ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:姦淫

 
  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  レイプ犯のような楽山
 
 祈りと平安(『アウトサイダー』スティーヴン・キング著)
 2021年08月08日 楽山日記(LD)
 
 
遠慮もなく、自らを弁えることもなく、あらゆる良心の働きを捨てて、とぼけた顔と態度で、信仰をおとしめてくる楽山ですが、今に始まったことではありません。やさしい言葉で侮辱する習性の楽山を信じてはいけません。
 
*祈りと信仰
キングの小説を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
ホリーは床に膝をついて目を閉じ、両手を組みあわせた。朝と夜に祈りを捧げるというのは、かかりつけの分析医のアドバイスだった。ホリーは、自分はかならずしも神を信じてはいないと抵抗したが、自分の不安や計画を声に出して仮想上の“高次の力”に語りかけることが――たとえ神を信じていなくとも――ホリーの役に立つといった。意外にも、その言葉どおりになったようだった。
(『アウトサイダー 下』スティーヴン・キング著、白石朗訳、文藝春秋、2021年、p.9)
 」
祈りは、もし仮に神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い話である。
 
楽山の言う、神を信じる・・ということは、訂正不能に思い込み信じ込むことですから、信仰とは全く真逆のものです。したがって、この時点で、楽山の語る信仰なるものは、信仰とは無縁の妄想ということになります。信仰は、共感であり、心の絆であります。楽山は、何も知りません。
 
そのことを私はずっと書いてきたのですが、楽山は無視して、勝手に書き続けています。無反省、無責任の、感性鈍麻で、心の無い、人間としての節操のなさを表すだけの、楽山の執拗さの本質は、自己愛性パーソナリティ障害NPDです。
 
楽山は、人の言うことなど、聞いていません。聞いたふうを装っているだけです。結局、自説の妄想に戻ってゆき、自分の言い分に引き込もうとしてきます。見せかけの柔和だけを身に着けて、非人間性の精神病理を隠し続けているのです。一定期間、楽山を見ている人には分かるはずのことです。
 
楽山が祈りについて語るなど、笑止なのです。それこそ、信仰をレイプしているようなものです。
 
*例1
では、その祈りとは具体的にはどういうものかといえば、こうある。
「こんにちは、またホリー・ギブニーです。いまも自分なりにベストをつくそうと努めています。
[省略]
あしたはデイトンへ行きます。車のなかでわたしがずっと安全でいられるように、あらゆる交通規則を護るように、わたしを見まもってください。そしてわたしが手もとの事実をもとにして、最善の行動がとれるように見まもってください。その事実がまた興味深いものなのです」ホリーは考えをめぐらせた。「いまでもビルのことが恋しいです。今夜はこのへんで」
ホリーはベッドにもぐりこみ、五秒後には寝入っていた。
(同上、p.10)
 」
ホリーの祈りは長いので一部省略したが、全体的な流れとしては、まず神に挨拶し、友人たちの安全と幸福を願い、その後で自分の話をするというものである。
 
祈りは、人から神への、努めて嘘を吐かない、正直な音信です。そのような時と場を得ることによって、不完全で罪深い自分から、生きる動機となるキリストの共感と愛を生きる縁(よすが)とすることを学びます。
 
祈りを、単に、神に報告して願うことのような、楽山の軽い見なしなどは、信仰へのレイプ行為であり、悪魔の好むところであります。楽山が何を書いても、嘘と欺瞞と偽善など、滅びの兆候だけが表れると書いたことがありますが、楽山は、その通りに進んでいるようです。
 
祈りの効果については、神経質な性格のホリーが五秒で寝入ったことからするととても良いと言えそうだ。でも亡くなったビルにふれた一言からはホリーの悲しさが溢れていて読むだけで辛くなる…。
 
寝つきがいいから、祈りの効果なのでしょうか、信仰なのでしょうか。信仰を、安易に結びつけて、心理的な気休めと決めつけている楽山の、信仰へのレイプと姦淫の有り様が、言葉の端々に臭ってきます。こういう人は、結局、人を傷つけて快感を得るサイコパスでしかありません。
 
*例2
ホリーの祈りをもう一つ。
《こんにちは、またしてもホリー・ギブニーです。いまのわたしには、あなたのお力が必要です。もうご存知でしょうが、わたしは知らない人と話すのがたとえ一対一でも苦手です。それなのに今夜これから六人もの人を相手にしなくてはなりません。いえ、故テリー・メイトランドの妻が来れば七人です。震えあがっているわけではありませんが、怖気づいてないといえば嘘になります。ビルならこなせたはずですが、わたしはビルじゃありません。でもビルとおなじようにやり遂げたいので、ぜひお力をお貸しください。人々から信じてもらえないのも当然だと理解し、信じてもらえないことを畏れないようになりたいわたしに、どうかお力をお貸しください》
そして最後の部分だけは――ほんのささやきだったが――声に出して祈りをしめくくった。「神様、頭がいかれちゃわないようにお力をお貸しください」いったん言葉を切ってから、ホリーはこういい添えた。「わたし、タバコは吸ってません」
(pp.91-92)
 」
これは惨殺事件の犯人像を捜査関係者たちに話さねばならない時の祈りだけども、これらの言葉からホリーは自分と自分の置かれた状況とを正確に把握していることがわかる。こうしてみると祈りというのは自分を知るためにも、物事を整理するためにも良いことのように思えてくる。
 
白々しいことです。「自分と自分の置かれた状況」を全く把握していない楽山です。祈りを「良いことのように思えてくる」楽山は、祈り芝居をすることがありますが、正直さがなく、自己中なので、祈りにはなりません。祈りには心の正直さが必要であり、真似では成り立ちません。
 
*祈りのすすめ
四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが、夜、寝る前に「今日一日無事に過ごせました。ありがとうございました」と感謝したり、悩みを神に打ち明けるというのは、心の平安と安眠のためにはよさそうだ。何か大事なことをする前に祈るのも心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう。
 
「四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが」・・四六時中祈ることはないということを知りながら、笑いながら、レイプしてくる楽山です。いつか、世々の悪と同じように、楽山が無事に過ごす時間が終わるときに、楽山が直面するために、悪は、長く、放置されるのでしょう。
 
楽山の嘘が続きます。ときに褒めても、今までの、汚らしい否定を覆い隠すことは出来ないのです。楽山は、ただ、心理的効果の範囲に収まることだけを「心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう」と言っているだけなのです。信仰のレイプ魔、楽山に、だまされないようにしてください。
 
自分は「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と考えてしまうクチではあるが、ホリーの祈りを読んでいたら、祈りは自分が思っていた以上に良いことのように思えてきた。
 
(ネットより)
こころ【心】 だに 誠(まこと)の道(みち)にかないなば祈(いの)らずとても神(かみ)や守(まも)らん
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
コトバンク
 
「誠の道にかないなば」「心さえやましくないならば」・・つまり、楽山は、自分は誠の道にかなっており、やましくないから、神に祈らない、と言っています。このような、身の程を知らず、人を故意に怒らせるようなことを、平気で書いてくるのが、楽山です。確信犯だと分かります。
 
信仰をレイプするような侮辱を平気で言い、良心もなく自分信仰の姦淫の罪を悦ぶ楽山の在り方は、人生ではなく、裁きを予定された荒廃の経過なのでしょう。次々に醜さだけを表してきます。一見それでまともに思わせようとしてきます。その分、自業自得で、末路は悲惨になります。
 
巻き添えを食わないように、決して楽山に関わらないでください。楽山は、多くを失った後、さらに、多くを捨ててゆきます。既に、地獄なのです。嘘吐きには、嘘の救いしか与えられません。今がそうです。行き着く先は、もはや言うまでもないことです。
 
楽山は、一度も、祈ったことはないのです。心に闇を抱えたまま、祈ったつもりになっても、気味の悪い思い込みの儀式にしかなりません。祈りは、信仰者が、心を込めて正直に行うことであり、ペテン師の楽山に出来ることではありません。
 
滅びの貯蓄をしている楽山ですが、信仰に生きる人は、楽山に関わらないでおれば、楽山の偽善と嘘と詭弁の害は避けられるでしょう。私のような批判者は、時間の経過を歩むしかありません。楽山のような偽善者は、どこにも良い影響を与えることができず、さらに醜い病変になってゆきます。
 
 
※ 姦淫は、偶像崇拝や背教の比喩として使われることがあります。その延長として、この記事では、レイプという表現を使っています。
 
 
レイプ魔のような悪意

レイプ魔のような悪意
 
 
(2021年08月09日、一部加筆)
 
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のブログ記事ですが
 
 2021年08月08日
 「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
 
楽山は、発作のように、"「ブログ村騒動」発言集" なる記事を、続けて書いています。計画性のない記事の編集ですから、現実を見たくない楽山が、過去を、我が功績とばかり懐かしんでいるのでしょう。総て、無駄であり、裏切りであり、自己正当化であり、自己顕示でしかありません。
 
あまり読む人もいないとは思いますが、間違っても、ちゃんと書ける人などと思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、自分の意見が、ことごとく、不正直なはかりごとだとバレてゆくので、何でもいいから、書いたことにしたいのでしょう。惑わされないでください。
 
 
 
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