ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の大好物3
 
   『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
   2021年01月09日 楽山日記(LD)
     を改めて批判。
 
 
(ネットより)
浅野 順一(あさの じゅんいち、1899年12月12日 ‐ 1981年6月10日)は、日本の牧師、神学者(旧約聖書学)。青山学院大学名誉教授、キリスト教功労者。
 
(ネットより)
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、楽山が書いていることは、キリスト信仰に沿うものではありません。キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりたいのです。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
ヨブ記は、痛々しく信仰と試練と救いを深く考えさせられるのですが、楽山は、趣味のように「楽しく読めた」と書いています。楽しく読めるテーマでしょうか。楽山が、いかに宗教と聖書を軽く見ているか、いかに悲劇に共感できないかが表れている記事です。サディストの感想です。
 
そもそも、分かる・理解するということの深みが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたこともないのです。キリスト教については、さらに、幼稚な先入観と偏見と詭弁による攻撃が明らかになっています。
 
したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったつもりで自慢し、批判したつもりで、否定のイメージを刷り込むことに他なりません。読書は、楽山にとって、そのためのネタ探し以上ではありません。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、荒らしに過ぎず、決して学ぶ者にも教える者にもなれないのです。
 
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、平易だからではなく、安易に受け取って読みやすいなどと言っているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものはないのです。
 
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
引用元著者は、サタンが友人に姿を変えていると言いますが、悪魔と、人と、神の区別が、あっさり、つくものでしょうか。安易な短絡です。サタンの仕業にして、私たち人間に、何が得られるというのでしょう。教理的に語ればよいというものではなく、人間のテーマとして考えるべきです。
 
「サタンが友人にその姿を変えている」・・このことを、ホラーのように捉えている楽山です。状況によってはサタンのようになりうるのが人間です。楽山は何も分からないのです。私たちが学ぶべきは、私たちが陰気な悪意と攻撃性詭弁の偽善者になれるということです。楽山の有り様が典型です。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。楽山は、ヨブを誘惑する悪魔性の典型として、信仰を攻撃する悪魔性の典型として、猿真似の記事を書いています。
 
何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を公開して、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、無理解が表れるだけです。楽山は、キリスト信仰に対して、初心者を怠惰な反キリストへと誘(いざな)う悪魔性を発揮しているのです。
 
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らぎます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。やさしさや丁寧に見せかけて、ネガティブな印象を吹き込んでゆく企みに乗らないでください。
 
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のような超常ホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して、決めつけてきたのです。そして、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。自分で聖書を読めていないから、他者の言に頼るのです。
 
ヨブの友人たちは、建前を言い本質を語れない、信仰と救いの本質を語れない、という、私たち人間の限界を示しています。悪魔と言えば、私たちも悪魔性を持っているのです。信仰者が、悪魔ではない善人というのは大間違いです。悪魔性があるから罪を犯すことを弁えるべきでしょう。
 
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、何を言っているのでしょう。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
その悪質な典型が楽山です。サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた人たちです。注意してください。楽山も「簡単にはサタンだと見破れなくなる」存在です。そして「立派な説教をし」ているつもり、「真理を語ることができる」つもりなのです。実際は、良いことを何も語れない楽山です。
 
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
どうも引用元の学者は、悪いことを、皆、サタンが憑りついたせいにしているようです。無理な護教に思えます。私たちは、悪意を、人間の性質の一部として持っているのです。ゆえに、原罪と言うのです。そこで悔い改めるかどうかで、悪と、信仰が、分かれるということです。
 
人間は、しばしば、夢中になって議論しているとき、真実の追求という姿勢から、勝ちを得ることに没入してしまうことがあります。その時、人間に見られるのは、希望ではなく情熱でもなく、怒気であります。これを常時持っているのが、悪魔なのです。それを楽しんでいるのが楽山です。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、引用には、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を超常の存在まで決めつける人は、楽山のように、自分を省みることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
もう一度言いますが、何でも、悪い人をサタンにしてゆくのは不適切です。何故なら、私たちも、当然、著者も、サタンと似たような、悪意の人になりうる罪性を持っているからです。サタンは、悪しき誘惑の源として機能するのでしょう。そこに、どっぷり浸(つ)かっているのが楽山であります。
 
完璧な善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して正直に祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
楽山は「勇者」などと言っていますが、信用しないでください。楽山は、キリストも聖書も、否定している男です。小馬鹿にする台詞に過ぎません。信仰者は、神に対して正直であり、正直な祈りを心掛けます。その正直さを、全く持たないのが、楽山です。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。楽山は、以前から、悲劇が起こるのは、神がいない証拠だと言ってきた人です。神に文句を言い、人が神に評価を下してよいという口実を捏造しています。楽山は、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めない自己中の病者です。
 
エレミアは、神の言葉を伝える預言者です。ヨブは、勇者ではありません。また、ヨブは、楽山のような反キリストの悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。楽山からは、無知と無恥が表れるだけです。
 
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったというより、不当な扱いをされたと思ったら、そのことを正直に、神に言う人なのです。神は応えて、ヨブは叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。楽山は、生まれ育った時点で、人間になり損なった人なので、何も分かっていないのです。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、ねじ曲げられ、糊塗されて、反信仰を、刷り込んでゆく手段となります。楽山は、正直でない分、ヨブより悪魔のほうに似ています。
 
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。聖書は、ユーモアではなく信仰の話であります。楽山は、「了解」しているのではなく、曲解しているのです。
 
「ヨブへの親愛の情、ユーモア」ではなく、真剣に言い合っているのです。実に、ピント外れの感想です。何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものを読んでいないと思います。いい加減な軽口で褒めるところにも、楽山の、おふざけで宗教に反応する読み方→生き方が滲み出ているということです。
 
こういう破綻は、出てしまうものなのです。真剣味も、真面目さも、納得も、感動も、嘘の芝居でしか表せない楽山の、穴だらけのバケツです。何度も、不可避的に、楽山は、まともなつもりで、実は、自分で自分を切り刻んで滑ってゆくだけの笑止の存在に過ぎないのです。
 
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
 
いつから、この著者は、神の責任を問う立場に立ったのでしょう。神の責任だけを書いて、人の罪と救いにつなげることがないなら、キリスト者の書いたものとは思えません。どうして、幸も不幸も命も死も、神の手の中にある・・というような書き方をしないのでしょう。
 
当然ながら、神は、いちいち、試練について、こうだからね、心配しないで・・みたいな説明はしないのです。人には、苦難の時、不幸の時、死する時が、必ず訪れます。そういう地上を造られたからです。キリスト教は、ご利益宗教ではありません。厳しい現実を生きる支えであります。
 
ゆえに、肉体の生も死も超えたところから、クレームだけではない、正直な祈りを待っておられるのです。楽山のようにはならないでください。人の話も、自分の言っていることも、まるで分らないまま、自己満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 
神が悪いみたいに書いていますが、人間の罪の性質を表すための聖書の話なのです。ヨブに与えられた不幸は、試練であり、むしろ、ヨブ記という地上の話の中で、最後に報われるのは、神に救う意志があり、ヨブが耐えたからであります。
 
ヨブに起こるような不幸も、そして、幸いも、悲しむという感情を持たない楽山のように、あげつらって自己満足の沼に嵌ってゆく反キリストにならないように、この楽山の記事という惨劇があるとも言えるでしょう。楽山を相手にしてはいけません。
 
結局、楽山の狙いは、神の責任、神の責任、自分の不遇も神の責任と、言い張りたいのです。神の責任と言って、何か解決するのでしょうか。神はいないという自分信仰が救われるでしょうか、否です。ゆえに、楽山は、人をおとしめるだけで、何の救いももたらさない反キリストになってきたのです。
 
 
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
神義論ではなく、神は与え、また、取りたもう、という神の全能と、人間の弱さと限界についての大きなテーマの、ヨブ記なのです。神義、即ち、神の正しさを、地上で、人が理解することはないでしょう。信仰者は、キリストの共感に捉えられ、共にいたいから、祈り続けています。
 
敵意と悪意ある楽山が、知性も感性もなく、人間としての共感もなく、単純に、神はこんなに残酷だぞ・・という先入観を刷り込もうとしています。実に、良心のない、罪悪感のない、問題の大きさを感じ取れない、ボンヤリ鈍感の楽山らしい引用と記事です。
 
ヨブの悲劇は大きいですが、悲劇というのは誰にでも起こり得るものです。その時、人は、信仰者は、どう考えるかという重要な問題を投げかけています。理解も感受も拙劣な楽山のような者が、いちゃもんの材料にするような軽薄な話ではないのです。楽山は、何の解答もヒントも救いも用意していません。
 
著者は、思い上がった人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけて、さらに、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたとしか言えない話です。
 
人が、神の責任を問う、などということは、神を恐れない者の発言です。人は、不当だと思う成り行きについて、なぜ、どうして・・と、正直に祈る他はないのです。そこに、人の作る辻褄など、全く成り立つ余地はないのです。人が、神と、同格に、責任問題を語れるという傲慢の所業であります。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
著者は、楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。悲劇からのサディズムもマゾヒズムも、人間には、いつ起こっても不思議はないだろうが、欠片ほどの信仰が残るかどうかという話です。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも聖書を理解できない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、深く理解するべきところです。
 
記事全体としては、楽山というサタンのような者が近くにいて、追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないかということを強く暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも、楽山という悪意の者の謀(はかりごと)を暗示するだけの記事を、楽山が書いているわけです。。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。信仰について、何一つ理解していないのが、楽山です。決して関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
悲劇と信仰・・

悲劇と信仰
 
 
(2022年)
(2023年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
 
むかし通って
洗礼を受けたのは
プロテスタントの教会だから
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛るイメージの戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
 
真実は、事実と違って、心を、共感をもって揺り動かす原動力であります。神について「客観的根拠」などと言っている時点でアウトなのです。何も分かっていないのに、思い上がりだけで、上から目線で、ケチだけを付けてくる楽山は、恐らく、一生涯、何の幸いも知らずに終わるのでしょう。
 
心の問題に「客観的根拠」などはありません。上の考え方は、楽山と同じように、とても幼稚です。神は、人にとって、論や証明の対象にはなりません。信仰は、神と、神を必要とする個人との関係です。神を客観的に見るには、神以上の次元が必要ですが、それを持っている人間はいないのです。
 
無神論などと言って論になる学問は、正当には存在しません。神を信じるに至る体験もない非信仰者や背教者に、とやかく言えることではありません。神は、人の論では語れません。楽山は、インテリぶりたいがための屁理屈を集めたものを無神論と呼んで、気晴らししたいようです。
 
神の問題は、決して「基本的なモラルの問題」ではありません。そう見せかけて、客観的根拠があるはず、答えるのが当然、答えられないなら、神はいない、と誘導するための詭弁です。こういう成り立たない組み立てで、怖い話にしてゆくのは、勝ちを欲しがる偽善者の手段です。
 
神が存在する客観的根拠は、人の側にはありません。希望に対する感受性のない無神論者は、引っ掛け論法として、この疑問を、いつまでも、ぶつけてくるでしょう。しかし、神がいないという客観的根拠もないということです。無神教カルトには永遠に根拠など無いのです。
 
サイコパスが跋扈(ばっこ)するような地上を生きるために神を必要とする人には、証明も根拠も要らないのです。楽山のような無神教カルトだけが、根拠、根拠と、問うてくるのは、無神論者には、神もなく、正義もなく、生きる根拠も欲望以外にはないので、自らの不幸の憂さ晴らしに過ぎません。
 
思うとおりにならないと怒り出したり、恨みを募らせるのは、サイコパスの特徴です。しんみりと反省するような悲しみの高等感情がないからです。サイコパスに理路はありません。嘘と詭弁と誘導だけです。楽山がその例となっています。楽山に、真っ当な理路はありません。実感がないからです。
 
神の存在は、史実によっても、論理によっても、証明できません。信じた人の心の変化に表れることです。絶望から希望へ、死から命へ、無思考から思考へ、闇から光へ、氷結から温もりと潤いへ・・この変化は、楽山などの無神教カルトには、起こらなかったし、これからも起こることはないでしょう。
 
楽山などの反キリストを無神教カルトと呼んでいます。高ぶりだけがあって、根拠、根拠と、同じことを言ってきます。カルトの豪語に似ています。証明できないから、平気で言って、追いつめたつもりなのでしょう。神は人の論理にはなりません。ということは、無神論も論理にはならないのです。
 
「「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない」「客観的根拠を提出しなさい」に、決して乗ってはいけません。無神教カルトは、根拠と史実の証明しか考えられないのです。それで、信仰を、神の存在を、示せるでしょうか、否です。客観的根拠があれば信じる必要はないのです。
 
論理的に、または、史実において、神は存在する根拠はこれだ、などという説明で、神を信じることはないのです。全くプロセスが違います。無神教徒は、心で受け取ることができないので、信仰を感じずに、決まり文句のように、神はいない、いるなら根拠を示せと、意味もなく問い続けるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても誤っても何も気にしない楽山です。嘘で欺き詭弁で保身しデタラメを刷り込んできます。訂正も反省もせず、人間性を、ネチネチと否定し続けます。それを誰にでもあることのように「人間の性」で済ませようとするに至っては、もはや、サディストの、人でなしとしか言いようがないのです。
 
サイコパス、自己愛性または反社会性人格障害、精神病質と呼ばれる異常人格は、好都合に笑い、不都合に怒る、という単純な原始反応で生きています。悲哀への共感がなく、反省せず、責任を負わず、人の言うことを無視し、悲しむことがなく、悔いることがなく、ゆえに、犯罪に結びつきやすいのです。
 
 
 
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  また逃げている楽山2
 
 「まだ追いかけて批判してた」を見た。
 2021年11月20日 楽山日記(LD)
 
 
緊急速報的に、楽山と付き合うと災難に巻き込まれるという事件です。人の迷惑を省みない楽山の悪あがきです。ずるずる人を巻き込んでくる楽山です。根腐れの特徴です。楽山は、良心と罪悪感のない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)ですから関わってはいけません。
 
何も理解せずに書いてくる。悪いことは総て相手のせいにする。平気で他人を巻き込む。こういう人には本当の友達はいません。ネットの他人も、本を書く有名人も、利用する対象でしかありません。丁寧語や、学者めいた言葉や、反省芝居に、騙されないでください。決して関わらないでください。
 
楽山は、どれだけ多くのHNに成りすましているか分からないので要注意です。心にもないことを言って騙してくるので、適当なところで和解して批判をやめるということはありません。最近も、次の自己正当化を書いてくるような病質です。今、私にできることとして批判しています。
 
楽山が、誰を褒めても貶しても、そこに実感はないと思います。だから、平気でキリスト教を貶(けな)したり、別の時には褒めるということが出来ます。つまり、発言に責任を持たす、思いつきで書いてくる雑言だけで、一人前を気取ってくるのです。
 
自己顕示欲で書いて満悦し、学習も進歩もない人です。何か真実に近いものを求めているという中身がありません。既に得ているという自己愛・自己中の立場から、論評してきますが、参考となるような意見を書いたことがありません。当たり前か、人の真似しか出来ないと思います。
 
 
苦悩を味わった人間が、立ち直ろうとするか、絶望に沈んでゆくかは、そこに希望とし得る関係があるかどうかにかかっています。キリストは、その言葉と苦悩を通して、人間に共感します。
 
楽山は、それを理解しておらず、救いにつながるような、いかなる言葉も持ち合わせていないと判断します。楽山は、我欲から、宗教や思想を悪用し、関わる人を誘導するペテン師です。
 
 
*謝罪
マリアさんが、こんな記事を書いていた。
・まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋
 」
これはstさんのことだろうか。もしそうなら、stさんは私の前記事を見て、マリアさんのところに行ったのかもしれない。迷惑かけて、すみません。
 
楽山らしく「行ったのかもしれない」と邪推しています。自称マグダラはキリスト教ではなくカルトだと思うので批判対象です。嫌なHNを思い出させてくれる楽山です。巻き込みたいのなら卑劣。自分で言えば理路も共感も表せないので、誰でも利用~悪用してきます。楽山に近づいてはいけません。
 
 
*同感
それはそうと、マリアさんは当該記事で、stさんに関してはスルーもやむなしとしているようだ。前の記事と合わせると、無視はよくないが、やむをえず、そうしなければならない場合もあるということかな…。それなら私も同感である。こういっては何だけど、stさんの批判記事は曲解、投影、邪推ばかりだ(1、2、3)。申し訳ないが、そんな無駄話に付き合っている暇はないのだから仕方がない。
 
逆らうと豹変するカルトの自称マグダラを持ち出してきました。何を今さら言っているのでしょう。楽山は、こちらを、スルー=無視し続けていますが、書いてくることが、いちいち、決めつけだけで出来ていて、偏見と妄想と自己満だけで、書くことだけは止めません。
 
楽山は「曲解、投影、邪推ばかり」と結論ばかり書いています。理路を書けないのです。以前の遣り取りで疲労と徒労をもたらすだけでした。批判しても、書き続けていますから、こちらも批判を当て続ける以外ないのです。かつて精神病質、今は、人格障害と呼ばれる精神衛生上の病原と思っています。
 
 
*コメント欄
マリアさんの記事を読んで思い出したが、ヤフー時代のstさんは、他ブログのコメント欄に押しかけて暴れてたのだった。
 
楽山が「マリアさん」と呼んでいるのは、マグダラマリア(自称)というHNの、キリスト教をネタにしたカルトです。表面的に、丁寧なのは見せかけで、批判すると豹変して、奇声のような「プププ」「ケロッ」とか書いてきて、ヒステリックに雑言をぶつけてきます。それで追い払うつもりのようです。
 
「暴れてた」は、楽山らしい悪口の汚い決めつけです。ヤフー時代の楽山(自由)は、今と同様、卑怯者でした。そして、書くには書くが、批判を無視して弁明しない自己愛性人格障害の体質が、バレてきたのです。そして、コメントしたら疲れるだけの、相手にしてはいけない病質者だと判断しています。
 
 
これは楽山ブログでも同様で、しょっちゅう押しかけてきてはシャローム批判を書きなぐっていた。
 
「押しかけて」「書きなぐって」・・印象操作です。楽山は、実質的に、視野は暗く、悪口だけで反応して、あとは理解できずに無視し、幼稚な戯れ言の言語しか持たず、それをもって、宗教や神を語るので、今も宗教と信仰の敵として批判対象であります。
 
 
やがては楽山も批判対象となった。シャロームさんはstさんの傍若無人な振る舞いを注意してたが、stさんはこれに従うことはなかった。私の方からも、stさんは十回レベルの連投が連発してたので、せめて連投は五回程度にしてほしいと頼んだこともあったが駄目だった。
 
私は、約10年間、シャロームの、牧師はおろかキリスト者とも思えない傍若無人の発言を批判してきたのです。シャロームの、"罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える"、という発言は、決定的でした。楽山の仲間か成りすましでしょう。
 
 
ところが、ある日stさんは、私との議論中、突然「あなたは怖ろしい人だ」というようなことをいって逃げて行き、それ以降、楽山ブログのコメ欄には来なくなったのだった。
私の発言のどれかがstさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う。
 
「急所に刺さった」のではなく、楽山は話し相手にならないという評価です。数か月の遣り取りで、受けて答えるということが、まるで出来ないということが分かりました。本当に、恐ろしい人です。楽山には決して関わってはいけないと思うので、誰も近づかないように、批判を続けています。
 
サスペンスの主人公になりたいのでしょうか。楽山には、挙動不審のため、ドラマの通行人も無理です。コメント欄に書かないのは、じっくり記事に書いたほうがミスが少なくてよいと思ったから。何せ、楽山は、揚げ足取りしかできないので議論の本論が進まない人です。
 
「stさんの急所に刺さったのだとすれば申し訳ないことをしたと思う」・・楽山に、こういう誠意など皆無であることが分かっていますから、また、楽山は嘘を積み重ねたことになります。神は、全てを見ておられます。そこが、信仰の節操があるかないか、ということです。
 
 
*継続中
マリアさんの記事によれば、どうやらstさんの「楽山」監視活動は継続中のようだ。
 
生きているあいだ、異常人格に対しては、監視が必要です。まるで初めて知ったかのような書き方をしているが、続ける必然は、自己愛病質による単方向性で、中身が浅く、理路の通らない反キリストだからです。放置していたら、キリスト教を誤解する人も増えるでしょう。
 
 
恥ずかしながら、私は議論した相手から粘着されるのはこれで三人目である。いや数え方によっては四人目ともいえるかな…。
 
批判するほうが悪いという印象を刷り込むために「粘着」と言っていますが、批判されて何も答えられないのに記事を書き続けるほうが、異常な粘着なのです。何も答えることなく書き続ける・・これは、ふつう出来ないことです。真実と言論への感受性がないのだろうと思います。煽動者かもしれません。
 
 
これは私の言葉がキツくて恨みを買ったのと、粘着質な人を相手にしてしまったためなのだろうが、この点はよくよく反省しなければならないなと思う。
 
すごいですね。ここで、「反省」とか書いています。反省するなら、3年分の記事を読んで既に反省しているはずです。だまされないでください。楽山は、こういう嘘を平気で吐く人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山を、決して自由にさせてはいけません。要監視の危険人物です。
 
 
 
 マグダラのマリアの部屋
 まだ追いかけて批判してた
 2021年11月18日 (木) 
 
 
自称マグダラを一言でいえば、"ヒステリックなばあちゃん" ということです。しかし、ばあちゃんではないかもしれないし、女でもないかもしれないし、自称ヨシュアと同一かもしれないし、楽山と仲がいいなら、楽山の成りすましかもしれない、など、考えることはいっぱいあります。
 
信仰に命懸けみたいな、信仰自慢を吹いていました。こういう態度は信仰自慢になり敬虔に反するとは考えないようです。自称ヨシュアは、教えを守って完全になる行為義認が信仰と思っており、信仰義認など関係ない人です。二人とも、聖書の登場人物の名を名乗っても、傲慢しか見えては来ません。
 
 
まだ追いかけて批判してた。苦笑
私の別ブログの方に、履歴がついて
ブログ名が前のヤフー時代と同じだから、
別ブログに、来たのがわかったのだけれど、
 
このように記事を書いて、正面から批判するわけです。楽山が引用していたから批判しました。自称マグダラが書いたから、今、批判しているということです。逆らうと、豹変して、凄まじい決めつけと、激しい罵詈雑言を、返してくるのが特徴です。
 
 
粘着する、相手を変えて、
まだ延々と追いかけて粘着してた。
 
批判を続けるのは、楽山などが、キリスト信仰について、真逆の、あるいは、支離滅裂のことを書き続けているからです。シャロームshalom、自称ヨシュア、自称マグダラ、などです。批判を続けることを、根拠もなく、自称マグダラも、楽山も、「粘着」と呼んでいます。むしろ敵対であります。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDによる思い込みだけの自己正当化に粘着して、記事を書き続けているのは、楽山です。この男を、好きなようにさせてはいけません。批判できる人は、いつまでも、批判を続けないといけません。それが、今は、私だけという現状です。
 
 
反応しないより、少しでも反応するとか、
記事を書いてるから批判しやすいと思ってるのか、、
 
自称マグダラのメチャクチャな爆発反応でしたから、こちらも、退きました。楽山が引用していなければ、批判することはなかったでしょう。また、こういう記事を書かなければ、ここで批判することはなかったでしょう。聖女のふりをしたら興奮芝居が身についたのでしょうか。
 
 
相手を鞍替え後も同じように粘着してて、
お気の毒に、、。
 
悪口のあとに「お気の毒に」・・相変わらず、軽蔑の偽善の言葉。焼石のようになっているのでしょうか。あの時は、あれで正しかったと思えます。・・楽山に似ている・・やはり成りすましか・・
 
 
面倒なのに目をつけられて、。
ヤフーブログ時代に、、
私も、コメント欄でめっちゃ批判されたけれど、
 
悪口以外、何のレスもなく、「ぷぷぷ」「けろっと」・・が、呆れるほど、印象として残っている。
 
 
自分の場所で言えと、、
出禁を言い渡したり追い返したり、
それでも駄目で、記録はとって、
削除しして、を繰り返してたけれど、。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
だったら、書くなということです。「相手にすると、だめ」は、楽山、シャローム、自称マグダラ、自称ヨシュアも、同じです。だから、遣り取りは止めて、記事に書いて資料としているのです。
 
 
もう3年くらい過去のコメントコピったりして
粘着してて、よく続くなーと、粘着状態を見て呆れた。
 
呆れたなら、説得力のない憂さ晴らしだけの、理路のない愚痴のような悪口など書かなければよいのです。こちらを粘着と言うなら、そちらの書き方は、カンシャクです。破裂したときの、罵詈雑言と喚きは、さすがに閉口しました。
 
 
批判するのが生き甲斐?人生の生きる張り合い?
何も他にすることないのかなぁ。
 
ヒステリックが生き甲斐?、人生の生きる張り合い?、なぜ、楽山を助けている?、キリストの教えから遠く離れたところで自己中で、破裂してくるの自称マグダラ。普段の優しい世辞の筆致とは、かけ離れた豹変・・なぜ、ここで、記事を書くのか。
 
 
生きてる眼の前の人と関わるのも出来ずに、
パソコンの前のネットの人を批判し続ける。
 
ネットのほうが、荒れていますから、目の前で、偽善者の好きなようにさせてはいけないと思って、ずっと、批判しているのです。ネットでは、リアルよりも、平気で書いているからです。楽山がそうです。だから、リアルに「関わることも出来ずに」とか、ネットで書いてくるのは、悪口になります。
 
 
昔、ヤフーブログで、クリスチャン潰ししてた人。
 
偽クリスチャンは、潰したかったけど、現に、シャロームも、自称マグダラも、まだ、いるではないか。さらに、楽山というサイコパスまで、まだ、書くつもりでいるわけです。早く潰れてほしいです。この人には、信仰はおろか、人道もありません。全部、一人の成りすましの可能性もあります。
 
 
クリスチャンらしき人に食いついて
揚げ足取って、言いがかりつけて
批判して、言い負かして信仰心を失わそうとするのが趣味?
 
クリスチャンらしからぬ自称牧師の偽クリスチャンと無神教カルトの病質者である楽山をを批判してきました。揚げ足で出来ているような、浮ついた言で、真となる信仰者らしさが皆無なのです。説得力も皆無なのです。自称マグダラもです。
 
 
本人は正しいことしてると思い込んでるから、やめない。
自分の信仰観を押し付けて
同調する人には穏やかだけれど
そうでない場合は、噛みつく。
 
「同調する人には穏やかだけれど」「そうでない場合は、噛みつく。」・・自分のことを言っているのでしょうか。それに、キリスト者は、ヒステリックになることを恥としています。だから、私は、割と冷静に書いているつもりです。自称マグダラは、豹変する書き方を自覚していないようです。
 
クリスチャンは、正しいと判断して実行しても、正しさは神のものです。自称マグダラの癇癪玉は理路を破裂させてゆくでしょう。私は、誰に対しても、そちらのような見せかけの穏やかさではなく、真剣な気持ちです。傲慢な自称マグダラは、心貧しい敬虔を福音とする信仰とは、真逆です。
 
自称マグダラもだが、楽山は、さらに狡猾さを併せ持ち、あざ笑うような記事を平気で書くから、批判を続けるしかない。楽山が、上の記事を書かずリンクを貼らなかったら、前のことですから、この記事の、この後半部分は、書かなかったでしょう。
 
 
一度噛みつくと、すっぽんみたいに離れない。
噛みつかれた人は、大変ですわー。
 
自称マグダラとは離れていましたが、楽山は弁明できないものだから、自称マグダラを焚きつけています。だから、思い出して「ぷぷぷ」「けろっと」など、わけのわからない怒り方をする人と書きました。なお、楽山の成りすましは多いと思うので、自称マグダラも除外はしてません。
 
自称マグダラは、つながりが長く深いのか、よほど楽山の味方をしたいらしい。わざわざ楽山の狙い通り、火をつけてくるとは・・。やはり楽山の成りすましなのだろうか。ネットを混乱させて、版図を広げようとする者たちを、決して認めてはいけないのです。
 
 
シャロームと楽山と自称マグダラと自称ヨシュアには、何らかのつながりがあるようです。今も活動している楽山と自称マグダラには、決して関わらないでください。決して近づかないでください。キリスト信仰とは、関係ない~カルト~反キリストのインチキです。
 
 
※ 
 
結局、楽山関係は、ネットが、HNが、いかに信用できないかを、インチキブログや嘘ツイッターや、インチキ宗教や、インチキ思想や、インチキ読書の、白々しい実例をもって、伝えているという経過になっています。まとめると、インチキ情報で、ネットが生んだ負の遺産~資料となっている楽山です。
 
 
厚顔のペテン師

厚顔のペテン師
 
 
(2021年)
(2022年12月07日、再録+加筆)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 「ウソの国」サイト
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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はじめに楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
なるほど。
ブーメラン発言を繰り返す人の心理は、こういうものだったのか
>>引用ツイート
自己愛人間被害からの脱却
「何故か自己紹介とすら言える内容で他人のことを批判してくる人」
この人達は自分の問題を自分の問題だと認識できません。自分の悪いところや自分のコンプレックスは相手のものだと認識し、相手を批判します。
https://kinimininaru.com/archives/2616
<<
2022年10月21日
 
「ブーメラン発言を繰り返す」のも、「自分の悪いところや自分のコンプレックス」を相手に向けるのも楽山が典型です。上の楽山のツイートがそうです。自分が言われそうなことを、他者に向けてきます。こういうやり方を持っている人です。実は、無反省かつ無責任の卑怯な陰謀屋が、楽山なのです。
 
どんなに悪質になり、その結果、みすぼらしくなっても、折れないのは、楽山が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからに他なりません。嘘と詭弁と妄想、そして訂正不能で、芝居の丁寧語を使う荒らしであります。騙されないために、決して近づかないでください。
 
最初の頃、数か月、楽山とコメントの遣り取りをして、大いに私は混乱し疲労しました。それで、以後は、批判を3年以上続けています。楽山は、こちらの意見を全く受け取っていません。人の意見を受け取れないのです。決して交流の相手にしてはいけない人です。常識的な理路も、共感性も、皆無です。
 
楽山が、一見、柔和で、中立で、やさしくて、いい人に見えるのは、世辞や、お付き合いの、丁寧語で交流している間だけです。宗教・思想など、真実追求のために、深く掘り下げようとすると、その欺瞞と、虚偽と、無視と、無理解などが表れます。真実を嘲笑う悪魔性と判断しています。
 
 
 
  悲惨な楽山2
 
 「狭き門」ジッド著
 2021年10月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
薄情で無理解な楽山が、また、キリスト教に、いちゃもんをつけてきます。そして、またしても、有名な小説をネタとして悪用しているのです。低劣な人というのは、都合がよいと思ったら、エサにありついた野良犬のように、何でも利用するので、こういう悪意の引用を平気でしてくるという例です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:13-14
狭い門からはいれ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 (マタイ7:13-14、新約聖書)
 
楽山は、いつも安易な道を選びます。この聖句について、とやかく言うより、この「滅びにいたる門」の聖句が自らに向かっていることを知るべきなのです。しかし、今日も、広い門を通って、堕ちてゆきます。悪意と敵意がバレバレとなっている楽山の猿芝居です。
 
 
*狭き門
「狭き門」は何回か通読したことがある作品だが、今回読み直してみたら記憶違い及び読み違いが三つほどあったのが分かったのでメモしておきたい。
*記憶の変換?
まず一つは、自分はアリサは家を出て修道院に入ったとばかり思っていたのだが、それは間違いだったということである。たぶん、アリサの性質からそのように思い込んでしまったのだろう。
*別れの理由
もう一つは、とある本で、アリサはジェロームに本当の自分を知られて幻滅されるのを怖れて、そうなる前に自ら身を引いたという解釈を読み、長らくそのように思っていたのだが、それは間違いだったということである。
 
殆どストーリーの説明がないまま、言いたいことだけを言ってくる楽山です。感想が感想になっていない、劣悪な文章です。楽山が目指しているのは、自己顕示欲からの読書家アピールだけだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が、いつも漏れ出てくるだけです。
 
恐らく、楽山は、本を読むだけの読解力はないと思います。また、平気で嘘を吐く虚言癖のサイコパスでもありますから、読書家気取りだけでしょう。まず、まともに読書することなど、楽山の偏狭で未熟な知性では無理で、だからこそ、見栄を張っているのです。
 
楽山は「解釈を読」んだと書いてあります。「狭き門」自体の感想が改まったのではなく、楽山は、解釈本を読んで、キリスト教批判に使えると思っただけでしょう。このような、下種なやり方で、インテリを気取って、人の良心をおとしめてくる楽山の低劣さを、知ってほしいと思います。
 
 
本作を読んでみるとアリサはとても宗教的な人物として造形されており、そのような考え方をする人物としては描かれていない。たとえば、アリサの日記にはこう書いてある。
おそらく最初のうちこそ、わたくしに対する愛情が、彼を神のほうに導いていたとしても、いまとなっては、その愛情が彼の妨げになっている。
(「狭き門」『世界の文学33』、ジード著、菅野昭正訳、中央公論社、昭和40年、p.245)
 」
わたくしが「自己完成をめざした」のも、ただひとえに彼のためだったような気がする。それなのに、その自己完成にも、彼と離れないかぎり到達できないとは、おお、神さま、それこそ、あなたの教えのなかで、わたくしの魂をもっとも当惑させるものなのです。
(同上、p.244)
 」
本作ではジェロームがアリサを偶像化していることに触れている箇所があるので、とある本ではその部分を拡大解釈していたのかもしれない。
 
小説の中の、一人の女性が結婚を諦めて命を落とすというストーリーによって、楽山は、現実の信仰を否定しようとするのですが、そんなフィクションの話より、現実には、楽山という精神病質者の悪意ある歪曲が、信仰を否定し妨害しているという害のほうが深刻なのです。
 
信仰は人間がするものですから、信仰による自己完成などありません。間違いだらけの自分を正直に祈って神に告白することで、罪の赦しによって、成長可能な人生を歩み続けるのです。完全ではなく成長が大事であり、これは、楽山には全く見られないものです。
 
 
*宗教による悲劇
三つ目は本作には悲恋ものというイメージがあったのだけれども、改めて読み直してみると単純な悲恋ものというよりは、宗教にまつわる悲劇というニュアンスが強いことである。
たとえば、アリサはこんなことを言っている。
「なぜ、あなたはイエスさま以外の案内者を求めようとなさるの?……わたくしたち二人は、それぞれ相手を忘れて神さまにお祈りするときこそ、お互いにいちばん近くにいるはずだとは思わなくて?」
(同上、p.145)
 」
「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるのかしらと思うほど、わたくしは幸福なの……でも、いいこと、わたくしたちは、幸福のために生まれてきたわけじゃなくてよ」
(同上、p.215)
 」
「恋だって、ほかのものといっしょに過ぎ去っていくにちがいないわ」
(同上、p.226)
 」
ジェロームの「きみを見つけられないくらいなら、僕は天国だってお断りだね」という言葉には、次の聖書の言葉で返答している。
「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ伝第六章三十三節)
(同上、p.145)
 」
この辺りを読むと、この悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかないだろう。
 
楽山の悪意全開です。聖書の「狭き門」という癒しと励ましの聖句に因んだ小説を、一部だけ引用して冷たさに見せかけようとします。楽山は、聖書の「せ」の字も知らず、細かいところまで、このような悪企みに満ちている冷血の人です。温かい情感がないのだろうと思います。真に受けてはいけません。
 
楽山は、信仰者がいだく使命感を悪用しています。信仰の使命感が、人間性を、生かすか、思い込みによって滅ぼすかは、個々によって違うのに、悪い例だけを挙げてキリスト教と信仰を全否定する印象操作でです。刷り込み屋は、こう言う卑怯な文脈を造るのです。楽山の悪だくみです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:33-34、新約聖書)
 
楽山は、神の義を求めることを、全部捧げよ、とか、完全になれ、ということだと思っているのでしょうか。それは人間には不可能です。この世の持ち物や関係の全てを捨てたところで、神の義が得られるわけではありません。楽山の恐ろしく幼稚な曲解であります。"罪の赦し" を知らないのでしょうか。
 
一方で、聖書によれば、ただ、ひと言で、罪を赦されて、神の義を与えられることもあるのです。楽山は、神を、先入観で固定しています。つまり、何も知らないで言っているのです。この楽山のように、神と人の、主客を転倒してしまうと、悲惨な曲解になるという例です。
 
楽山は、まともに聖書を読んだこともなく、読解力もないので、敵意の妄想的曲解で「悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかない」という二重否定の曖昧語尾のボンヤリ言語によって、信仰を否定し続けるという極めて程度の低い反キリストです。
 
楽山は、人間にとって、何が大切か、何がいけないことか、個人が切実に求めるものが、まるで分からないまま、水漏れのように、だらしなくクレームをつけています。楽山のように、神の義などからは正反対の者が何かを言って、騙されるお仲間が増えないように、批判しています。
 
楽山の言う悲劇は小説の中のフィクションの話です。個人によって事情も違ってくるでしょう。人の恋愛の暴走が悲劇をもたらすこともあるでしょう。様々な状況で、不完全な人間を信仰対象としてしまうことの悲劇を思います。しかし、楽山の悪意は、それらよりもはるかに悪質であります。
 
ゆえに、一方、はっきりしているのは、フィクションで現実の信仰を否定しようとする楽山の未熟さ低劣さであり、自己愛の病魔から、信仰を否定するようなことを宣伝して、かつ、責任も負わない不全の者の言うことなど、いつでもどこでも信用するに値しないのであります。
 
信仰者が信仰を捻じ曲げてしまうと、様々な弊害があることは、既に、多くの事実によって、明らかであります。しかし、今、ここで、信仰を捻じ曲げているのは、信仰について、何も分かっていないことが、今まで書いてきたものによって、明らかになっている冷血非情の人、楽山であります。
 
いつもいつも、うんざりするような執念だけの筆致で、信仰を貶めてくる楽山の鬱陶しさは、目に余るものがあり、あらゆる題材の片隅を擦(こす)って拾ってきては嘲りを向けてくるのですが、一切が、無責任で無反省な発言に過ぎず、楽山の、無知と無恥の病質が見えてくるだけです。
 
 
巻末の解説にもこうある。
アリサの悲劇、それは現実的なものいっさいを拒絶するジェロームのアンジェリスムの所産であり、ここでは神への服従が人間的なものことごとくを封殺していく過程が、『背徳者』を裏がえしにしたカタチでたどられていく。
(同上、p.561)
 」
宗教が自然を捻じ曲げて悲劇を引き起こしたという物語を読んで、宗教に悪感情を持つというのはいささか単純にすぎることではあるが、
 
まさに、楽山が、宗教への悪感情に、誘導しているわけです。このように、明らかにおとしめる目的で書きながら、引用だからと、責任を逃れようとするのが、楽山という男の、嫌らしい処世なのです。腐っても、このようにだけはなりたくないものです。知恵が足りないのに見栄を張るのです。
 
 
宗教は場合によっては人の自然な感情に害悪をもたらすこともあるのは事実であろうし、自身が狭き門に迷い込まないためにも、大切な人を守るためにも宗教との関わり方には慎重を期すことが大切なのだと思う。
 
このように、「場合によっては」「こともある」という弱い表現で「事実であろう」と言ってくるわけです。楽山という偏向して無責任な卑怯者は、こういう表現をもって、出会う人を、ことごとくイラつかせてきました。一日も早く、この無反省無責任男が放逐されてほしいと思います。
 
宗教が悲劇をもたらすのは、楽山のような者が、無理解と偏見と曲解によって、宗教を、戒律や、強迫観念や、毛嫌いや、無責任の否定などの見なしによって、その恩恵から、人々を遠ざける時であり、まさに、不感不応・訂正不能のサイコパスの楽山による日記ブログが企んでいることです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDであるために宗教と信仰の心が全く理解できません。それを逆恨みして、宗教と信仰を否定しようと、陰謀を企んでいる病質なのです。温もりも潤いもない心から、楽山が放ってくる砂まじりの虫か蛇の毒のような文章に惑わされないでください。
 
楽山は、今まで、実のあることなど一言も言ったことがありません。無責任で無反省な発言は、結局、何の意義も作用も持ち得ません。楽山は、何も主張していないのです。どうか、楽山の文章をまともに読まないでください。楽山の空疎で無益な病質しか表れていないのです。
 
楽山の、狭き門を通ることのない、幅広い崖から落ちてゆくだけの、いつも、大事なところをぼかして、笑って逃げてゆく体質が表れており、その逃げ場が楽山ブログであります。決してまともではなく、このような人間がいようとは・・と呆れるばかりです。楽山は、冷静に冷淡に虚言を吐く男です。
 
楽山とは、3年以上前に、コメントの遣り取りをしたことがあります。こちらの言ったことに返せない人です。無視したり、嫌がらせを書いてきたり、話を逸らしたり、似て非なる理路の迷路に誘導したりで、その時点で、人格障害と判断しました。そして今まで、その判断は、覆ることはなかったのです。
 
 
知りもせず気づかないことの腹いせ

知りもせず気づかないことの腹いせ
 
 
(2021年)
(2022年10月23日、再録+加筆)
 
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
  李下と瓜田の巷と地獄
 
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ今日も元気に頑張りましょう
並んだ桃の木の下で
帽子を阿弥陀に被りましょう
大きく手を上げ腕を伸ばしてぇ~
おいちに、おいちに、・・・
さあ紐の解(ほど)けた靴を履いて
西瓜(スイカ)畑に入りましょう
靴紐を結んだらぁ~
大きく膝の屈伸運動
おいちに、おいちに、・・・
蟻の列を見つけたら
せわしく触角を動かして
コミュニケーション
声なき声を聞きましょう
阿鼻の地獄
叫喚の巷
街へ出たなら人の声
人の思いまで聞けたなら
さぞかし騒がしいことになるでしょう
何という誤解
と曲解で出来ている
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ心臓が止まるまで
走らなければなりません
おいちに、おいちに、・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
恥ずかしながら、自分もこれでした。とほほ泣き顔
はじめは「くだらん」と思ったものの、本は好きだったし、HS本は読みやすかったのでどんどん読むうちに、「これは本物だ」と思いこんでしまったのでした。
午後7:52 · 2021年10月4日
 
恐らく、嘘だと思います。楽山は、何ごとにも、本気で打ち込むことはなく、深い興味もなく、努力することもない人だと思います。本物も偽物も分かりはしません。その分、超常趣味で、羽根を伸ばせるとか、人に説教できるとか、かっこつけることだけを狙っているに過ぎないと思います。
 
楽山においては、深く掘り下げる気もなく、浅薄に、一気に努力せずに、できた人と思われたい欲求しかないと思います。本物だと言うインスタント宗教が欲しいのだと思います。だから、深い宗教より、いちゃもんカルトや、おまじないのほうを好むのでしょう。結果は醜いだけです。
 
楽山は、怠慢で、本物志向も思考もないから、気安い思い込みで羽根を伸ばそうとしては、浅さを見抜かれて、嫌われて、結局、学者とスーパーマン気取りの芝居で、独り笑いするしかなくなっているのです。哀れというより、惨めな男です。見苦しいから、早く消えてほしいのです。
 
楽山は、理路が整わず、共感もなく、かつ、反省機能がない自己愛性パーソナリティ障害ですから、何かを学ぶ姿勢もなく、何を言うか、なにをいうか、オレはオレはオレは・・と、自分信仰で自尊心を無根拠に膨らませて語って来ますが、冷静に見れば、軽薄な作り話だけなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ワクチン接種については、メリットとリスクをよくお考えの上でご判断くださいならまだしも、「接種をおすすめしています」というのは軽率ではないですか。
とある看護師にこの件を相談したときに、「こちらから接種をすすめることはできないですけど」と慎重に答えていたので余計にそう思います。
午前7:04 · 2021年10月6日
 
誰よりも軽率な発言をしてきた楽山が、他者を軽率と言っています。前から言っていることですが、楽山には、人のことを言う資格はないのです。それこそ、楽山の被害に遭わなくて済むワクチンなり治療薬があったなら、私は熱心に「おすすめ」すると思います。
 
楽山にだけは関わらないでください。楽山は、本気では何も出来ない、中身のない、薄弱な意志の発達障害であり、病識がないために、自己顕示の悪意のアピールを企みます。うわべだけの丁寧語で、ネチネチと、しつこく粘着して、破れたギョーザの皮のような軽口になります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分の意見を書いて公表するためには、反省は必須であります。「人間の性」と言って、反省しないことを正当化している楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状を表しているに過ぎません。無反省は、いずれ、孤立と離人となって、楽山に表れてくるでしょう。
 
 
 
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  楽山の余計な感想
 
 『私の死亡記事』文藝春秋[編]
 2022年09月16日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、短くて、上手とも思えず、深い考察もなく、なぜ、感想を公開するのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自己顕示欲によって、それが、まともだと、楽山には思えるのでしょうか。思考と意志の異常なのでしょうか。
 
いつものように「すごい」「すきだ」「考えさせるものがある」「さすがだ」で、独自の思想など、一言もありません。恥を知らなくなると、このように、短くて、粗雑な記事を書いてくるという例になります。楽山も、自分の死亡記事でも書きたいのでしょうか。
 
 
本書は著名人が自分自身の死亡記事を書くという企画によるもので、100人あまりが参加している。このような企画を思いついた編集者はすごい。
 
楽山は、永遠に生きるつもりでしょうか。自分自身の死亡記事を読んでも、楽山は自身の、記事にならないかもしれない死亡や、無名の死について考えることがないのでしょうか。深い心がないと、このような、乱暴で雑なことを、ぽろっと書くしか出来なくなるという例です。
 
 
ではその中身はどうかといえば、ざっと見たところでは、ほとんどの記事が自己の業績を事細かに並べ、意識が高く、幸福感に満ちており、いかにも著名人らしい文章となっている。そんな中で中野翠だけはたった二行の文章と墓の絵だけで済ませているのは微笑ましい。この方のユーモアと美意識はすきだ。
 
見れば本のようですが、「事細かに」・・細かだからなんだというのでしょう。「意識が高く」「幸福感」・・何が言いたいのでしょう。いったい何を伝えたいのでしょう。ゴシップ好きの、好事家の、趣味以上ではないところの、雑文を書いて、楽山は、どこに満足できるのでしょう。
 
 
死因については、老衰や病死としているものが多いが、安楽死としている人も少しいる。奥付を確認すると本書の出版は2000年10月となっているが、この頃はすでに延命治療を厭う空気はあったということだろう。ちなみに西部邁の「私の死亡記事」は老いと自死について記されており、さまざまに考えさせるものがある。
 
「さまざまに考えさせるものがある」・・どう考えたのでしょう。それを書かないで、ブログ記事になるのでしょうか。主題は何なのでしょう。楽山は、自分の死について書くのでしょうか。死なないと思っているのでしょうか。また、いつものように、高みから眺めるだけでしょうか。気色悪い。
 
 
最後に本書中でもっともおかしかった文章は、自分にとっては横尾忠則のものだった。それは死んで霊となった横尾忠則本人が霊言をするという体裁になっているのだが、「波動」「送信」「受信」というスピリチュアリズムの設定に則っているところはなかなかに芸が細かい。さすがだ。
 
「おかしかった」で「さすがだ」だそうです。楽山は、人の死に、おかしさを求めているのでしょうか。「霊」「霊言」「波動」とは、HS回帰でしょうか、それとも、スピリチュアル賛歌でしょうか。「芸が細かい」・・どこが細かいのでしょう。「さすがだ」・・どう、さすがなのでしょう。
 
身の程知らずのインテリ気取りの、楽山の、評論家気取りが、有名人について、ふつうやらない自分の死亡記事を書いたことを述べて、述べるだけの記事です。本一冊分を、ブログの薄く浅く短い記事一つで済ませて、何が言いたいかというと、自分の有名人気取りを表しているようなものです。
 
自己顕示欲が強いために、生について、特に死について、何も考えられない人なのでしょう。だから、他者の死についても、遊び道具にして、深刻味もなく、スパイスもなく、褒めたからええじゃろ・・という安易さになります。思いつきだけで、いつも、書いては捨ててゆく楽山です。
 
楽山には、自分の死亡記事は書けないと思います。病質のために、知性と感性がなく、つまり、理路と共感がなく、生も死も考察できないからです。いつまでも、偉くなる夢を見ているのでしょう。楽山の老後と死は、とても恥ずかしいものになるだろう、という予感しかありません。
 
いつもながらの、楽山の、小学生レベルの作文です。これで文章を書いたつもりでしょうか。何が言いたくて書いているのかが、全く不明です。何も求めておらず自己顕示欲だけで書くと、こうなる、という例です。3年以上見ていますが、何の魅力もなく、何のためにもならない駄文への誘導です。
 
騙されることのないように、楽山に、誰も関わらないでください。関わる価値はありません。楽山の自己満足なら、ノートに書いて、机にでもしまっておくべきです。それを見せて、さらには、嘘と詭弁で、誘導し、騙してくるから、楽山は、いつまでも、どこまでも、病質からの、悪質なペテン師なのです。
 
私は、過去に数か月遣り取りをして、こちらの発言を全く受け取れないことから批判に転じて、今に至っています。3年以上批判しても変わらないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDという病質だからです。本人だけが、それを理解できず、ヘラヘラと、正常人を気取って書いてくるのです。
 
この楽山の記事は、自分は読書家で書評もするのです・・ということを顕示したいのでしょう。騙すための世辞は言っても、共感力がない楽山の丁寧語に騙され続けると、楽山の文章に誘導されて、疲労して奴隷みたいになるか、人格が鈍麻して、それこそ、読む人が、おかしくされる恐れがあります。
 
 
拙文の豆まき

拙文の豆まき
 
 
(2022年09月18日)
 
 
 
  人間不信と手袋
 
誰も信じることができない
と君はいう
 
自分だけが頼りかと聞けば
その自分自身が
いちばん信じられないと君は言う
 
信じるに足る人がいるものかと
食ってかかる君がいる
 
君は限りなく零下へ凍りつくことで
冷たさを凌(しの)ごうとしている
冷たさにそれ以上の冷たさで
 
されど君よ
そういう冷たさに耐えるための手袋を
人は全く持っていないだろうか
 
信じるに足る人はいない
しかし逆に全身を任せるように
信じられることに
君は耐えられるだろうか
 
君が誰かを凍りつかせないために
資格のない不遜の礫(つぶて)だが
砕けることが出来るうちに投げておこう
 
絶対零度に人は耐えられないように
絶対孤独もあくまで離人の世界だ
 
氷結しているような孤独でも
人が温もりのゆえに苦しみ
冷たくなろうとすればするほど
冷たさに痛く赤く染まる頬があり
手袋で隠そうとするから
手袋で温(あたた)めている
 
そういう手袋は常に懐(ふところ)の奥に
はにかむように柔らかく用意され
出番が始まるのも終わるのも待っている
 
 
  千巌山・二
 
「血」の果てまで続く復讐
は神様に任せるとして
もう一度ぐらい
行ってみたい 千巌の
お山へ
絶筆かもしれぬ
老人会の落書きを見に
乱暴に刻まれた岩の
下手くそな相合い傘を呪いに
 
景色はしばらく眺めるだけにして
何も書かずに帰って来よう
いずれすべては消されるのだから
もう一度だけ行ってみたい
消えないのは感謝で
消えるのは悦(よろこ)びになる日
 
それぞれの孤独の上に
何も置かない
天と地の山へ
 
 
  氷の泡
 
氷の中の気泡である
身動きが取れない
殻を破ってあげようと
氷を割れば
消滅する
 
氷の中の気泡である
位置は分かるし
見えているようだが
見えるはずはないのである
気泡は空気なのである
 
氷にしたって
求めて取り込んだわけではない
氷は無色透明だ
 
気泡にしたって
望んで入り込んだわけではない
空気は無色透明だ
 
せいぜいできることといえば
出来上がる前の
水や温度と出会(でくわ)したときに
弱いものの常套手段だ
できるだけ小さく
できるだけ多く
できるだけ速く
できるだけ密に寄り添い合って
白い氷にしてやった
 
透かして見ることできないだろう
ざまあみろというわけである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
地獄に堕ちるのが怖くて、やめたいけど、やめられないというのは本当につらいだろうな。
宗教は違うけど、自分もそういう恐怖心に悩んだことがあるから分かるよ。
>>
紀藤久保内弁護士「私たちはサタンではありません/私たちはあなた方の敵ではありません/家庭連合を離れてしまうと"地獄に落ちてしまう"そう信じてやめられない方がいるかもしれません/でも大丈夫です/家庭連合をやめて地獄に落ちた人はいません」霊感商法対策弁連が集会で呼びかけ
<<
午前7:36 · 2022年9月17日
 
今は、すっかり、悪と偽善が身について感じなくなっていることを、楽山は、前は地獄に落ちるだろうと「恐怖心に悩んだ」が、今は、悩まなくなったと言っているのでしょうか。それこそ、罪悪感の欠如であり、自分の悪に気づいていない証拠になります。最近は、証拠になることが多い楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
カルト教祖も、この流れになってるかも。
<<
じゅんご
@jungo_FanMarke
9月16日
嘘をつかれたら「信じてあげる」ことです。そうすると、もっと大きな嘘をついて自滅していきます。
<<
午後7:57 · 2022年9月16日
 
楽山の言うことを信じなくても、楽山は「もっと大きな嘘をついて自滅して」ゆくようです。ふつうの作文も、無味乾燥になって、自己正当化と、正常人芝居に、明け暮れているのでしょうか。芝居では、何の改善もしないし、自分を見ない限り、悪と偽善に変わりはないでしょう。
 
批判の目的は、一般の読者に、病質者そしてペテン師である楽山の存在を知らせて近づかないようにしてもらうことと、併せて、楽山の、ネットの言論での居心地を悪くすることであります。したがって、楽山が批判を読むかどうかは分からながら、見ても、いい気持はしないように書いています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
最近は、短い記事を書くことが多いようです。自分でも、まとまらなくなってきて、長い文章を書くのが面倒になったのでしょうか。くどくど、ネチネチと、長文を書かれるより、そのほうがマシかもしれません。いずれにしても、理路のない賛辞が多く、人格の荒廃が進んできている可能性があります。
 
 
 
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  楽山の悪用3
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、自分を省みることもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、否定だと、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストの楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、つまり、悪魔のように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 
楽山は、信仰を日常感覚のレベルにおとしめて、信じる気持ちが勝っているから続けられるなどと言っています。信仰は絆(きずな)であって、日常の当たり前感覚とは全然違います。楽山は、何も知らず理解せず吠えている格好です。
 
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・いつもの嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言は、結局、全ての良心の敵となるでしょう。信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰には不完全という自覚が必要です。
 
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定してきて、ここで「美しい」「感動的」などと肯定しても、嘘吐きですし、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしているので、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、楽山の狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからのです。楽山の、無反省と無責任から、他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用すると酷い目に遭うという悪意のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この3年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が高じて、悪魔性です。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、醜さを重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、楽山の腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
「自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。」・・自我が病的に訂正不能な男というのは、容易に妄想的に短絡し自己満悦に堕ちてゆくのです。そして、決して、自分の非を認めないのも、楽山に特徴的です。また、ブーメランです。
 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の、だらしなさと嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰と妄想自我は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山の虚妄です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを批判しても自分の間違いを認めたことが一度もない、という楽山には、文章を書くたびに矛盾と詭弁が表れてきて、批判してゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約3年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。もっともらしく整えたつもりでも無思慮と無反省は表れてきます。
 
芝居好きの楽山は気安いことを言っていますが「自分の間違いを率直に認めること」は「頑張って」できることではありません。楽山は、今に至るまで、間違いを訂正したことは一度もありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの嘘吐きという病質によるものでしょう。
 
他者に「頑張ってほしい」などと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 
はてしなく空転する因業

はてしなく空転する因業
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月18日、再録+加筆)
 
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外界
 
失意の狭窄に補えるなら
円(まど)かなる空と雲の
意思があるなら
失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
 
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
 
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
 遠い遠い昔
 「一応働いてもらってるから」
 君は笑いながら言ったのち
 求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
  いつのまにか
 
時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間
 
時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう人はいますね。
事実と信仰がごちゃまぜになって、
自分が信じていることは事実であり、
自分が信じないことは事実ではない、
という思考回路になってしまっている宗教信者とか。
「(引用)
「洗脳」された証拠は、「事実認識」よりも「価値判断」先行することだ。
ポリコレを含めて、これは左右に関係なく、共通している。なんでもすぐに正誤、善悪、美醜といった価値判断を持ち出す。
 」
2022年7月17日
 
事実(あること)と当為(あるべきこと)の混同なら、その典型が、人を無視して、自らの意見を訂正不能にしている楽山なのですが、楽山は、自身のことには気づかない病質者です。そして人のことばかり言って、評論家気取りでいるのです。自意識が未熟で成長しないからです。
 
そして信仰においては、「信じていることは事実」ではなく、事実は出来事を言うことが多いから、信仰の真実と言うべきです。信仰における真実とは、体験と学習から否定できなくなったことで、それなしでは生きることが出来なくなるような、心の支えとなる温もりと潤いです。
 
真実こそ、楽山が、ひとかけらも持っていないものです。だから、信仰を、表面的な事実かどうかでしか判断できないのです。楽山の世界には、しみじみとした深い感慨や感動が何もないので、安い三面記事のような文章を書いてきますが、その辻褄には雑言やゴシップが並び、まるで真剣味がありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、幸福の科学の教えが裏目に出てますね。
一つは、悪霊に操られたアンチが、幸福の科学の活動を邪魔しているというもの。
もう一つは、信仰は絶対に失ってはいけない。信仰を奪おうとする悪霊のささやきに惑わされるなというもの。
「(引用)
「アンチ」を忌避する2つの状況。
1つは、責任転嫁。失敗の責任をアンチに転嫁する。そのアンチは実在あったり時々仮想敵・虚構だったりする。
もう1つは、同調追求。異見を排除し、同調者の集合で安全安心、形だけの共同体を求める。
 」
2022年7月17日
 
悪霊が付いているかのような楽山は、人のことばかり批判して否定します。自分を見ることをしません。異見を無視して、同調者を欲しがっています。しかし、楽山のような病質者は、自分発信が誰にも見られることなく霧散してゆくことが、公衆の精神衛生上、必要です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
怠慢の砂漠に遊んでいるだけの明日を望めない楽山には、一時の快楽をつないでゆくことだけが命なのでしょうか。暇つぶしのような雑な文章で大きな思想を表そうとして、いつも失敗します。全ては、楽山の因業であり、病質であり、刹那の自己満足を得ようとするので、決して関わらないことが大切です。
 
 
 
 『本好きの下剋上 
  ~司書になるためには手段を選んでいられません~』読了
 楽山日記(a)2022-06-23
  を批判。
 
*面白い
『本好きの下剋上』は大長編なので、はじめは一日1ページずつ、ゆっくり読もうと思ったのだが、読みだしたら面白くて止められず、結局、まいにち余暇時間すべてを投入してしまった。
とりあえず通読したけど、すぐには作品から離れられないので、今は特に印象に残った場面をちょこちょこ読み返してる。これも、なかなか楽しい。
実際に読んでみて、なるほど、本作が大人気だというのも合点がいったよ。 
 
この記事の文章には、楽山の感想文の特徴が表れています。「面白くて止められず」「なかなか楽しい」「大人気だというのも合点がいったよ」・・中身のない褒め言葉だけです。長編と書いてありますが、何を、どう読んで、どこに、どう感じたのでしょうか。楽山の「余暇時間」の空疎が伝わってきます。
 
楽山の感想は、いつも、褒めればよいという気安さだけで、世辞を言うのと同じで、中身が何も伝わってきません。本当に読んだの?・・という疑問も湧いてきます。楽山は、ストーリーや文脈を読み取れないのではないか・・と思われてきます。小学校で叱られたほうがいい文章です。
 
 
 
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