ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:右翼

 
  我欲のエコラリア楽山2
 
 『日本国紀』百田尚樹著(2018年)
 2021年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)
エコラリア:反響言語(はんきょうげんご)は、他者が話した言語を繰り返して発声すること。反響動作(英語版)の一種で、エコラリア(英: Echolalia、ギリシャ語で「繰返し」を意味するἠχώ(echo)[1]と、「話す」を意味するλαλιά(lalia)[2]から)とも呼ばれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
ここではエコラリアは比喩的に使っています。
ネトウヨですが人格破壊の進行した楽山は、史実への執着性によって浮かれ、気分高揚を来たしています。ゆえに、現実の問題を、何一つ、理解も自覚もできない有り様で、無駄口を叩き続ける自己愛性パーソナリティ障害NPDの証拠を積み重ねてゆくのです。
 
 
*日本人はすごい!
『日本国紀』を通読してみた。日本人の優秀さを示すエピソードがいくつも紹介されているので、「日本人はすごい!」と思えた。
とはいえ、万世一系に関する記述については疑問に感ずるところはあった。
 
「日本人の優秀さ」と、楽山は、何の関係もないと思います。「日本人の優秀さ」は、優秀な人々がいたということでしょう。それで、舞い上がる楽山の「日本人はすごい!」は、自分もすごい、という我欲による、楽山の中だけのエコラリア(反響言語)なのでしょう。人格破壊の実相です。
 
 
*万世一系
まず著者は、万世一系についてこう書いている。
我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない。 
(『日本国紀』百田尚樹著、幻冬舎、2018年11月10日第一刷、p.8)
 」
日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった。
(同上、p.486)
 」
日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だというのは、保守としては当然の主張だと思う。
 
万世一系という神話時代からの伝統であり象徴であるという主張です。今さら、その史実性にこだわって、何か良いものが生まれるでしょうか。楽山は、このように、根拠のない主張ほど、学識もなく、賛同して、自分を、人より高い立場から、インテリ評論家に見せかけたいだけなのです。
 
 
*王朝交代あり?
でも著者は、他の箇所では皇統は断絶しているとしている。
歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかという説を唱える人が少なくない。仲哀天皇は、熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという説だ。なら、なぜ日本書紀にそれが書かれていないのか。記紀が書かれた八世紀頃は、「皇統は万世一系であらねばならない」という不文律がすでにあったので、記紀編纂者がそのあたりをうまく工夫して書いたというのだ。定説にはなっていないが、私はこの説はかなり説得力があるものと考えている。
(同上、p.26)
 」
現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。
(同上、pp.31-32)
 」
万世一系に対して異説が存在するという紹介だけなら、さして問題はない。
でもここでは、その説を紹介するだけにはとどまらず、強く支持するところまで踏み込んでいる。
これは、日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だという先の主張と矛盾するのではなかろうか。
 
このように、楽山は、一部の仮説のような過去の辻褄にこだわって、それで、現代を語ろうとする半端者だと分かります。私たちは、現代を生きています。皇室の歴史よりも、今皇室の果たしている役割のほうが、日本と日本人にとって大事だということが、楽山には分からないのです。
 
楽山は、歴史を、ろくに知らないにもかかわらず、歴史家などの意見を引用して、自分を、さも学者であるかのように見せかけたいのでしょう。それが、楽山の生業(なりわい)なのでしょう。宗教についても、奇跡と超常にこだわって、神を否定したいのでしょう。心に響くことを全く理解できないからです。
 
 
*著者の見解
この矛盾について、著者の真意はどういうものなのかと頁を繰ってみると、こんな記述があった。
「万世一系」という考え方がどのようにして生まれたのかはわからない。しかし『日本書紀』編纂時にはすでに、崩してはならない伝統としてあったと見られる。これ以後、千三百年以上にわたって男系は一度も途切れることなく継承されている。
(同上、p.34)
 」
つまり万世一系は途中からだということらしい。
著者はさらりと書いているけれども、これは保守、右派という立場からすれば相当に大胆な発言だろうと思う。
 
「万世」なのに「途中から」だと言うのは、楽山は、皇室を、否定しているのでしょうか、擁護しているのでしょうか。どちらも書いて、どちらも断定せずに、責任問題は生じない、ということが、楽山の、以前からのスタンスらしくて、つまり、何の主張もない人です。
 
それで、一方では、キリスト信仰を批判したつもりになり、否定し続けるわけです。まともな意見を、何一つ持ち得ないことを、今まで、ごまかして、善人ぶってきたのが、楽山という偽善者であり、もはや、真実の追求を、かき乱すだけの人でなしであります。
 
 
*いろいろな歴史観
本書にはさまざまな批判があり、その中には「歴史ファンタジー」という揶揄もあった。
自分はこれらを読んで、本書は相当に右寄りなものなのだろうと想像していたのだけれども、上記の点を見る限りにおいては自分にはとても右寄りとは思えなかった。むしろ左寄りではなかろうか。もっともこの辺りの判断は相対的なものにすぎないかもしれないけれど…。
 
右も左も一枚岩ではない、という当たり前のことが、楽山には分からないようで、相対的と言ってバランスを取ろうとしています。相対性さえも定位置に置くことが、楽山の安心なのですが、中身が空っぽです。思想ではなく、楽山が納得するための辻褄合わせの合理化規制に過ぎないのです。
 
 
ところで、『日本国紀』の評価は人それぞれとしても、一人の作家による通史というアイディア自体は実に面白い試みであると思う。これを機会に、他の著者による通史も読んでみたいものである。
通史ブームが到来し、幾人もの作家たちがそれぞれの視点から綴ったさまざまな通史…皇国史観によるもの、唯物史観によるものなど…を刊行したなら愉快だろうと思う。
 
楽山は、結局、いつものボンヤリ言語で、何も始まらない結論「それぞれの視点から綴ったさまざまな通史」「愉快だろう」とか言うわけです。楽山の記事に、時間を使うのが、いかに無益であるかを、楽山自身が明らかにしています。毎度、呆れてしまう楽山の暇つぶしです。
 
楽山は「愉快」になっている場合ではないのです。「愉快だろうと」思っている場合でもないのです。積み重ねてきた罪と偽善が、人を疲労させ傷つけてきた自己中の病質が、楽山自身の人格を虫食み、何も状況を把握できない盲目の常同行為へと運んでいます。
 
 
反響する孤独

反響する孤独
 
 
(2021年)
(2022年12月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
 
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
 
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
 
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
 
ぼろぼろの顔になって
また一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
 
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  ため息
 
瞬きと一緒に
どれだけの呼気の中に
ため息が去っていったのだろう
 
ゆっくり吸い込まれ
声帯を震わせないで
粘膜を撫でながら漏れるときの
湿気と温もりと過去
 
今ため息が出て行きました
熱を失う体のどこかで
フイルムが瞬く間に早送りされました
 
 
  失恋の歌
 
私のための
喪があけた
君の情事も終わった
流れのように足の下で
歌のように繰り返される悔恨が
やがて花開く
私の胸の空洞だ
招きもしないのに
別れを告げられても困るからと
微笑よ
君の純潔が苛立つとき
首のないセックスが
傾いたベッドの上で
ケラケラと笑いころげ
君の喪があけ
私の情事が終わるとき
うぶな陶酔は
血まみれの風音をたて
血の気のない泣き声をあげて
遠い崖ふちから肉体まで
ひそかに受胎する砂と唇
 
※ 楽山は失恋した男のように、空洞から書き続けていましたが、ここ数日、新しい記事を書かないようです。ずっと、そうであってほしいが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、体質なので、また、書かずにおれないかもしれません。ゆえに、批判を続ける必要があるだろうと判断しています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は書き、読まれることで、堕ちてゆくのですが、本人は、上のコメントと同様に、全く、それを自覚しません。空疎に空疎を重ねて、文字が並んでいることで、インテリらしくかけた!・・と満悦するのでしょうか。そういうとき、いかに自分が見苦しいか、分からないのでしょうか。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティの傾向があるかどうかをチェック。
自分は特別な才能や容貌を持っていると思う。
他人は、自分の思い通りに動いてくれるべきだ。
周囲の人や社会は、自分の価値をわかっていないと感じて腹が立つ。
1人でいるのが苦手。いつも人に囲まれていたい、自分を特別扱いしてくれる人といたい。
家族や友人であっても、他人の幸せに強い妬みを覚える。
他人が自分を評価せず、バカにされたと感じるようなときには、強い怒りを抑えることができない。
自分の失敗や無知は絶対に認めたくない。
他の人が評価されているのを見ると、憤りを感じる。
権威的なものに憧れがあり、自分にもその一員になる権利があると思う。
他者に親しみを感じることができない。
 
私から:
「自分の失敗や無知は絶対に認めたくない」というより、認めていないと思います。例えば、楽山は、世辞のように「反省、とほほ」と書いてくることがありますが、前後で何も変わらないこと、言葉だけで反省の文脈がないこと、「とほほ」とふざけていることから、否定されます。嘘の告白は文脈から浮いてくるのです。
 
 
 
私の「ウソの国-詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここにブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない(?)。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  戦争の時代3
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡がお里です。父母は日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、ともに、中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういう時代に私の親は生きていました。不幸な戦争の時代です。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。父は2003年に死にました。母は、今、介護付き老人ホームにいます。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、多く、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。そして、明るく、元気で、活発なことばかり教えられているような気がします。悲劇が教訓となることを、ちゃんと教えられているでしょうか。
 
平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているような若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、映画やテレビで見ていたのです。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画、ヒーローもの、などと同じような、アクション、娯楽の視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマン、裕次郎や、若大将の時代でもあり、その1950~60年代、私は子供で、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
約77年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
国民(人間)よりも国(観念)を大事にすると、そうなるのでしょう。歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言う人もいます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
優しそうな顔で美辞麗句を語るだけの政治になっていないでしょうか。皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃと?、ジージツ、、シジュウカラ?、始終空?
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。美しい、正しい・・が、努力目標ではなく、無条件の前提になっていないでしょうか。
 
平和が前提となる真善美は、多くの犠牲と命懸けの歴史を通して、実現されるものです。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、いつも、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。我が国は3つの独裁国家と、海を隔てて、隣国であります。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が、疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。言葉だけで分かったような気になってしまう教条主義なども同様です。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
戦争の時代

戦争の時代
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月22日、再録+加筆)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴ですが、楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 私の信仰について、過去の記事より断片
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
こちらが、書かずにいると、楽山は、また、のぼせて書いてくるでしょう。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、物事の流れや筋道を組み立てることも、理解して弁えることも出来ません。平気で、刷り込みと印象操作の嘘と詭弁を、泡立てることでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山のねっとり右翼2
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張して、危ない方向へ誘導したいようです。楽山は、その時点でアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合うなどということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだだけの楽山の話であり、体験談とは別の話なのです。面談したというのは、また、成りすましと捏造の悪意で出来ているような、楽山の、インテリ気取りの、自慢したいだけの、作り話ではないでしょうか。
 
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。何だか、右翼の誰かに言われて書かされているのではないかという感じもするような、下手くそな文章の運びでもあります。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
「降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか」・・なんてまわりくどい言い方なのでしょう。過酷な運命の二重否定+否定疑問による肯定です。楽山のボンヤリ言語の中でも最も劣悪な長さです。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の腐敗臭がプンプンしてきます。
 
本来、兵士に自決を勧める国は、ろくでもない国だと思います。楽山は、そういう詭弁の群れの中にいるのでしょう。しかし、いちばん臆病で、自己中で、戦争中でなくても、卑怯に言い逃れている楽山こそ、最も人間離れした自己中であり、戦場では最初に仲間を放って逃げる輩だと思います。
 
戦後の人間として、実際はどうであったかについては、詳しく知らないのだから、本を読んだからと、降伏したら皆殺しの恐れもあるみたいな書き方をして、疑問を投げておきながら偏向した結論を、ボンヤリ曖昧な言い回しで刷り込んでくる楽山が、最も邪悪であります。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師

人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師
 
 
(2021年)
(2022年09月08日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
https://twitter.com/minnano_dougaww/status/1429068465474727941
(このリンクは動作しないようです。)
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らないことがあります。謝ったからいいじゃろという言い訳は成り立ちません。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話であります。決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、楽山のように、何を言われても平気で同じことを言い続け、反省しない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。楽山を相手にしてはいけません。
 
その根底には、病質として、自己中があり、罪悪感や羞恥心の欠如があるのです。楽山は、また、勘違い、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、みんないっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山の印象操作に騙されないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、婉曲表現や暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより、・・ホットットギス、・・と
自分の名を唱えているようにも聞こえる
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
 
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない・・・から
 
 
  忸怩(じくじ)
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感性皆無で不感不応の自己愛者、楽山を批判するには、理路の正しさに努めるだけでなく、怨念か幽霊にでもなるような情熱~情念が必要です。楽山は、変性し崩壊してゆくプロセスにあります。企めば企むほどに失敗ばかりの楽山の人生を描くのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山はネトウヨ2
 
 『スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺』島薗進著
 2020年08月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、異常な精神背景以外、見るべきものはありません。名称ばかり書くのは、中身を理解できないからなのです。楽山は、一度も納得のいく話をしたことがありません。
 
いつも明らかになるのは、大きなテーマや名前を、いっぱい並べて、それだけで、自分を、偉く見せよう、偉く見せよう、という、欲望への執着だけなのです。
 
新しいのは、今回、楽山が、右翼、つまり、ネトウヨだということが、はっきりしてきたことです。
 
 
タイトルにひかれて本書を読んでみたのだが、読みっぱなしだとすぐ忘れてしまうのでその内容と感想をメモしておきたい。
 
メモならば、整った文章になるまで、人には見せないものです。それを、メモしておきたい、などと言って、出してくるのは、自己顕示欲としか言えないでしょう。傍迷惑です。
 
「スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺」というタイトルに惹かれるのは、霊が分かるっぽい楽山の精神背景を物語っています。自分もスピリチュアルだと言いたいのでしょう。
 
しかしながら、心の理論や、奇跡の話において、何ごとにつけ、楽山の誤読は、妄想的と言えるほどに偏向や恣意的な解釈が著しく、とても、楽山に、霊か何か知らないが、直観力や直感力があるとは思えません。とても幼稚な自己正当化のネタに使っていただけです。
 
「心の理論」
何度、これを引用すれば済むのでしょう。
発達心理学を、霊の話にすり替えています。
 
「奇跡について?」
ここでは、楽山の理路の混乱が見られます。
 
 
まず本書の第Ⅰ部では、戦後日本におけるスピリチュアリティ、精神世界、ニューエイジ、緩和医療、ウーマンリブなど「新霊性運動・文化」について概観し、その先駆者として山尾三省、船井幸雄、柏木哲夫、田中三津らの思想、活動を分析している。
 
分析というものをしたことのない楽山です。また、文責というものを考えない楽山です。楽山にあるのは、スピリチュアリティではなく、原始的な自己顕示欲だけです。学者気取りやインテリ気取りで記事を書いていますが、そこには通念的なことか、妄想しかありません。
 
 
また新霊性運動・文化と伝統宗教とを比較し、後者は人格を持つ超越者とそれによる救いを信じ、権威主義的傾向が強く、枠組みが明確であるのに比べて、前者は法則や大自然を崇拝し、個人主義傾向が強く、伝統宗教のような大系化もされていないとしている。
 
「としている」としか書けない楽山です。こういうのを、記事に書いて、いったい、何を主張できると言うのでしょう。いったい、この記事の内容は、どこにあるのでしょう。カルトの宣伝ビラよりも、軽薄な、実体のない名称だけの行進です。楽山は、何一つ超越も克服も出来ていません。
 
 
さらにはアメリカなどではキリスト教によるニューエイジ批判はあるが、日本では仏教や神道による新霊性運動・文化批判はほとんど見当たらず、その理由は新霊性運動・文化は自然崇拝、アニミズム的な色彩が強く、日本的な宗教感覚に近く、大きな相違が見当たらないためだろうとしている。
 
楽山は、新しい "霊" のカルトでも、作るつもりなのでしょうか。ボロクソなものになると思います。自分は、ニューだとでも言いたいのでしょうか。だるいだけでした。引用元の字面を拾って、相違が見当たらないと書いているのは、宗教感覚が皆無で、ぼんやりと妄想的に勘違いしているだけだからです。
 
楽山は、今まで、はっとさせられるような洞察の効いた文章など、一度も書いたことがありません。むしろ、だまし目的の、詭弁、嘘、謙虚芝居、霊感妄想のようなことばかりが表れてきました。月並みな先入観しか持たず、さらに、それを自分の言葉に消化することも出来ない人です。
 
 
第Ⅱ部では宗教教団に所属しつつも、その枠にとらわれない考えを持ち活動することを欲している聖職者、宗教教団に属していないが何らかの高次の存在を信じ、または求めている人、宗教とも精神世界とも無縁でそれを意識していないが、それでも結果的には新霊性文化と深くかかわった価値観を持って生活している人々のインタビューを分類整理して紹介している。
 
高次の存在と言えば格好がよいということでしょう。「新霊性文化」とは何でしょう。前の記事に書いたところの、霊的××と言えば神妙な気がする類の言葉だと思います。霊的を、霊性に変えて、さらに新を付けています。こう書いた人の、自信~高慢が表れているようです。
 
ここに並べられている言葉は、気取った者たちが書くところの、学術用語で、素人が読んでインテリ風味に受け取らせようという意図で書かれた言い回しです。常識という根拠が無いことを直観的に書く分野では、こうなりやすいのでしょう。
 
危険な要素として、楽山のような自己顕示の我欲が飛びついてくるということなのです。楽山は、それが大好きで、本を読んだことにして、実際は、自分に都合の良い言葉を漁って拾っては、書いてあると書いてきただけで、説得力皆無の世界で、他者が理解できないことに、むしろ満悦しているのです。
 
難しい言葉が、字面だけ大好きな楽山です。楽山は、真実を追求するための、理路も、直観も、直感も、理解の一切をも持ち得ない人ですが、好事家みたいに、もっともらしく、もてあそんで、偉く見せるための手段なのでしょう。
 
もう既に、批判によって証明済みの虚言の材料を、楽山は、今も漁って集めているだけなのです。楽山は、あらゆる実直な人々にとって精神の詐欺師であり、宗教と信仰の敵です。軸とか芯とかいうものがないまま、見繕って並べているだけです。真善美から最も遠い偽善者です。
 
 
私見ながら、ここで語られていること…不可視で高次な存在を信じつつも宗教とは距離をとっている、死別した近親者と心で語り合っている、「自分を持っている」ことが尊い…などというのは自分の周囲でも、しんみりした会話をする場面では、わりとよく聞く話である。
 
こういうことは、死んだ人の思い出を静かに想いながらの心の話なのですが、これによって、楽山のような霊能者気取りは、ここで、一般感情に訴えて、温もりと潤いを、それらが欠損した超常の自慢話に変換するための材料としてゆくつもりでしょうか。
 
楽山は、亡き人をしのぶという、しんみりした共感を感じることが出来ません。「わりとよく聞く話である」という軽さは、そういう話を、超常や霊の話にして、自分は知っている、分かっていると自慢しているだけです。楽山の書くことには、深い実感が、まるでありません。
 
 
第Ⅲ部ではグノーシズ主義と新霊性文化その他との関連が論じられている。具体的には如来教、桜井亜美の「イノセント ワールド」、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」、コリン・ウィルソン、ヘブンズゲイト、ジェーン・ロバーツとセス本、ニューソート、神智学などを取り上げつつ、グノーシス主義との類似点及び相違点について語っている。この部分を読むとグノーシズ主義の新霊性文化に対する影響力は想像以上に強く大きいことがよく理解できる。
 
「新霊性文化」「影響力は想像以上に強く大きい」しか書けない楽山です。いつも、こうです。まるで、自分を飾るデコレーションであるかのように、楽山は、名称を並べ、中身を書きません。楽山の自慢の蚤の市、本当に蚤(のみ)だらけの罠の言葉ですから、誰も近づかないようにしてください。
 
 
(ネットより)
グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(希: Γνῶσις[1])は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。英語の発音は「ノーシス」である。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。
一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており[6]、キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。したがってこの記事では広義の「グノーシス」について、「グノーシス主義」という用語で説明する。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。
グノーシス主義(ウィキペディア)
 」
 
(ネットより)グノーシス派:
前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派。グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識 (霊知) であり,これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起り2~3世紀に多様な発展をとげたが,正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり,人間も本来は自己のうちに神の火花を有し,また地上界からの解放の欲求をいだいており,この人間の自我 (精神) に救いとしてのグノーシスをもたらすものが天上界より下ったイエス・キリストで,このグノーシスによって人間は初めて救済されるにいたると説く。
 」
 
はっきり言えば、神霊を決めつけた時点で、カルトと言ってよいのです。神聖に対する恐れを知らず、人が、自分で大発見のように、無根拠の超常の理屈を捏造して、整ったつもりになって吹聴するのは、原罪の自覚がなく、正直な祈りと告白の出来ない人々です。
 
霊と肉体、と言っていますが、心と肉体、と言うのと、どう違うのでしょう。霊と心と魂と精神、どれも見えないものですが、はっきり区別できるというのでしょうか。学問においても、宗教については、恣意的で、結論だけの文章が、信仰者を惑わしている傾向があると申し上げておきます。
 
"直観的認識(霊知)" だそうです。だから、用語が多くても、根拠を示さない分野です。この辺がベースになって、主義が生まれてくるわけですから、かなり眉唾物なのです。それで、知ったつもりになるなら、何も知らないでいることより、自尊や自己主張や自己顕示欲も絡まって、悪質になるでしょう。
 
こういうのが、楽山という反キリストにとっては、垂涎のご馳走となってきたのだと思います。根拠を示せない楽山は、直観の代わりに安い思いつきで、霊能者気取りになり、神秘を語った悟った気になって、宗教に口を出して、自己満悦してきたのでしょう。
 
 
終章は「社会の個人化と個人の宗教化」という章題の通りの内容となっており、新霊性文化は個人主義の方向に向かい、宗教教団とは距離をおこうとする傾向があるとしている。
 
「章題通りの内容」・・説明しないで、解説できないで、「新霊性文化」だそうです。楽山は、自分勝手に、他者を考えないで、全く宗教的でない思いこみと信じ込みに、社会を導きたいのでしょうか。日本国民アホ化計画でしょうか。決して関わらないようにしてください。
 
楽山だけでなく、シャロームや、アドラー教(アドラー心理学)などは、気に入らないことは無視するという教えや、自分の課題ではないと拒否するという教えを広めたいようです。多くの人が楽山やシャロームのようになったら、世辞以外の話が、まるで通じない者ばかりになるでしょう。
 
 
新しい歴史教科書をつくる会にも新霊性文化との関わりを見出しているところは面白い。自分探しの過程で、日本および日本人に興味を持ち、その意識を強め、保守の方向に進むということらしい。
 
(ネットより)
既存の歴史教科書(特に中学校社会科の歴史的分野の教科用図書)は、必要以上に日本を貶める自虐史観に毒されていると批判し、それに代わる「“東京裁判史観”や“社会主義幻想史観”を克服するとし、その双方の呪縛から解放されたという自由主義史観に基づく、子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書」の作成と普及を目的として結成され運営されている[要出典]。
 」
新しい歴史教科書をつくる会(ウィキペディア)
 
これで、楽山が、"ネトウヨ" であることは明らかです。前から、右寄り、保守とかは言っていましたが、宗教とか霊とかに、こじつけて、こういう活動をしているわけです。楽山が、思想的に、右寄りの刷り込み屋だということが表れています。道理で、正面からの説得力が皆無なわけです。
 
自由主義史観、というのは、危険です。好きなように歴史を改ざんする恐れがあります。また、個人主義で、自信と責任を持て、というのも危険です。楽山やシャロームのように、自由勝手に恣意的に書いて、他者を無視することを、正当化しやすいと思います。こういうところで、つながってくるのですね。
 
楽山は、前にA級戦犯を尊敬している記事も書いていました。右翼として、曖昧な霊の問題を通じて、根拠なしに、思いこみの結論を刷り込もうと並べてきた危険な意図の一部が表れています。楽山に、一人前の正当な思想はありません。その場その場の思い付きで書いてきます。
 
 
本書を読んで、フェミニズムやジェンダーフリー方面の思想、活動と新霊性運動、文化との関連を見出していることには意外性を感じたが、保守、右派の思想、活動もそれとは無縁でないという指摘も意外である。でもそう指摘されてみれば確かにそのようだ。どうやら新霊性運動・文化の影響力は、グノーシス主義がそうであるように、自分が考えているよりずっと大きく、広大な範囲に及んでいるらしい。
 
新霊性運動、グノーシス主義が、「広大な範囲に及んでいる」とだけ、楽山は書いています。婉曲的な賛同なのでしょう。もっと広めたいのでしょう。やはり、だましやすい日本人アホ化計画のようです。楽山のような煽動屋に、十分警戒してください。関わってはいけない対象です。
 
「指摘されてみれば確かにそのようだ」・・楽山らしい責任逃れの書き方です。ボンヤリ言語と呼んでいます。相変わらず、救いがたいほど出来の悪い文章ですが、メモだと言いながら、よくこんな文章を書けるものです。ボンヤリ婉曲的に刷り込んでくるのです。
 
新コロナの、国内外、どこまで広まるのか分からない、という、国難の最中ですが、このように、宗教を悪用して、霊という言葉を悪用して、危険思想を、謙虚芝居の学者気取りの誘導によって広めようとする者がいるということは、ある意味、コロナより怖いと思います。
 
そういう者たちは、取るに足らないように見えるからこそ、今の日本が、国民一人一人が、身近で、あるいは、ネットで、警戒するしかない危険分子であり、言論の自由で書きまくっておきながら、言論の責任を負わないというクズであります。決して関わらないようにしてください。
 
シャロームshalom は在日(韓国朝鮮人)ではないかと思っています。引用リンクは、大方韓国の教会だったし、聞いたとき、日本人ならはっきり否定するところを、しなかったし、キリストよりも、韓国由来の宗教思想が好きなのだろうと思います。つまり、キリスト者ではないということです。
 
楽山も在日なのか。自称ヨシュアもだろうか。思い出すのは、いつだったか、ネトウヨは在日なんじゃね・・というのがネットに書き込まれていたけど、いったい、どうなっているんだろう。右翼は嫌韓じゃないのか。・・だから在日が右翼にご機嫌取り?・・未だ判然としない。
 
私は嫌韓というわけではないが、楽山を、その卑怯な言論から、嫌悪しています。楽山の志が、グループであるなら、さらに日本人アホ化計画なら、ますます嫌悪することになるでしょう。楽山は、既に、シャロームの仲間であり、かばい合っていることは明らか。同一なりすましの疑いもあります。
 
 
一昔前のことを思い出しました。"神の幕屋" という右翼のキリスト教の教団があるそうで、そこの、ある人は、前は左翼活動家で、のちに、右翼に転じて、その教団に入っていて、右翼思想を語っていました。極端から極端に走る人だなと思ったことでした。大和魂を信条に入れる話があるそうです。
 
私は、キリスト者が政治活動をするのは構わないと思いますが、キリスト信仰は、右や左の政治思想と合体してはいけないと思っています。信仰は、政治思想には結びつかないと思います。ですから、キリスト教を政治に結びつけることは、キリスト信仰上、禁忌だと思っています。
 
信仰が救うのは、魂つまり心であって、政治思想でも政治活動でないのです。しかし、その人は、大和魂を信条に加えるようなことを言っていて、とても違和感を覚えたことがあります。キリスト教と信仰が日本オリジナルでないことは明らかですから。
 
 
何だか、個人のブログの記事では済まないような、のっぴきならないことになってきた感があります。だいたい、このブログは、元々は、ポエム、数学など、そして、ずっと、キリスト信仰のことを中心に書いてきたのです。
 
シャロームと楽山に出会って、とんでもない偽善者だと分かってから、さらに楽山に関わってからは、批判記事が多くなってきて、とうに終わっていても不思議でないような私のブログが、今まで続いてきたということになっています。年寄りの退屈しのぎと言うには、重すぎるテーマになってきました。
 
 
 
私の近況:
 
99歳になる母は、介護施設から、肺炎で入院して、次は、老健施設に入所し、今は、介護付き老人ホームにいます。その間、2度ほど尿路感染症で発熱し、内科に入院しました。
 
私は、記憶力が落ちていて、慣れない手続き関係、つまり、保険証、医療費減額認定証、介護保険証、介護限度額認定証といった書類をどこへやったのか分からず、再発行してもらうことで、施設や市役所などに行って、郵送か否か、など、いろいろ考えているうちに、鬱が悪化しています。
 
母は、腰椎骨折がきっかけとなって、認知症が明らかになっています。新コロナではありませんが、予防のため、ずっと面会できず、転院の際に顔を合わせたとき、私の顔を覚えていなかったようなのが、かなりショックでした。
 
加えて、私が利用してきたネット回線であるADSLが、もうすぐ終わるということで、光に変える手続きが、この年老いた頭には、煩雑で、NTTの工事と、サーバーの間で、分からないまま、不安ですが、できることをして結果を待つしかありません。料金も高くなります。
 
加えて猛暑の中で、街中を1~2㎞くらいの距離を歩いても、汗だくになるし、元々心臓に持病があって、動機・息切れ・倦怠感で、家についたら、しばらくダウンしている始末です。出来ることを、ひとつひとつ、遅れがちですが、こなしてゆくしかありません。
 
 
注意・警戒・棄権

注意・警戒・危険
 
 
(2022年08月24日、再録+加筆)
 
 
 
  危険な衝動
 
高校の頃だったか悪友が
ふざけて橋の欄干の上を歩いていた
私はその横を歩いていた
欄干から降りると彼は言った
「お前が狂わなくてよかった」
「あ、わかった?」
人が崖縁を歩いていると
ぽんと押してみたくなる
 
自分が崖縁を歩いていると
ひょいと飛び降りてみたくなる
 
彼がああ言ったということは
彼も似たような・・・ということか
 
あの頃は随分と危険な衝動を
いっぱい抱えて生きていた気がする
今どこにいるか知らないが悪友よ
私はもはや狂っているから
あれが今なら言ったかも知れない
「やめとけ、あ、危ないぞ・・」
・・手を震わせながら
 
 
  冷たい熱
 
目覚めたのだろうか
眠ることを諦(あきら)めて
起きたのだろうか
 
だるい
頭と首が痛い
じっとり発汗している
顔がべっとり
下着がじっとり
 
咽喉(のど)だけが焼けるように熱を帯びて
咽喉が渇いたということに
発汗を裏付けられながら
大きな湯呑みで水を飲む
薬といっしょに
朝の水道水をごくごく飲む
冷たい水で体を満たして
また寝床に入る気でいる
渇きが水で癒(いや)されたからか
改めて眠りを確かめたいのか
まだ暗い朝
 
まだ焼けるような渇きが
熱の危険信号を発しているのか
だから目覚めたのか
それとも眠る試みを中断させたのか
夢が焼け爛(ただ)れたあとなのか
 
 
  安全な人

もう天災からも人災からも
安全な場所など
どこにもないのでしょうね
 
安全な場所はないですけれど
安全な人はいます
いてもいなくてもいい人
いてもいないのと同じ人
だってその人が死んでも
誰も衝撃を受けないでしょう?
 
でも本人は・・・
 
だから
その「本人」というのが
誰からも認められていないのですよ
つまり
存在しないのと同じなのだから
もともとその人には危険
というものがないのです
 
しかし、
そ、それは安全ということになるのですか?
それは安全というのではなく
危険も安全もないということでしょう
山奥で降る雨の一滴が
岩に当たって砕けるのを
誰も見ていないのと同じで・・・
 
山奥の水は
やがて田畑を潤します
砕けても存在しているのです
 
砕けようが潰れようが
何の影響も与えることができないのだ
 
え?・・・安全な人ってもしかして
あなた?
そう不特定多数か少数のね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感がない、情緒がない、反応しない、自己主張だけ書いてくる、反対を書き賛成を書いたから責任はないと言う、人それぞれを言い訳に使う、「人それぞれ」の人から外れている自分に気づかない、受け取って考える思考がない、何を言われても気にしない、・・人間ではないと思う。
 
自己愛性パーソナリティ障害者が自分の言動を制することが出来ないということが何を意味するかと言えば、関わった人は誰でも被害に遭うということから考えると、結局、関わった誰からも、生存することを望まれなくなるということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の右翼思想3
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
コトバンク
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明についての記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。政治思想の記事を出してきた楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であると同時に、軍国青年だったのでしょうか。
 
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
 
「つくる会」は、右翼団体です。右翼に偏向した教科書をつくる会でしょう。大川周明の奇行というのは、東京裁判で東条英機の頭をポンと叩いたことでしょう。
 
(ネットより)
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。東條は叩かれようとも激怒したりせず微笑んでいた。)、「インダー・コメンジー!(「Inder kommen Sie!、ドイツ語で「インド人よ来たれ」の意。アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア・コメディ!(It's a comedy!、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ・シンク(I, I think)(我思うゆえに我ありで知られる、何らかの哲学的思想的主張を行おうとしたと言う説もある)」などと支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。
 
 
>そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けないのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者、および、全ての都合の悪い意見を、無視し続ける男です。そして、真実の交流、本音の話し合い、真っ当な議論などは、全くできない人です。議論できないものだから、都合が悪くなると無視するのです。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。実際は、対立している相手を完全に舐めて、無視してよいと思っているのが楽山です。不感不応の無責任男、楽山こそ、真実の追求においては、誰よりも、議論から除外されるべき人です。
 
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが恐れるのでしょうか。楽山は、恐れられるような言論力はなく、代わりに、煙に巻く詭弁と嘘があり、無反省と無責任と無神経ゆえに鈍麻して、実際は、楽山が誰も恐れていないのでしょう。ゆえに、楽山を恐れる必要もないのです。
 
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。楽山の持ち上げ方は異常だと思います。高い知能を引き寄せて、自分もだと言いたいのでしょうか。
 
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。「筋は通ってはいる」と言いながら「笑いをこらえるのには苦労する」というところに、楽山の、いい加減さが表れています。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、自分はは学者レベルだから偉い!そして言うことはおのずから皆正しい、という単一の価値観のようです。自説に反することは、すべて、無視してきた3年間でした。楽山は、反論・弁明できなくても笑っていられる、という、実な強面の厚かましい体質です。
 
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
(ネットより)
ポストモダニズムは、懐疑主義(英語版)的・イロニー的な姿勢、あるいは大きな物語(英語版)や近代主義と関連のあるイデオロギーの拒絶によって一般的に定義され、啓蒙主義的な理性主義を批判し、政治的・経済的権力の維持におけるイデオロギーの役割に焦点を当てていることが多い。
ウィキペディア:ポストモダン
 
説教より批判ということか。
 
楽山の語る○○主義を、まともに受け取ってはいけません。字面の浅い概念しか受け取らない楽山は、言葉だけ、専門用語を使って、自分を飾っているだけだと思います。キリスト教について、如実に表れていたことです。既に浅はかさがバレているのに、なおも見栄を張り続ける楽山です。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性も感性も壊れてゆく楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格です。
 
楽山は、信仰という方向から考えたことはありません。信仰についての話は、幼稚な詭弁ばかりです。恐らく、総ての思想と論理について、楽山は、まともに組み立てて語ったことはなく、ネジが緩んだガタガタの精神モデルでしかなく、何も成り立ってはいないと思います。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、賛否の論も、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の、思い込みから暴力的思考への傾倒が生まれています。楽山の○○論は、チンドン屋のようなものです。
 
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
難しい用語を用いて書いてきて、ここで「とりとめのないことを書き連ねてしまった」という謙虚芝居を認めてはいけません。楽山ほど、遠慮も思慮もなく、厚かましく書いて満悦する人は珍しく、ゆえに、いくら芝居でごまかしても、謙遜も遠慮も品もない獣皮のような人格だと分かってくるのです。
 
楽山は、勉強が嫌いで、かつ、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれませんが、そういうこととは関わりなく「つらつらと、とりとめのないことを書き連ね」たのなら、正当な論者であれば、公開しないはずです。実際、ゴミ箱だけが似合っている楽山の言であります。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。無反省に無責任に命題を決めつけてゆくことで失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、自分について、悲劇を想起できないのでしょう。
 
読書の大切さを、ことごとく、自我の満悦のために棒に振って、自我によって笑いながら、自我によって他者を軽視~無視し続けられる亡者は、楽山という形骸を通して、いかんなく、その吐き気を催すような醜さを表し続けています。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本の歴史に、誰も否定はできないのは、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実でしょう。楽山の視野では、不都合は総て無視するので、特に人名や人生や心や命について、楽山は不感症です。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。さらに、右翼思想家に傾倒となれば、今後、どういう転帰を辿るか、恐怖しかありません。しかも、楽山は、今までの批判に書いたように、笑うサディストですから、人の人生も命も、何とも思っていないと思います。
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる悪臭と不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
行き場のない妄念思想

行き場のない妄念思想
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月03日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
(ネットWikiより抜粋)記事の参考までに:
 「
 
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 
 」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誇るべき知性も感性も無く、地道に生きるでもなく、できない理路を、できない読書を、自慢することで誇りを守ろうとする楽山ですが、そもそも、人間であることの尊厳と誇りを、嘘と詭弁で捨て去るということを繰り返しては、人間たるに相応しいものを持ちうるはずがないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ