ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:成りすまし

 
  的外れの批判(2)2
 
 
前にも取り上げましたが、偏狭な学者気取りの文章です。改めて批判してゆきます。対象は、佐倉哲という人です。独りよがりに一気に決めつけてくることなど、筆致が楽山に似ています。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。佐倉哲は、理解力がないのに、学者気取りで書いてきます。
 
佐倉哲は、楽山と似て、超常を語るのが宗教だと思い込んで、史実性や、辻褄で、否定してきます。おおよそ的外れで、分からないはずの超常を、論理とは言い難い拙劣さで書いてきます。世の中には、信仰も宗教も分からないのに、慢心だけで書いてく傲慢な偏執者がいるようです。
 
こんな人間がいて、様々な気取りで、自己満足のみならず、他者に影響して、他者を巻き込んでくる、というのが、宗教をめぐる現実であることを、警鐘としたいと思います。害と混乱しかもたらさない楽山と、その成りすましキャラが、不幸と災いの伝染者となっているのかもしれません。
 
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
信条や教理を無理に信じ込むことが信仰だという大間違いです。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、共感によって、キリストを好きになり、離れがたくなり、生きる縁(よすが)とすることです。信仰は現実の支えであって、超常だけでは信仰にはなりません。
 
佐倉哲に、理も、無理も、明らかにすることは出来ないと思います。佐倉哲自身が、無理であり、高所大所から言ってくるように見せかける詭弁屋だからです。恐らく、精神が、幼稚で、まとまらないことの代償行為でしょう。そこには、根深い怨念があると思います。
 
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要と判断された場合、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではありません。生きている自分にとってです。人間としての共感や共通や共有はありうると思いますが、事実や史実がどうとかは、本質からは遠く離れているのです。
 
佐倉氏は、超常を信じ込むことが信仰だという先入観のお化けです。だから、言ってることが、いちいち、本質から外れてゆきます。どの宗教のことでしょう。キリスト教にもカルトみたいな人たちは紛れ込んでいるでしょうが、それは、信仰ではないのです。
 
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。そのことを知っていることが信仰の節操であります。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということがあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、佐倉哲のように、正否を理屈で決められる問題ではないので、見当外れも甚だしいです。
 
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。聖書は、人間である私たちのためなのです。その理解が佐倉氏には全くありません。
 
佐倉哲は、人間が誤りなく理解できないといけない・・と言っているようですが、むしろ、同氏のように、正誤を決めつけてくることこそ、聖書の読み方を知らないということです。評論みたいに書いているが、宗教と信仰の理解が、偏狭で、短絡的で、幼稚です。
 
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は、完全になることではありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。佐倉哲には特に無いからです。
 
信仰が必要な人にとって、信仰を全否定することは、出来ません。佐倉哲には、心とか、共感とか、何かを受け取って実感して希望となるものを持ったことがないのだろうと思います。佐倉哲が的外れに断定してきても、それは、子供が、"絶対違うからねーー!" ・・などと決めつけて言い張るのと同じです。
 
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが間違いなのです。言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。この人は、一瞬が永遠と感じることがある、ということも、理解していないようです。ひょっとして時間的永遠と思っているのでしょうか。そういう永遠は、人間には手に負えません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
「永遠の命」を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、考察、そして、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。佐倉氏の文章には、そういう洞察や感受性が全く感じられません。楽山と同様に思考が浅いのです。
 
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、佐倉氏が、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、悪質なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴か道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、ゼロとなります。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、吟味も考察もせずに、悪い例ばかり重ねて論ってきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種根性は、いったいどこから来るのでしょう。佐倉哲にまともな宗教観はありません。
 
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
引用でしょうか。佐倉氏の意見でしょうか。こういう超常の謎解きみたいな考え方をするところ、空想家の楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、楽山と同様、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲からか、言い方だけ、学者風だが、思想の質が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。恥を知らない人々です。
 
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
「かつてキリスト者であった私」・・以上より、嘘臭いです。佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる同伴の縁とすることです。
 
「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。楽山も同様です。丁寧はうわべだけで、決めつけが強く、にもかかわらず、考察と理解力が欠落しており、自己愛性という点でも、楽山に酷似しています。
 
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。佐倉氏は、明らかに、故意に、キリスト教を否定して宣伝しようという意図で書いています。
 
信仰は歴史的興味ではありません。何学でもありません。生きるか死ぬかを問われた人にとって、唯一の支えとなることです。楽山、シャローム、易坊、佐倉哲、などのペテン師たちには、これからも、恐らく理解できないでしょう。共感性と理解力のない彼らは人間性の「魅力」がないからです。
 
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
佐倉市の文章は「鼻をつまんでも」見ないでください。楽山の妄想主張にほぼ同義であります。佐倉氏は、体験入学などしていないと思います。嘘吐きでもあろうと思われる者の学者気取りの詭弁など、関わる時間が総て無駄な徒労と疲労であります。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、カルト教祖願望の強いプロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞だけの、とんでもない人のようです。楽山と同一か、同様の病質と思ってよいでしょう。
 
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを佐倉哲について再確認しています。それこそドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。自己愛性の臭いがプンプンしてきます。恐らく、佐倉氏は、多くの大事なことも理解せずに忘却しているのでしょう。
 
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私のような単一の信仰者がブログを書いています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も嘘だと思います。裏の顔が、いずれ明らかになってゆく人です。
 
「日本が欧米のように成り果てる心配」・・ここで、右翼的思想からの固定観念が見受けられます。欧米を「成り果てる」という言葉で否定し嫌悪しています。丁寧語は見せかけで、相当な危険人物のようです。理路は浅く、感性は鈍く、共感は皆無で、悪意に満ちています。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
考察もなく、詭弁だけで、何も吟味できず、決めつけだけです。佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。同一成りすましでないなら、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、無神教カルト狂祖がいます。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉哲は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。反信仰の訂正不能、最悪です。
 
楽山やシャローム、そして佐倉哲には、文章に魅力がなく、まともを装う詐欺的な、一種異様な詭弁臭と腐敗臭を感じます。関わらないでください。本物を何一つ持っておらず、詭弁で騙して、自己満足してゆく生き方です。楽山一人かもしれないが、この世で、何の真実も得ようとしない者たちです。
 
 
反宗教の理路狭窄 詭弁

反宗教の理路狭窄 詭弁
 
 
(2021年)
(2023年01月09日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
最後のくだりを読むと、不認可とされたのは、HS側が意固地になって役所の助言に従わなかったためだということを総裁自ら認めてそうだね。😁
 
末尾の絵文字は笑い顔です。このように、楽山は、他者をバカにして笑うのが生き甲斐のようです。楽山は、キリスト教をバカにしても、救いのヒントになるような何ものも提示できない人です。書くたびに無反省・無責任の病的ナルシストには宗教的感性は皆無だと、自分でバラし続けています。
 
楽山は、どこに行って何を語っても必要とされないだろうと思います。考えることが苦手なので、評論家気取りで騙そうとします。心を洞察したり、何かを鑑賞する感受性は皆無であることが、この約4年間で明らかになったのに、オナニーのように書き続けている自己満悦が、とても見苦しいのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
楽山は、仲間がいるかのように引用して書いてきますが、実際は、独りの一人なのかもしれません。社会適応が出来なくて、復讐に成りすましているのかもしれません。そういう楽山に振り回されることは、予想以上の、疲労と徒労と、果ては、人格鈍麻~人格破壊をもたらすと判断しています。
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうと言うことです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は、
「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」と言い、
それは、キリスト信仰ではないと批判すると、
「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、
そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」などと言い出し
思いつきで聖霊を持ち出して、自己正当化に悪用し振り回し、中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、決して誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
自由

自由
 
 
(2019年12月10日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま、行進するピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わることが悲劇であります。
 
 
 
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  的外れの批判(2)
 
 
一応、コピペできた文章について、批判してゆきます。対象となるブロガーは、佐倉哲という人です。
 
筆致が楽山に似ていますが、今の時点では、断定はできません。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
無理に、信条や教理を信じ込むことが信仰だという主張のようですが、そこで、既に、間違っていると思います。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、キリストを好きになり、生きる縁(よすが)とすることです。
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要かどうかで判断され、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではなく、今生きている自分にとってですから、人間としての必須の共通や共有はありうると思いますが、個人によって、救いや癒しの言葉が、異なってくるのは不可避であります。
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということもあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、正否を理屈で、決められる問題ではないのです。
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で大事な言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。訂正不能にならなければよいと思います。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。誤りも何も、あるのは、聖書ではなく、私たちなのです。
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は完全になることはありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが、間違いなのです。何も出来ないのではなく、言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。少し、呆れます。永遠の命を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、想像、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、佐倉氏は、相当なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴化道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、著しく落ちます。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、悪い例ばかり、重ねてきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種は、いったい誰なのでしょう。
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
こういう謎解きみたいな考え方をするところ、楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について、何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲なのか。言い方だけ、学者風だが、思想の程度が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる縁とすることです。「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、教祖願望の強い、プロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞を隠している、とんでもない人のようです。楽山と同様の病質と呼ぶ日も近いでしょう。
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを再確認しています。それこそ、ドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私などが、単一の信仰者になっています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も、恐らく嘘だと思います。もっともっと裏の顔が、いずれ明らかになってゆくでしょう。
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。こんなところにも、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、ひょっとしたら成りすましの、カルト教祖マニアがいるようです。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉氏は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。
 
 
教祖願望の詭弁

教祖願望の詭弁
 
 
(2021年12月30日)
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
 
 
(近況)
発熱で入院していた母は、12月29日、総合病院を退院して、元の老人ホームに戻りました。
私は、明けて、1月4日、入院費を払いに行きます。
 
 
 
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  楽山の善人芝居
 
 『生命に刻まれし愛のかたみ』三浦綾子著
 2021年12月11日 楽山日記(LD)
 
 
前川正氏は、三浦綾子さんが、結婚する前に、付き合っていたキリスト者のようです。前川正氏は、1954年に死去。(ウィキペディア三浦綾子より)
 
楽山の、世辞の、きれいごとです。今までも、詩のつもりの言葉で、丁寧語で、ボンヤリ言語で、トホホ言語で、言い逃れのための白々しい褒め言葉を「ただただ」じゃからと使いまくっています。
 
本書は前川正氏の書簡、日記などを収録した遺稿集である。これを読むと氏は生身の人間であり、男であったことがよく分かる。もちろんだからといって氏への尊敬が薄れるということはない。むしろ生身の人間として、男としての悩みや苦しみを背負いつつも、あれほど高潔に生きたのだと思えばますます尊敬しないではいられないくらいである。
 
キリスト教と神を否定している楽山が、よくも「尊敬しないではいられない」などと書けるものです。前に書いたと思いますが、嘘を吐けば、楽山の履歴が、嘘を暴くことになります。他者を利用しても、自己愛に利用するだけで、誰も尊敬などしたことのない楽山です。世辞を書いても無駄なのです。
 
人であれば病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり、気の利かない看護者に怒鳴り散らしたり、恋人には未練たらしいことを言い募ったりしたとしても致し方ないことである。
 
楽山は、「病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり」しているようです。誰にとっても必要もなく役にも立たない意見を、執拗に書いて、安い言葉でヒューマニズムを気取って、粉塵のように、邪悪な正体を煙に巻きたいのでしょう。
 
けれども氏は最期のときまで看護者への思いやりを忘れなかったというし、恋人に対して紳士的な態度を少しも崩さず、その将来を気遣った手紙を残しているのだから感動せずにはいられない。
 
「感動せずにはいられない」・・同様です。自分の本心からのメッセージを書けないので、尊敬、感動、というような陳腐な言葉しか思いつかないのです。そして、他者への「思いやり」などの高等感情を持たないので、その言葉を並べることしか出来ません。だまされないでください。
 
また氏は優れた能力を持ちながらも、それを存分に発揮する機会を得られず、両親に孝行したくともそれも思うようにはできない状態のまま逝かねばならなかったのである。この無念さはどうだろう。氏はこういう状況に陥っても、決して捨て鉢になることはなく、自身の努力を続けつつ、他者をもいたわっていたのだから、これにはただただ頭を垂れるほかない。
 
「ただただ頭を垂れるほかない」・・楽山の、こんなにも人を尊敬できる自分は優しい人という嘘のアピールです。「ただただ」・・などと、大仰に書いて、真剣さをアピールしても、ただただ、純粋な人たちを、手のひらに乗せて玩び、自己愛のために悪用して、貶めているだけなのです。
 
自分は虚無主義者とまでは行かないにしても、厭世的、悲観的なところが多分にあるのだけれども、前川正氏のような人が存在したのであれば希望を持ってはいけないということはないようにも思えてくる。なんだか『道ありき』を再読したくなってきた。
 
虚無でも厭世でも悲観でもなく、楽山は、邪悪なだけです。だから、今回も、自分を高めるためにだけ、書いています。反省せず、責任を負わず、嘘と詭弁で人を惑わし、悔い改めのない楽山には、希望は、欲望と企みだけがあって、生まれようもないのです。
 
とうに偽善はバレているのに、まだ正常な良識の人を気取る楽山の言は、どんなに、善人ぶって書いたとしても、言葉に三文芝居の安いセリフしか書けないという大根役者ぶりです。見るも無残な駄文です。いつまで、腐った人間像の典型を、得意げに表してくるのでしょう。
 
今までの、反キリストとしての、キリスト教と神を冒涜したことを、反省も修正もしないで、このような記事を書くことが、むしろ証拠となって嘘がバレているのです。楽山はこれからも、似たような記事を書くでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は凶悪です。
 
ありふれた言葉を並べるだけで、心を表せない楽山です。批判者を怒らせたいのでしょうか。こちらは、駄文という評価を貼り付け続けるだけです。楽山は、一生、安い芝居を続けるのでしょう。楽山が無視しているところで、楽山の偽善の悪臭が、楽山を否定してゆきます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
この例え話では、善人ぶる高慢が偽善という救いがたい最悪であることを、キリストは伝えています。聖書をを学習すれば、嘘吐きが「尊敬」「感動」「希望」などという褒め言葉を使って、何も反省せず、悔い改めることなく、きれいごとを並べていることも分かってくるでしょう。
 
 
偽善臭

偽善臭
 
 
(2021年12月13日)
 
 
 
inotiyorokondeiru’s blog「命が神?仏?」2021-12-11 
https://inotiyorokondeiru.hatenablog.com/entry/2021/12/11/170000
 
「命よろこんでいる」という言葉は、心で唱えてみると、なんとなく、命に励まされているようで、心が落ち着いて、安らかに温まる感じがするので、優れた言葉です。人知はバカにはできません。
 
そして、信仰に必須なのは、知識や理屈ではなく、共感です。
しかしながら、
 
>神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか。・・・
>又、失敗ばかりする人間を創った責任はどうするのでしょう。
>絶えず争い合う人間をなぜ創ったのでしょう。
 
この、信じてもいない神の責任を問う高慢は、どうでしょう。楽山に似ています。こういうことだったか・・と思い、かつ、驚いています。楽山のツイートに、「いいね」を入れたこのブログ主は、楽山の仲間でしょうか。楽山の成りすましでしょうか。陰険なところも似ています。
 
すでに書いてきたことですが、神の辻褄が合うから神を信じるのではありません。このブログ以上の、支えとして、絶対孤独からの解放を与える祈りの信仰だから信じています。そういう真実をまるで理解しないで、神を人の辻褄で判断してくる無理解の楽山に、宗教を語る資格はありません。
 
このブログ主については、同じようなことを繰り返すかどうかによって、正体が分かってくるだろうと思います。楽山と社交の丁寧語だけで付き合って、だまされている人か、楽山の仲間か、それとも、楽山自身、即ち、HNを変えた成りすましなのか。
 
楽山の病質の根深さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。楽山は、もはや、生きていない、人間らしく生きる活性など持っていないと思います。命も、神も、人も、命も、よろこんでいない楽山です。極めて悪質だと思います。匿名のネットは、悪の巣窟ともなりえます。
 
人は、生き方を選択することは出来ますが、成り行きを決めることは出来ません。だから、成り行きは、神の導きだとしても、神がどうするかを、人は知りません。そこで、知りもしないし抗えもしない神に、恐れもしないで責任を問うか、神を仰ぎ神に祈るかが、分かれてくるのです。
 
 
 
  「それ」からの手紙
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
映らない夜が行きます
 
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  正当性
 
熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
 
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
 
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
 
いわれもない念仏
永遠によみがえることはあるまい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山の病質の根深さと狡猾さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。
 
 
 
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  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
(3)から先にアップします。私のことが書いてあるからです。
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。
幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」
 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約2年半くらい?経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントなのでしょう。それを、見事に裏切ったのが、楽山であります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、神様にも、人にも、申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。この二人がいるために、私の批判は、やめてはいけないものとなりました。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。シャローム shalom と楽山という、ひどい偽善者に、誰も、私のように、だまされてはいけません。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、"名無しの猫" などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
 」
 
ここについては、ヤフーブログ時代の、キリスト教を名乗るカルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という冷血の行為義認を信条とする間違いだったので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。そのことを、楽山は、全く理解できませんし、理解しようともしません。自己愛性パーソナリティ障害NPDだからでしょう。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。ふつうに言われる正義と、信仰の義は違うということです。
 
信仰の義は、神の前に正直に祈ることです。人の前ではありません。単なる善でもありません。ゆえに、娼婦も、不倫を犯した女性も、十字架上の犯罪人も、救われました。彼らは、キリストの前に、隠し事をしなかった、できなかったからです。楽山とは真逆なのです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。楽山みたいに、過去の罪を忘れて同じことを繰り返し言うだけの廃人にはならないようにという動機で批判を書いています。
 
*自分教
これはおかしなことになっている。
キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。
 
教会に入っていません。集団が苦手だと判断したからです。聖書は、折に触れて、ネットで読んでいます。聖書も全部読んではいません。祈りは、折に触れてしています。しかし、このようなこと、信仰者でもない楽山に、とやかく言われる筋合いはありません。
 
それに、教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観は、ひどいものです。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、思いやりや配慮など全くできない自己愛性人格障害であり、冷血、かつ、とても情けない人なのです。
 
*ダブスタ
ここもおかしい。
こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。
 
「ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった」・・どういう一部だったのでしょう。そういえば、ヤフーでは、楽山やシャロームshalom以外にも、いろいろなHNの荒らしが攻撃してきました。しつこいのもいました。特徴的に、訂正不能の罵詈雑言でした。
 
その荒らしのHNをあげてみると、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。楽山のハケ口なのでしょうか。
 
罵詈雑言は、自称ヨシュアと自称マグダラマリアも、同様です。
 
小芝居が得意なつもりらしい楽山は、他人に成りすますのが好きそうですから、ひょっとして、これら、荒らしとカルトのHNも、全部、楽山の自作自演ではないかとさえ思えてきます。
 
ヤフー時代の、スクリーンショットからです。今になると、ひょっとして、全部、楽山の成りすましではないかと、今は思っています。楽山が、この記事もそうですが、思っていたよりも、凶暴だと分かったからです。でっち上げの悪口ばかりです。
 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私がシャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。シャローム、楽山、易坊、という3人も、同一の成りすましではないかと疑っています。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきて、文句を言っているだけなのです。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。
 
LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。
 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。ああでもないこうでもない、という感じで、中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。
この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。
 
これも侮辱と言っていいでしょう。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった低劣な楽山です。
 
*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。
 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。
 
そして、この1年半、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。
 
ですから、批判対象を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。
 
(自称マグダラマリアの記事より)
【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。楽山が答えないし改めないゆえに長く続いている批判を、自己愛性人格障害の楽山は、ストーカーと、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ訪問者に、楽山の不正を継続して説明する記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。
 
・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。
 
自称マグダラマリアは、上では、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「けろっ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。
 
*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。
 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、「たどり着いた」つもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 
*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。
 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれると言っていました。要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではない。謝罪しろとも言っているが、身に覚えのないことだから謝罪はしない。私は、むしろ、自称ヨシュアも、自称マグダラマリアも、楽山ではないかと思い始めています。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。楽山は、こちらを攪乱したいのでしょうか。無駄だと思います。
 
これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。
 
私は、粘着ではない。楽山をはっきり否定している。くどくど、長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。ここだけ、こちらの肩を持って冷静を装う・・狡猾な楽山です。
 
もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがないと言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、思いやる、ということが出来ないので、他者の身になって考えてみることも出来ず、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。ゆえに、味方したようで、そのあと、逆方向のことを書けるわけです。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せているだけです。粘着ストーカーではなく、どこまでも無視して逃げる犯人を追いかけています。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。ねちねち粘着して、女々しい当てつけを書いてくるのは、無反省・無責任の楽山であります。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、「反省。」という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても、なんて姑息な。楽山の、言葉の字面だけの「反省」で実質がないのは、あざ笑いを向けているのと同じです。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
光ではなく暗黒のテカり

光ではなく暗黒のテカり
 
 
(2020年09月04日)
(2021年09月05日、再録+加筆修正)
 
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
ぽん吉さんは、またアンチ諸氏に向けて、無闇に大砲をぶっぱなしまくってる。
一匹狼は悪くなかろうが、カルト批判という立ち位置は同じなんだから、もうちょい協調姿勢をとってもいいのではないかと思います。
午後10:15 · 2021年9月3日
 
大砲をぶっぱなすのは分かりやすいわけですが、楽山は、例えば、水道に毒を混ぜるような陰湿さで侮辱を忍ばせてくるから、より悪質であります。また、楽山は、協調姿勢に見せかけて、責任は一切負わないわけですから、結局、何かの役に立とうという気もないのです。
 
だから、自らの虚無を、教えるような忠告するような書き方をして、共同者のふりをしてきます。実際は、自己愛性人格障害なので、仲間でも、協力者でもないということです。結局、それは、いつのまにか、関わる他者を裏切ってゆくことになり、実質、逃げ回っているのが楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
それは申し訳ない!
世の中には、さみしいから他人を猛批判する人もいるという話を聞いたことがあるので、
もしかしたら、ぽん吉さんもそうかも知れないと勘違いしてました。
午後10:37 · 2021年9月3日
 
このように、楽山は、他者同士の争いに、客観的で冷静なふりをして、興味本位に、口を出してきます。そうすることで、楽山は、自分自身の問題から逃げているわけです。楽山は、ずっと、そのような態度ですから、信頼など、決してできないことを知ってほしいと思います。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
 >金太郎飴に非ず!
マジレスすると、ぽん吉さんみたいな強烈な個性をもってる人は、金太郎飴になろう、みなと同じくしようとするくらいが丁度いいんじゃないかな。
これだけ強烈な個性をもちながら、さらに「金太郎飴に非ず」として個性発揮に力を入れたら、周囲は全然ついていけなくなるよ。
午後10:51 · 2021年9月3日
 
同じようになってくれたほうが、楽山には都合がよいのでしょうが、余計なお世話のように思えます。余計なことは言うが、必要なことはしないという楽山の特徴が出ています。個性的な人の心配をするより、差し迫って、恐らく誰も全然ついていくべきでないのは、楽山その人です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ぽん吉つながりで、へのへのさんのことが話題になっとる…。
老婆心ながら言っとくけど、彼について迂闊なことを書いて逆鱗に触れてしまうと、ずうっと粘着されることになりかねないから、そこは注意した方がいいよ 顔文字(赤くなった顔)
午後10:05 · 2021年9月3日
 
少なくとも、ネットにおいて、理解もしていないのに言いたい放題に言って、あとは無責任に、平気で無視している楽山は、何の注意も払っておらず、その分、立場も何もあったものではないのです。老婆心か爺心で意見して反省もしない楽山は、赤裸になるまで逆鱗に削られてゆくでしょう。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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