句のような趣、名歌のような情感もなし。
文体、雰囲気は、鼻につくところがある。
 
予測できそうなものです。予測したら見ないでしょうが、楽山は、もはや、ORの書いたものだから、何を言ってもいいだろうと思っているような気楽さで書いているのでしょう。何より「味わいは皆無」「情感もなし」などの評論家気取りが、いつも、鼻につく楽山です。
 
以上の楽山の文章には、味わいがあったでしょうか、名句のような趣きがあったでしょうか、名歌のような情感があったでしょうか。皆無です。あったのは、ボンヤリ言語の曖昧さと、トホホ言語のわざとらしさだけだったのです。厚顔無恥だから書けることです。
 
「僕のユーモアは最高に機知がきいてるだろう」「僕の書くものはすごく面白いだろう」という得意気分が丸見えになっていて軽佻浮薄。どっしり腰を落ち着けて、よく考え、推敲を重ねようとする真摯さは感じられない。
 
楽山は、高慢が表れているORの筆致に、軽佻浮薄と書いています。私は、この四字熟語を、昨日、楽山に当てはめました。言いたいのは、上のような高慢は、誰よりも、楽山に当てはまるということです。しかも、楽山の場合、それをごまかす丁寧ボンヤリ言語付きなのです。
 
まさに、これは、深く考えてもおらず、推敲もしていない楽山の筆致のことです。そのまま、楽山の無反省・無責任に対応します。しかも、楽山は、その自己愛性人格障害から、おとしめ、だます意図をもって、書いてきたということです。自らの優越意識から悪意を表してしまう楽山です。
 
昼間、一般女性に対してさえ、「やあ、ねえちゃん」と呼びかけ、ニヤニヤ、ベタベタする昭和のセクハラオヤジの雰囲気があちこちに見え隠れしている。そういう人のギャグセンスと同質のものがある。
 
「やあ、ねえちゃん」・・この例示だけだと、ギャグセンスの問題ではなく、下品なだけのような気がします。例をあげないで、「ニヤニヤ、ベタベタ」「セクハラオヤジ」・・などと汚い悪口を並べれば、楽山の、文章のセンスが問われてくるのです。
 
神秘というけれど、自分が見た範囲ではどれもHS教義にそった物語になっている。マジックリアリズムの作家のような驚くべき発想、神秘、迫力はない。著者はラテンアメリカの作家の作品はまったく読んでなさそう。
 
(ネットより)
マジックリアリズム(英: magic realism)、魔術的リアリズム(まじゅつてきリアリズム)とは日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。幻想的リアリズム、魔法的現実主義と呼ばれることもある。
1940年代ヨーロッパから帰国したアレッホ・カルペンティエールやミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどがラテンアメリカの文学表現として使い始めたことにより主にラテンアメリカ作家が好んで使う技法となった。
 
HS教組がHS教義に沿った話を書くのに、楽山の趣味に合わせることはないでしょう。また、ラテンアメリカの作品を読むべき必然がどこにあるのでしょう。楽山は自慢したいのでしょうか。むしろ、子供みたいに、自分中心に世界が回っている精神が表れているだけのようです。
 
不可知論、懐疑論に特にダメ出ししてるところは面白い。大川隆法は何でも分かる、知っていると言いたがるタイプだから、人の知には限界がある、分からないものがある、何も知ることはできないという考え方が好きでないのは了解できる。
 
「了解できる」の了解というのは、理解して承認するニュアンスを含む言葉ですが、楽山は、不可知が好きでない、ダメ出しして、即ち、知っている、というORの考え方に賛成なのでしょうか。教祖願望から、アンチではなく、擁護するようなことを言っています。
 
ここの引用も、今まで、訂正不能に、神聖の辻褄合わせが成り立たないから神はいないと、何でも分かっている妄想的自己愛から、いちゃもんをつけてきた楽山に、そっくり当てはまるのです。他者のことを言うが自分だけは見ない楽山の病質が表れています。
 
やはり、楽山は、オレなら、もっと知的で、優秀な教祖になれると夢想しているようです。しかし、楽山には、今まで、ずっと、他者に丁寧語でごまかして取り入ろうとしても、病的ナルシストの悪臭があるだけで、カリスマ的な非凡さも魅力も、皆無であります。
 
無神論者には「神も仏もあるものか」という単純な考えの人は多いし、そういう人はHSに関心を持たず、いちいち批判したりもしなかろうが、懐疑論者はHS教義を吟味し、細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようとする傾向はあるだろうから、大川隆法が前者以上に後者を毛嫌いするのもある意味当然かもね。
 
「細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようと」して、キリスト教と信仰を、否定してきた楽山の言は、極めて幼稚な超常話の延長にある子供じみた駄々に過ぎませんでした。心の問題について、楽山は、ひと言も語れなかったのです。代わりに、わざとらしい感動芝居が臭かっただけです。
 
どうも大川隆法の本音は、法話よりも、詩や小説の方によく出ているようだ。一般の作家は作品とは一定の距離を保つから、作中人物と作者とが完全に重なるとは限らないのだが、大川隆法の場合は自分の考えをそのまま作品に出さないでいられないタイプらしい。
 
楽山は、体質的に、何か書けば、そこに自己愛性人格障害が表れてきました。つまり、楽山は、無反省と無責任に加えて、羞恥心と罪悪感と反省力の欠損が見られ、情緒を受け取れないために大仰な感動言葉や、「反省、とほほ」といったお情けちょうだい言葉を多用するしかないのです。
 
作品の完成度より、自己顕示欲を優先してしまっているのだろう。これはHS映画でも同じかな。HS映画の完成度を落としてでも、自分が表に出たがるとか。
 
まるで、楽山は自分のことを言っているようです。このようなピエロ的な成り行きに、病的ナルシストは、押し出され壊されてゆく必然なのでしょうか。ちなみに、楽山の書いてきた文章は、完成度を云々する以前の段階であり、症状であります。
 
とりあえず、今回の感想はここまで。
気力が回復したら、本書の続きを読んでみるつもりだけど、他の作品も、冒頭の三作品のようなものばかりかな。それとも「賢者の贈り物」のようないい話はあるかな。期待はできなそうだけど、きっとあるはずだと思うことにしておきたい。
 
楽山の感想文で、いい話は伝わってきません。何故なら、楽山が、反省せず、自己愛と自己中で、自分を高める方向にしか進めないからです。楽山の無反省は、いくら見せかけだけの「反省」「痛いところ」などと書いても、その前後で何も変わらなかったことが証拠です。
 
楽山の感想文は、いつも自己正当化と自己賛美のために書かれる、ということが、今回も、くずれた知情意によってあらわになっています。人格崩壊の秒読みが始まっているのでしょうか。文章の質などお構いなしに、書かずにはおれない楽山です。
 
 
無芸の芸自慢

無芸の芸自慢
 
 
(2021年09月23日)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
(※ 想像です。実際の薬物効果ではありません。)
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑み
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに濡れ続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
(昔々・・)
 
 
 
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楽山は、また、学者の言を利用して、当てつけてきます。やりたい放題、利己のために、他者を悪用して平気な楽山です。自分の意見を組み立てられないからでしょう。予定変更して、批判します。
 
 
  楽山の絶望宣伝
 
 知ることと信じること
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月26日 楽山日記(LD)
 
 
信じない人のための・・という前提で、いかなる福音も存在しません。まるで、希望を捨てたような乾燥して実感のない筆致で、楽山は語ります。学問の名のもとに、キリストを磔にするのは、こういう者たちだと思います。絶望の伝道者、いや、中間宿主と言ってよいでしょう。
 
(ネットより)
中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ、intermediate host)とは、ある種の寄生虫において幼生期の発育を行い、成虫が有性生殖を行う宿主が別の動物である場合の宿主。
 
*新鮮な考え方
宗教では信じるか信じないかということは重要な論点ではあろうし、自分もそのように考えていた。
でも中村圭志氏の著書を読んでいたら、それとは正反対の考え方が提示されていたのでメモしておきたい。
一般的に言って、宗教に関してむしろわたしたちが気にすべきことは、「信じる/信じない」の境界線ではなく、宗教を構成する要素(教義、儀礼、歴史、開祖に関する事柄)を「知っている/知っていない」の境界線の方です。信じるか信じないかは、こう言ってよければ、主観的な問題です。しかし、基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.9)
 」
 
「基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう」・・・基本的な情報などと、宗教をまとめてしまうところが、既に、傲慢だと思います。こういうのが大好きな楽山によって、インテリ気取りの餌になっています。
 
キリスト教と信仰は、信じる者のためにあるのであって、信じない者にとって基本的な情報などはありません。一般教養としての宗教など、誰も救えはしないのです。まさに、著者は、キリスト教のことではなく、社会通念アーメンソーメンのことを言っています。何の意味があるでしょう。
 
著者が言うには、たとえばキリスト教を信じるといっても、福音書にある奇跡を文字通りに信じる人もいれば、それを信じない人もいるし、そもそもそんなことはどうでもいいという人もいる、イエスを超能力者か何かのような存在だと信じる人もいれば、イエスの徳の高さこそが神の証と信じる人もいるなど、その信じ方は様々で原理主義的なものもあれば、信じないに近いものもある、信じるか信じないかの間には明確な区分はなく連続している、それならばそこにこだわる必要はないのではないかということらしい。
 
信じるということは、生きる縁(よすが)にするということです。楽山は、鼻くそのようなことを書いていますが、このような興味本位の、本気がどこにもなく、オモチャで遊んでいるような、ああでもないこうでもない先生気取りの楽山の、どこにも信はないのです。ずっと、そうです。
 
信仰は、趣味的に扱える問題ではありません。有か無かという人生そのものであり、命そのものであります。"信じない人のための福音" など存在しません。あざ笑うサイコパス楽山は、否定と軽視のための、絶好の餌を蒔いてくれるボンヤリ人間を見つけたようです。
 
そう言われてみれば確かにその通りではある。信じるか信じないかという主観にこだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが、そこにはこだわらず客観的な情報を得たいと考える非信者にとっては信じるか信じないかはそこまで突き詰めて考えねばならぬ必然性はなく、それよりは知っているか知っていないかの方がよほど重要ではあるだろう。
 
何事もなかったかのように、へらっと軽く書いてくる、いつもの、罪悪感を持たない楽山の筆致です。「こだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが」・・最近、しばしば、楽山が書いてくる免罪符のセリフです。凄まじい "すっとぼけ" が隠されています。
 
非信者にとっては、信じないのだから、何も突き詰めることなどないのです。非信・不信を前提に、信仰を考えることも論じることも、ありえません。楽山は、庭を見ながら、一生懸命、月の裏側のことを、まくしたてているようなものです。
 
信じない者にとって、宗教は、知識としての教養であり、救いとかも、癒しとかも、含まない、歴史と文化の問題に過ぎません。その知識から、信仰に至る者が表れているのですが、楽山も、引用元も、教養をひけらかすだけの、いわゆる偽善者であります。
 
*愉快
知ることと信じることについては、自分なりにあれこれ考えてきたつもりではあったが、恥ずかしながら自分は上のようなことは思いつきもしなかった。
それだけに本書を読んでこういう考え方を知ることができたのは愉快である。近頃は読書欲が衰えてきていたのだが、やっぱり読書というものはいいものだと改めて感じた次第である。
 
楽山は、この2年余り、何も、考えてきた跡がありません。楽山は、人を、信仰者を、良心を、神を、あざ笑う術(すべ)だけを身に着けています。だから、読むたびに、吐き気がしていたのでしょう。楽山は、サイコパスだから、そうなることが、愉快なのでしょう。
 
読めない者が、理解できない者が、読書をすると、どうなるか・・、読んで何も受け取っていなくても、知ったかぶりをして、人を、あざ笑うようになるのだ、ということが分かります。楽山は、今まで、見てきただけでも、良いことを思いつくことなどない人だということです。
 
真(まこと)のものを、善きものを、美しいものを、何も提示できない楽山です。だから、自分で、「いいものだ」、また、今までも、これからも、「反省」「とほほ」などという言葉だけを繰り返すしかないのです。
 
自分が優位だと見せかける言葉とともに、滅びを体現している楽山です。これこそ、ホラーなのです。今まで、批判記事を書いてきたのも、また、今、この、楽山の、異常な体質を書くのも、サイコパスのこの男に潜むホラー性を暴くためであります。
 
 
絶望宣伝が趣味

絶望宣伝が趣味
 
 
(2021年07月27日)
 
 
 
 楽山の成りすましではないかと思っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·5時間
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
スルメ・デ・ラ・ロチャ
@surumelock「
(マンガですが省略、その中のセリフ))
人生を変えようとする人を叩くのは
人生を変えられない人だからな
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 」
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、楽山は、人のことを言っているつもりで、自分を表しています。
 
他者の人生に破壊をもたらす楽山は、無反省、無責任で、訂正不能です。変わることなく、人に、自己中を吹き込み続けて、ますます、自分を変えられなくなっているのです。楽山にありがちな、何も持たないのに、物申す病質の宿命でしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13時間
HS信者さんは、他人から意見されると、すぐに逆ギレする人が多い印象があったが、
Takayukiさんはそうはならず、落ち着いて自分の考えを話してますね。
今でもそういうことができるHS信者がいたのかと、思わず感動してしまったよ!
引用ツイート
Takayukl太陽の光エルカンターレを信じよう
@E8tKm
返信先: 
@ryouran1011さん
ご指摘ありがとうございます。
正しい信仰を持つことは素晴らしいことです。
大川隆法総裁が地球神であるなら、すべての人類にはにはその教えが必要です。
幸福の科学を広めてはいますが、押し付けはしていません。
信仰は自らの手でつかみとるものです。
午後8:23 · 2021年7月24日·Twitter for iPhone
 」
午後10:12 · 2021年7月24日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。楽山批判です。
 
教理を批判していたのではなく、HSがおかしいと言っていたのではなく、落ち着いたHS信者なら、感動?するのが、楽山の軸?なのでしょう。宗教についてカルトについて一定の見解も批判軸なども持っていないことが表れています。
 
この軸のなさは、楽山が味方だと思うことの大きなリスクを表しており、批判あるいは無視されるべきだということを、再認識することになります。こういう、いい加減さが、人々を、かき乱してゆき、本人だけが、正義の味方気取りで満悦することにつながっています。
 
私としては、楽山は、もちろん、神ではないし、良いものを広めてはいないし、嘘と詭弁で誘導していると思います。正論ぶっても、自分の手で何もつかみ取っていない自己愛性パーソナリティ障害NPDだと思っています。楽山は、どこまでも、手段を選ばず、あくどいです。
 
楽山は、キリスト信仰についても、神はいない、信じ過ぎてはいけない、などと言いながら、ある教会を褒めたり、賛同するような幼稚な詩のようなものを書いたりしています。しかも、他者の言や、有名人を引用して、箔をつけようとします。楽山は、軸のない病質者なのです。
 
楽山を、少しでも柔和だとか、ときには良いことを言うとか、部分でも、肯定してはいけません。そういうのを利用する男です。受け入れれば、振り回され、疲れ果てることになるでしょう。楽山は、まともな言論者ではありません。批判は、楽山を変えるためではなく、全否定するためです。
 
 
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  繰り返す厚顔無恥2
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という、過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。
 
"名無し"からの荒らしコメントです。私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。
 
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白して、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。
 
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
 
どんな罪でも自己受容して気にしないシャロームですが、信仰者が求めるのは、神に受け入れられることであります。シャロームの、汚い詭弁は、永遠に、神に受容されることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていないという、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" のを、自分で台無しにして、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。
 
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。
 
しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。
 
さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らないシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
 
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
 
私たち人間は、人格的な交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のものです。
 
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
 
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
 
あなたシャロームは、福音に聞き従わない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているから、パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。
 
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
 
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
 
このように、ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁など、いい加減なことを、好きなように言って、傍若無人を通していると、履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善に対する批判記事の集積という莫大な負の財産を残すことになります。シャロームは10年分です。
 
 
恥知らず

恥知らず
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
 
 
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  楽山の無頓着
 
 思想・教義に無頓着な人たち(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月30日 楽山日記(LD)
 (リンクなど省略)
 
 
楽山は、自分の偽善と悪に対して、誰よりも無頓着の、不感不応であり、自分の悪に気づかずに、やたら、他者をおとしめることだけに快感を覚えて、迷惑な雑言を書き続けるだけの、誰を批判する資格もない悪口であります。
 
無頓着は、過ぎると、人間の判断力と高等感情の鈍麻ということになります。そこまで行っているのが、置かれている状況も立場も弁えす、だらだらと、評論家気取りで書き続けている楽山です。
 
私が記事を書いて、楽山の嘘と詭弁を、無反省で無責任だと批判したら、楽山は記事を書いて、はい、そうです、という意味にしか取れないような、嘘と詭弁の言い逃れを書き加えて、自分で自分の嘘と詭弁を証明してしまう成り行きの繰り返しになっています。
 
*おやおや
 LEO氏の新記事をみたが、ますますアテツケ度は高くなってるようだ。
・新刊『悟りを開く』を読む
・頭の良さと人格の陶冶
・教会と俗界 ~聖なるものと世俗のもの~
・内村鑑三に学ぶキリスト信仰、そして現代の霊言
・ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと 謙虚 になりなさい 」
 
楽山こそ当てつけの常習者です。加えて、嘘と詭弁を吐き、反省せず学習しないので、どうしようもない男です。ネットと社会の常識、どちらも持っておらず、自尊過大で、他者を無視して、自らの欺瞞に何も気づかないでいます。ある意味、滑稽ですが、それ以上に傍迷惑の騒音であります。
 
*内村鑑三の霊言
 もうさすがに細かく異論を述べるのも面倒なので論点を絞って書くと、まず内村鑑三の霊言については、佐倉哲氏が難点を指摘している。
・大川隆法の霊示 『内村鑑三霊示集』のウソ
 」
 佐倉哲氏は、内村鑑三について、このような文章も書いてる。
・内村鑑三「私の弟子とは誰ぞ」 
 」
ここで紹介されている内村鑑三の言葉は、はじめて読んだけど、自分にもなるほどと了解できるものだ。当然ながら、内村鑑三ほどそれを実行できるわけではないのはもちろんであるが。
 
楽山は、誰の弟子でもなく、自我の奴隷、自己愛の汚水、自己中の凝固物です。これだけ、人を無視して、丁寧語で、悪意だけを発信する精神は、良心の滅びを意味しているようです。だから、平気で、名のある人を利用して、同列に並んでいるかのように、自分を高めようとします。一切、責任を負わないことが、既に、総てを否定しているのです。
 
*ヨブ記、三浦綾子
LEO氏は、ヨブ記、三浦綾子、大川隆法の著作から、神の前に謙虚であるべき云々と書いているが、例によってその背景の違いには無頓着だ。
 
楽山には、謙虚たる背景さえもありません。だから、平気で、人を、神を、けなし続けるのです。
 
まずHSでは因果応報を説くから、HS的な謙虚さはこうなるだろう。
「善を為せば善いことがあり、悪を為せば悪いことがある。すべては自己責任であり、因果応報は真実である。したがって災いに遭ったなら、神を呪うのでなく、まずは自分の罪を反省せよ」
 
つまり、楽山は、自己責任ということが全く理解できていません。楽山を動かしているのは、楽山が分かるっぽいと思っているところの、決して霊ではなく、決して良心ではなく、とても邪悪な妄想です。楽山の言うことを受け取ってはいけません。邪悪を、やさしく言って、分かりやすそうに見せかけるのが、楽山の生業です。
 
一方、ヨブ記や三浦綾子の謙虚さはこうだろう。
「神を満足させるほど正しい人であっても、災いに遭うことがある。災いは必ずしも罪の報いとは限らない。因果応報という考え方は正しくない。幸いも、災いも神から来るのだ。人はこれを拒むことはできない。神の前に従順でなければならぬ」
両者は、神の前に謙虚であれという結論は同じでも、その背景にある思想は正反対だ。ここを無視して、結論だけ語るのは乱暴すぎる。
 
神が脅迫しているかのような楽山の言は、楽山レベルの偽善に導く誘い水です。楽山は、自分の不遇を、神のせいにし、人のせいにし、自らは、何も反省せず、責任を負いません。ゆえに、楽山の言は、放屁のように、霧散してゆくのを待つだけであり、吸い込むと進行性の悪臭に染まります。
 
*たたり?
ついでに書くと、三浦綾子は夫婦で体調を崩して寝込んでいるときに、「何かの祟りではないか」と心配する人がいたと苦笑気味に書いていたかと思う。幸いも災いも神から来るのであって、悪霊が災いを起こすなんてナンセンスだと考えてるのだろう。
この点、悪霊が災いを引き起こすとするHSとは、まるで違っていると思う。
 
楽山は、誰にとっても、悪霊であるかのように、無駄な疲労を与えて、その責任を負わず、反省せず、訂正せず、謝罪せず、いつも、何事もなかったかのように装いますが、楽山の中には、悪意の笑いと怨念に満たされています。
 
口だけの、精神詐欺師は、賛同者の心を破壊してゆくだけで、いかなる成長にもつながりません。楽山自身に成長がないからです。楽山の仲間になってはいけません。徹底して無価値そして有害です。
 
*無頓着
自分がHS会員になった頃は、思想だとか、教義だとかに詳しい先輩会員がいて、たくさん勉強させてもらったものだけども、最近のHSを見てるとそういう人はいなくなってしまったようだ。
 
昔は、HSで勉強させてもらったと言っています。教義を勉強できたら、留まるつもりだったのでしょうか。批判はどこに行ったのでしょう。こういう一貫性のないところを見逃さないでください。褒め言葉は、総て、心にもない世辞なのです。本音の葉は見かけだけで、本音の根がないのです。
 
ぶっちゃけ、大川隆法の説法内容の劣化具合からすれば、そういう人はとっくに離脱したということなのだろうけれども、これは残念であるし、さびしい限りだ。大川隆法は若い頃、思想家になりたい、将来古典とされるような思想書を書きたいと思ってたそうだけど、そういう夢は諦めちゃったのだろうな。
 
離脱が残念だと言っています。HS批判をしていたのではなかったでしょうか。
 
「残念であるし、さびしい限り」・・あざ笑う時に、芝居をする楽山です。今までも、クリスチャン芝居、トホホ言語、ボンヤリ言語によって、欺いてきた症状なのです。つまり、真実など、何も持っていないということです。
 
「思想家になりたい」「思想書を書きたい」・・これは、楽山の野望でしょう。しかし、楽山の無反省と無責任では、分を弁えぬ欲望です。さらに、他者の忠告も無視して苦言も捨ててきたゆえに、自分の言ったことも捨てて責任を取らずにいられるのです。
 
「夢は諦めちゃったのだろうな」・・HS批判をしていたのではなかったでしょうか。
 
自らの劣っているところをも無視して、反省せず、努力せず、同じことを言って、悦に入り、夢の中でだけ思想家気取り、宗教家気取りに酔い痴れているのが、楽山であります。
 
自らが持たない説得力を補うように、楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、だまされて、人がその愚かさを受け入れるのを見て、独り、笑うのでしょうか。これが病質者の快感なのでしょうか。
 
溶岩のように熱した悪意を隠しているのが楽山です。数々の破綻を経て、その根拠を示されて、批判され続けているのに、これだけ、厚顔無恥でいられる男は珍しいと思います。
 
恐らく、死ぬまで、だまし続けるのでしょう。それだけが、生き甲斐であり、人生なのでしょう。まともな人間には、そういう人はいないと思います。
 
不感不応の無頓着、無条件の自己正当化、高等感情の欠如、言葉面だけで言い得たと思う気分、厚顔無恥、無知の自覚の無知、あげればきりがない欠格症状を、病識を書いた異常な自己愛性が、なおも、垂れ流し続けています。
 
どんなに人を傷つけても、どんなに迷惑をかけても、心の無い楽山は、無頓着でいられるでしょうし、また、同じようなことを、繰り返し、笑いながら言ってくるでしょう。仕方なく楽山に接する人は、自身の、背筋の寒さ、吐き気、しかめ顔、しわ、ふるえ、などの感覚に注目しておく必要があります。
 
言っていることの隅から隅まで、芝居であり、嘘と言ってよいのです。何故なら、頼りがいのある知識人として人間の世界に場を占めて褒められたいだけだからです。そのプロセスの邪悪さを感知する心がないのです。つまり、リアルのない欠陥、それが楽山です。
 
反省せず、言ったことの責任を負わない人は、真実追求の言論に参加する資格はない、というより、大人の人間の資格がないのです。当たり前のことです。楽山だけが、欠陥人格のために、あるいは、悪意のために、理解しないのです。
 
 
無頓着の悪意

無頓着の悪意
 
 
(2020年12月02日)
 
 
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  楽山の厚顔の極み
 
 幸福の科学と島田裕巳氏
 2020年11月18日 楽山日記(LD)
 一部引用省略。
 
 
楽山は、恥ずかしい男です。しかも、恥知らずです。今も、まともな意見を持っているつもりで、今までのことなど無かったかのように、唾を飛ばして、正義の味方を装います。
 
楽山が、身の程も弁えず、反省もせず、無責任に書いてくるたびに、こちらは、明日の記事のテーマを考える必要がなくなる、という皮肉が成り立っています。
 
(ネットより)
島田 裕巳(しまだ ひろみ、1953年[2](昭和28年)11月8日 - )は、日本の宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。放送教育開発センター(現メディア教育開発センター)助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任[3][4]。
島田はオウム真理教(現アレフ)は本物の修行型宗教であると評価し[10]、地下鉄サリン事件発生後も、オウムがサリンプラントの区画を隠蔽するために設置した大仏レリーフを背景に撮った自らの写真を示して、一連のオウム真理教事件へのオウムの関与を否定する発言をマスメディアに発表し、警察の強制捜査を批判するなどして擁護した。しかしこれらの言動により、批判や中傷を受けることとなった。
 
*急接近?
ツイッター上で、島田裕巳氏と幸福の科学が急接近していることが話題になっていた。
あちこち見てまわったところでは、今回の動きの全体像は、この辺りのページが分かりやすくまとまっている。
・やや日刊カルト新聞|島田裕巳氏が幸福の科学HSUで講演、来春の非常勤講師就任に向け交渉中
・Algorab archives|明日なき呉越同舟~島田裕巳と大川隆法
 」
はてさて、両者の関係はどうなっていくことやら…。
 
本気がなく、今までと同じように、傍観者として見物している風情の楽山です。
 
他者の問題について傍観して好きなようにいじりながら、自身の問題については無反省・無責任では、言論は成り立たないのです。
 
大人の年齢になっているのに、責任を負わないでいいと考えていること自体が、既に、成長不全の、幼稚さを表しているのです。
 
*期待
この話題を追っていて思い出したのだが、『平成宗教20年史』において、島田裕巳氏はHSとの関係について次のように書いていたのだった。
DSCN1378島田裕巳『平成宗教20年史』
これについては、ウン十年前にHSを厳しく批判したのは若気の至りであって、今は年を取って角も取れ、まるくなったので、無暗に他者を批判したりはしないというのは自分にも理解できる。
でも、大川隆法のナショナリズムや霊言集は、前よりも、今の方がより酷くなっているわけで、前はこれを問題視して批判したが、今はそれはしないというのでは、どうにも筋が通らないように思える。
 
「どうにも筋が通らない」・・いちばん筋が通らない楽山が言っています。
 
キリスト教を否定しておきながら、クリスチャン芝居をして、つまり、否定の後、肯定したら、これでチャラ、責任問題は発生しないと、というような考え方を書いてきたのは楽山その人であります。
 
否定と肯定が、訂正もなく、同じ人物から発言されて成立することはありません。楽山は、小中学校の数学のように言論を考えているのでしょうか。言論は、訂正しない限り、プラスマイナス=ゼロという相殺はありません。否定と肯定が同じ主体から発言されれば、矛盾にしかなりませんから、その発言者、即ち、楽山は、無責任と言われ続けることになります。
 
氏は、HSとはなあなあでうまくやっていこうとしているのか、それともHSUの中であっても言うべきことは言う、批判すべきことは批判するという姿勢を貫くつもりなのかは分からないが、できれば後者であってほしいものである。
 
楽山は、いかなる方向にも、本気で言うべきことが成り立たないのに、言いたいこと、いじりたいことがあると、自己顕示欲で、好きなように書いて、責任をいっさい負いません。楽山は、誰も、相手にしてはいけない人物です。
 
*許す愛との兼ね合い
上では、島田裕巳氏について書いたので、次はHSについて書いてみたい。
まず以前のHSでは、「許す愛」という教えがあり、これは悪魔を許すことではないと説いていたのだった。許す愛とは、自分の罪を悔い、涙を流して反省している者を許すことであって、自分の罪を反省しない者や確信犯的に悪を為す者…悪魔を許すことではないと。
 
いかなる赦しの対象にもならないほど、「罪を悔い、涙を流して反省」することのない楽山が書いています。よって、楽山については、悪魔を赦さないのと同様に「自分の罪を反省しない者や確信犯的に悪を為す者」が赦されることはないのです。
 
今回もまた、楽山が凄まじい厚顔無恥で書いているのが分かる記事になっています。自分を振り返るということが、全くできない楽山なのです。
 
この教えからすると、HSは、島田裕巳氏がHSを悪く言った過去について反省、謝罪しない限りは、許すことはないということになるし、もし氏に講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について交渉したりするとしたら、それは氏が前非を悔い、涙を流して反省、謝罪したからだということになるはずだ。
 
反省を、他者に当てはめても、決して自分に当てはめることのない楽山を、信用してしまうと、錯乱しそうなほどの、精神の疲労がもたらされます。責任を負わない楽山の言を受け取っても、何の意味も実質もありません。
 
喩えるなら、楽山の理路は、痢路とでも言うべきもので、言論ではなく、体質的に止まらない思惑のカタル性下痢による失禁状態であります。糞尿は、清掃するすべがありますが、楽山を、清掃するすべはないのです。楽山には近づかないようにと、伝えてゆくしかありません。
 
でも実際はどうかといえば、島田裕巳氏は次のようなツイートをしている。
2020-11-16 (10)別に和解はしてません
https://twitter.com/hiromishimada/status/1326820805066387456
 」
氏はHSとは和解はしていないそうだし、「巌流島の戦い」というたとえからすると、いまも対立しているということらしい。
とすると、HSは、大川隆法総裁を悪くいったことを反省せず、謝罪もしていない相手に対して、講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について打診していることになる。つまり許す愛の教えに背いている。
HSにとっては、島田裕巳氏のしたことは、仏陀誹謗、和合僧破壊などであり、宗教的には最も重い罪であるはずなのに、なんらの反省、謝罪もなしにこれを不問に付して、講演や非常勤講師を頼むというのは、全然、筋が通らないのではあるまいか。
 
楽山は、「基督抹殺論」という本を引用して、キリスト教を否定したのに、責任を負わず、「なんらの反省、謝罪もなし」ということは、筋が通らず、決して認めることは出来ないわけです。
 
"許す愛の教え" など、楽山が根拠として語る資格はありません。恐ろしい男です。
 
*アンチにすがる宗教
さらに、もう一つ。
他人の心は分からないことではあるけれども、おそらくは島田裕巳氏は、大川隆法総裁のことを仏陀だとも、主エル・カンターレとも認めていないだろうし、霊言も信じていないだろう。また今はさほどではないにしても、過去にはHSを執拗に批判していたのだった。いわば、古参アンチの一人である。
ツイッター上では、HSでは人材難に陥っており、アンチの島田裕巳氏に頼らざるを得ないのだろうと噂されているが、もしこれが本当なら、HSは危機的状況を打開するために、アンチに救けをもとめているということになる。これはあまりに情けない。
 
情けない人より、厚顔の自己中である楽山のほうが、数段、怖い人です。いかなる人材も、楽山を受け入れたら、現実の目的も夢も失うでしょう。楽山はHSのアンチではありません。我欲に執着する偽善者です。いつも、人を上から見下ろして、自分を省みないで、評論家気取りの記事を書き、責任だけは一切負わない卑怯者です。厚顔ぶりから、サイコパスの可能性が濃厚です。
 
HSはもし少しでも矜持があるなら、窮迫していようが、していまいが、アンチに討論を申し込むならまだしも、講演や非常勤講師を頼むのは止めた方がいいのではなかろうか。
 

偽牧師のシャロームが、私のライブドアブログにコメントを入れて、楽山に賛同して、こちらに悪態をついています。

 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条に賛成しました。無条件賛同を結ぶのは、カルトなどの結社か、奴隷です。
 
こういうのが、楽山の人間関係ですが、二人とも自己中の怪物なので、人間無関係なのかもしれません。そういう理由から、一人による成りすましも疑っています。
 
*大人の事情
なんだか、言わずもがなのことばかり書いてしまったが、一応、自分ももういい年なので、大人の事情というものを察することはできなくもないし、何事も原則通りには行かないものだということはわかる。
 
楽山は、大人どころか、人間としての成長が見られません。小学校レベルの言い訳、言い逃れ、いちゃもん、悪口、嘘、詭弁の類をもって、近寄る者を欺く生業です。罪悪感が、まるで無いので、このように、性懲りもなく書いてくるのです。インテリ風味の筆致に、どうか騙されないでください。
 
でもそれはそれとして、組織的判断には、多数を納得させることができる大義が必要であることも事実だ。HSは、HSでいうところの仏陀誹謗、和合僧破壊という最も重い罪を犯し、それを反省していないだろう人物に講演や非常勤講師を依頼するのであれば、それにはどのような大義を用意しているのだろうか。ぜひとも聞いてみたいものだ。
 
ふつう、カルト批判に、カルトの基準を用いることだけはしないものですが、HS批判をしているつもりだったはずの楽山が、HSの言う罪を、判断に必要な大義として認めているようです。楽山にとっては、カルトについては、脱会も入会も、宣伝も批判も、無いのかもしれません。偉そうに言って我欲を満たせばいいのでしょう。
 
なお、楽山は、他者の言うことを聞く耳を持っていません。自分の都合の良いように利用することのみを、体質的に、いつも企んでおり、誰のためにもならない自己顕示欲を満たして満悦するような、実に気色の悪い存在です。だから、羞恥心も性懲りもなく書いてくるのでしょう。
 
評論家気取りで書いてくる楽山は、学問的に常識的に辻褄を追っているように見せかけて、一方では、霊が分からないっぽい親族に驚いたと書いて、自身は、霊が分かるっぽいことを自認しています。それゆえに、超常を扱う宗教について物を言いたくてたまらないのでしょう。
 
楽山は、カルト批判などしていません。楽山自身がカルト思想に満たされているからです。分かるんですアピールで、インテリ気取りで、自己顕示したくてたまらないだけの自己中インチキ体質の物好きに過ぎないのです。
 
ちなみに自分は、今回の出来事について説得力ある大儀が提示されない場合は、それ自体が、HSでいうところの仏陀誹謗および和合僧破壊の罪などというものは、宗教的な大罪というようなものではなく、その時々の状況でどうにでもなるし、たかだか二、三十年で忘れられるものにすぎないということを示していると解釈するつもりである。
 
HS批判をしているつもりの楽山に、説得力あるHSの言う罪という大義が存在しているのでしょうか。つまり、楽山にとっては、HS批判も、HSの言う罪も、HSの言う大義も、いっしょ、というより、どうでもよいことで、恐らく、言葉遊びの題材に過ぎないのだろうと思います。
 
それだからHS内では、大川隆法を悪く言った過去がある人物に講演や非常勤講師を依頼することに、さして抵抗もなく、相応の論理を構築する必要性も感じないのだろうと。
こういう解釈が妥当かどうかは、HSが説得力ある大儀を提示できるかどうかによって判断されるわけだが、はたしてHSにそれはできるだろうか。HSが何か言うか、何も言わないか、興味を持って見守りたいと思う。
 
今まで、楽山の興味というのは、責任を負わない遊びに過ぎなかったという経過から、楽山に、解釈が妥当かを判断する思慮も節操も資格もないと思います。つまり、楽山は、重要なテーマについて、本気で、責任を持って発言したことは一度もないのです。
 
だから、いつも、無反省で無責任に言い放って終わり、という、しまりのない放言だけを失禁のように繰り返しているのでしょう。間違っているとばかりは言えない、一理あると言えなくもない、というような政治家の曖昧発言より、さらに悪質な自己中です。
 
三文芝居の大根役者が体質となってしまったような楽山のような人は、喩えるなら、動物園で、檻の中の、逃げる構えをしながら、しつこく吠え続ける、みじめな糞尿まみれの動物を見ている、と思ったほうがよいでしょう。
 
楽山は、数えきれない矛盾と汚点と悪意を、ひた隠しにしながら、謙虚芝居、即ち、曖昧なボンヤリ言語と反省めいたトホホ言語で、まともな字面を装っているだけです。
 
楽山の、無理解と身勝手は、怠慢と体質による人間離れした厚顔から来ているので、恐らく、死ぬまで変わらず、訂正不能だと思います。真実の追求に、無反省と無責任、あってはならないことです。
 
どうか、楽山のような厚顔無恥の人にならないように、どうか、間違っても、楽山を、頼りにして、楽山に、裏切られて、責任逃れを言われて、自分がボロボロにならないように、一刻も早く、楽山からは、離れてください、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
厚顔
厚顔の成れの果て
 
 
(2020年11月20日、同日一部修正)
 
 
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