ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:復活

 
  人の復活3
 
 
死人が蘇る話よりも、先に考えるべきことがあります。信仰はその原初から、神との関係への人生の依拠であり、生きる理由の依存でもあります。自立した信仰などありえず、信仰は紛れもなく、神に人が依存し、かなり甘えることに他なりません。
 
語弊があるなら、神のみに依り頼むことと言ってもいいでしょう。神に依存し甘えるとは、祈りにおいて神に対して、人は既に、かなりの無礼を働いているということです。私たちの信仰は、100%を目指すことは出来ません。
 
100%を目指せば目指すほど、思い込みを強くして、偶像信仰になってゆくでしょう。何故なら私たち人間は、一人の人間である他者さえ完全には理解できないでいるのです。ならば、神の全知全能・完全絶対・永遠不変など、理解できるようもありません。
 
私たちの信仰は本質的に、決して100%を目指すものではありません。神はそれをご存知のうえで、福音を賜ったと思うべきであります。すなわち不可知の神への依存は、人間としての地上の人の世での自立を促すものです。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはありません。しかし、そこを間違えれば、おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはあるのです。
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは、今信じていることを固定することではありません。信仰を固定しようとすることは、動かなければ成長しない人間の、成長すらも拒む姿であり、それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり、偽善者やカルトの信じ方なのです。
 
信仰は、不明を呑みこんで信じ込むことではないのです。信仰において信じるということは神を理解することではなく、100%を目指すことでもありません。救いの成就が目に見えなくても、信仰は、一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることです。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば、不感不応の慢心からの信仰自慢に他なりません。それは信仰ではありません。今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかないからです。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は、賜物が必要なほど不完全な自分を知っているということです。境地自慢のように信仰をひけらかすことはしてはいけません。
 
それでも人間の信仰は不完全であります。それは人間が不完全だからに他なりません。だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ません。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは、それ以上に尊いものを他に知らないという讃美であります。
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に、「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくありません。
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはありません。
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからです。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が、様々なカルトに悪用されている事実を見ても、聖書に心を揺さぶられたことがなく、心に受けたものがないまま、讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っています。
 
祈り以上に、人が真の神を相手にすることは出来ないと思うべきです。そんな能力は人にはなく、真の神が人に及ぶのであって、真の神に人知はどこまでも及ぶことがないのです。
 
ならば信仰は否定されるでしょうか。人は神を信じてはいけないのでしょうか。否です。思い込み信じ込む信仰はないということです。信仰は、いつも疑いといっしょなのが、人間です。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じられないときに信じることを捨てられない
という不可避の必要があるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という
人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこでは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないが
最後まで希望の縁(よすが)はあるということ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
復活と不滅

復活と不滅
 
 
(2011年)(2019年)
(2019年)(2020年)
(2022年06月01日、再録+加筆)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  次元
 
乏しくて乏しくて
しまいに欠けてしまって
目で見ているもののまわりに何もない
目で見ているものさえなくなって
古い何かがよぎる
色彩のような
香りのような
 
紙にX軸・Y軸・Z軸を描いてごらん
そう、それが三次元の座標軸だ
その紙に鉛筆を立てて
そう、これが四次元さ
(それを写真に撮ってまた棒を立てる
五次元、・・・、N次元?)
 
0と1が明滅していた
ことの始まり
色彩が妙にきれいだ
平面から立体へ(芸術へ)
それに時間という次元を考え出して加えている
それでも乏しくて乏しくて
しまいに欠けて
古い何かがよぎる
未来が今を思い出している?
色彩が
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰がもたらす共感も、愛も、癒しも、救いも、絆(きずな)も、何も知らず、史実と幼稚な辻褄で、鈍い情緒的感性だけをもって、キリスト信仰を否定する者がいます。書いていることは、読むに堪えないことばかりで、それこそ、思うようにならない生を、悔い改める代わりに、神のせいにしているのです。
 
 
 
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  在る・祈る (再)
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
罪の実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ・・祈りへ・・
 
 
 
  唖然
  ↓
  怒り
  ↓
  憎しみ
  ↓
  恨み
  ↓
  怨念
  ↓
  呪い
  ↓
  病
  ↓
  鬱
  ↓
  諦め
  ↓
  悲しみ
  ↓
  祈り
  ↓
  思考
  ↓
 今できること
 (復活)
 
 
 
  弱虫
 
明るく見えても
穏やかに見えても
やさしそうに見えていても
ときおり激しさや険しさや苦悩を覗かせるのは
押し潰されそうになりながら
消え入りそうになりながら
懸命に重たいものを支えているのかもしれない
 
常にプラスの方を向いていなければ
常に前向きでいなければ生きられぬ
というほどに
だとすれば
暗さを暗いまま
激しさを激しいまま
腐肉を腐肉のまま押し出してしまうのは
すでに認めざるを得ないのだが 改めて
不治の弱虫だと
ある日ふるえるように 思う
 
最も悪質な弱さというのは
弱虫だということではなく
弱虫を弱虫だと認めないことだろう
 
 
 
  恋歌
 
あなたの こえが ききたくて
みみを すましてみるけれど
いまは やさしい ほほえみも
うたごえさえも とおすぎて
 
あなたの ゆめが 知りたくて
こころを こめてみるけれど
とおい おもいで 追うばかり
間(あわい) せつなく 問うものを
 
つきぬ おもいよ いまさらに
なにを もとめて たちどまる
ささげるものと 問われては
とどかぬ うたと しるゆえに
 
わたしの おもいの はかなさを
ささのは ささぶねに おりなして
この かわの もに うかべましょう
はてる さだめと しりながら
はてる さだめと 知るゆえに
 
 
 
  イエスの教え
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
イエス・キリストは、やさしかっただけではなかった。
 
戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。
 
あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。
 
イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。
 
律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのだろうと思う。
 
 
祈りの向かうところ

祈りの向かうところ
 
 
(2021年11月07日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  楽山には、良心がないために、執拗な自己正当化の詭弁が止みません。
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
闇宇宙の俳諧師・藤倉善郎
@SuspendedNyorai
カルト問題で特定の団体や加担者を批判すると「信教の自由」とか言うアホがいますが、「信教の自由」を振りかざす上祐史浩に「人を不幸にする自由はない」と毅然と言い放ったのが坂本弁護士。カルト問題における最も基本的な大前提です。
午後5:34 · 2021年11月4日
 
楽山は自らを省みることがありません。念のため書いておきますが、楽山の言ってきた言論の自由や、以前の記事のテーマ「自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?」も同様です。曖昧な格言や一般論で、個別の自分を正当化することは出来ません。
 
「人を不幸にする自由はない」・・ならば、人に迷惑をかけてはいけない。言うだけで責任を負わないという自由はない。楽山のように他者を無視し、学習しない言論はあり得ないのです。言論における「最も基本的な大前提」です。楽山という自己愛性人格障害者に欠けているものです。
 
無反省、無責任、無視の、一方的な言は、言論ではなく、いちゃもん、嫌がらせ、貶め、悪口、誘導、刷り込み、印象操作、侮辱の類であり、常識的ルールの無視であり、成立しません。しかも、楽山のように、自分の不祥事を人のせいにするに至っては、到底、人間とは思えない所業であります。
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
誠実さを貫けば、決して多くの友は得られないだろう。でもいつだって、正しい友を得ることが出来る。―ジョン・レノン
午後2:52 · 2021年11月4日
 
誠実さを欠けば、多くの友は得られず、正しい友も得ることが出来なくなります。楽山は、誠実を知らず、嘘と詭弁と刷り込みばかりしています。だから、悪の仲間がいたとしても、誠実な友がいませんし、正しい友を得ることも出来ません。有名人の言葉で自己正当化しても無駄です。
 
(楽山と思われる)rakuさんがリツイート
セルピー
@self_pararevo2
·10月27日
【秩序ある状態にするには】
世界の秩序に於いても、
国や社会の秩序に於いても、
会社や家庭の秩序に於いても、
いかに、
不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先すべき重要なことです。
(引用:ZEROの法則/宇場稔著/幻冬舎)
 」
午前9:07 · 2021年10月27日
 
いかにも、楽山が、このツイートを引用しそうなのは、楽山においては、不快な感情の原因を無視する自己中が最優先になるということです。その通りに、楽山は、不快、不都合を、受けることはもちろん、与えたことも無視します。それを正当化するため、曲解に走り、哀れさを露呈しています。
 
このように、楽山は、他者の言も曲げて、自己正当化の具材として悪用します。楽山には、基本的な理解の客観性がないので、自分に有利に見える意味を暗示できそうだと思ったら、エサに飛びつく獣のように、一般的な意味など考えもせずに、引用してしまう短絡的な衝動性もあるのでしょう。
 
自分だけでなく他者のためにも「不快な感情による「感情損失」を減少させていく」協調性が、一般的に大切です。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく自分の快楽しか考えていないので、自己中の視点だけで誤読し曲解して引用し、むしろ自ら、病質から墓穴を掘ってゆくのです。
 
「不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先」・・最優先なんだぞ、オレはそれをやっているんだ、という、殆ど、本能のような楽山の、みじめな曲解です。引用部分を、自己中心的にしか受け取れないところの、精神の貧困が明らかです。
 
都合が悪いことは無条件に無視してよいなどとは、どこにも書いてありません。楽山は、企んで、あるいは、体質によって、注意深く言葉の本質を掘り下げることが出来ません。それは、まるで、ケーキや玩具の前に、子供が、我を忘れる姿に似ています。人格の低格化です。
 
無反省無責任の自己中について、良識があるなら、楽山の場合には病識があるなら、上のツイートを無条件で引用することはしないでしょう。少なくとも、良心に基づく説明を付けるはずです。それをしないのは、今まで、ずっと我欲だけの自己中を続けてきた体質的欠陥があるからです。
 
私は、過去に、楽山にだまされていた数か月があります。一見、中立な立場の人だろうと思っていたのです。しかし、偽牧師シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という妄言に、楽山が無条件同意したことが気づくきっかけになって、以後は批判を続けています。
 
楽山は、ブログとツイッターで、複数の、恐らく、たくさんの、HNを使っていると思います。シャロームも、楽山の成りすましではないかとさえ疑っています。真偽はいまだ不明ですが、嘘と芝居が大好きな楽山は、丁寧語を使いますが、性根は、荒らしだと思います。だまされないでください。
 
ヤフーブログ時代の疑われるHNは、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。スクショが残っていました。楽山の信頼度はゼロです。
 
 
 
楽山は、前の私の批判記事にあるように、また、楽山日記ブログの記事を書きました。今回のように、ツイッターでは、前と同じように、自己正当化に都合のよい文言を漁(あさ)っては載せてきます。楽山日記コメント欄の再録です。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。体質的なものなので、一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
 
 
(2021年11月07日)
 
 
 
 
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  楽山の短絡宗教2
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
またしても、楽山は、弁明も反論もできないまま、書いています。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐き、詭弁を弄するしかなくなっています。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想者で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、自尊だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、楽山のようになります。
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
内村鑑三と言えば、キリスト者、一部には、預言者的な人物と言われているとさえ聞きました。楽山に、「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、的を外してばかりだったことが証拠です。
 
今回も、また、的外れだけが表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
キリストの復活については、肉体を伴うものだと信じている人も少なくないでしょう。私のスタンスは、他の、物や肉体の奇跡と同様で、人知で理解できないものを、あった、なかった、などと云々することはしません。あえて言うなら、・・分かりません・・ということです。
 
しかし、楽山の言うところの、新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。何を分かっていることであるかのように、楽山は言っているのでしょう。
 
肉体の復活は別として、魂の復活については、言いようがあります。死ぬしかないと思っていた人が、生きるほうを選ぶようになることがそうです。絶望の人が希望をもって動き出すことかもしれません。また、楽山は、分かりもしない超常の辻褄をいじくっていますが、無視してください。
 
楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している空想の証拠なのです。
  
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。それにしても、霊魂について、楽山は、分かったふうなことに思わないと気が済まないのでしょうか。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇るために利用する、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉は、地上で当たり前に起こることみたいに言っていますが、恐らく、神の側の、人に対する見なし、ということが大きいと思います。
 
神と人の同化可能、という幼稚で乱暴な、神霊物語にしているところが、楽山らしいと思います。意味を、自分の妄想世界に短絡して受け取っています。もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言える輩です。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。地上のこととしては、比喩以上ではないと思います。地上で超常の説明をするような説明を、私は信用しません。
 
永遠は、地上では、現象として表れませんし、表れても、誰も理解はできないでしょう。つまり、神の全能から考えて可能ということであって、信じれば起こる・・などという、楽山がやるような短絡をしてはいけないということです。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、わけも道理も弁えぬ楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされています。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いていますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。注意警戒してほしいと思います。
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは、ろくに知りません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果は、この二年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきただけなのです。
 
分からないことを笑うのは、楽山の場合、謙譲というより、宗教をバカにして、とても軽く扱っているからでしょう。楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、読書家気取りで、推敲・考察・反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、「つかみどころのないもの」なら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がないのです。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらいの疲労を与えてくるのが楽山です。
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょうか、敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょうか。身の毛がよだちます。
 
開祖が違うと、正面衝突するものでしょうか。そこに共通するところの、人間らしい真善美というものを、楽山は考えないのでしょうか。恐らく、楽山は、考えられないし、考えないのでしょう。字面の駆け引きだけ言って面白がる姿勢には、宗教への理解はありません。
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで書いてくる人は、珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
歴史的には、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)くらいは、高校で習ったと思います。
 
(ネットより)
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、平気で、著名人の名を引用して、自己正当化してくるのです。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っている自己愛性人格障害の楽山の言です。有害無益、カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる二年余りでした。
 
 
足らざるを嘘で補う

足らざるを嘘で補う
 
 
(2020年07月24日、同日一部修正)
(2021年08月05日、再録+)
 
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
 
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった貝の殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  人の復活(修正)2
 
 
死人が蘇る話よりも
先に考えるべきことがある。
 
信仰はその原初から
神との関係への人生の依拠であり
かなりの依存でもある。
 
人への依存は病気だが
神への依存は信仰である。
 
ゆえに自立した信仰などありえず
信仰は紛れもなく
神に人が依存し
かなり甘えることに他ならない。
 
神に勝手なことばかり言うことではないので
語弊があるなら
神のみに依り頼むことと言ってもよい。
 
神に依存し甘えるとは
祈りにおいて神に対して
人は既に
かなりの無礼を働いているということだ。
 
私たちの信仰は
100%を目指すことは出来ない。
 
100%を目指せば目指すほど
思い込みを強くして
偶像信仰になってゆくだろう。
 
何故なら私たち人間は
一人の人間である他者さえ
完全には理解できないでいる。
 
ならば
神の全知全能・絶対完全・永遠不変など
理解できるようなものではない。
 
私たちの信仰は本質的に
決して100%を目指すものではない。
 
神はそれをご存知で
人に福音を賜ったと思うべきである。
 
すなわち不可知の神への依存は
人間として地上における自立を促す。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはない。
しかし、そこを間違えれば
おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはある。
 
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは
今信じていることを固定することではない。
 
信仰を固定しようとすることは
動かなければ成長しない人間の
成長すらも拒む姿であり
それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目であり
偽善者やカルトの信じ方である。
 
信仰は
不明を呑みこんで信じ込むことではない。
 
信仰において信じるということは神を理解することではなく
100%を目指すことではない。
 
救いの成就が目に見えなくても信仰は
一生の付き合いとなるほどの
賜物を心に受けて起こることである。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば
慢心からの信仰自慢に他ならない。
自慢することは既に信仰ではない。
 
それに、誰が、神を見て信じるというのだろう。
今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかない。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は
賜物が必要なほど不完全な自分を知っている。
 
境地自慢のように信仰をひけらかすことはしない。
 
それでも人間の信仰は不完全である。
それは人間が不完全だからに他ならない。
 
だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ない。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは
それ以上に尊いものを他に知らないという讃美である
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に
「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくない
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはない。
 何故なら神の前で
 信仰者は神を恐れるので
 決して大袈裟にはなれないからである。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が
様々なカルトに悪用されて
白々しい讃美や否定の言葉になっている。
 
聖書に心を揺さぶられたことがなく
心に受けたものがないまま
讃美と信じ込みが信仰になることはない。
 
人が真の神を相手にすることは出来ない。
そんな能力は人にはなく
真の神に人知はどこまでも及ぶことがない。
 
ならば信仰は否定されるだろうか。
人は神を信じてはいけないのだろうか。
 
人が考えて
矛盾がないから信じるのではない。
整っているから信じるのでもない。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から
這ってゆくような醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じるという不可避の必要が
人の側にあるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
洗礼は
人から神への信仰告白である。
洗礼は
神秘を保証しているわけではない。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ。
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
多くの信仰は
他に何もなくなってから生まれている。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとって
復活でと言ってよいだろう。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないということだ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
(2011年12月08日)
(2019年05月17日、修正)
(2019年05月18日、一部修正)
(2020年05月29日、一部加筆修正投稿)
 
 
復活

復活
 
 
(2021年06月05日、再録+)
 
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
返信先: 
@asasfjgg
さん
>月影さんが・・・・・説明してもらえませんか。
 」
始めから『「一文言」だけを抜き出すという歪んだ方法』と書いています。
多くの事を語っているにも関わらず、
その大半を無視し、
都合の良い1文だけを抜き出し、
筆者の意図とは異なる意味を被せて論じる事は、
ズルい方法と思います。
午後4:14 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
上記引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
「都合の良い1文だけを抜き出し」て、利用~悪用するのは、楽山の、"読書しました自慢" における常套手段です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
いやいや、この原因は、総裁には極論、ハッタリ、放言が多いということだよ。
・総裁が極論を述べる
・炎上、祭になる
・信者らはカルト視を逃れるため総裁の極論を薄めようとがんばる
コロナ死滅の話もそうだし、今ペンさんがしてるのもこれだよ。信者数、霊言、神罰、エルカン宣言もこのパターン。
午後7:53 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
「極論、ハッタリ、放言」が多く、さらに、理路の短絡、妄想的固着、なども、楽山の破綻として、よく見られることです。人のことばかり言う楽山ですが、不可避的に、楽山の傲慢からの詭弁に加えて、否応なしに、楽山の "教祖願望" が、言外に、体臭のように、表れています。
 
楽山に、人のことを言う資格はありません。
 
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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