ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:成長

 
  良心4
  
 過去記事「良心」+加筆
  に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。人間としての知性と感性を捨てて信仰は成り立ちません。人知を捨てて有頂天に従うのはカルトのやり方です。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
 
信仰によって良心が成長するのは、人が、自らを神より低いと自覚している場合です。また、人間の良心に、神の導きはあるけれど、人は、それを確定できません。ゆえに、聖書の言葉を唱えればよいということではなく、御言葉を自らの人生において考えることが大事なのです。
 
神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。人に理解できない魔法のような奇跡を期待することは、信仰ではありません。
 
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は、神への冒涜というより、祈るとき既に、神によって見抜かれています。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰だから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖に捧げるものが、神聖に対する決めつけであれば、神への冒涜です。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定はできません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総ての結果をご存知の、神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
良心のない一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。人間の良心は、信仰者であっても、完全ではないということを、私は書いてきました。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、実際は、自分の自由意志の選択と判断で行動しています。自分の言動を神の御心で正当化するのは、背教ということです。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰ではありません。私たちの言動は、祈りによって、神に前に捧げるものであります。でないと、自分が、神の意志を代行するかのように思い上がります。できる努力をして、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこととして聖書に親しみ聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、完全とはなりえない自覚をもって、精いっぱいの自分の良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえない私たちに、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、信仰は、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。祈る時の飾りのない心の比喩だと思います。
 
聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、人間として良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだという自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを弁えています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。良心のないところに信仰はありません。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっておらず、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からないのです。反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。彼らに論などありません。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
神は完全なる御方として信じています。人は完全を知らないので、完全なる神を恐れます。神を信じる理由は、神に比べて人間は不完全だという自覚を持つためです。そこに、過剰な熱は取り去られ、祈りが生まれ、命が生まれ、成長が生まれます。
 
万能や超常を語る宗教と信仰は、神を知りません。シャロームや楽山などの、偽牧師や反キリストの無神教カルトは、自分を神?として、その醜さだけを表す因業の路程をうろつきます。彼らが語り否定する神?は、キリスト信仰の世界の、どこにもいない神?=言葉=概念=紙なのです。
 
牧師気取りのシャロームも、学者気取りの楽山も、玩具の遊び方のような幼稚な概念しか持っていません。似たような無神教カルトが他にもいるようです。騙されないでください。人間に完全な境地などありません。その自覚が、地獄のような巷(ちまた)から、人間を救うのです。
 
 
 
人間としての正しさを

人間としての正しさを
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月25日、再録+加筆)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  修正可能4
 
  2018年11月25日
 「修正可能」を修正再録。
 
 
キリスト教に傾倒する人で、しばしば完全なる成就が一気に自分のものになることを、そして完成して揺るがない平安を他者よりも早く欲しがることがありますが、そういう悟りの境地は、有限で成長可能な人間性に、そぐわないもので、人間の獲得するものではないと思います。
 
私は何度も、修正可能ということを強調してきました。キリスト信仰は不変の境地ではなく、成長するための道だということです。修正可能は、一般的にも、成長するためには必要なことです。修正可能だから成長可能になるのです。
 
とりわけ信仰については、人は不完全であるがゆえに修正可能こそが神の恵みだと思っています。もちろん、人間に分からないところで神の導きもあるでしょうけれど、人間が認識できる恵みとしては、恵みを受け取る人間側の条件として修正可能の心掛けだろうと思います。
 
そして何よりも、悔い改めこそ他でもない修正なのです。何度も何度も、欲から神への生きる主軸の修正です。その機会が一生を通じて与えられていることは、あるとき間違えて、ふてくされて神のもとを去ったとしても、いつでも悔い改めることで、戻ることが許されているという恵みなのです。
 
キリスト者になるとき、洗礼を受けるときには、私の経験から言うと、罪について殆ど分かっていなかったと思います。教えられるから認めることにした概念のようなもので、やさしい神様、やさしいキリスト、そのイメージと一生付き合うという決意のようなものでした。
 
洗礼によって自分が俗人と違う特別の存在になったという自己神格化みたいになってはいけません。神の民となることは、より御心に適う人間として成長する、という人から神への、決意の意志表示であり、洗礼の神秘つまり神の秘密については、人は知り得ないのです。
 
信仰は完成ではなく成長です。信仰者になって、悟ったかのように思い込み、のぼせ上がり、預言者気取りになって、思考が誇大的になり、世界を相手に、それこそ天国から物を言いそうなほどの有頂天の陶酔気分が、若かった私にはあったような気がして、反省しています。
 
つまり修正可能は、すなわち折々の悔い改めであり、微々たるものであっても成長であり、キリスト者になってから、ますます必要になってくるということです。悔い改めは、一生にわたることですから、信仰告白と洗礼で、完成して済むということはありません。
 
偽牧師シャロームshalom のように、悔い改めをしなくてよいなどというのは、まさに人が神に成り上がろうとする背教、そして、反逆に他ならないのです。そして、それに賛同したのが、楽山であり、何も分かっていない証拠となります。楽山とシャロームは、反キリストであります。
 
神の民になったから完成ではなく、完全になるわけでもなく、目指すべきは、信仰者として、即ち、人間としての成長であり、学習による修正可能すなわち悔い改めが、さらに必要であり、その機会と、そうしなければいけない機会とが、恵まれてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として、訂正不能に信じ込むことをしてはいけません。解釈は人の解釈であり絶対ではなく、学びの糧以上ではありません。変わらないのは、神聖であり、人ではありません。そして、人においては、同じ言葉も、聖書と体験を通して、その都度、新しくなってゆくのです。
 
自分の生きる力になることを、体験と祈りから、時々に受け取ってください。たとえその後に人が道を踏み外すことがあっても、神は、いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。人間が勝手に固定してはいけません。祈りも、信仰も、恵みも、みな、生きているのです。
 
洗礼の機会も大事ですが、信仰を問われて受洗証明みたいな書類を出してくるようなカルトもいますから、もはや洗礼は人にとって信仰と告白の出発であり、完成とか到達とかの意味ではありません。はっきり言えば、洗礼の有無にかかわらず、悔い改めるとき、そこに信仰があるという証なのです。
 
生きていて、陰性の感情が激しくなるとき、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、失望、絶望、それらのときに正直な祈りのうちに慰めと癒しを得て、悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは、キリスト者の義務というより、神が誰にでも与えている恵みであります。
 
正直に祈る人は、祈りを聞いておられる神によって、改めて癒しと赦しを与えられ、神と人の双方向の絆に包み込まれ、秘密のうちに恵まれる温もりと潤いによって、愛と共感の悔い改めを通して、心と体の、新しい時と所へ導かれるでしょう。
 
前に引用した聖句ですが
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
私は、社会的には落ちて堕ちています。仕事も出来ず、心身の病気も患って、老化して、今以上に、よいことがあるとは思えません。この地上を去る時を待っているような暮らしです。ただ、正直に祈ったときの解放感を忘れられないので、できる唯一のこととして、ブログを書いて過ごしています。
 
 
信仰は成長

信仰は成長
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年12月13日、再録+加筆)
 
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように
 
要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
「 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般にあることみたいに、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などに必要な高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山は、極端に走るのがよくない、ということを言っていました。つまり、自分は極端ではなく、バランスが取れて柔和と思っているのでしょう。その前提に自分を置いている既に人格の偏奇なのです。楽山は、自己愛によって、無反省な訂正不能の極端さを示してきました。
 
殆ど死んでゆくしかないようなほど傷ついた魂を癒すのが信仰で、その体験を持つ人は、楽山のような自己愛性人格障害から語られる神?についての反証めいた机上の理屈など、何の意味もありません。ただ、楽山の婉曲な丁寧語を受け続けると、ひどい疲労か、さらに、人格破壊に至る可能性があります。
 
楽山が嘘と出まかせを広めることに対して、できることをするのが、信仰者の務めです。批判をする普遍的な必要性は、楽山の、一見まともで、付き合えば付き合うほどに疲労しか与えない無反省と無責任とキリスト教の曲解を指摘し否定し、情報を敷衍(ふえん)することにあります。
 
一生の間に、楽山のような病質人格に出会わないならば、それだけで幸福だろうと思っています。出会ったからには、半端な根性では乗り切れない攻撃性を、楽山は、結局、表してきます。それは、人が傷つくのを見て得意になるサイコパスならではのことなのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは信者あるあるですね。
信者は、自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき、
「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」
といって事実と向き合うことを避ける。
これを乗り越えてこそ、本当の信仰者になれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する。
 
楽山「あるある」です。楽山は「自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき」「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」と、現実と向き合うことを避けるのです。そうして、自分を見ずに、正義の味方気取り、助言者気取りで、今日も、罠をかけ続けます。
 
今日も、人のことばかり言って、「これを乗り越えてこそ、本当」に「なれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する」ので、なおも、オレがオレが・・を、書き続けるのです。しかし、楽山は、何も乗り越えたことはないから、楽山は、何の助けもにならないのです。
 
信仰の敵である楽山に「本当の信仰者」は分かりません。楽山は自我の欲望の奴隷です。何も「乗り越えて」いません。楽山は自分の「事実と向き合うことを避け」て逃げてばかりいます。「信者あるある」があれば、楽山のように "亡者あるある" もあるということです。楽山に騙されないでください。
 
 
 
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  修正可能(改)3
 
 
信仰を語る上で
私が何度も強調してきたことに
修正可能ということがあります。
 
人生の学習を可能にすることであり
これは一般的にも
成長するためには必要なことです。
 
罪を認める、悔いる、
祈り、告白する、赦され癒される、
 
反省する、学習する、成長する、
ゆえに、修正可能であります。
 
これらが、個人の信仰において、
密かに起こり続けます。
 
とりわけ信仰については
これこそが神の恵みだと思っています。
むしろ
これだけが神の恵みなのかもしれません。
もちろん
人間に分からないところで
神の導きもあるでしょうけれど
人間が認識できる恵みとしては
唯一だろうとも思っています。
 
そして何よりも
悔い改めこそ他でもない修正なのです。
 
その機会が一生を通じて与えられていることは
あるとき間違えて
ふてくされて神のもとを去ったとしても
いつでも悔い改めることで
すなわち
苦難も罪も正直に告白することで
神のもとに戻ることが許されているということです。
 
 
ある偽善者の言:
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」
 
悔いる必要も改める必要もないのは
唯一絶対の神だけであるのに
その神に対して
人が悔い改めをしなくてよいなどというのは
まさに人が神に成り上がろうとする背教
そして反逆に他ならないのです。
 
 
キリスト者になるとき
洗礼を受けるときには
私の経験から言うと
罪について殆ど分かっていなかったと思います。
教えられるから認めることにした概念のようなもので
やさしい神様、やさしいキリスト、
そのイメージで一生付き合うと決めただけなのです。
 
悟ったかのように思い込み
のぼせ上がり
預言者気取りになって
思考が誇大的になり
世界を相手に
それこそ天国から物を言いそうなほどの
有頂天の陶酔気分があったような気がします。
 
つまり
修正可能は
すなわち折々の悔い改めは
キリスト者になってからも
ますます必要になってくるということです。
 
神の民になったから完成ではなく
完全になるわけでもなく
目指すべきは
信仰者として人間としての成長であり
ゆえに修正可能
すなわち悔い改めは必要であり
その機会と
そうしなければいけない機会とが
必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として
信じ込むことをしてはいけません。
 
聖書の言葉を忘れないのは善いことですが
聖書の言葉だけを
繰り返しておれば信仰というわけではありません。
聖書の言葉は知性と感性の糧(かて)です。
 
聖書は神の言葉でも
人間が人間の概念で
固定して良い言葉ではありません。
 
人間は
人の言葉の知恵しか持っていません。
ゆえに
聖書の言葉を繰り返して
信仰のつもりなら
人の知恵の概念を繰り返しているだけです。
 
人間が神の言葉を受け取るときには
考えることを忘れてはいけないのです。
キリストに共感することが信仰です。
 
自分の生きる力になることを
時々に受け取ってください。
たとえその後に人が外れることがあっても
神は
いつでも悔い改めの正直な祈りに答えて
帰りうる道と機会を用意しておられるということです。
人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが
洗礼は人から神への決意表明です。
信仰を問われて受洗証明みたいな書類を
出してくるような人もいますから
洗礼という儀式は絶対ではないと言わざるを得ません。
 
それよりも
善悪問わず陰性の感情が激しくなるとき
怒り、憎しみ、恨み、
悲しみ、失望、絶望、
それらのときに祈りのうちに
慰めと癒しを得て
悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは
キリスト者の義務というより
神が誰にでも与えている恵みであり
はっきり言えば
洗礼の有無にかかわらず
そのときそこに信仰があるという証(あかし)なのです。
 
全知全能の神はそれを見逃すことはないということです。
 
それが全知全能の恐るべき神でありながら
愛の神とも言われる所以であります。
 
救われる条件は
ただ神の前で
本気で精いっぱい正直に祈ることだけであります。
 
全知なる神は
それ以上を人に求めることが無理だということを
すでにご存知であります。
 
ゆえに
悔い改めは
信仰の修正可能と成長を表しています。
 
 
修正可能

修正可能
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年10月04日、再録+加筆)
 
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
 
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
 
頭の中に靄(もや)のように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
 
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
映して小さなバラ色だ
 
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
 
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
 
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りて
また一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
水子といえば、丹波哲郎の話を思い出す。
霊にとって天上界はいいところだから、困難だらけの地上に生まれなくていいとなれば、さっさと天上界に還る、だから水子はいないし、たたりもないという話。
人は天国からしか生まれ変わって来られないとすれば、確かにそういうことになるよなとは思う。→
午前9:57 · 2021年9月23日
 
大霊界の丹波哲郎と、HSの教義の話に、相づちを打っているような楽山です。「確かにそういうことになるよな」・・本気でしょうか。死後のこと、誰が知っているというのでしょう。楽山が、どっぷりカルトの超常話に浸かっているのが分かります。今までずっと超常の沼に棲んでいるのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS教義では、幼くしてなくなった魂は、天上界の保育施設で大切に育てられるとしていたように思う。
地上の両親の気持ち…産み育てることができずにごめんなさい…は、天上界の子供にも伝わり、慰めになるとも。→
午前10:03 · 2021年9月23日
 
「天上界の保育施設で大切に育てられる」・・上と同じような超常話を続けています。HSを批判するのではなく、HSはこう言っていると、説明しているのです。影響が抜けていない証拠でしょう。というより、楽山こそは、そういう話をしたがる人なのです。誰よりも超常志向なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
こう考えると、水子供養のための特別な儀式が必要だとか、水子の祟りだとかは、スピ的にも、その影響を強く受けていた初期HS教義からも、ちと違うんじゃないかと思う。
午前10:10 · 2021年9月23日
 
人に分かるはずもない超常を前提に信じ込む楽山だから、「ちと違うんじゃないか」程度の言い方になります。「水子供養」「水子の祟り」「スピ的」「初期HS教義」という言葉が抵抗もなく並びます。いずれ教祖になりたいから超常話に肯定的になるというのが楽山の本性だと思います。
 
スピ系とも言っていますが、楽山に、そういう、はっとさせるような悟りの鋭い感性など、一度も表れたことはありません。欲望だけの根暗の陰謀の、湿ってヌルヌルした、どす黒い泥水のような、臭い作り話ばかりが、秩序もなく共感もなく、楽山の口から流れ出てきたのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が、大事なことだと、全く思ってない楽山の履歴が続いています。「だよなあ」という言い方に騙されないでください。楽山は、知性も情緒も意志も、学習することなく、我欲だけで、言い張りを続けている人格異常者、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)です。
 
 
 
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  謙虚3
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ません。これは地上の人間にとって真実であります。したがって、神を、・・のはずだとか決めつけて、自分に都合が悪いからと否定するなどという無神教カルトは成り立ちません。
 
しかしそう言いながら、解釈においては、人にとって常識的な論理つまり知性を用いて、また良心に基づいて、人は神との関係を考えることが出来ます。それが神を知ることだと語ることも出来ます。それは、神の絶対と、人の不完全を弁える人において、良心があれば、可能です。
 
ここまでは「信仰の原罪」と呼ぶべきかもしれないが、人間にとって不可避です。信仰者にとって生きるために必要だからです。聖書の言葉だけを繰り返すだけで無思考の真実に至ることなどはないからです。聖書にて神は・・こう言われています、という書き方になるかもしれません。
 
信仰は、神を理解することではなく、キリストの命を賭した愛と共感をもって、神を信じ仰ぐことであり、神に、正直に祈ることです。人から、神への、唯一の音信であります。
 
しかし、神との関係を持ち、神を知ったと思う者が、やはり常識的な論理の言葉を用いていて、つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに、様々な個別の出来事や事柄を、人知の及ばない秘め事であるのに、神の行為と結びつけて判断し、確信の固定をもって伝え広めようとするのは不遜であります。
 
それは、聖三位と同等の振る舞いになり、神と人に対して明らかな傲慢不遜であります。
 
神のしもべであっても、様々の驚くべき出来事について、しもべは、主(あるじ)が人知を超えた御方であることを知るゆえに、信仰をもって、主を恐れ、主なる神の行いについて、しもべの浅知恵や限りある経験によって、断定することをも恐れるべきであります。
 
慎ましく受け取り、人は、間違いのない神とは違うのだから、確信を持って声高に語ることをせず、慎ましく語り、包み隠さず正直に祈ります。少なくとも都合の悪いことに目をつぶったり耳を塞いだり口をつぐんだり他者の口を封じたりはしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して、まるで最初からなかったかのように、見せかけたりもいたしません。さもなければ、起こっている悲劇を見聞きしながら、我が身の多幸を感謝して、自分を満たすために、信仰に見せかけた心地よい砦を心に作って固まってはいけません。
 
人間は、成長するのであり、不変になるのではないからです。抵抗しない人だけを招き入れ、自分の解釈に神秘の味付けを加え、自分の花園をこしらえ造花を植えて愛でて満悦するような偽善者になってしまうからです。それは、カルトの萌芽なのです。
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
 
分からないならば分からないと正直に言う、そして正直に祈るのが信仰です。
 
信仰における謙虚、言い換えると敬虔というのは、悟りの境地で完成したと言う立場ではなく、神とキリストを聖書から学んで、成長することを旨とする信仰者の、不完全で罪深い自覚からくる柔和であり、何を言われても笑って受け入れることではありません。神の前の正直が前提だからです。
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。批判と、悪口や攻撃を、混同しているようにも思えます。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由です。理由は、批判は苦手、とか、批判する気にならない、ということでもよいのです。しかし、一般的に、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
荒んでゆく偽善

荒んでゆく偽善
 
 
(2011年)
(2021年)
(2022年08月29日、再録+加筆)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、キリストの御名を利用している右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであり、クラゲのように、蠢(うごめ)いている反キリストであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
思想・宗教についてのブログは、真実の追求という大きなテーマですから、日記とは違います。雑言とも違います。楽山は、雑談と同じように、ひやかしや皮肉をしばしば書いて笑いを入れます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために真っ直ぐな心をなくしているからでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとするし、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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 悲しみについて
 
 
悲しみを
楽しいことで打ち消すと
悲しみは消えるのではなく
心に潜伏するかもしれません。
 
悲しみを
心の履歴書の一頁としてください。
それが出来れば悲しみは
人生の履歴の記録になるでしょう。
 
悲しみは
隠したり抑え込んでしまうと
見えない傷として残ります。
 
悲しみは
無視するのではなく
無かったことにするのではなく
克服の記録として残すことで
思い出しても記録ならば
距離を置けるかもしれません。
 
脅しや恐怖と違って
 
悲しみは、成長の機会です。
 
 
 
  脅し?(再)2
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは大変なことになりますよ
といった恐怖と脅迫と強迫の文言で
カルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
信仰において
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸であります。
 
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った存在であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければいけません。
 
神は、やさしい仙人みたいなお爺さんではありません。
 
悪口と同じ扱いで
キリスト教的な?批判禁忌をもって
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと言ってくるのが偽善者です。
 
同じように
神についての疑いを
それは言ってはいけないと
威すのも同様です。
 
脅しは、悲しみではなく、邪悪な牙でしかありません。
悲しみに、脅しを当てる宗教は、カルトです。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。
怒ることがあっても罪を犯してはならない・・ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪を指摘することです。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、これこそ、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、批判禁忌をもって、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判は禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところが多々あります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、自らが口車になってもいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり、矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞と無関心へ誘う偽善です。
同時に、悪をはびこらせ、悪を放置して、実際には許容する罪でもあります。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトとカルト思想が蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち手取り足取り
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらないのです。
 
 
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは学習と成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰になりません。
自分が負うべき使命を考える時を持ちましょう。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
「畏れる」などと書き替えてはいけない理由です。
 
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈ります。
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっています。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
信仰は、キリストからの共感に、キリストへの共感を返すことです。
 
つまり、真善美は目標ではなく経過~結果に過ぎず、
 
つまり、信仰は、キリストを通して、神の前での、祈りの、正直さであります。
 
 
悲しみは、克服を通して、痛みから記録になってゆきます。
 
悲しみは成長のためにあります。
 
脅しは束縛のために利用されます。
 
 
悲しみは成長の機会

悲しみは成長の機会
 
 
(2019年)(2020年)
(2022年06月20日、再録+加筆))
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
  落ち込み
 
先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう
 
本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方がよいのです
 
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
 
悲しい人
どうか ゆるされて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように
 
横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ
 
うなだれて
見つめる先とて無けれども
目には潤う微かな温み
 
諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、しんみり悲しむという情がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの特徴です。だから、言葉だけ、トホホ、などと書いてきます。言葉のうわべだけを追っても、そこに真実が得られないので、嘘と詭弁の細工に走るのでしょう。
 
ヤフーブログでの数か月の楽山との遣り取りの経験から申し上げますが、楽山は、こちらの言い分を全く理解せず受け取らず、反省もしません。そして、テーマと似て非なる迷路に誘導して混乱させてきます。何の糧(かて)にもならず異常な疲労だけを与えるのが、楽山の議論の処世術です。
 
楽山の言は、放射性の灰のようなものです。遣り取りを続ければ、放射能のように残留し、心は、灰をかぶって思考も感性も鈍くなり、気づかないうちに、反応性が低下して、似たような嘘と詭弁に逃げるようになったり、人格が壊れてゆく恐れがあります。楽山との遣り取りは精神衛生上、禁忌です。
 
どんなに、もっともらしく思えても、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由を認めてはいけません。言論の義務を弁えず、嘘と詭弁で飾り、迷路で混乱させる楽山に、言論の権利を認めてはいけません。柔和と中立に見せかける楽山の欺瞞に満ちた言論は、いかなる場合も信頼度はゼロです。
 
 
 
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