ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:右翼思想

 
  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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  楽山の右翼思想2
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明についての記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。政治思想の記事を出してきた楽山は、軍国青年だったのでしょうか。
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けなかったのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者を、無視し続ける男です。そして、全く、真実の交流、本音の話し合い、真っ当な議論のできない人です。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。実際は、対立している相手を完全に舐めて、無視してよいと思っているのが楽山です。
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが、この人を恐れるのでしょうか。楽山は、恐れられるような言論力はなく、代わりに、煙に巻く詭弁と嘘があり、無反省と無責任と無神経ゆえに鈍麻して、実際は、楽山が誰も恐れていないということでしょう。
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。楽山の持ち上げ方は異常だと思います。高い知能を引き寄せて、自分もだと言いたいのでしょうか。
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。「筋は通ってはいる」と言いながら「笑いをこらえるのには苦労する」というところに、楽山の、いい加減さが表れています。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、自分はは学者レベルだから偉い!そして言うことはおのずから皆正しい、という単一の価値観のようです。自説に反することは、すべて、無視してきた2年間でした。楽山は、反論・弁明できなくても、笑っていられる体質です。
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
楽山の語る○○主義を、まともに受け取ってはいけません。字面の浅い概念しか受け取っていませんから、言葉だけ、専門用語を使って、自分を飾っているだけだと思います。キリスト教について、如実に表れていたことです。既に浅はかさがバレているのに、なおも見栄を張り続ける楽山です。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性にも感性にも縁のない、楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格の思想~妄想です。
 
楽山は、信仰という方向から考えたことはありません。信仰についての話は、幼稚な詭弁ばかりです。恐らく、総ての思想と論理について、楽山は、まともに組み立てて語ったことはなく、ネジが緩んだガタガタの精神作業のために、何も成り立ってはいないと思います。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、賛否の論も、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の、思い込みから暴力的思考への傾倒が生まれています。
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
楽山は、勉強が嫌いで、かつ、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれませんが、そういうこととはかかわりなく、「つらつらと、とりとめのないことを書き連ね」たのなら、正当な論者であれば、公開しないはずです。実際、ゴミ箱だけが似合っている楽山の言であります。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、自分について、悲劇を想起できないのでしょう。読書の大切さを、ことごとく、自我の満悦のために棒に振っている楽山です。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本の歴史に、誰も否定はできないのは、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実でしょう。楽山の視野では、不都合は総て無視するので、特に人名や人生や心や命について、楽山は不感症です。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。さらに、右翼思想家に傾倒となれば、今後、どういう転帰を辿るか、恐怖しかありません。しかも、楽山は、今までの批判に書いたように、笑うサディストですから、人の人生も命も、何とも思っていないと思います。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる悪臭と不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
妄念思想

妄念思想
 
 
(2020年07月02日)
(2021年07月28日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
(ネットWikiより抜粋)記事の参考までに:
 「
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 
 
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  楽山の危険思想2-2
 
 『安楽の門』大川周明著
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、親孝行から国家信仰への誘導、宗教を国家に帰する極端な右翼思想が、長~い引用とともに、剥き出しになっています。楽山は、丁寧語で書いている分、より陰険で狡猾で過激な右翼思想屋だと思います。とても危険だと思うのは、書いてあることに、理路も節操もないことです。
 
*母
著者自身はどのような宗教を信じているのかといえば、母が本尊であるという。
私は、吾母を念ずることによつて一生を安楽に暮らして来たのである。それ故に『汝は何うして安楽に暮らして来たか。』と問はれるなら、私は即座に『母を念じて暮らしたからだ。』と答える。
(同上、p.62)
数年以前に天満天神・阿弥陀如来・八幡大菩薩を本尊とする母の信仰を簡単平明なものと考へた私が、一層単刀直入に母を本尊とすることによつて安心を与えられることになつたのである。
(同上、p.210)
 」
母が本尊だと言われると、正直「なんじゃそりゃ?」と思わないではいられないが、どうやらこの話にはもっと奥行きがあるらしい。少し長いが、話の筋道が分かるように引用することにする。
さて一家の先祖が其家の神として崇められるやうに、多くの家族が相結んで部族を形成するやうになれば、諸家族の共同の先祖として信仰される部族神が、各家族の先祖よりも一層高位の神として崇拝される。そして其頃には先祖以外にも色々崇拝の対象が現れ、人間生活の宗教的一面が次第に複雑になつて来たので、茲に専ら祭祀を事とする一個の階級がうまれるやうになつた。次で多くの部族が一つの国家に統一されるやうになれば、部族全体の祖先が国祖として国民崇拝の対象となる。多くの国家では、内外幾多の原因から、建国当初の精神が中断又は断絶したために、国民の国祖に対する宗教的関係も自ら消滅せざるを得なかつた。其等の国々では、国民の生命の本源たる国祖を認めず、直ちに宇宙全体の本原たる神を父と仰いで居る。唯だ日本の場合は、建国当初より今日に至るまで、国祖の直系連綿として国民に君臨し、民族の歴史的進化が一貫相続して中絶しなかつたので、国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれるのは其のためである。それ故に日本人の場合は、子女としては親に考なること、国民として天皇に忠なること、そして一個の人間としては天を敬することが、三者一貫せる『敬』の具体的発言であり、従つて日本人の宗教である。
(同上、pp.200-201)
 」
 
楽山は、まとめることが出来ないようです。
「国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれる」
・・右翼思想の宣伝でしょう。
 
人間に不変な者などありません。神が不変でも、人は変わります。それが、改善、発展、平和、幸福につながるかどうかで、思想は、評価されるものだと思います。最初から不変なのは、神域であり、それは、人間の知るところではないのです。
 
神の全能と人の不完全を、混同する向きは、いたるところにあります。以前、シャローム shalom が、似たようなことを言っていました。"日本教" の話です。こういうところを見ると、やはり、楽山とシャロームは、つながっていると感じます。尊敬と信仰は、同じでしょうか、否です。
 
人間は、自分の言動の影響を、影響がなくなるところまで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って傷つけるということが起こります。だから、人間は、できることをして、結果を反省することで成長を期するわけです。そういうことをせず、理解も出来ない者が、大口をたたいています。
 
日本では忠孝一致になるという話は聞いたことはあるが、敬天も一致するとはおもしろい。今風にいえば、忠孝信が一致するということだろうか。母を敬し、信じることから、先祖崇拝に発展することは分かるが、それが忠孝信の一致にまで行くとは驚かされる。こういう理屈は愉快な心持ちがする。
 
楽山は「愉快な心持ち」だそうです。楽山は、右翼の宣伝マンなのでしょうか。国家や慣習で、宗教や信仰を決める傾向は、大いに悪用されてきた歴史があります。心のない楽山は「理屈」と言って、「忠孝信」のないところから、それを説いたつもりで、満悦しています。
 
信仰は、個人と神の関係であり、何でもいいのではなく、聖書によって、示されています。そのための、愛と共感が、楽山には皆無なのです。だから、宗教と信仰について、楽山には、黙っていろと言いたいわけです。
 
*神のイメージ
著者による神としての母は、次のようなイメージであるらしい。
私は『下獄の際には仕方がないと諦めた。』と言つたが、その諦めは、私が心の中で『母上、私は監獄に往つて参ります。』と挨拶しただけで、いとたやすくついた。それは三度とも其通りである。わたしのこの挨拶と共に、慈母の悲心、一瞬に山川百里を越えて、まつしぐらに私の身辺に飛到する。わたしが何事をも頼まないのは、母は私の求める一切を知り尽くして居るからである。赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める。いや、吾母は私が求めようともせぬものまで与へてくれる。その証拠には、慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。
(同上、p.46)
 」
意外なことに、これは自分の神のイメージと似てる。というより同じだといってもいいくらいだ。
 
楽山は、要約も出来ず、長いと読みづらいということも考えないようです。
 
楽山は、何でも赦して、何でも与えて、受け入れる母性に、神のイメージをいだいているようです。この母上には、楽山に書くのをやめるように言っていただきたいものです。
 
「慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。」・・この部分は、母=神なのでしょうか。
 
この部分は、言葉上、キリスト教の、神信仰と似ていても、人間の母は、神とは違います。したがって、人間は、過ちを犯すことがあります。
 
愛する息子が、楽山のことですが、自分カルトとなって、理路もなく、情緒もなく、名のある人の言葉を恣意的に悪用して、他者の意見を無視して、それを、神?になぞらえるとき、息子に対して、何でも正しいと支えてくれる母の愛は、依怙贔屓の偏愛の域を出ないのです。
 
自分と神のイメージを共有する人はどこにもいなそうだと思っていたが、先行者がいたというのは嬉しい。やはり自分が思いつくようなことは、とっくに誰かが考えているということなのだろう。いつも思うことではあるが、この世に新しいものはないというのは本当のことなのだろう。
 
「先行者がいた」・・気持ち悪いです。自分と同じレベルの人が著者だ、という自慢になることを、楽山は、考えないのでしょうか。それとも、承知の上で、自慢しているのでしょうか。どんどん、堕ちてゆく楽山です。書くほどに、そうなってきたのでしょう。
 
楽山が、"この世に新しいものはないというのは本当" だと思うなら、どこにも響かない自説を振り回すことはしないでほしいものです。楽山の書いたものに、独創的で、良い影響を与える、と言えるものが、どこにもないということが根拠です。
 
楽山は、上のほうの引用のような母の愛には、恵まれていないのかもしれません。ゆえに、楽山は、引用したイメージだけを讃え、自分が母に、どういう愛を向けたかを語っていません。それに、神のように絶対に正しい愛の母はいないと思います。
 
自分が抱いている神のイメージは、母性的な存在だという自覚はあったが、本書を読んでさらにその自覚は強まった。「赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める」という部分は、まさに「祈らずとても神や守らん」ということでもあろうし、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
 
まえにも似たようなことを言っていましたが、軽々しく神に母性を当てはめる楽山です。祈らなくても守ってくれる神?を欲しているようです。神を恐れない身勝手な者は、何でも自分で作り出してきます。その神?が、何でも与えてくれるからと、また、自己中の正当化です。
 
そして、「涙こぼれる心持ち」などと、いつもの、感動芝居で、心にもないことを言ってきます。こういう楽山の白々しさは臭気を持つようです。放屁のようです。今までの経過から、嘘だと思います。むしろ、そこに、楽山の詐欺性と反宗教が、証拠として表れてくるのです。
 
それにしても、このくらい貪りから離れたら、さぞ心穏やかであり、神への感謝によって心は満ち、強いてどこかの宗教にしがみつく必要もなくなるのは当然だろう。自分はこういう心境とはほど遠いが、いつかは辿り着きたいものである。
 
神が人に与えた節操を知らずに、勝手に、"神への感謝によって心は満ち"、しかし、宗教は不要と言っている自己矛盾です。楽山が辿り着くのは、多くの被害者によって裁かれる詐欺的偽善者の末路の心境でしかないでしょう。
 
*全体の感想
大川周明については、前にも書いたように東京裁判での奇行から、あまりよい印象は無かったので、その著書を読んだり、人となりを知りたいという気にはなれなかった。でも本書を読んでみると、その宗教観にはさして異論もなく、よく了解できた。もしかしたら自分は、大川周明に対して、いわゆる食わず嫌い状態になってしまっていたかもしれぬ。
 
「よく了解できた」などという気安い肯定は、最初から、まるで工程のように決まっていたと思います。過激な右欲の思想家である大川周明は、知能の高いナルシストだったのかもしれません。楽山は、知能の高くない病的ナルシストだと思います。
 
こういう人が、高い知能にあこがれると、ろくなことはないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDが、原因なのか、結果なのか、不明瞭になっていますが、今、病的ナルシストとなっていることは、明かと言ってよいでしょう。
 
本書の中で、自分がもっとも強い印象を受けたのは、上の母に重なる神のイメージと、親孝行が絶対的な神への信仰につながるという理屈だった。親に感謝すれば、親を育んだ先祖への感謝となり、次にはその先祖を育んだ民族神、さらには国の神への信仰となり、最後には絶対の神への信仰に行き着くと…。なにやら修身斉家治国平天下のような雰囲気もないではないが、自分にはこの考え方は分かり易くていい。
 
なんて単純なのでしょう。もろに、個人の自由を無視した右翼思想になっています。300万人の日本人の犠牲を出した戦争の歴史を学んでいない証拠でしょう。残酷な心性だと思います。結局、国家主義の「民族神、さらには国の神への信仰」を勧めています。
 
神への信仰が、あとだそうです。すごい身の程知らずで、信仰知らずだと思います。しかも、「親孝行が絶対的な神への信仰につながる」そうです。楽山のスタンスが、はっきりしてきました。そして、立場が崩壊しても、言い続けるのでしょう。立場も挫折も、関係ない自己満悦の楽山でした。
 
人は神によって万物の霊長としてつくられたのであるから、自然を管理、支配する権利義務があるというよりは、自分が今あるのは両親、祖先のおかげであり、両親、祖先があるのは民族や国のおかげ、民族や国があるのは自然のおかげ、自然のあるのは神様のおかげ…という具合に、両親、ご先祖様、自分の生まれ育った土地の神、民族神、国の神、自然の神、絶対神…天地一切のものに感謝をささげるという方が、自分には合っている。
 
上の続きで、楽山の思想が表れています。つまり、正体がバレています。楽山という右翼は、国の神信仰であるならば、何でも感謝し、国のために命を失ってもいいと言うのでしょうか。歴史の史実としては、空襲で母を失った人が大勢いるはずですが。
 
これだけ大きいことを言った楽山は、国のために何をしてきたのでしょう。ネットを、じわりじわり、荒らしているだけす。楽山という万物の霊長は、他の万物の霊長の生活も人生も命も、どうでもいいのでしょうか。右翼過激思想屋、楽山の暴言であります。
 
本書を読むことで、こういう自分の宗教感覚を再確認できたのはよかった。本を読んでいて、これは反対だ、これも反対だと批判ばかりが心にうかんでくると、何でも反対屋になったようで気が滅入るが、共感できる箇所がたくさんある本を読むと、何やら自分が素直な人間になったようでなかなかいい気分だ。
 
再確認したのだそうです。怖いことです。共感という言葉を使っていますが、上の思想、共感の対象になるのでしょうか、素直と言えるのでしょうか。テロリストにでもなるつもりでしょうか。戦争を望んでいるのでしょうか。それで、何か、偉い地位にでも就きたいのでしょうか。
 
楽山の妄想です。それだけです。空想屋・妄想屋・偽善者・詭弁屋・自己愛性人格障害者に用意される椅子は、ギャング以外、電気椅子以外、どこにも何もありません。決して、楽山に近づかないでください。楽山から、身を守ってください。
 
明日、もう一つ、大川周明の記事を再録+加筆して投稿します。
 
 
妄想思想の不健康な暴発

妄想思想の不健康な暴発
 
 
(2020年07月22日、同日一部修正)
(2021年07月25日、再録+加筆)
 
 
 
  暴走の自由
 
総てが自由に走り始めている世界で
自由の勢いに任せて
うっかり死の命令形を
口から滑らせたばかりに
自分が死に定められていることを忘れて
年々歳々変わり果てていって
買ってくれる人も気にとめる人も
少なく遠くなってきて初めて
にわかに慌て始め
追ったり縋(すが)ったり
が当然ながら無味異臭の世界から
境界へ限界へ果てへと向かってゆくのだが
そのときには既に遅いでも早いでもなく
刺青(いれずみ)のように刻み込まれた
実は誰も属してなどいない
群れの柵(しがらみ)の
土産(みやげ)物の辿(たど)る宿命として
命令・暴力・暴走の終着近く
発した死が折り返して
迎えに戻ってくるのは
まさに人とその産物の自由なのである
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
論語みたいな考え方ですね。
・論語:里仁第四 〔18〕 父母に事えては
引用ツイート
HJ_oekakiman
@hj_oekakiman
 · 7月22日
二世の皆様へ。
例え、教会で何か気に入らない事があったとしても、ご両親がいわゆる狂信的で、窮屈な思いをした事があったとしても、それでも御父母様を批判する書き込みはするべきではないと思います。
このスレッドを表示
 」
 
事える(つかえる、仕える)
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山は「論語みたいな考え方ですね」と書いて、何が言いたいのでしょう。この記事の上のほうで、信仰を貶めて、国が先、神が後、と言っていたのは楽山です。楽山という右翼の暴言者、国粋主義者、日本主義者、国家主義者は、国を守るだけでなく、神を軽んじ、他者を無視しています。
 
楽山は、人それぞれ、個人の自由、などを強調して、自らの自分勝手なエゴイズム・自己中・自尊過大・自己愛を正当化していますが、他者の個人の自由を認めていないことが明らかとなっています。親に孝、君に忠を主張して、斬られるのは、自分だけに忠孝の楽山自身なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その場その場で、思いついたことを節操もなく、よだれのように垂れ流してきますが、責任を負わず、反省しないので、主張に一貫性が全く見られません。楽山に対して、批判目的以外では、近づかないでください。もはや精神衛生の問題なのです。
 
 
 
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