ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:幽霊

 
  楽山の自己顕示欲
 
  『心經入門 彼岸からのメッセージ』平一著
  2022年05月19日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が書くものには、自己顕示欲だけしか表れていないことを指摘することが批判となっています。雑な文章を書いて、本を読んだことにしてきますが、批評としても感想としても実質のないのが特徴です。
 
ふつうは、身近な問題からでも、真実について考察するのが人間だと思いますが、楽山には、そういう気がないのです。無条件で、読書家のインテリを気取っても空しい限りです。楽山には、身近な真実の実感がないのだろうと思います。
 
 
*概要
この間、無性に未知のスピリチュアルな本を読みたくなったので、積読本の中から本書を選んでみた。
ただ残念ながら無学なので、生命の木などを用いて般若心経の意味を読み解いているという大枠は察することはできても、細部についてはちんぷんかんぷんである。自分の無知無学無教養を痛感させられてしまった。とほほ。
 
「ちんぷんかんぷん」なのに、感想を書いて、考察せずに、読書家気取りの自己顕示欲だけ満足したい楽山です。「自分の無知無学無教養を痛感」したなら、反省・勉強・学習するはずですが、その経過も結果も書けないまま、宗教書をよんだぞ・・という自己顕示だけはしてくる楽山なのです。
 
 
*出会い
が、そんな中で、この部分に関しては思わず膝を打ってしまうほど合点がいって愉快だった。
人は、ネガテブな状にいてポジテブを思い、ポジテブな状にいては知らず知らずにネガテブを思っているものなのです。
古き賢者方は、このような状を「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」と言っています。
(『心經入門』平一著、ブイツーソリューション、2018年、p.111)
 」
一つの思いを強く持つほど、それとは反対の思いも強くなるだとか、上がり切れば、あとは下るしかなく、下がりきれば、あとは上がるしかないという考え方は、それぞれ知識として知ってはいたが、迂闊にもその二つを関連付けて考えたことはなかった。
 
だから、どうなのか、つまり、経験談も、考察も、書けない楽山です。「膝を打ってしまうほど合点がいって愉快」と書いています。何が愉快なのでしょう。何が結論なのでしょう、何が思想なのでしょう、どこが書くに値する感想文なのでしょう。皆無です。
 
「ポジテブ」と「ネガテブ」、「一つの思い」と「反対の思い」、という問題に、「上がり切れば、あとは下る」「下がりきれば、あとは上がるしかない」と、安い物理みたいに上がり下がりとして書いています。しかも「関連付けて考え」ていません。
 
病質によって、気取りだけでインテリっぽく見せて、読書をしたことにして文章を書けば、読者は騙されると自己満悦から思い込んでいるのです。読者にヒントも何も与えない文章となっています。ただの知識不足ではなく、自分の都合のよいところだけをつまんで褒めるだけの駄文です。
 
恐らく、楽山は、自身の、ポジティブにも、ネガティブにも、全く気づいていないと思います。どれだけ迷惑をかけても、批判されても、相変わらず図々しく書いてくるところが、むしろ、病質の証拠となって積み重なってゆきます。
 
楽山はダークネスであり、公開できるようなネガもポジもありません。全てを煙に巻いて、明確な主張も思想も、また、一人前の人格も、持ち得ていないのです。だから、安易な肯定も、意地悪な否定も、みな自己を表すだけで、大人としての責任を負うことがないのです。
 
 
本書は自分には難しすぎたが、これに気付かせられたのは有り難い。感謝。本というものはその全てを理解できなくても、ハッとさせられる一文と出会えたなら、それだけで自分には満足ある。
 
「難しすぎた」のに、「気付かせられた」「ハッとさせられる」と言っています。あとは、「有り難い」「満足ある」と褒め言葉です。考察がないのです。楽山の文章に共通している受けねらいのインテリ気取りで、肯定を書き、否定を書き、その根拠を示さず、自己満足するだけの筆致です。
 
 
 
  映画『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』
  2022-05-19 楽山日記(a)
   を批判。
 
 
書くものには、それを書く動機が表れます。楽山の書くものには自己顕示欲が表れ、顕示されたものが、楽山の不純な動機とともに、欲望と見栄以外何もないことを表します。自己愛妄想による気取りが加わって、いっそう悲惨になっています。
 
丁寧語が楽山の武器です。婉曲表現のボンヤリ言語と、謙虚芝居のトホホ言語で騙してきます。病的ナルシストは、犯罪傾向の強いサイコパスと同類です。今までの数々の偽り、ここで、まとも芝居、今さら、醜いだけです。
 
 
『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』を見た。
あらすじは、深く心の傷ついている男の幽霊が、同じく傷ついている女の子と出会い、仲良しになり、やがて家族ぐるみの付き合いをするようになり、お互いに助け合い、前向きに生きてゆくというものである。登場人物はみんな良い人ばかりなので、安心して見れていい。
 
「みんな良い人ばかり」が、幽霊と仲良くできるでしょうか。楽山を「安心して」見ないでください。そんな幽霊より、どんな幽霊より、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は怖い人です。楽山は「助け合」うことが出来ず、助ける芝居で、傷つけてゆきます。
 
楽山のご馳走は、自身の優位性を感じることです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、うわべの謙虚そうな言葉に騙されないでください。楽山の害に遭うと、人格が弱って、鈍くなり、破壊される恐れがあります。出会わないことだけが幸運という楽山です。
 
 
こんな風に、幽霊と仲良しになって、みなで楽しくご飯が食べられたら幸せだろうな(笑
 
楽山は、自分が、自己愛性人格障害のために「みなで楽しくご飯が食べられ」ないものだから、人ならぬ「幽霊と仲良し」になりたいのだそうです。どういう、ご飯の食べ方をするのでしょう。人肉に食らいつく悪霊のホラー映画のようになりたいのでしょうか。それで「笑」って楽しいのでしょうか。
 
楽山は、幽霊と仲良しになって、いっしょにご飯を食べたいのだそうです。映画はフィクションだから、楽しめますが、楽山はリアルな病的ナルシストです。間違っても楽山と仲良しになってはいけません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、深く心を傷つける男だからです。
 
楽山は、一種の化け物です。だから、人々の間ではなく、幽霊とともに食事などという発想になります。実際には、霊が分かるっぽい?自覚の、超常心霊マニアであって、病質とともに、人間性を大の苦手にしている楽山です。だから、楽山は、人間的な情緒を、まるで感じることが出来ません。
 
 
ブレーキの効かない自己顕示欲

ブレーキの効かない自己顕示欲
 
 
(2022年05月21日)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 
  罪のらくだ
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  どこへ
 
「はい」はどこへ行った
「いいえ」はどこへ行った
煙草片手に
小石混じりに糸を引く道
食の道行き辿り辿れば
見果てぬ先に数知れず
「はい」は胃炎に
「いいえ」は灰に
食の日月よ見上げれば
いつから満ち欠けて
みな我に返るというのか
吐き出すものは身に降りかかる
煙が気道をしめつける
「はい」をどこへやった
「いいえ」をどこへやった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてきたものは、誰にとっても、ヒントにも、糧にも、参考にもなりません。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による自己顕示欲への執着が、ちびちびと、お漏らしをしてきます。不潔な排泄を、いつまでも失禁してくるのも病質ゆえでしょう。
 
 
 
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  白を切る楽山
 
 『超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか』
 リチャード・ワイズマン著、木村博江訳
 2022年04月03日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
「幽霊が見える」のでしょうか。恐ろしく長い記事や連作や、舌足らずのように短い記事を書いてくる楽山です。要領を得たことは一度もなく、主張がハッキリしない分、何でも手を伸ばして書いてきますが、気取りだけの、当たり前や、逆に、妄想などを、性懲りもなく書いてくるのです。
 
説得力は皆無ですが、誘導の詭弁を交えるので、だまされる人がいて、そこに思い上がって、書き続けるのでしょう。何もないのを、何かありげに見せるインチキだけを学んで、肝心の人間の節操や常識や読書力や文章力、そして思想を、まるで学んでいないことが、三年余りで、バレてきました。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の、無反省、無責任、無思慮が、反復再生されて、自己中からのエラーの証拠となります。不透明な闇の空白から、霊能、カルト、短絡、詭弁、誇大妄想、右翼思想、などを書いて見せては読者を混乱に陥れようとする楽山です。
 
 
*概要
本書でとりあげられているテーマは、幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロールである。著者はこれらの原因は、トリック、錯覚、心理操作などにあるとしつつ、人の認知能力の誤作動、限界について詳しく説明している。
以下に、本書中で特に興味深く思ったことをメモしておきたい。
 
楽山は、「幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロール」が大好きで、しばしば超常現象を記事のテーマにしてきました。現実的な思考や共感性がないためです。だから、楽山の書く文章は、誘導、印象操作、すり替え、すり込み、などの詭弁だらけになります。
 
例えば、人それぞれ、などの、一般的で曖昧な真実を、個別のことに当てはめて、自己正当化を図るなどという、分かってしまえば、単純で低劣な詭弁です。だまされやすい人もいて、そこに、つけいってくるのが楽山です。自我の弱めの人は、楽山には決して関わってはいけません。
 
 
*見たくないものは見ない
まず一つは、ウォレスに関連した話である。降霊会における心霊現象を信じ込んでいる人が多いことを問題視したS・J・デイヴィーは自ら降霊会を催し、トリックを用いて多くの客たちを欺いたあとで、人はいかに騙されやすく、その認知能力は頼りないものであるかについてレポートをまとめたが、これに対してウォレスはデイヴィーは本物の霊媒師であり、降霊会における不思議な現象は真実であると強く主張したという。
 
成り立たないことを真実に見せかけるのが詭弁です。楽山の性癖と言ってよいと思います。嘘をもっともらしく書いてくるので、受け取って考える段階で、既に、だまされているのです。楽山は、そのようにしか生きられないのでしょう。3年あまり批判しても、このように、また書いてきます。
 
 
フォックス姉妹がイカサマを告白したあとも、フォックス姉妹の起こした心霊現象は真実だと信じ続けた人もいたということからすれば、ウォレスの行動は驚くべきことではないけれども、これは人は見たいものは見ても、見たくないものは見ないというのは本当だと思わせるエピソードではある。
ウォレスは好人物であったというし、渡部昇一も高評価していたが、こういうところはいかがなものかとは思う。
 
楽山の、だまし文句です。人格として欠けているのは、そういうイカサマが楽山の履歴だということです。過去3年間が証明しているのに、なおも、自分は客観的で、警鐘を鳴らしているから、まともな人間だという印象を吹き込んでくる実に病的な白々しさです。罪悪感と羞恥心がないからでしょう。
 
引用されている人物を「見たいものは見ても、見たくないものは見ない」と言っていますが、そのまま、楽山に当てはまります。実に、他者の言うことを受け取らず、自分の言いたいことだけを繰り返す粘着性の詭弁屋です。詭弁が人格になっているようなもので、どこまでも芝居しかないのです。
 
霊が分かるっぽい?という小児期の体験から、一歩も出ていない楽山です。このように、有名人の名前を、好きなように出して、好きなように利用~悪用して、「いかがなものか」などと言ってきました。「いかがなものか」よりも、イカサマなものというのが、楽山という変質者なのです。
 
本当に、霊が分かっている充実した人格なら、反省や学習も出来るはずですが、楽山の "霊が分かるっぽい" 性質は、反省しなくても学習しなくても努力しなくても、平気で、教える姿勢だけを持ち続けられる異常性です。人間としての常識的な筋道を持っていないのです。
 
 
*マインドコントロール
もう一つは、マインドコントロールについてである。著者によれば、その手法には次のようなものがあるという。
段階的要請法…はじめは簡単なお願いをし、その後、段々と頼み事の難度を上げていく。
 
柔和な言葉遣いで、好意的に接して来て、核心に入ると、相手の言い分を理解せず、弁明できず、自説を繰り返すだけの、訂正不能に凝り固まっている楽山です。受けていると、だんだんと詭弁が身に染みて、気づいたときには、恐ろしく異様な疲労~徒労、さらに鈍麻~人格破壊を味わうことになります。
 
 
異論の排除…自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除する。
奇跡の宣伝…リーダーは特別な力を持っていて、奇跡を起こせるとする。
 
楽山は、スルーすると言って「自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除」して無視します。自分が被害者だいう立場しかなく、嘘の憐れみの言葉を言ったりもする吐き気ものです。徹底して他罰的で、本能のように、批判者を加害者と見なします。批判を、無条件に無根拠に攻撃と見なす厚顔です。
 
 
苦痛をともなう儀式…信者は苦痛を受けることで、その苦痛を無意味、無価値とは思いたくないために、信者を続けないではいられなくなる。
 
こういうやり方で、楽山は、だまして、仲間~味方を、被害者を、増やしてきたのでしょうか。カルトに、よく見られることです。ゆえに、楽山には、教祖願望があると判断しています。誰も、楽山に関わらないこと、・・そうすることだけが、楽山の害を広げないことにつながるでしょう。
 
 
自分は根が単純で、騙されやすい方なので、こういうことはよく覚えておきたい。
 
楽山は、根が腐っていて、だますことでしか生き甲斐を感じない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質者です。「覚えておきたい」ではなく、ここも、刷り込んで来ているのです。「騙されやすい方」は、いかにも、罪悪感のないペテン師らしい100%の嘘です。
 
楽山は、既に、加害者です。だますほうです。なのに、白々しく嘘で自分を高めてくる体質的異常者です。こういうところに、楽山の、底知れない悪意が表れています。百害あって一利なしです。他者の人格を破壊し、自らの人格が崩壊しているサイコパスなのです。
 
サイコパスは、以前の精神病質という直訳よりも、反社会性パーソナリティ障害と言われることが多いようです。人生の早期に、良心が育たないまま、反省や共感や罪悪感につながる高等感情が欠損して、ゆえに、自分を責めることが出来ず、他者を下に見ることでしか生き甲斐を感じられない人格です。
 
協調性や共感性を持たず、代わりに、世辞の褒め言葉と嘘と詭弁を覚えて、楽山の場合、わざとらしい台詞を言うのに、ためらいも、恥ずかしさも感じないのです。平気で嘘を吐きます。だまされないでください。人間の健康と精神衛生を荒らしてくる病魔です。
 
楽山は、高等感情鈍麻と、洞察力の欠如があり、乾燥した社会通念の枠内の、誰もが一応受け容れそうな平板な社会通念を利用してきます。その好印象から、偏見や妄想に誘導してきます。楽山は、心の温もりと潤いがなく、優しさと悲しみを知りません。それらをいつも下手くそに捏造しているのです。
 
最初の数か月で、私が、とんでもない奴だと感じて、その後、批判すればするほど、思った通りの病質であることを表してきた楽山です。こういう良心欠損人格がいるのだと、人格障害なるものを初めて認識するに至って、その厚顔無恥を、3年余り見ながら、現在に至っています。
 
 
人類の敵は国家でも組織でもありません。人類の敵はサイコパスです。独裁者~集団が世界をかき乱すとき、平気で大量殺戮をして、凄んだり、笑ったりするとき、そこには、中心となるサイコパスがいます。今も昔も、遠くでも近くでも、人の生命や人権や尊厳を破壊してきます。
 
 
根こそぎペテン

根こそぎペテン
 
(2022年04月05日)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  独り芝居
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
 
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
出てみれば劇場もない
芝居は成り立ちようがない
主役は誰なのだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘で飾ることと、安い詭弁だけを覚えて、天下でも取ったような殿様気取りが、中立を装う評論家気取りが、今日も、誰のためにもならない文章を書いてきます。それは、そのまま、生きることが「難しい」「嘘ばかり」の楽山を表してゆきます。一生涯、そこから抜け出すことはないのでしょうか。
 
 
 
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  楽山の妖怪フェチ2
 
 
スピ系、幽霊、霊感、そして、妖怪を愛することについて、趣味にとどまるならば、批判する必要はありません。しかしながら、楽山は、リアルの人間関係においては、人の意見を聞かないで自分の言い分だけを図々しくネチネチと、超常の筋書きを並べ続けるという性癖があります。
 
それが、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝となり、スピ系讃美、反キリストとなっていて、さらに、深いテーマについて書いてゆく思慮と弁えを持たないで、雑に、乱暴に、評論家気取りで書いてくるので、一般の読者を毒する誘導として批判対象となり続けています。
 
この記事では、人間よりも、妖怪好きの楽山が、はっきり表れています。楽山が、人間のことを深く考えることをしないのに、妖怪という空想の産物に向かう嗜癖が明らかとなっています。
 
真摯に、かつ、謙虚に、深いテーマを考える、という姿勢を持たず、いかなるテーマも、人をひたすら誘導し、だましてゆく、傍迷惑な人食いのカルト妖怪みたいになっているのが、楽山です。
 
その分、人間性を軽視し捨ててゆく慢心だけで書いてくる人間離れの鈍い記事は、決して一般に語られる面白い妖怪話として読むことは出来ません。
 
 
 『日本現代 怪異事典』朝里樹著
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
 
先般ひさしぶりに図書館に行った際、タイトルにひかれて手に取り、しばらく前に映画で見て以来ずっと気になっている隙間女を調べてみようと開いてみたら、五十音順だけでなく、類似怪異、出没場所、使用凶器、都道府県別の索引も完備されていて驚かされた。仕事の丁寧さ、細やかさは有り難くもあり、どこかおかしくもある。
 
隙間女という妖怪のことが、ずっと気になっているそうです。楽山は、今まで、宗教について書いてきた、おおよそ、偏見と芝居としか思えないような曲解について、何も訂正しないままであります。
 
せっかくなので隙間女は五十音順ではなく、出没場所索引で探してみることにすると、「隙間」という項目はすぐに見つかった。隙間には隙間女だけでなく、隙間男というオバケもいるらしい。人間社会が男女平等になれば、それに連動してオバケ社会もそうなるということか? 他には、三センチお化け、隙間の目、ヒラノといったオバケもいるようだ。こんなにオバケがいるんじゃ、隙間はうっかり覗いてしまわないようにこれまで以上に注意しなければならん(笑)。
 
うっかり覗いてしまうどころか、人間性を失うほどに、超常と霊に、のめり込んでいる楽山です。霊が分かるっぽい自覚の楽山にとって、趣味ではなく、空想と思いつき以外、語れるものがないのです。そのような在り方で、人間の弁えを持たないで、霊と超常と妖怪について語るのは異常です。
 
「赤毛のアン」には、アンがあそこの森にはオバケがいると想像した結果、それが本当のように思えて怖くてたまらなくなり、森に近付けなくなる話があっておかしかったが、自分はいい年したおっさんであるにもかかわらず、隙間女の映画を見てからは隙間の向こうにある闇のことをあれこれ想像しては怖がるというアンと大して変わらない失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)。
 
「失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)」というのは嘘です。恥ずかしいなら書かないでしょう。楽山に恥ずかしいという悲しみの情があるなら、今までの経緯から、このような記事を書いて「(笑)」でくくることは出来ないはずです。楽山は、違います。
 
「失敗」「恥ずかしい」と書いて、「(笑)」でくくる楽山です。聖書の悪魔が悲しまないのに似ています。そして、退けられても、退けられても、誘惑を仕掛けてくるのにも似ています。
 
 
 『江戸の怪談 絵事典』近藤雅樹監修
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 
前記事で書いた『日本現代 怪異事典』のケセランパサランの項を見たら、ケセランパサランについて「江戸時代にはすでに語られた記録があ」(p.147)るというので、江戸時代の怪異譚に興味がわき、本書を見てみた。
子供向きの本なので怖くはないし、誰でも知っている怪談が紹介されているのではあるが、改めてそれらを読んでみると、主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女、恋い慕う男に煙たがれ嘘をつかれた女など、かわいそうな女の話がやたらと多いのには驚かされた。
 
楽山は、他者を下に見て、憐れみと和みの独り芝居に興じ、詭弁を盛っては、ボンヤリ言語で人格破壊へ誘導し、平気で嘘を吐くなど、怠惰の毒性が、やたら多いのに驚かされます。楽山の柔らかく見せかけた詭弁と誘導は、だまされて食べると毒饅頭に匹敵するでしょう。
 
なんだかこういう話ばかり読んでいると幽霊は怖いというより、かわいそうになってくる。小さかった頃は、大人が幽霊はかわいそうだというのを聞いても、その意味はさっぱり分からなかったが、今になってようやく分かってきた気がする。
 
楽山は、楽山自身も人間性を失って似たようなものだから、幽霊が怖くはないでしょうが、かわいそうだと言っています。かわいそう、という感情は、楽山にはないと思います。そういう言葉があるから、人間らしさの芝居として使っているだけでしょう。つまり、あざ笑いなのです。
 
「分かってきた」を真に受けないでください。今までのことから、楽山に、悔い、悲しみ、あわれみ、共感、反省、などの深い情はないと思います。そういう言葉があることだけを知っていて、人間味を装う芝居をしているのでしょう。しかも、幽霊に向けているのです。
 
本書の第4章では、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が紹介されているが、主人公の屋敷で家具が空中を飛び回るポルターガイスト現象が起きたり、さまざまな人物が物怪退治に訪ねてくるだとか、現代の視点からみてもエンターテイメント性が抜群の物語となっている。
 
このように、楽山が興味を持つのは、面白おかしいことだけだと思います。ポルターガイストにも、恐らく、幽霊にも、超常現象にも、気楽なエンターテインメント性だけを求めていると思います。そして、それと同じ見方で、宗教と信仰を語ったつもりになるという愚かさです。
 
今まで、偽宗教と反宗教を書き、右翼に賛同し、心霊のことをいっぱい書いておきながら、何ごとについても、製作者や著作者の意図にかかわらず、実感をもって受け取ることがないのだろうと思います。ゆえに、何も理解できないので、でっち上げるしかなくなっています。
 
言ってみれば、楽山は、平面に生きているようなものです。そこが世界だと思って、得々と語りますが、傍から見ると、聞くに堪えないほどの偏狭で、一面的な視野が、表れてくるだけなのです。楽山が鈍麻しているのは、そうでないと、楽山は、恥ずかしさに昏倒してしまうからでしょうか。
 
当時はこういう話がウケていたのだとすると、今も昔もアクションホラーのファンは沢山いるということなのだろうな…。
 
やはり、ウケる、といった安易なことしか書けないのでしょう。今も昔もアクションホラーのファンはたくさんいると思いますが、それを書いて何を言い得たつもりでいるのでしょう。人間らしい心を持たない楽山も妖怪フェチに過ぎないのです。楽山のホラー好きは、人生の誤変換です。
 
楽山は、まともに見せかけて書いて、はっきりした主張をまとめることが出来ません。なぜ、この記事を書いたかも、分かってはいないのでしょう。楽山は、記事を書いて、まともぶることだけが、満悦につながるのでしょうか。
 
丁寧語で、やばいことも強いことも派手に書いているわけではないとしても、その丁寧で抵抗のないような文章の曖昧な感じこそが、楽山の狙いであり、受け入れると、知らず知らず、余計な、煤のようなものがこびりついて残って溜まってゆく、という詭弁なのです。
 
付き合っても、何も得るものがないというのは、こういう、楽山と、楽山の生産物であります。楽山という詭弁屋で嘘吐きのペテン師は、実際には、アクション、ホラー、スピリチュアル、宗教、信仰など・・理解も体験もしていないのです。
 
宗教、特に、キリスト教の信仰について、楽山は何も分かっていません。理路も発想も直観も直感もありません。楽山は、分かってなくても、根拠が無くても書けるのが、超常的な心霊の世界だと思っており、あとは、有名人の著作から言葉だけ貼りつければいいと思っているのでしょう。
 
そういうことだから、どんなテーマも、趣味のエンタから、思想・宗教・政治などという重要なテーマまで、みな、安っぽい駄弁か繰り言レベルで書いてしまうのでしょう。こういう人と付き合うと、結局、一種異様な、侵襲性の高い疲労だけが残り、それによって人格が摩耗してゆきます。
 
宗教を考えることは、人間を考えることです。信仰を持つことは、よりよい人間に成長することです。楽山のように、宗教のつもりで超常ばかりを語ることは、関わる人を、宗教と信仰の真実から遠ざけることです。ゆえに、批判し否定し続けることが必要なのです。
 
 
妖怪フェチ

妖怪フェチ
 
 
(2019年08月22日)
(2021年08月31日、再録+)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
 
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
 
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
(昔の作)
 
 
 
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