ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:妄想

 
  空想に逃げる楽山
 
 『かがみの孤城』辻村深月著
 2022年12月03日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
まともに生きている人間が小説を読んでいるという見せかけの、まともな生活を装っている楽山です。実際は、嘘と詭弁と刷り込みで、人をだまして誘導する、ネトウヨであり、反キリストです。短い感想文を書くことの意味はなく、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状です。
 
 
ツイッターで本作が話題になっていたので興味を持ち、読んでみた。あらすじは、不登校の中一女子が鏡の向こうの世界に行き、同世代の男女と交流しつつ、成長するという話である。
 
楽山は「鏡の向こうの世界」という空想の世界しか住めなくなったのでしょうか。現実逃避しか出来ないのでしょうか。偏見だけのキリスト教の否定を、ネトウヨで気取りだけの楽山が書いた文章の救いがたさ、それらについて、何の反省も後悔もせずに、書き続けられるという慢心は、病理によります。
 
 
物語が大きく動き出すのは後半に入ってからなので、前半はややじれったいところはあったが、物語世界の全体像が明らかになってからは大きな感動があった。涙涙。最後は悲しいけれども、綺麗な終わり方であり、読後感はよかった。
 
楽山に限って、涙涙はないでしょう。このように、ボク感じやすいの・・みたいに書いておけば、共感が集まると考えること自体が症状でしょう。「感動」「悲しい」「よかった」という単純な言い方しか持っていないことから、その感動言葉同様に、深みのないことがばれてしまう楽山なのです。
 
 
それにしても本作に限らず、小説の主人公はどうしてこんなにも繊細なのだろう。主人公がものを考える人でなければ物語がまわらないのは分かるが、中一でこれほどの思考力はすごい。
 
ウィキペディアによると、作者辻村深月は1982年生まれの小説家で、2017年の作のようですから、35歳頃に発表した小説のようです。「中一でこれほどの思考力はすごい」・・そういうキャラを描いているフィクションでしょう。実在のように感動することに違和感はないでしょうか。
 
 
それに比べると、自分が中一だったころは本当に何も考えていなかったと思う。もっともこれは当時はあれこれ考えていたのを忘れてしまっただけなのかもしれないけれど…。
 
今も殆ど考えていない楽山です。いちばん大事なこと、生きる上で考えるべき真実や人生の大事なことを、ことごとく妄想的な辻褄で語ってきた楽山です。その偏狭な精神で、キリスト教を侮辱した根拠は、具体的な奇跡が起こらないから・・という身勝手な拙劣さです。真実に向き合える人ではありません。
 
 
もしそうであるならば、それだけ自分は大人になったということなのだろうな、大人とは子供時代の記憶を失った人のことだとすれば。
 
自分の自己愛性の障害が表れ、迷惑をかけ、反省せず、責任を負わず、現在までの記憶を、全く意に介せず、平気でいることを「大人になった」と言っています。あらゆる都合の悪い「記憶を失っ」ているなら、まともに交流してよい人ではないのです。つまり、未だ人間ではないのです。
 
 
 
 霊言は名誉毀損になりえるのか?
 (「弁護士北村晴男ちゃんねる」の動画)
 2022年12月03日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
書かなければいいのに、なぜ書いてくるのでしょう。書くことが、まともではないことに気づかないからでしょう。人間性があれば分かるはずのことが、分かっていないのに、分かったつもりで書いてきて、分かっていないことが、さらに、明らかになるという経過です。
 
 
*霊言と名誉毀損、および信教の自由 ツイッターで、北村弁護士の動画が話題になっていたので、リンク保存しておきたい。
 
自己愛性人格障害の楽山に信教の自由を語る資格はありません。未熟で攻撃的で侮辱的な無根拠の否定をしてきたからです。人間的な感受性がなく思考も小学生並みに拙劣な宗教音痴に、そこまで言われる筋合いはないのです。分からないのに分かったふうに否定してくる加害が趣味の虚栄に生きる楽山です。
 
 
*手塚るみ子氏のツイート
上記の動画で話題になっている手塚るみ子氏のツイートは、こちらにまとめられている。
・手塚るみ子さん「最近『手塚治虫の霊言』という頭の痛い本が出版された。」
 
父親は漫画家の手塚治虫ということですが、『手塚治虫の霊言』などと書かれては、迷惑も甚だしいでしょう。作者は、大川隆法ORです。
 
 
*ややこしい
動画の話からすると、どうやら霊言を名誉毀損とするのは難しそうだ。その理屈は、霊言は一般には信じられていないので、霊言で何が語られようともその内容を本気にする人はおらず、社会的評価が傷つけられることもないので名誉毀損は成立しないということらしい。これは前に聞いたことがある話だけども、改めて聞いても失望とともに、何だか失笑してしまう。
 
楽山の霊能趣味と同じだということでしょう。「霊が分かるっぽい」と書いて、訂正しておらず、ホラーの話題が多い楽山です。どう失笑したのでしょう。楽山の、人の霊は否定して、自らの霊の話は改めないという自己中体質が表れています。人のことばかり言って、自らを見ない人です。
 
 
ただし動画ではこれに続いて、霊言は一般には信じられておらず名誉毀損にはならないとしても、信者らは信じているわけでそれによって社会的評価を傷つけることにつながるならば、名誉毀損にならないとも限らないそうである。
とすれば、霊言が名誉毀損になるかならないかは、結局、なるともならないとも断定的には言えないということか…。若干、歯切れが悪い答えではあるが、これがもっとも現実的な答えなのだろうな。
 
名誉棄損になりうるという話を、楽山は短絡思考で「断定的には言えない」という話にして「歯切れが悪い」「現実的な答え」という結論になるでしょうか。事実関係によっては犯罪になるということでしょう。楽山の見方は全か無のような話になり、一方で、語ることは、ボンヤリして終わります。
 
 
*霊言を信じるかどうか
最後に、ついでに書いておくと、私は北村弁護士と同じく、霊言は信じてはいない。霊言は真実というより、スピリチュアル エンターテイメントだろう。
 
今さら言い訳しても遅いのです。白々しい楽山を、楽山の発言の事実が、追及することになります。百害あって一利も一理もない楽山です。かつて「霊が分かるっぽい」と言ったのに、ここでは「霊言は信じていない」と言っています。赦されるはずもないことです。エンタという書き方ではなかったのです。
 
 
こちらの記事の後半にあるように、霊媒の口に水をためさせ、テープで塞いだうえでも霊言がなされ、その声が空中を飛び交うなどということが現実にあったならば、「本物かも…」と思うかもしれないが、霊媒が口を動かし、しゃべっていて、声も変わらないなら、それは真実の霊言とはいえなかろうと思う。
・『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』の感想 (1) - 楽山日記(LD)
 
霊能趣味の楽山の見なしの幼稚さが表れています。超常現象が起こったら本物と思うのでしょうか。真実を声も変わるかどうかで判断するのでしょうか。どういう根拠なのでしょう。楽山の、自分でその場で決められるという、とても浅い短絡性が表れています。これで宗教を語られてはたまりません。
 
 
ちなみに、当該記事の追記にあるように映画『死霊館 エンフィールド事件』のなかでは、少女が口に水を含ませた上で、男の声で霊言し、その後、口に含んでいた水を吐き出すシーンがある。
 
ここで映画の話です。「口に水を」・・で、なるほどなんて思わないでください。楽山が、現実と映画を混同していることのほうが、はるかに病的なのです。楽山は、当為も事実も現実の理路を組み立てることが出来ないということが如実に表れています。
 
 
霊言が真実であるかどうかの見分け方として、霊媒の口に水を含ませ、しゃべれないようにした上で霊言をさせるというのは、もっとも簡単な検証方法だろうから、真実の霊言をしているという人には、ぜひともチャレンジしてみてほしいものである。
 
霊が分かるっぽい楽山は、すっかり霊能モードで見分け方まで書いています。「見分け方」「ぜひともチャレンジしてみてほしい」・・どうして、こういうことが分かるのでしょう。どういう能力と資格があって、超常の霊現象の条件を語るのでしょう。
 
根拠がありません。口で言えなければ、霊が語る証拠という短絡のようです。ペテンの細工~トリックの可能性は考えないのでしょうか。口で言ったら霊言ではないという根拠は何でしょう。そんな条件、分かるわけもありません。楽山は、霊言を先入観で決めて、思い込んでいるだけです。
 
現実と空想の区別がつかなくなったのでしょうか。思いつきで超常に自分の浅知恵を当てはめています。楽山は超常の条件まで語り出しました。楽山の自己愛性パーソナリティ障害の空想が、進行して妄想になってゆく精神病理のプロセスでしょうか。
 
手塚治虫は、SFを中心に、たくさんの楽しいマンガを書いてくれた有名人です。それを、楽山の霊能気取りで扱われては、ファンがたまりません。訴訟になりそうなのは、楽山のほうでしょう。どうか楽山に関わらないでください。近づかないでください。
 
 
現実から妄想へ

現実から妄想へ
 
 
(2022年12月05日)
 
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
 
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
  (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘吐きでは済まなくなりそうです。楽山が書けば書くほど異常性が表れてきます。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は進行性なのでしょうか。学習と反省をしないと、病質人格が、どういう方向に進行してゆくのか、・・恐ろしい気がします。統合失調的な妄想に向かうのでしょうか。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動2
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
ぺマ・ギャルポ:ウィキペディアより
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自分を高めるために、評論家気取りで利用~悪用するのです。
 
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。食欲のように話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか書けないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。そして、具体的なことは、何も語れないのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。自分に何が降りかかってくるか、何も気づかない人です。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。間違っても楽山を信頼しないでください。
 
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは将来の脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に口を出してくるのは現時点の大きな災いです。私は楽山を強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
本当なら「不気味」ではなく恐怖です。総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいかのような、自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」と、あっさり楽山特有のボンヤリ言語で言うのは、迂闊な暴言です。高等感情鈍麻の楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
迂闊(うかつ)危険

迂闊(うかつ)危険
 
 
(2021年)
(2022年11月29日、再録+加筆)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
 
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
  診断基準
(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
 
誇大性,賞賛の要求,および共感の欠如の持続的なパターン
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
 
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
無条件に賞賛されたいという欲求
特権意識
目標を達成するために他者を利用する
共感の欠如
他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
自己愛性パーソナリティ障害(MSDマニュアル)
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の症状
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
(ウィキペディア)
 
 
 
 私としては、シャロームshalom、楽山を見てきて、
加えて、
 
笑いと怒り・憎しみの感情はあるが、
共感がないのと同様に、しんみり悲しむ悲しみの情がなく。
他者を責めるが、自分を責めることがない。反省しない。
ひやかして笑ったり、皮肉や雑言を言うが、説得力は皆無。
真剣味がなく、洞察がなく、皮相であり、深みがない。
評論家気取り、インテリ気取りがあり、学術用語を使いたがる。
罪悪感や羞恥心がない。
批判されても受け取らず、不感不応。弁明・反論が出来ない。
代わりに、平気で同じ結論を言い続ける。
 
言い方だけ、丁寧語を使うことがある。
都合が良いと他者の言を、褒めるが、表現は月並みで、大袈裟である。
・・などなど・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではないし、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。砕けた言い回しに、騙されないようにしてください。
 
 
 
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  楽山の妄想理路
 
 神について考えたこと
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 2022年10月14日
  を批判。
 
 
恐ろしいほどの足らざるオジサン、楽山の滅裂な短絡と妄想が暴走しています。神を語る理路と情緒とは何の関係もない駄弁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)が、増悪して脱線を繰り返しています。楽山の語る偏見が広まらないようにと、あえて批判しています。
 
今回も自己正当化に明け暮れる楽山の無意味な日常に過ぎませんが、加えて、一人でも巻き添えにしようと、詭弁の迷路の罠を用意しているようです。書いても何も表していない空疎な迷路に、引き込もうとしています。これが疲労だけを与える楽山の悪意に満ちた筆致であり、全て、屁理屈です。
 
 
*忘れないうちに
 前記事に保存した対話の中で、論点になったものについて、忘れないうちに自分の考えをメモしておきたい。
 
楽山は、神を、決めつける対象としている時点で、神について何も知らないし何も理解できないということです。神について、頭の中で考えたところで、先入観と偏見と敵意だけが明らかになってきました。こういう人が何を書いたとしても、自己顕示欲に過ぎず、神について何のヒントにもなりません。
 
 
*神の定義
まず一つ目は神の定義についてである。これには下のようにいろいろあると思う。
高級諸神霊(諸天善神など)
山川草木に宿る精霊
先祖の霊(祖霊)
宇宙を統べる法則
絶対神(唯一神)
生き神様(教祖など)
その他
 
人間に神を定義することはできません。神は超常、人は地上の不完全なのです。血迷った楽山が、何を書いても、反信仰・反キリストの雑言に過ぎません。楽山は、神を陳列しているようですが、神は、求める者にとってのみ、神であります。楽山が神をどうのこうのではなく、楽山には神はいないのです。
 
求める心を持たず、否定するために、いちゃもんを付けてくるだけの者に対して、神は、いつまでも無意味な徒労の石灰を与えるだけです。そのことは、3年以上にわたって表れてきたのです。加えて、神霊を、ホラー映画やアニメのレベルでしか書けない楽山の言は、宣伝ビラよりも信頼性がないのです。
 
 
個人的なことながら、自分は無宗教の家で育ったので、幼少年期は神や信仰についてさして考えることはなく、神社仏閣に祀られているのが神様なんだろうと思っていた。山川草木、先祖の霊などに手を合わせることにもさして違和感はなかった。
 
楽山は、特に宗教と信仰については、思考力がありません。「さして考えることはなく」「だろうと思っていた」「違和感はなかった」・・これは信仰の態度ではありません。「山川草木、先祖の霊などに手を合わせる」ことも、楽山の場合、信仰を示してはいないと思います。
 
全く異質な勘違いを、楽山は、ずうっと書き続けてきたのです。指摘しても理解しない楽山だからこそ、今も、似たようなことを平気で書けるのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の怖さを感じます。これが宗教の文章などと思われては心外なので批判しています。
 
 
青年時代になると、HSに傾倒するようになり、宇宙を統べる法則が神だと説かれればそのように考え、教祖を神として信仰すべきことが説かれればそのように考えるようになった。
 
楽山は「宇宙を統べる法則」などという大袈裟な超常言葉が好きなのでしょう。宗教は、楽山にとって、空想の世界にあるもので、心がないために、身近に感じることがないのだろうと思います。いつも、外から眺めるだけで、これが宗教、これが信仰と、思い込んできたのでしょう。
 
 
しかしHS退会後はそれらの影響は薄れ、近年は人知を超えた超越者を神と考えるようになってきている。ただこれは頭ではそのように考えているということであって、現実生活では幼少年期の感覚に戻ってきており、諸天善神、山川草木、先祖の霊などを神様または神様に準ずる存在として拝むことにさして抵抗はない。
 
頭だけで考えてきた楽山です。感じ取る心がありません。つまり、上のほうの「諸天善神、山川草木、先祖の霊」というような、いわば、仏壇か、神棚か、お墓のようなもの、そして、楽山の気安い見方で見た自然のものなどに、宗教を見るような、ついでの気安さでは、宗教と信仰を語ることはできません。
 
 
*超越者
「無」は言葉では表現できないという考えがある。「何にも無いことを表現しようとする場合、『無』と言うと、そこに無が有ることになるので、『無が無い』と言わなければならない。でもそれだと、無が無い状態が有ることになるので、『無が無いが無い』と言わなければならない。でもそれだと…」という具合に、延々つづくことになってしまうというのだ。
 
低級な論理遊びです。このような未熟なことを、まともに言っているつもりの楽山のような者には、無限の無が訪れるだけになります。この世に生きる、という労苦の中で、無に遊ぶことを宗教と考えている楽山の、成長し損なった病人の、とんでもなく外れた顎々日記に過ぎません。
 
 
「超越者」にも、これと同様の問題が有る。「人知を超えた超越者」という表現は、人知を超えたと言いながら、しっかり認知していることを示しているからである。だから、超越者を適切に表現しようとすれば、無の表現と同じようなことになってしまう。
 
「人知を超えたと言いながら、しっかり認知している」と見なすのは、楽山の、教祖願望でしょう。楽山こそが、難癖をつけるのは神を認知しているつもり?の立場からであり、それは信仰ではなく、とても気安い概念の思い込みに過ぎません。自らの不完全を認識できないのと同様の知恵遅れなのです。
 
神については、その、ほんの一部の恩恵から、人間の一生を支える信仰が生まれてくるということです。楽山のように、その恩恵に触れていない者が、浅薄な知識だけで云々してしまうのは、身の程を知らぬ悪意と病質が進んでいるからに他なりません。
 
 
「人知を超えた超越者」→「『人知を超えた超越者』を超えた超越者』→「『人知を超えた超越者を超えた超越者』を超えた超越者…」という風にだ。
 この辺りのことは、言語表現の限界ということなのだろう。
 
否定するための言葉遊びによる詭弁です。全知全能を、わけの分からないものと嘲るための詭弁です。楽山の言語表現の限界であって、信仰者は、体験からも、神の恵みを知ることが可能であり、語ることも可能です。楽山のような邪悪な煽動者の、幼稚な短絡に惑わされないようにしてください。
 
 
*超越者と信仰
上の問題を読めばおよその見当がつくように、超越者を神とすれば、信仰は不可能であり、無意味とされることになる。人知を超越しているということは、人にはその名を知ることはできず、想像することもできず、信仰の対象として思いを向けることもできないということだからである。
 
楽山は、自らの狭窄した視野からの妄想を、誰でも「見当がつく」ことだと思い込んでいるようです。楽山の見当は、宗教でも信仰でもありません。短絡した妄想であり、それを決めつけてくる固定観念に過ぎません。まことに、楽山には、自由な思考と感性が、何も成立していないようです。
 
 
ただ信仰は不可能としても、それによって自己の進むべき方向は定めらる。
たとえば、キリスト教には否定神学というものがあるという。「神は~である」というのではなく、「神は~ではない」という風に、神でないものを否定していくことで神を探究しようとするものらしい。
 
楽山が進んでいるのは恣意という方向か拡散であり、何も正当に定まってはいません。そこからは何も発見できないところに、楽山は、わざわざ、身を置いて安住しているつもりなのです。そこから好きなように語りますが、それが良い影響を与えたことは一度もないと思います。
 
人が、神を対象として探求することなど不可能です。人に出来ることは、聖書と、体験から、また、交流から、楽山とは逆に、柔軟な思考と感性を養うことです。楽山のように頑なで視野の狭いコチコチの精神になると、何でも決めつけないと気が済まなくなって、書きなぐるだけになります。
 
 
また禅宗には「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ」という言葉が伝わっている。定説とは異なる解釈になってしまうかもしれないが、これは「認知したものは全て神ではないから即、退けよ」という意味もあるかもしれぬ。
 
神は、認識や認知の対象になる御方ではありません。なのに、楽山は、認識しているかのように、神という言葉を玩(もてあそ)んでいます。そこで、楽山の思考は死んでいるのです。楽山が、神について何を言っても、どこにも響くことのない雑音に過ぎなくなっています。賽の河原のようです。
 
 
要は、神は超越者だとすることは、「これが神である」という信仰ではなくて、「神とは何か」という探究を志すことなのだと思う。
 
神については、人が、対象として探求することは出来ません。「神とは何か」を、楽山が語るとき、そこには妄想しか生まれません。今までの楽山の言が、クズのような雑言に過ぎなかったことが証拠となるでしょう。楽山は、何も語れないのに、何でも語ろうとする、尾ひれだけの存在です。
 
 
*信仰と探究の相違点
信仰者は上に書いたように「これが神である」と言い張ることが多い。たとえば、このような論調はよくあるだろう。「私が信じているのは正しい神である」「私には正しい神を見抜く判断力がある」「『これが神である』という私の判断は正しい」
 
楽山は、いたるところで、神はいないと言い張ることしか出来ません。楽山の一切の言説は、子供にとっても大人にとっても通用しないような、落伍者の負け惜しみに過ぎません。この3年以上、楽山の言は、とても醜く、理路にならず、詭弁と嘘に満ち、まともな大人が書いたとは思えないものでした。
 
正常なら、批判に返せない原因を、自分で探すものですが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、返せないのに、根拠のない雑言を、繰り返し繰り返し言い返さないと気の済まない病理の衝動に流されて、性懲りもなく繰り返してくるのです。
 
 
一方、探究とは何かといえば、「これは本当に神だろうか」と疑問を持つことである。「これが神だ」という自己の判断を過信せず、謙虚さを維持することである。
自分は信仰者であるよりは、探求者である方が性に合っていると思う。
 
「「これは本当に神だろうか」と疑問を持つこと」は、内外の偶像を排除するためですが、楽山は、いちゃもんばかりを投げかけて、何も生産的なことが言えたことがないのです。鈍い自己中というのは、何も分かっていないし感じていないのに、さも知っているふうに詭弁を弄する毒魔です。
 
 
*神の存在
神についての議論では、「神とは何か」というテーマ以外に、「神は存在するか、しないか」という議論もあるが、これは神の定義次第では意味のない議論になる。
 
楽山は、自己愛を満足させるために、思いついたことを、まるで反論であるかのように、言わないと気が済まない病気なのです。だから議論は不可~禁忌です。反論者として付き合うための、いかなる節操も理路も、持ち合わせていないからです。自分とは何かを考えない人だからでしょう。
 
 
たとえば神はこの世ならざるものであり、見えも触れもせず、体積も重さもないとしたならば、「存在するか、しないか」という三次元的唯物的な判断基準ではかれるものではなく、そんなことを問うても無駄だということになる。
 
今はそう言っているだけの楽山の思いつきの台詞が続いています。神を必要としないなら、楽山は信じないというより、ずっと、楽山に神はいないのでしょう。それで終わりです。「三次元唯一物的」などと学問みたいに書いても、楽山の、無学、無知、無節操、無神経が、見苦しいだけなのです。
 
神について、体積や重さなどという物理的なことを言うのは、とても幼稚なことなのですが、幼稚な楽山には気持ちよいのでしょう。楽山は、元から、あらゆる節操を踏みつぶして、人の嫌がるようなことを平気で言って、混乱させるのが目的~快感なのです。こんな人種もいるということです。
 
念のために言いますが、楽山が、学問的な言葉を書いてくるのは、自己愛からの自慢に過ぎません。楽山は、神も信仰も理解していないのと同じように、それらの熟語を理解したことはないと思います。そのように、さも知っているかのように振る舞うのが、インテリ気取りの楽山の手口なのです。
 
 
ましてや、この世もあの世も、物質も霊も、存在も非存在も…全てを超えた超越者を、有る無しで判定しようとするのは無茶なことだ。有無を超えているものを有無で判断できるわけもない。
 
騙されないでください。楽山が上のようなことを書くのは、有無で判断しないのではなく、神を否定するためです。今まで、うんざりするような迷路を書いてきて、ここでも、口が減りません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質的執着は、混乱だけを与える害毒であります。
 
楽山だけが、神を同じ地平の存在のように扱って、有る無しにこだわってきたのです。つまり、上のように書いても、なお、有る無しにこだわって、存在するかどうかについて、いちゃもんを言うことを止めないのです。神を否定してきたくせに「有無で判断できるわけもない」と言い換える卑怯さです。
 
 
正直なところ、「神は存在する」「霊は存在する」ということにこだわるのは、唯物的な思考に染まり、この世を超えた世界についてよく分かっていない証拠ではないかと思う。
 
神を語るのに、しばしば唯物論を持ち出してきたのは、楽山であります。唯物論も科学も、神を否定も肯定もしません。信仰は物ではありません。目に見えるものと、空想とで、実存を無視した楽山の世界が出来ているらしく、それゆえ思考が心から乖離して、自己中心から滅裂となっているのです。
 
 
*神を感じたとしても…
巷には、神を感じると、即、神は存在すると思い込む人がいる。実を言えば自分もそのクチである。神の臨在は現実以上にリアルなので、ついそう結論付けてしまうのである。
 
楽山は、神を感じたことはないと言えます。これまでの発言の、いい加減さが、とても神を感じる人の感じ方ではなかったのです。楽山は、現実の自らの欲望を追いかけている亡者に過ぎません。この男から、症例であること以上に、学ぶものは何もないと言ってよいでしょう。
 
 
しかし実際には、自分が神を感じたからといって、それが妄想でも、錯覚でもないとは言い切れず、そこに神が存在した証拠にはならないのだから仕方がない。人にできるのは、神を感じたと思うことまでで、そこから進んで神はこういうものだとか、絶対に存在するとか、そこまで言い切ることはできないのだ。
個人的に心の中で確信を持つことは自由ではあろうが、確実な証拠もなしにそれを他人に向かって主張し、受け入れさせようとするなら、それはいささか無責任な行為であるとお思う。
 
楽山は、極めて幼稚なことを言っています。妄想や錯覚と区別できないなら、それは、人を生かさないものでありますから、神を感じることとは全く別のものであります。それを「神を感じた」と言っている偽哲学の楽山は、病気であることを自ら証明しているに過ぎないのです。非常に迷惑です。
 
 
*誰もが無神論者である
とある無神論者はキリスト教信者を皮肉ってこう言っている。
「誰でも、自分の信じていない宗教については無神論者である。私は、君たちより信じない神がたった一つ多いだけなのだ」と。
つまりキリスト教信者は、自分たちの唯一の神だけを信じて、他宗教の神々は存在しないとしているが、無神論者の自分はそれに加えて、キリスト教の唯一の神も信じていないというだけのことだというのだ。
 
「というだけのことだ」と、責任回避している楽山ですが、聖書の神を信じていながら、他に神?がいるなどと思うならば、それは、楽山のような卑怯者の、無責任が支配する因業に過ぎません。愚かにもほどがあるというものです。あらゆる信仰を見下す自己愛者に、耳を貸してはいけません。
 
 
こうしてみると、「無神論者」というのは相対的なものであって、立場によって変わるものだということがよく分かる。どんなに熱心な宗教信者であっても、もし信じない宗教があるならば、その宗教については無神論者なのである。
 
もはや、詭弁しか書けなくなっている楽山です。言論の理路というものを、読み取る心がないままに、表面的な辻褄だけで進めてゆくと、このように、宗教を物扱いする迷路になります。精神疲労として起こりますが、迷路でもあり、楽山には常習として見られる症状なのです。
 
信仰者と非信仰者を問わず、誰にとっても「信じない宗教」は数多あるのです。当たり前なのに、それがおかしいと言っている楽山です。異教の神を信じないのは当然であって、それを「その宗教については無神論者」というのは、実に馬鹿げた詭弁です。長年の悪意で脳が腐っているのです。
 
「その宗教については無神論者なのである」・・信じない宗教の神は信じないという当たり前のことを、楽山は、その宗教では無神論者と、呆れた言い方です。「無神論」を強調したいのか、論理もどきの救いがたい詭弁で、印象操作でしょうか。驚きました。これは、何とも、愚かです。
 
楽山は、言論による真実追求の妨害者であることが、その幼稚な詭弁によって、明らかになっています。楽山には、真理発見!・・の気分なんでしょうか。小学生でもやらない曲解と詭弁です。恥ずかしくないのでしょうか。異教について無神論者とか、当たり前過ぎて、意味をなさないでしょう。
 
この詭弁は、例えば、正しさとは誤りのないことだ!大発見!・・と言っているようなものです。楽山は、人に見せる文章など書けない証拠です。真実追求など出来ない人です。楽山は、いかなる論理も評論も論文も思想も、公開文書として書くべきではありません。大迷惑です。退行しつつあるのか。
 
 
無神論者にしても、信仰者にしても、そういう分類は特定の立ち位置から勝手にレッテルを貼っているだけのことであり、さして意味のないことだと思う。
 
信仰者には、今を生きるため、という意味があります。全く意味のないのが、楽山であります。いつまで空しい言を玩ぶつもりでしょう。その都度、批判を書いているのに、反論も出来ず、受け取っていない空っぽの精神から、似たような自己中詭弁を、作っては書き、作っては書きしてきたのです。
 
言論の初心者であっても、心を込めて書いた文章からは、何らかの思いを受け取ることが可能です。しかし、楽山のような自己愛病質者に限っては、何も受け取れるものがないのです。全て、安っぽい嘘で出来ていて、それは、実質ではなく、抽象でもなく、とても有害な腐敗臭として鼻を突くだけです。
 
「勝手にレッテルを貼っている」のは、楽山であります。また、ブーメランで、楽山に返ってゆきます。救いがたい勉強不足の詭弁屋が、論文めいたものを書こうとすると、自己満悦の分、論理さえも、腐らせてゆくのでしょう。だから、意味など、どこにもない楽山です。
 
 
自己満足の暴走

自己満足の暴走
 
 
(2022年10月16日)
 
 
 
  夏から秋へ
 
天気予報がまた
夏から始まった台風の
遅い到来を告げる
しかし熱を吸い取られるように
すでに秋が来ている
 
緑から黄へ
紅葉へ
落ちてゆく前の
ゆるやかな命
きらめいて
やがて土の表を
流れ
土へ
帰る
 
かつて熱していたもの
色あせてゆくもの
身を引いてゆくもの
沈んでゆくものの
語録をゆっくり閉じてゆく
 
枯れてゆくもの
別れてゆくものの
見過ごしてしまいそうな
ほんの小さな元気を残して
 
秋の色と
思い出をたたんで
後ろ姿を見るように
汗をなつかしむ
 
大地はまわり
大気は移り
多くの肌に触れて
風と呼ばれる
知らず知らず
秘められた語録に向かって
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間
排泄するために
欠けていく勾配
 
 
 森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを暴きたくて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、どういう育ち方だったのでしょう。恣意だけが太くなって妄想化しているのは、よほど相対する意見が乏しかったか、楽山が無視してきたかなのでしょう。ここまで来ると、楽山の執拗さが、いちばん厄介な症状のように思えてきます。何を言われても、本人だけは、正常人のつもりなのです。
 
人格障害は、説得が効きません。矯正しようと思えば、賞罰による長期の条件付けしかないのでしょう。しかし、異常人格を、まだ人格だと思っている人によって、楽山のような言論破壊者が、まかり通っています。何か書くたびに批判が返される反復学習以上の、強制力が必要ではないのか。
 
楽山を真面目に相手にしてはいけません。また、楽山は、自分の過去と罪を無視しますから、楽山の現在を無視してください。楽山に出会うことはウンチを踏むより不運です。楽山の詭弁の罠に嵌らないようにするには、関わらないことだけが、予防策であります。関わることに何のメリットもありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の悪あがき2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想が続いています。楽山には、恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、楽山という人は、平気で投稿できるのでしょう。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足の手段と言えば否定しやすいだろうという楽山の陰気な顔貌~願望~欲望が表れています。深いところが見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、など考えることが多いのですが、楽山は自分のイドのレベルに合わせて単純な願望充足だと決めつけます。
 
信仰によって、楽山が言うような願望が、はたして充足されるでしょうか。楽山が言っているのはご利益宗教です。それは、折々の願いの動機にはなって、人生を支える救いにはならないのです。楽山は、どこまでも、宗教、特にキリスト教を安っぽく語ってくる知恵足らずなのです。
 
低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取れないために起こることです。
 
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん低くなり、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
欲望の集積というのは、宗教ではなく、楽山の自我なのです。宗教を貶したつもりで、ブーメランとして、楽山が楽山を表しています。なにせ、楽山には、他には何もないのですから。理性もなく、感性もなく、節操もなく、人と宗教を貶めることに集中して、自分を貶めて、破壊しつつあるのです。
 
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういう、すり替えか刷り込みしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。短絡や詭弁が、日常語になっているようです。
 
争いをもたらしているのは、楽山のようなサイコパスが宗教に関わることから起こってきます。自己愛の病質のために、教祖願望があり、それこそ、神と同値になりたくて、神を対象物のように扱い、語り、自らの惨めさの代償としています。
 
そして、傲慢不遜となって、自分を絶対正義、他者を不全という決めつけで、上から見下ろして、愚にもつかぬ嘘と詭弁で、人々を操ろうとするのです。その醜い欲望を、丁寧語で糊塗して、印象を刷り込んでくるのが楽山です。決して関わってはいけません。
 
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
まず、信仰は、超自然ではありません。一部の、自己顕示欲の強い妄想家が、超常話を豪語するかもしれませんが、信仰は、現実をどう生きるかという問題に、人間理解と共感によって、思いやりの温もりを与え、静かに反省する潤いを与えて、人生を支えるものです。
 
信仰は、楽山のような心の醜い者が悪さをするような生きにくい現実世界にあっても、勇気をもって生きるためにあります。超自然的なものを求める欲望の典型は、楽山です。ずっと、空想の超常に生きて、現実に生きていないのも、楽山です。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な力、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えません。空想を書いて排泄してくるだけなのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とだけみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。神の敵、そして、下種の極みらしい発言が明らかになってきました。
 
義人はいないのです。信仰は、正義を得るのではなく、正義ではない不完全を自覚して生きる道です。捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となります。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないことを、自ら証明しています。
 
宗教と信仰の悪い例をもって、全体を否定する楽山の詭弁には、無神教カルトの教祖願望が潜んでいます。楽山がもたらすのは、救いではなく、疲労と徒労と人格破壊です。粘液のような悪意が、蛇のように首に巻き付いてくるので、決して近づかないでください。
 
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
無神教カルトの奴隷となっている楽山は、何も学んでいないし、理解していない人です。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習することが出来ない人です。そのために訂正不能になって、日常的に、醜態を演じています。
 
楽山は、奇妙な化粧をして、学者気取りで、実は、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せようとします。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。おめいているだけの、精神暴走族、あるいは、ネットという路上の狂人でしかありません。
 
何も学ぼうとしない楽山の「知らないだけなら学べば済む」という気安い誘い文句に乗らないでください。無信仰カルトの発想に、単純に賛同して、都合のよい文献を漁って、引用して褒めまくっています。自分の発想も意見も理路も感性も、どこまでも、まとまったことのない楽山です。
 
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「そう言われてみれば、たしかにその通りだ」・・こういう賛同を示すしかない楽山です。まるで、太鼓持ちです。「存在するかどうか分からぬ神」だからと、愛と共感の感受性のない楽山が、いくら否定しても、不細工なピエロの失敗芸にしかならないのです。みにくいです。
 
無神教カルトは、科学をひけらかします。しかし、宗教と信仰は、科学ではありません。精神世界の救いの話であり、つまり、心の救いなのです。それ以上のことについては、神にお任せすることです。だから、科学的事実を持ち出してきても、話は何も進んでいません。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。構造が単純すぎるのです。天動説にも劣るという言い回しで、宗教は愚かだと決めつけています。この根拠の薄弱な決めつけこそ、愚かなのです。いわゆる都合の悪そうな言葉面をもって否定する詭弁です。
 
なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。人には見えませんし聞こえません。聖書と思いを含めた人生の出来事を通して、その存在を暗示しますが、自己中人格には受け皿がないのです。
 
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどは、ひどい徒労であり、関わっている間、人生は無駄です。
 
宗教と信仰を、科学で否定できるという考えが、まず、幼稚な無理解であります。科学をどんなに追及しても、愛に到達することは出来ません。楽山は、何か、物質的なもので愛を測りたいのでしょうか。それこそ、ひどい詐欺になるでしょう。つまり、楽山は、感性の欠陥を白状しているに過ぎません。
 
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。楽山は、動物に近い人です。だから、謙虚さが皆無です。分からないと気が済まず、結論の出ないことまで、分かったふうに唾を飛ばします。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。無神教カルトに賛同して、そのメンバーになりたいのでしょうか。自分がいちばん偉いと思っている、とても醜い人。
 
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
人間の成長と人生を、進化論で片づけようとしています。人間は、一人一人違います。人生も、一人一人違います。腹を立ててもしょうがないですが、楽山のような体質的な傲慢な無理解に対しては、当然、怒りも覚えます。早く退散してほしいと思います。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状として「精神性が低い」ため「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと、自分で慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのは、楽山その人です。次元の低い八つ当たりなのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。病質の結果として、あらゆる感受性が鈍くなってきたということです。ますます、酷いことになりつつあるのでしょう。楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、「人を裁くな」を引用したものです。どういう曲解なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという教えです。
 
楽山は、批判と混同する詭弁で、批判するなと言いたいのでしょうか。誰も批判しなかったら、楽山には都合が良いでしょう。しかし、それは、邪悪な自己中の罪を養うようなものです。裁きは、最終的には神に任されます。その成り行きでは、楽山は、批判される・・どころではなくなるでしょう。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
裁くのは、地上では裁判所、最終と天上では、神であります。しかし、楽山は、この分別さえ持っておらず、自分を裁くな、好きにさせろ、と言っているわけです。楽山は、自分が特別に悪質であることに、指摘されても気づかない人です。だから私は、楽山に読者が近づかないように、批判しています。
 
 
どこまでも寒い人

どこまでも寒い人
 
 
(2021年)
(2022年09月29日、再録+加筆)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。
 
しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自分の信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山であり、見せかけだけの学者気取りも、楽山において顕著なことであります。楽山こそ、何らかの教祖願望ではないかと思われます。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に醜いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、引用が多く、しかも、言葉だけ、べた褒めして、なぞるように、へつらいます。自分の文章が書けず、いつも、都合のよさそうなものに、飛びつくこと、なびくことしか出来ません。独立した人格ではなく、どこまでも、孤立した病質なのです。書くことで明らかになってきたのに、気づかないのです。
 
 
 
風珍について:ヤフーQ&A
 
徴兵が来たら、露者の人は、素直に応じて、獣と弾丸を受け取ってください。そして、一人または複数で、何処を、誰を、狙うべきかを、じっくり考えてください。他国にはどうしようもありません。世界大戦~核戦争になる恐れがあると思います。風珍は、人格障害だと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山は嘘吐きの権化2
 
 『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠美著
 2021年09月05日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
(ネットより)
片田 珠美(かただ たまみ、1961年 )は、日本の精神科医。
 
このテーマは、楽山に当てはまると思います。結局、自分が斬られている文章なのに、気づかないで利用しようとしている楽山の、悪意と愚かさが表す醜態を、批判として書くことになります。あるいは、書けば、自分は除外されるじゃろ・・と言う魂胆かもしれません。
 
なぜ、楽山は、批判に何も答えられないのに、平気で書いてくるのでしょう。人格に根差している自己正当の妄想があるからです。どんな不都合もオートマチックに、人のせいにするのです。こういう無反省・無責任は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。
 
 
*きっかけ
タイトルから、とある新興宗教の教祖を連想したので試しに読んでみた。いろいろと参考になるところがあったので、その部分についてメモしておきたい。
*空想虚言癖
まず著者は、空想虚言癖の人は、つじつま合わせが巧みだとしている(下線は楽山による)。
 
楽山は、嘘と詭弁を弄する反キリストですが、理性が壊れていて、辻褄合わせが巧みではありませんので、よく読めば、詭弁だらけです。楽山のデタラメの理路と詭弁と嘘は、既に、バレています。楽山だけが、それに気づかない病質であります。
 
 
妄想を抱いている人は、現実世界の事実と自分の妄想が矛盾をきたしたときに、周囲を納得させることができないのに対して、空想虚言癖の人は、新たに虚言を弄し、容易に細部を改変して、周囲をうまく言いくるめることができる。要するに、嘘の上塗りが上手なのである。
(『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠実著、朝日新聞出版、2015年、p.60)
 」
 
楽山に、そっくり、当てはまります。婉曲表現のボンヤリ言語と、お情けちょうだいのオチャラケの三文芝居で、嘘に嘘を重ねて満悦します。そして、矛盾に矛盾を重ねてゆき、自身の人間的な実質を、ますます失ってゆくのです。
 
妄想と空想を分けて、自分は空想しているだけだから精神異常ではないと言いたいのかもしれませんが、楽山が、継続性として訂正不能であることを考えれば、精神異常であり、かつ、現実において、公共において有害であります。そして今も、嘘の上塗りを続けているのです。これは精神病理です。
 
 
また、このような人が「だまそうという意図なんかみじんもないようにふるまえる」理由についてはこう書いている。
嘘をついていながら、なぜそんなふうにふるまえるのかというと、自分の嘘を本当と思い込んでいるからだ。これは空想虚言癖の特徴で、自分の願望を投影した空想と現実を混同していて、何が本当で何が嘘なのか、自分でも区別がつかなくなっているからこそ、嘘八百をよどみなく話せるのである。
(同上、p.59)
 」
どうもこれは、いかにもカルト教祖にいそうなタイプだ。矛盾だらけのトンデモ話を、さも真実を訴えるかのように熱く語ったり、「これは永遠の真理だ」と断言していたことでも、その時の都合によってコロコロ変えたりなど…。
 
これも、楽山という教祖願望の強い偽善者に一致します。楽山は、よくもまあ、この引用記事を選んだものです。自己愛性人格障害の楽山は、間違いにも嘘にも気づかない人だと分かります。トンデモ話を、さも批判しているふうに語りますが、実際は、自己満悦だけの楽山がトンデモなのです。
 
 
*信じ続ける人
こちらでは、嘘を信じ続ける人の心理が説明されている。
嘘つきの周囲には、嘘をつき続けることを可能にし、ときには嘘に拍車をかけるイネイブラーが存在することが多い。一度イネイブラーになってしまうと、嘘の呪縛からなかなか抜け出せない。誰かを信じるということは、その人を信じている自分を信じることでもあるので、嘘の証拠を目の前に突きつけられても、なかなか受け入れられないからである。
(同上、p.41)
 」
 
(ネットより)
イネイブラー(enabler)とは、嗜癖その他の問題行動を陰で助長している身近な人のことをいいます。「世話焼き人」などと訳されることもあります。
たとえば、表向きには夫のアルコール問題で悩んでいるように見える妻が、じつはその問題がなければ自分の価値がなくなってしまうために、夫のアルコール依存を陰で助けている場合などに用いられます。
日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン
 
 
イネイブラーは、付き合いが、ズルズル続いて、他に行きようのない人のことでしょうか。私が、たびたび、楽山に近づかないように関わらないように言っているのは、まさに、このためであります。楽山の書くものは、その丁寧そうな表面とは、かけ離れた危険な誘導に満ちています。
 
 
恥ずかしながら、これは自分にも心当たりがある。
以前、とあるカルトから退会するときに、上で指摘されているような呪縛から抜け出せずに苦労したので…。
 
楽山は、自分が呪縛の被害者であるかのように言っていますが、真っ赤な嘘です。イネイブラーは人です。呪縛と言って済ませられる問題ではありません。楽山は、イネイブラーを求める人です。
 
楽山は、誰かを信じるなどということはありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、自尊以外を必要としません。他者を、支持者か奴隷くらいにしか見ていないと思います。
 
 
少し詳しく説明すれば、
①教祖を信じる(教祖は本物だとした自分の判断力を信じる)
②教祖を信じない(教祖は本物だとした自分の判断の間違いを認める)
という構図になっていたので、②を受け入れるのは、いらぬプライドのせいで難しかったのである。
 
楽山は、自分のほうが上だ、自分が教祖に相応しい、というような構図になっていると思います。だから、ホラー映画も、HSの映画も、右翼の偏りも暴言も、大好きなのです。楽山は、誰も信じることはなく、超常世界と現実世界を、ごちゃ混ぜにした世界チャンポンなんでしょう。
 
何も知らない人が楽山と遣り取りをすると、丁寧でバランスのとれた人と好感をいだきますが、付き合いを続けると、楽山が、人の意見に対して不感不応の的外れ応答の人であるために、精神の疲労から、人によっては、すっかり鈍麻人間になっている、それが楽山症候群なのです。
 
 
*嘘を見抜く方法
本書には、嘘を見抜く方法についても書いてある。
相手の言うことが何となく妙だなと感じたら、その違和感を封印してしまわず、アンテナを張りめぐらすことが必要だ。じっくり観察し、分析しているうちに、相手の正体が見えてくることが多い。
(同上、p.154)
相手を過大評価してしまうと、どうしても目が曇る。そうならないようにするためには、どんな話でもうのみにせず、なぜこんなことを言うのか、こんなことを言う意図はどこにあるのか、などと常に考える習慣をつけなければならない。
(同上、p.153)
他人を疑ってはいけないと思うあまり、自分自身の感覚を封印してしまうのは危険である。そんなふうに感じるときは、これまでの経験や知識から用心しなければならないと本能が自分自身に警告しているのだから、自らの嗅覚を信じるべきだろう。
(同上、p.161)
 」
 
楽山に対して、分析、意図を考える習慣、自分の感受性を注意深く意識して維持する・・こういうことをしないでいると、人格が、鈍麻し、破壊されてゆきます。うすぼんやりとした楽山の奴隷的コピーが出来上がってしまうのです。イネイブラーと言ってもよいでしょう。
 
楽山は、柔らかい表面を装い、鈍いのに、毒の牙を隠し持っていて、喩えるなら、毒を持つ毛虫のような男です。この毛虫には、刺されたことに気づかないことが多く、気づいたときには、心の大事なところに、少なくないダメージを受けているのです。
 
 
「なんか、おかしい」という直感は大事にする、個人崇拝や権威主義に陥らないように注意する、相手の話をうのみにせず、自分の頭でよく考える…これらはどれも正論だと思う。
 
私は、ある時点で、楽山が「なんか、おかしい」と感じました。そのうちに、疑問は、楽山の、理路が詭弁であること、感性が乏しくて月並みな褒め言葉や感動言葉を多用すること、無反省・無責任であること・・などを再三にわたって感じて、批判に転じる決心をしました。
 
 
*過剰反応
著者は、嘘つきの特徴として、他人の嘘に対して過剰反応をしめすことを挙げている。自分自身を相手に投影したり、自分は嘘つきではないことをアピールするためにそのようになるのかもしれない。
こうした否認は、他人がちょっとでも嘘をつくと激しく責めるという形で表れることが多い。
(同上、p.22)
嘘つきほど他人の嘘に敏感なようだ。 
(同上、p.23)
 」
 
この記事のように、楽山は、自分を棚に上げて、他者に対して、逆の過剰反応を示します。他者を批判して、自分を見ないのです。そして、正常人でアドバイザーであるかのようなアピール芝居をします。楽山という嘘吐きは、自分の嘘について恐ろしく鈍感~不感です。
 
 
こういう指摘を読むと、とある新興宗教は、批判者に対して、ちょっとした記憶違いに対しても、悪意ある嘘だと決めつけて非難していたのを思い出す。
他人に対してやたらと差別主義者呼ばわりする人こそが、もっとも質の悪い差別主義者だったということがあるけれども、嘘つきに関してもこれと同じなのだろう。
 
楽山は、記憶力が悪いので、他者の反応が過剰に感じられるのかもしれません。その善後策のつもりで、否定し、のちに肯定するなど、責任を負うこととは逆の、自己正当化の策略を用いるわけです。そういう正当化は成り立たないことを知らないからです。このいい加減さは小学生にも劣ります。
 
 
*これから
著者の本は、『他人を攻撃せずにはいられない人』は読んだことはあるが、他はあまり読んでいない。これを機に他の著作も読んでみたいと思う。
 
楽山が、いくら、読書したつもりでも、受け取って考えることをしないのだから、結局、自己正当化の材料を漁っているだけだと何度も書きました。楽山は、無視して、ずっと読書家気取りで、病害をまき散らし続けています。
 
楽山は、自己愛性人格障害によって、くじけることのない不感不応を貫くことが出来ます。他者を、平気で無視できて、平気で侮辱できるのです。ふつうは出来ません。精神病質ならではのことです。別の言い方をすれば、楽山は、関わる人をイネイブラー化するエナジーバンパイアなのです。
 
自分が言われそうなことを、人に当てはめて言うのは、以前からの、楽山のやり方です。それが分かっているので、驚きもしませんが、よく書けるな・・と、厚かましさと白々しさには、毎度、呆れるので、その都度、批判の決意を新たにしている次第です。
 
私としては、将来、楽山が、間違っても、症例または犯罪者以外の、良い意味でウィキペディアに載ることがあってはならないと思っています。実際、自己愛性人格障害らしいポショポショ言語という気障なしゃべり方をする精神科医は、今も、ウィキペディアに載っているという事実があります。
 
 
 
(ネットより)
 
 自己愛性パーソナリティ障害の診断基準
 
1.自分は非常に重要で偉大な人物だという思い込みがある。それを裏付ける業績や才能を大げさにアピールするが、実際には内容がともなっていない。
 
2.自分の成功、権力、才能、美しさ、愛に関して、現実にそぐわない理想的な幻想にとらわれている。
 
3.自分は一般人とは違う特別な選ばれし者だと信じていて、同じように特別な地位にある人や団体としか関わるべきではない、そういう人たちにしか理解できない人物だと思っている。
 
4.常に他者や世間から、大げさにほめたたえられることを求めている。
 
5.特権意識が高い。周囲は自分に対し、特別有利な対応や意のままに従うのが当然だと思っているが、実際にそのようにされる理由を持ち合わせていない。
 
6.自分の目的達成のために他者を利用する。
 
7.他者の気持ちや欲求や都合を理解しようとしない。
 
8.他者に強烈な嫉妬をする。反対に、周囲が自分の能力や美貌に嫉妬していると決めつけることもある。
 
9.尊大でごうまんな行動や態度が目立つ
 
 
 」
 
楽山について、
 
1、2、3については、学者気取り、インテリ気取り、などの、気取りが筆致に表れています。しかし、それに見合う洞察力や整合性は、むしろ欠けていると思われます。
 
4については、成就しないことからルサンチマン(劣った者に募る怨念)に至る、あるいは、至っている可能性があります。
 
5については、自尊過大で、いつも、言い方だけ丁寧だが、自分の断定を、上から目線で、繰り返してきます。しかし、学習経過が見えてきたことはありません。
 
6については、生活習慣のように有名人の著作を引用して、自己が正当だということをアピールしてきます。しかし、理路は拙劣で、名前にしがみついているだけだと思います。
 
7については、前から書いてきましたが、思いやり、共感性、羞恥心、罪悪感などが欠如しており、悲しみのうちに反省することが出来ません。高等感情の鈍麻が当てはまるでしょう。経験から学ぶことが出来ないのです。
 
8については、筆致には、何を言われても書き続ける執拗さとして表れていますが、これが8なのかどうかは分かりません。既に負けていないと思っているのかもしれません。
 
9については、意識して隠している狡猾さが伴っています。そして、謙虚芝居など、かなり、作為的な白々しい演技が目立ちます。
 
内容が伴っていない、特権意識の根拠が無い、などは、如実に表れてきました。理路も情緒も、知性も感性も、正常以下のレベルだと判断しています。楽山はイネイブラーなのです。
 
 
あざむきの堕ちるところ 永遠

あざむきの堕ちるところ 永遠
 
 
(2021年)
(2022年09月13日、再録+加筆)
 
 
 
 
 信仰について
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔も、その中にある嘘と本当を、ことごとく見抜かれる全知全能の神様に対して、偽りを向けてはならないはずです。
 
信仰は、人間離れしたがっている者たちには、決して理解できません。信仰は、悲しみを感じることの出来る人が、聖書を読んで、キリストが重荷を負う人々に共感することを受け取り、同時に、キリストの悲しみに共感することによって生まれます。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに、自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない者もいるかもしれません。そういう者は、凶暴なカルトと同じです。神という不可知の権威に対する最悪の罪であり、偽善であり、背教です。
 
信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性、特に悲しみへの共感性を、押し殺すようなことをするべきではありません。特に神様の前では、正直な悲しみの告白と祈りができるように努めたいものです。悲しみは正直だからです。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
 すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
  時は過ぎ去る
 
ときは すぎさる
きおく は すぎさらない
きおくは わすれられるより
わすれられたかどうかを
わすれられて
 
たのしいときは すぎさる
たのしい きおくは すぎさらない
たのしい きおくは
かなしいときほど
たのしかったと
なげきのうちに おもいだされて
 
かなしいときは すぎさる
かなしい きおくは すぎさらない
かなしい きおくは
たのしいときほど
かなしかったと
よろこびのうちに おもいだされず
 
かなしいきおくはすぎさらない
ひきずられたり うしろがみをひいたり
なんども なんども
うつむくような おもさと
あじをもって よみがえる
 
さいわい ときは すぎさる
かなしみや くるしみを
たまもの の ように のこして
もし じかんの じく を
くうかんのように みることができたら
だれも 生きる気 になどなれないだろう
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのか
も しらない まま きっと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山という卑怯者には、罪悪感がありません。どこまでも保身を図る自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスなのでしょう。犯罪歴があるかどうかは、ネットでは分かりませんが危険です。関わることが不幸であり、関わらないことが、唯一の防御になります。
 
 
 
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