ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:曲解

 
  虫のように迷惑(1)4
 
 2019年11月12日
 『神は妄想か?』の感想つづき
  楽山日記(仮)
 
 
過去の批判記事を、加筆修正して、再録、批判します。楽山の無理解と幼稚さが表れています。
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、幼稚な辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めることは出来ません。自己中からの短絡した妄想です。
 
 
マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。
 
(ネットより)
アリスター・エドガー・マクグラス(Alister Edgar McGrath、1953年1月23日 - )は、北アイルランド出身の聖公会の執事でキリスト教神学者、哲学博士、名誉神学博士Doctor of Divinity。前オックスフォード大学歴史神学教授。2008年9月からロンドン大学教授。彼は講義と著書で「科学的な神学」(scientific theology)を提唱し、科学的な無神論に反対している。
マクグラス(ウィキペディア)
 
完全に理解されることはないでしょう。理解したら信じる必要など無いわけです。しかし、神について、人間として弁えるべきことはあるのです。そのことを全く理解しないで、理解されえないということからキリスト教を否定する楽山は、自己正当化をしているだけで、かつ、いつも失敗しています。
 
神の救済を、何かの現象と同じように考えて、人間に理非が分かるかのような前提で、楽山が語っても、神を否定も肯定も出来ません。神の存在と救いの実証的根拠など、人間は持ちえません。それが、キリスト信仰の前提です。つまり、楽山の言は、ことごとく無意味です。
 
キリストに救われた人々が、自分で救いを求め得ないような、そういう人だったというのが根拠であります。自分で、自分の胸を打つほどに悔いたことがなく、何事にも真剣味がなく、うっすらボンヤリ物事を単純短絡で考えている楽山には、近づくことさえ出来ない世界なのです。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 (ルカ18:11-14、新約聖書)
 
通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)
 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは、キリスト信仰において、行為義認と呼ばれ、間違いの典型であります。しなくていいというのではなく、人間が、善行に励んでも、神に及ぶべくもないということです。それで救われると思ってはいけないのです。
 
つまり、人に気に入られようとして詭弁と嘘を垂れ流す楽山の、虚偽の処世の話で、神を語ることは決して出来ません。楽山は、俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、神と人と信仰をけがしています。俗物根性も、ここまで来ると、欠陥人格と判断せざるを得ないのです。
 
人間には、心に感じるということがあるのが正常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも受け取ることが出来ないのでしょう。だから、神に対しても条件交渉みたいなことしか考えられないのです。最初から間違っています。
 
前にも書いたことを繰り返します。心貧しさは、余計な先入観を持たないことです。楽山などの、高慢と自己満悦からの精神の貧困は、余計な先入観しか持っていないのです。
 
 
この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。
 
人の信仰の有無と正当性をを判断し裁くのは、神であります。神の裁きは、人間に理解できるものではありません。ゆえに、神の存在と意志と行為について、人が、とやかく言えるものではないのです。私たちに、神の完全は、理解できません。楽山が、汚い口で文句を言っても、一切は無駄です。
 
楽山の、悪意に満ちた、また、他者の口を借りた雑言が続いています。未熟で幼稚な反キリストは、誰とも共感できないので、誰でも騙してやろうと思うしかないのか、自己満悦と悪意だけで書いてきます。この楽山のように、恐れを知らず、文句を言い続ける者が、典型的な反キリストであります。
 
人の善行は、高が知れています。人間が、神に捧げられるのは、精いっぱいの、正直さだけなのです。正直な祈りをして、あとは神に任せるべきことに、お粗末な理屈を振り回す楽山は、他者の言も、無視するか、悪用するだけです。罪悪感がないので、迷惑行為に気づかないからです。
 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。違うと思います。浅薄な知識を、自慢のように振り回すほど、楽山は、ますます見苦しくなるばかりです。
 
人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、個別を全体のように見なす短絡によって雑言を吐いているだけです。こういうのを、決めつけと言うのです。無反省で無責任の楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
 
ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。
 
信仰を持たず、信仰の行いも見られない楽山が言っています。楽山は、行いによっても、信仰によっても義とされない自分を証明しているのです。なお、大した行いが伴わなくても、信仰者は、神の前に正直であれば信仰の義とされるでしょう。
 
何も分かっていない楽山です。キリスト教内部の対立を面白がる楽山です。行いが伴うことと、善をなしていると思い上がる偽善とは、全然違います。反キリストや無神論者は、そして楽山も、そういうところで、とても短絡した論理にとどまっています。楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化している偽善者です。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、不十分でも信仰者らしい言動が伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャローム同様、極めて質(たち)が悪いのです。批判を受け取ることなく、書き続ける姿は、病理としか思えません。
 
人類の敵は、国でも国家でもありません。人類の敵は、サイコパスです。それが疑われる楽山とシャロームの二人については、同一人物の成りすましの可能性も考えています。人間の知能を持ちながら、それを欲望を満たすためにしか使えず、かつ、悔いることがありません。
 
 
最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、
 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、善行は、非信仰者も努めるべきことでしょう。その最低限さえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、信仰の本質であるかのように書き加え、知りもしないのに、キリスト教が、迷っているかのように主張しています。次元が低すぎるのです。
 
キリスト教の人々が、一枚岩だとは思いません。内外に、理解不十分や、誤解や、曲解などや、また、偽者や、カルトがいるということも現実でしょう。しかし、キリスト教は、人の不十分と不完全を、神が、承知の上で、裁き、救うべき人を救って成長に導く宗教なのです。
 
キリスト教も信仰も、何も知らず、何も分かっていない楽山のような者が、口出ししてくるのは、自己顕示欲によるものでしかなく、ゆえに、楽山を、大迷惑な信仰の敵、即ち、反キリストと判断しているわけです。楽山の語るキリスト教と信仰は、ルサンチマンの妄想と怨念に他ならないのです。
 
 
現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。
 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。「信仰のみ」という言葉について、理屈ではなく、人間の在り方として考えてください。楽山に云々できることではありません。
 
真の信仰を与えられた人間は、どう行動するでしょう。信仰だから特別とばかり、勝手な理屈をこねて、楽山やシャロームのように、無反省に無責任に、嘘と詭弁で偽善を働くでしょうか、否です。シャロームも楽山も、自らの言葉によって、自らの腐敗を表しているのです。
 
楽山やシャロームに、いちばん、だまされやすいのは、詭弁というものをよく知らない一般の人か、いい言葉を一途に求めている宗教人でしょう。だますために、いい人と思われるために、いい言葉に見えることを並べようとするのが、楽山とシャロームなのです。
 
 ※
 
訂正不能の無神教カルトとなって教祖願望の絶対を欲しがる楽山には絶望的ですが、訂正不能にしないということは、成長するということです。正直な祈りを通して、聖書と体験からの感動と共感が、その原動力となるでしょう。
 
低劣な詭弁を弄する楽山に、決して誰も関わることのありませぬように
主イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 
 
知ったかぶりの地獄

知ったかぶりの地獄
 
 
(2021年)
(2022年12月06日、再録+加筆)
 
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくいけれど
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、唾、息、……
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと 
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  楽山の自己顕示欲2
 
 『新約聖書入門』三浦綾子著
 2021年11月02日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
自己愛性人格障害の強迫症状とも言えそうな記事を書いてきました。再読だそうですが、得るものがないのは、この記事から得るものがないことに表れています。書かずにはおれないのでしょう。他にすることがないのかもしれません。こうしている間に、残り時間は短くなってゆきます。
 
既に、楽山が、キリスト教を全く理解していないことは、今までの記事で、明らかになっています。なのに、性懲りもなく、聖書について書いてきます。勉強したいなら、読むだけにしておきべきであり、メモしても、キリスト教の信仰について、楽山が書くものは、短絡した偏見に過ぎません。
 
文字にするのが面倒なのか、本のページを画像(省略)で出してきます。怠慢なのに嫌がらせをしてきます。底意地が悪く、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、自己主張したいだけのでしょうが、問題は、聖書解釈ではなく、楽山という人間にあります。
 
 
*再々読
先日、ひさしぶりに『新約聖書入門』を読み返してみた。気がついたことをメモしておきたい。
*修身
まず一つは、著者は聖書によって自らを省み、教訓を学び、人格を磨こうとしているということである。自分が著者の本がすきなのはこれが理由らしい。
 
「自らを省み、教訓を学び、人格を磨」くことを一切しなかったのに、書いてくる楽山の醜さが、ここにあります。書き続ければ、こちらが、うんざりして批判しなくなるだろうとでも思っているのでしょうか。それとも、批判者のほうが先に死ぬだろうと、高を括っているのでしょうか。
 
 
*素直
二つ目は、著者は聖書をそのまま信じているようだということである。福音書ではパリサイ人はイエスを陥れようとしている悪役になっているが、著者はこれをそのままに受け取っている。現実のパリサイ人らは本当にそのような人々だったかという考察は見当たらない。
著者の立場であればこれが当然かもしれないが、著者のような人であっても聖典に○○人は悪いたくらみをしていたとあれば、それをそのまま信じるのだとすれば、信仰とは一体何なのだろうと考えてしまう。
 
画像(省略)の中の聖句ですが
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
12:20
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 
12:21
悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
 (ローマ12:20-21、新約聖書)
 
信仰の敵である楽山は、敵を助けることが正しいとでも言いたいのでしょうか。この聖句では、敵は飢えており、無力であり、既に敵ではない状態です。敵が飢えていても楽山のように敵意があり、こちらが害されそうな状況で、食事を与えなさいということではありません。
 
楽山は、無理解から、嫌がらせとして、論(あげつら)って、キリスト教はおかしいと言いたいのでしょう。だまされてはいけません。楽山は、飢えていてもいなくても、人を傷つける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)です。書けば詭弁にしかならない楽山です。
 
パリサイ人には、例外はあっても、戒律主義に陥って、守っているから罪はなく、神に従っている自覚で、訂正不能の慢心があったので、キリストの敵となり、厳しく批判されました。実際、パリサイ人は、悪い企みによって、キリストを殺したのです。楽山は、何を弁護しているのでしょう。
 
「現実のパリサイ人らは本当にそのような人々だったかという考察」・・二千年前の聖書を記事について考察などと楽山が言っているのは、どういう方法論なのでしょう。聖書の解釈以上ではないことに、無理難題を押し付けているだけです。表れているのは、ケチを付けたいだけの楽山の病質です。
 
 
*引用の仕方
三つ目は、引用部分についてである。
「DSCN3271 三浦綾子『新約聖書入門』 ロマ書
(『新約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1995年、pp.254-255)」
(画像省略します。)
どうやら著者はここで、ロマ書の12章19-20節のもっとも驚かされる表現のあるところを省略したらしい。
ちなみに、この部分は共同訳ではこうなっている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
(新共同訳 ロマ12章19-20節)
 」
ついでに、定方晟氏による三浦綾子批判を見てみると、こうなっている。(画像省略)
DSCN3274 定方晟『憎悪の宗教』 ロマ書 三浦綾子
(『憎悪の宗教』定方晟著、洋泉社、2005年、pp.80-81)
 
ここは、訳によって大して変わらないような気がします。楽山の指摘が、いい加減なために、キリスト教批判になっていないようです。いよいよ理路が発散して、悪意の欲望だけになっているのではないかと思います。「神の怒りに任せ」るとは、人間が出来ることをした後の最終の裁きのことです。
 
画像の本のページでは、新共同訳が、表現を穏やかにし過ぎていると言っています。前に書きましたが、新共同訳は、姦淫の戒めの「女」を「人の妻」と書き換え、神を「恐れる」ことを「畏れる」と書き換えていますから、私は信用していません。信仰を分かってない人が訳したのでしょう。
 
 
ここでは当然ながら、「燃える炭火」について省略はせず、解説までしている。
「燃える炭火」について、三浦綾子は、カッパ・ブックスでは省略せず文庫化にあたって省略したのか、もとから省略していたのかは分からない。しかしどちらにしてもこの省略は意図的なものであろうし、伝道のための苦心の現れなのだろうけれども、三浦綾子がこのような引用の仕方をしているというのは意外であった。
 
楽山は、理解も出来ない信仰のことで「意外であった」という言葉で、三浦綾子さんを、婉曲的に、侮辱しています。丁寧語の偽善者は、こういう言い方をするのだということを覚えてほしいです。悪意の底が、荒らしの罵詈雑言よりも、さらに深いのが特徴です。
 
楽山は、小説家が「燃える炭火」を省略したしないに、こだわっています。しかし、神の裁きの、燃え盛る炎の怒りを自らに積んでいるのは、楽山その人なのです。楽山は、聖句を見ても、自分の都合のよいようにしか解釈しません。そのような者には、聖書は、何も与えないのです。
 
楽山の今までの記事から、楽山は、聖書を読む人ではなく、いつも自分の霊能者気取りと教祖願望からの、いちゃもんになりそうな字面を読んで拾ってくるだけであり、良きものを何も受け取っていないことが、文章に表れてきただけなのです。
 
聖書を必要とする人は、分からないところは分からないと言い、保留します。楽山は、それを、短絡して、あざけりの材料としている分、短絡であり、無理解であり、元々が、反キリストなのだろうと思います。悪魔性とも思われる執拗な敵意なので、決して関わらないでください。
 
聖書には、一定の解釈をすることが難しいところもあるようです。当該聖句の「燃える炭火」について、私も、よく分かっているわけではありません。楽山は、嫌がらせで、気楽に短絡して、頭を燃やす、なんて奴らだ・・とでも思ったのでしょうか。
 
(ネットより)
「燃える炭火を積む目的は不純物を除くこと、つまり敵のよくない不純物を取り除く効果がある。ということです。」
「敵に親切をするなら、相手のよくない感情は取り除ける。ということを表す古代の金属精錬工の習慣から来ている例えなわけです。」
「燃え盛る炭火を敵である人の頭に積んで、敵の頭の中にある、貴方に対する敵意を、燃やし尽すようにしなさい。燃え盛る炭火とは敵が欲しがっているものの事です。」
「使徒パウロが敵に食べさせ飲み物を与える、食物と暖かさを与えるために 火の付いた炭火を積み上げることと同じと言っていたと思われる。」
「聖徒たちの中で生じている敵に対する強い復讐心、すなわち聖徒たちの「燃えさかる炭火」を彼らの敵の頭に善をなした行為として積むことで、神からの敵の裁きがさらに一層強められるということを強調しているのではないでしょうか。」
 
ざっと検索しても、これだけの解釈があります。キリスト信仰は、解釈が全部正しくて納得したから信じるのではありません。楽山は、解釈以前の、悪意によって否定しているのです。元々、自己愛性人格障害によって、自らには手に負えないということを認めない自惚れがあるからでしょう。
 
上のような解釈例と解釈への努力の一切は、楽山には関係ありません。楽山は、けなしたいだけの反キリストです。そういう者としての経過と結果が待っているだけです。楽山に説明しようなどと、決して思ってはいけません。人の話を全く受け取らない履歴だけを積み重ねる楽山です。
 
解釈が分かれているところはあると言えば、楽山は、ニヤッとするでしょう。それが楽山の生き甲斐なのでしょう。理解しようという姿勢が、元々ないのだろうと思います。楽山には、生きることの一切が関係なく、信仰に必要なものは、楽山の目の前を通って、過ぎ去って、跡形もないのでしょう。
 
楽山のキリスト教否定の記事を、その都度、唯一、一貫している不成立ということをもって、批判すること以外には、精神衛生のためにも、楽山みたいにならないためにも、楽山に関わってはいけません。悪意の意図だけで書いてくる楽山には、宗教も信仰も良心も、何の関係もないのです。
 
恐らく、楽山は、良いものを受け取るということが全然ないのではないかと思います。無反省で無責任の自己中では、成長につながる良いものなど分からないのでしょう。だから、受け取るということが出来ず、的外れに唾を飛ばして、笑うか怒るかしかないのでしょう。
 
丁寧語や芝居でごまかしても、意味はありませんから、楽山は、このまま年取ったら、廃人になるのでしょうか。楽山が真善美に関わる大きなテーマについて何を語っても、楽山は、そのテーマとは、何の関係もありません。悪影響を受けないためにも、楽山には関わらないでください。
 
 
無縁 空虚

無縁 空虚
 
 
(2021年)
(2022年11月21日、再録+加筆)
 
 
 
私の祈り: 我が神、我が神、何ゆえ、我を造り給ひしか
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  蓄えた死
 
蓄(たくわ)えたものの中から
奇麗なものを選び取る
ことさえできない
 
死屍累々(ししるいるい)の先祖も
未だ続く身の過ごした日々も
肉弾戦法と玉砕かと問えば
肉弾というより肉塊そのまま
戦法というより
避けがたく卑しき業(ごう)のよう
 
玉砕などではなく
自慰か慢性自殺行為に過ぎない
 
過ぎないというものが
好きだったつもりが
過ぎ去った弾(たま)も玉(たま)も
みな身を焦がして貫いた痕(あと)だけを残して
遠く通り過ぎていったものばかり
 
振り返れば漠々(ばくばく)として
天に連なる縁(えにし)さえ疑う無法の地に
血しぶきを浴びながら去ってゆく少年
血しぶきを浴びせながら倒れてゆく青年
 
幾たびか幻に立ち竦(すく)み
乾いた負の血痕の上に続く
吹きさらしの後ろ向きに蓄えられ
蓄えたことさえ忘れそうな
砕け散ることさえ忘れそうな
遠く近く既に身の脈管を離れ
夥(おびただ)しく累々と連なる
棘(とげ)とも毒とも付かぬ骨肉の
血縁の骸(むくろ)を曝(さら)し続けている
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫(うたかた)の
嘗(かつ)ての縁(えにし)
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥(ちなまぐさ)い流れを冷水に
冷水を雫(しずく)に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契(ちぎ)りもなくて罪に濡れ
柵(しがらみ)を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊(つちくれ)深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山は、また、成り立たない記事を書きました。これが、自己愛性人格障害の訂正不能の症状なのでしょう。嘘がバレて、他に何も出来ないときに、嘘と詭弁を積み重ねることしかできない楽山です。
 
楽山ブログに見つけたコメントの再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。ふつうのことが、出来ないのです。
 
また、軽口の出まかせを書いてきたようです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>自己愛人間って本当に普通の感覚だったら「ありえない」ことをしてきます。
そもそも心が健康ではないのでできてしまいますし、むしろやらずにはいられないんですね。
被害を受けている人は相手に心がある前提で「少しはわかりあえるんじゃないか」なんて思わないほうがいいです。
2022年11月18日
<<
 
自己愛被害者のツイートを、楽山がリツイート引用するのは、それによって、自分は自己愛者ではないと言いたいからです。長きにわたる自らの自己愛の加害の罪を免れようとする詭弁です。逆に、自己愛者であることを、自ら証明する結果になります。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
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  安っぽい楽山2
 
 「信じよう!」と決意するとき
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、今も昔も、楽山は、信仰でも何でも、分かっているふうな口をききます。実際には、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、何も分かっていないことが明らかになっています。信仰は、雰囲気のように、いい加減なのが本物と言いたいようです。全然違います
 
 
信仰には、およそ二種類ある。「信じよう」という意識のない信仰と、「信じよう」という意識に支えられている信仰である。
 
「信じようという意識のない信仰」は、大方、文化や習慣の一部でしかありません。「信じようという意識に支えられている信仰」は、意識というより、強迫観念のように、人を縛る可能性があるでしょう。なお、楽山のように、自己愛と自己中が、訂正不能にあるのは、信仰ではなく病理です。
 
本当の信仰は、気づきであり、惹かれることであり、縁を感じることであり、ゆえに、信じないではいられないものです。楽山は、信仰を全然知らないので、薄っぺらな先入観から、口から出まかせを言って、もっともらしく見せているだけです。自分が魅力の欠片もないからでしょう。
 
 
はっきりいって、前者の信仰は安定しているが、後者の信仰は危ういところがある。意識的に、「信じよう!」と決意するということは、そうしないではいられないほどに、信仰が揺らいでいるということだから。
 
信仰を、反応か状態のように、安定などという言葉で表現している楽山は、信仰の賜物を何も知らない人です。このように、心の無い者は、信仰という抽象名詞の内実について、何も語れないのですが、楽山の自己愛性人格障害は、言葉を繕って、語ったことにするのです。
 
 
乾いた砂が、手からこぼれ落ちるように、信仰心が心からこぼれ落ちようとしているからこそ、「何があっても、信仰は失わないぞ!」「この信仰の綱は、絶対に放さない!」などと強く決意しなければならなくなっているのだ。
 
信仰心が、心の無い楽山にはありません。「何があっても、失わないぞ!」などは大根役者の三文芝居です。信仰には、その初めに、不思議なくらい、縁(えん、えにし)のような出会いがあります。そして、生きる縁(よすが)となってゆくのです。知らないくせに書いてくる楽山は醜いです。
 
なお、「絶対に放さない!」などと豪語する硬い思い込みの強迫性は、一種の精神病理であって、信仰とは何の関係もありません。信仰は、本来、自発的に生じるものであり、強迫観念ではありません。信仰は、人が「絶対」でないことを知って、共感の主イエスキリストの同伴を願うことです。
 
楽山は、知ったかぶりをして、信仰が、こぼれ落ちる、などと言っていますが、真の信仰は、こぼれ落ちることはなく、ふつうなら絶望的な状況でも、尽きない希望となるものです。反キリストは、そのような希望を持ったことがないから、持ち物のように語り、自身の欲望芝居を演じているに過ぎません。
 
信仰は、絆(きずな)か縁(えにし、よすが、えん)のようなものであり、究極的には喩えようのないものです。楽山は、知らないものだから、物品のように扱って、語ったつもりになるのです。「失わないぞ!」「放さない!」・・無知と無恥の戯言です。底冷えのする楽山の捏造概念です。
 
 
「わたしは、エル・カンターレを信じる! この信仰を守りぬく!」と決意し、自らを奮い立たせないではいられない信者には、この事実に気づいてほしいと思う。
 
「自らを奮い立たせないではいられない」ような信仰の賜物を、楽山は知りもしないで、十把一絡げに、邪悪に気づけと言っています。気づくべきは、楽山の卑怯さと、無反省、無責任な言葉です。何も信じない自分信仰の、おぞましさだけの楽山の発言です。
 
何も気づかない自己愛性人格障害の楽山が、「気づいてほしい」などと言うのは、おこがましいことです。恐ろしく鈍感で、冷酷で、いい加減な楽山が、偉そうに忠告してくるのだから、"お前に言われる筋合いはない" という言葉でも貼りつけて、関わらないでください。
 
 
そうすれば、きっと、「信仰するぞ!」と気張る信仰ではなく、もっと自然で、ゆったりした信仰を得られるはず。
 
「自然で、ゆったりした信仰」と楽山が言っているのは、反キリストの楽山自身のように、何も本気では信じないことを意味しているに過ぎません。反キリストの楽山は、宗教に怨念を燃やしているだけで、信仰者や求道者をペテンの手練手管で騙そうとしているだけです。
 
信仰は、「信仰するぞ!」ではなく、離れられない縁のようなものです。そこに在るのは、楽山の詭弁と嘘の誘導や印象操作ではなく、温もりと潤いに満ちた共感であります。言葉では表せない共感に似たようなもので、楽山には一切ないものなのです。
 
人の気持ちが分からない、人の気持ちを察して、自分をコントロールできない楽山の言うことを真に受けないでください。楽山は、自己愛の慢心から、かっこつけて、忠告めいたことを言って、役に立つ助言者の自分という満悦を求めているだけなのです。
 
 
 朱に交われば紅くなる? 
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に交われば、詭弁と嘘のために、臭くなります。
 
劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
楽山が、「反発を感じ」るのは自己愛からでしょう。今「一理ある」と思うのは、今、多くの人を、自分の欲望に沿うように染めたい教祖願望から、騙しているからでしょう。楽山に交われば黒くなり、臭くなります。楽山の、嘘くささと詭弁くささに、染まらないようにしてください。
 
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山自身に染まれば客観的になり正しくなる、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、本を悪書に、思考を邪教に染めて、堕落し続けています。楽山は、同じようなことを繰り返しています。楽山は、自己中の自己愛性人格障害なので、客観性から最も遠い人です。
 
楽山の、自分に近づき、他を遠ざけよ・・とでも言うような誘い文句に惑わされないでください。楽山に近づくと、最悪の場合、人格が鈍麻し破壊される恐れがあり、一見正しそうに見せた詭弁の世迷言を言い続ける、楽山と同じような亡者になるでしょう。理路ではなく罠を仕掛けて楽しむサディストです。
 
(ネットより)
「世迷言(よまいごと)」は、「ひとり言のように愚痴を言うこと」や「わけのわからない内容を繰り返し言うこと」などを指し、人の発言・意見などをののしって言う際に使うことが多い言葉です。「よまよいごと」と読み間違いをしてしまう人も多いのですが、正しくは「よまいごと」なので要注意!
由来は、「愚痴を言う」を意味する「よまふ」の連用形に、「言葉」を意味する「こと」を合わせた言葉だといわれています。
 
 
世迷言の果て(よまいごとのはて)

世迷言の果て(よまいごとのはて)
 
 
(2021年)
(2022年11月15日、再録+加筆)
 
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
 
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
 
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  近道
 
近道をしようとハンドルを切った
広い道が狭くなった
曲がりくねった長く細い道
 
坂がきつくなった
舗装が途切れた
知らない家の前で行き止まり
道に迷ったということだ
 
バックするか
曲がりくねった長く細い道
途方に暮れた
日も暮れた
あぁ どこへ行くつもりだったのだろう
庭先を借りて方向転換
そうして今ここに暮らしている
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が、誰なのかは知りません)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
 反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
 これを実践するのは難しいんだよなあ。
 恥ずかしながら、自分もそんな風です。
 これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。これ以上、楽山の嘘と詭弁に騙される人がいなくなるように批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
楽山には、良心と良識がありません。もしあったら、とうに、弁明できなければ書かなくなっていたでしょう。実際は、まともなつもりだけで執拗に書いてきたことが、楽山の欠陥を表しているのです。これからも、亡霊のように、よれよれの世迷言を書いてくるのでしょう。
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
 
いい加減な楽山です。「ぼかした方がいい」という問題ではないのです。詐欺かどうかなど重大な問題について「わからん」ことは書いてはいけません。楽山は「わからん」と書いて、書いたことにしたいのでしょうか。動機もなく書いているのでしょう。楽山は、ずっと、言論の邪魔をしているだけです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSを例にすれば、
まず優しい性格で人の悪口を言ったり、呪ったりしない人がいたとします。
こういう人が信者になってから、悪妻封印祈願などを当然のことだと言うようになったらヤバいです。
多分この人は退会後は、信者である間、自分の元々の倫理感、価値観を見失ってたと証言するでしょう。
2022年11月12日
 
楽山は、アンチだと言っていたのに、霊能者気取りです。霊言、心霊、というような超常言葉でしか、宗教を語れません。宗教を心で受け取ることが出来ないので、不思議言葉でごまかすのでしょう。そして反省する心も持ちません。「倫理感、価値観を見失って」いる証拠です。
 
楽山は、正常な議論ができない人です。2コメント程度を返して、後は、表現だけ変えて自分の主張を繰り返します。相手の精神を疲れさせて、相手が退くのを見て快感を得ます。真実の追求などする気はありません。楽山のペースに乗ると、疲労だけが増してゆきます。どうか相手にしないでください。
 
 
 
楽山の害毒メモ:抜粋
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
平気で嘘を吐きます。
 
奇怪な単細胞。
 
(省略)
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。放置すれば、無自覚の被害者が増えるでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。決して相手にしてはいけない人です。
 
 
 
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※ 光への接続工事は、9月5日と聞きましたが、書類では9月9日のようです。失礼しました。
 
 
  すいすい曲解する楽山
 
 『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳
 2022年09月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
楽山には、正常ならばあるはずの学習機能がありません。学習して成長するということがありません。平板な褒め言葉だけを並べて、一人前のつもりでいられるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。考えても単純な賛同の言葉しか浮かばないのでしょう。
 
そして、楽山自身の人格崩壊が進行したのか、書けば書くほど、ますます浅くなるようです。よかった・・と言うのと同じことしか書けず、正直を忘れた未熟者が、発作的に書いたところで、おおよそ感想文としては小学生レベルであることから、正常な節操を失っているという判断になります。
 
 
*読みやすい本
著者の言葉によれば、本書はダーウィンの『種の起源』を「できるかぎり内容を損なわないよう、簡潔にわかりやすく書き直した本」(p.8)とのことである。
そのわかりやすさはどの程度かというと、『種の起源』を数ページで挫折して完読できなかった自分でも、すいすい読めるくらいである。おかげで最後まで楽しく読めた。これほど読みやすく面白い進化についての本と出会えたのは、ドーキンスの『進化とは何か』以来である。
 
読書を悦びながら、一ページ程度の、しかも、褒め言葉だけのイージーライターが楽山です。つまり、言論の無法者、放浪者ということです。改造バイクではなく、壊れた一輪車に乗って、転んで、また乗って、すぐ止めてしまって、短くて中身の無い一記事でも、数え歌に加えて気持ち良いのでしょう。
 
楽山が「すいすい読める」と言っているのは、すいすい曲解してゆくからでしょう。極めて単純に、自分の自己愛の妄想に合っていることだけを、すいすい飲み込んでゆく楽山の読書のやり方は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)人格を、正当化し、促進し、破壊します。
 
「読みやすく面白い進化」「楽しく最後まで読めた」とだけを書いて、感想文のつもりです。自分なりの評価がなく広がりのない楽山の読書は、巻き込まれてはいけないし、決して鵜呑みにしてはいけないものです。中身の無い単純べた褒めモードを真に受けるならば、楽山の闇に感染するでしょう。
 
 
*自然選択と変化の速度
 個人的には本書の中でもっとも刺激を受けたのは、次の箇所だった。
自然選択は、生物に多様性をもたらす一方で、生物の多様化を抑制するはたらきもしている。
(『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳、技術評論社、2019年、p.82) 
 」
自然界の生物に、飼育栽培されているものほど急激な変化が生じないのはなぜか。それは、個体差の多くが、自然界では、生存にとって不利になるからである。
(同上、p.81)
 」
自然選択は進化を生じさせ、促進するというイメージがあったけれども、これは言われてみれば、なるほどその通りだ。こんな風に自力ではとても思いつけなかったことを教えてもらえるのは有難い。本を読んだり、人の意見を聞くと、こういうことがあるから実に楽しい。
 
楽山は、自分の妄想思想に合わせて読書したことにするのです。、この短い記述で種の起源や進化論を理解したつもりになる軽率さが、楽山の特徴です。「その通り」と言ってますが、楽山は「本を読んだり、人の意見を聞く」ことはありません。結論は、訂正不能に決めつけています。
 
楽山の、妄想に近い決めつけに合っているように読めば、それは「実に楽しい」でしょう。違う意見を、全く受け付けず、全く問題外として、何を言われても、同じことを、ネチネチと言い続けて、うんざりした批判者が去ることを待つやり方は、もはや、正常人の神経では説明できません。
 
楽山の「なるほど」は、なるほど自分の見方に合っているから合格、という、上から見下ろした褒め言葉なので、議論によって深くなる可能性もなく、何かが修正されて新しくなることもなく、楽山の自画自賛おのうちに読書した気分になってしまう習性から、洞察も理解も生まれようもないのです。
 
楽山は、感想を書いても、賛同するために自分と同じ方向の本を読んでいるだけなので、理解の実感を表すことが出来ません。だから、とても単純な褒め言葉「なるほど」「有り難い」「実に面白い」しか書けないのです。反省も学習もしないので、褒めるために選んで読んで、ただ褒めているだけです。
 
 
イージー 安易

イージー 安易
 
 
(2022年09月06日)
 
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
 
成長と老化
 
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
 
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
 
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
 
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
 
自己満悦
それは憎むべき低俗であります
 
自分を愛するためには
自らを省みて
人に共感し
人を愛することを学ぶことが必要です。
 
人を愛せない者に
自分を愛することはできません。
 
 
  希死と質量
 
体重はあるが
質量がない
と自己評価を
重力以上に下げて
死にたいと思ってしまうとき
その陰で軽々しくも罪を
誰かの何かのせいにしてはいないか
 
自ら死にたいと望んだとしても
死ぬことを好む者はいない
死を思う分だけ切実な
生きる願望
死を思う分だけ薄弱な
生きる欲望
当たり前だったはずだから
意識されなかった生きるための条件
 
しばしば希死において考慮されないのは
自己評価は下げるのに
生きているという事実に基づいて
生きる条件を下げる試みである
 
差し迫って今
誰かが何かが殺しに来る予定はなく
仮にあったとすれば
希死にかかわりなく死ぬのであるから
今息をしている
というところまで
条件を下げることが出来たら・・・
とは言っても辛いとは思うのだ
 
体重はあるが質量がない
これが下げるものは重くも軽くもない
量(はか)れない質(たち)なのである
 
 
量れないものを
我欲から高く見積もって
満悦する者は
実に
体重を量って悦び
心の成長を無視して悦び
満悦して人を侮る者となっている
 
そして無条件に
鏡を見て悦ぶのである
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
本ノ猪
@honnoinosisi555
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
 相手の意見を認めないということは、
 まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分の妄想的な意見を訂正不能に持ち、他者の反対意見を、批判できないのに認めません。これは、言論というより、むしろ、そういう恣意の生き方だということです。煽動屋、そして、他者を低く見て、上から決めつけて見なしの結論の塊だけを投石してくるのです。人間の生き方ではありません。
 
なお、人の意見が、公共の福祉に反していて、自己中心で、反省もしないならば、その意見を、決して認めてはいけません。その意見は、しっかりしておらず、身勝手な自己中だからです。その意見に、流されてもいけません。批判が苦手ならば、決別し、関わらないことが、いちばんの批判になります。
 
上のような、楽山のリツイートは、その意味を、楽山の、巣穴のような狭小ワールドで歪曲して、都合よく偏向した自己中正当化に悪用するものです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、このように偏りながら、嘘と詭弁で擦り寄ってきます。決して近づかないでください。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
私が1~3日休むと書いたら、楽山は、すぐ記事を書いてきました。楽山は、ここまで我欲のみに執着しているのでしょうか。楽山が書いたところで、ろくな記事ではないので批判しているわけです。ただ、こういうことから楽山の原始的な自己顕示欲からの無反省がバレてゆくわけです。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解3
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっていると、自分を誇るためでしかないのです。楽山は、何も理解できないのに、聖書とキリスト教をおとしめているつもりのサディストに過ぎません。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
ヨブは、神に近づいてはいません。
背きそうな心情を、神に向かって、正直に訴えているのです。
 
例えば、自分は、神にとって、何なのか、監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ救ってくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをするしかありません。楽山は、神を知らず、信仰を知らないので、いい加減なことを言って、反信仰を表しているだけです。
 
楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、楽山が部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも知らず、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもないなら、黙っておればよいものを、分かったふうに、キリスト教に、ちょっかいだけを出してくる楽山という悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。
 
楽山の言は、悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分をも、見ようとしてはいません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、信仰から、いかに遠いかという実例となっています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
ビルダデは、パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。正しいことをすれば栄える・・これは結果として表れることだとしても、正しい人など、一人もいないのです。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
誰にとっても、この聖句は、理想であり、あるいは、神の愛を表しているのであって、全部否定形にすれば人の現実となります。ゆえに、相当な戒めの言葉になるでしょう。ここを読んで、いい気持になるだけでは、読んだことにならないと思います。楽山は浅はかです。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、自分以外、何も信じていません。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、愛の賛歌と呼ばれるコリント13章を挙げるのは、笑止であり、愛の対極にいる典型が、学習も反省もしない楽山であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、神と人に復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパスであり、凶暴で執拗な反キリストです。上に書いたように、愛の賛歌の言葉を、すべて否定形にしたところに、楽山がいます。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、今だけ無視して、聖書について厚かましく書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。楽山は、罠をかけようとして罠にはまってしまう例です。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、この記事のように、あたかも、神の側にいるかのような記事を書くことで、本心ではなく、嘘だとバレており、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人ですから、キリストからも決して赦されることのない偽善者です。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、真っ向からのキリストとキリスト者の敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。楽山の今までの履歴が、楽山が反キリストであることを示し、この楽山の言を否定しています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っているだけの人です。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語れば、似たような教条の上辺だけになってしまうのです。中身のない評論家気取りに過ぎません。
 
楽山の、今までの、神義論(弁神論)の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家がでっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
今回も、反省もなく、自粛もせず、キリスト教と聖書を知っているかのような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していており、偽善者に相当する楽山です。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
楽山は、人を誘導し巻き込みますから、そこは、蜘蛛の巣のような、罠に満たされます。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。嘘を吐くことへの罪悪感のない証拠です。
 
楽山は、精神の詐欺師であること以外に、何を伝えたつもりでいるのでしょう。ここまで白々しい者に掛ける言葉は、どこからも、あっちに行け!・・以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そして、今も、侮って裁いていることが、このペテンの敬虔芝居に表れています。
 
そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきたのです。そして、また、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。そのようにして、楽山は、自らを、高みへ高みへと上げるつもりで、実は、闇へ闇へと転げ落ちてゆくのです。
 
楽山が、聖書とキリスト教の記事を書けば書くほど、だまされる人は増えるかもしれません。しかし、楽山が、神とキリスト教に対して、無反省に暴言を放っておきながら、あとになって「反省」と書き、ほめ言葉を書いて、まるで、物質のように中和できると思うのは、愚かな企みであります。
 
むしろ、中和も平和もなく、逆に、偽りに偽りを重ねることで、楽山の性根の腐れ具合が尋常ではないという証拠になってゆくのです。いずれ、ひきつった笑い顔で、鏡を見ることになるでしょう。情緒面が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、子供だましのレベルです。文章表現が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山を批判している理由は、内村鑑三のような有名人の本を引用して、字面だけ読んでも、心の無い者にキリスト教を語ることは出来ないのに、無理解と自己愛と自己顕示欲で語れば、さらに、嘘を吐き、偽りを広めることになるからです。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、勝手すぎて、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰は、活性をもって、働いているのです。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に、あっさり賛同しました。何も理解していない証拠です。さらに、何も考えていない証拠でもあります。
 
このことは、楽山が、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となるだけでなく、無反省に反信仰を語り続けるケダモノでもあるということです。反省して、正直な祈りによって、悔い改めるのが、信仰であり、悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得しようなどという意図は既にありません。楽山は、シャロームと、恐らく、同一か、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、元々する気のない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、楽山は、また、理解を装って書いてきます。恐らく、理解を示したつもりのうえで、否定したいからでしょう。
 
この自己顕示欲の醜い有り様こそが、楽山の、おぞましい正体であり、実際には、宗教と信仰への根深い怨念による悪意が、逆に、表れている結果となっているのです。人間は、ここまで腐ってしまう、という悍ましい有り様を見ています。
 
楽山は、情感も共感も理路も人生の学習を怠ってきたゆえに、宗教・信仰・思想が不可能になっている自身について、考えもせずに、悔いもせずに、白々しくあたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いてきます。三文芝居で出来ている仮面の人生です。
 
それで、何か言えることがあると考え、何とかなると思っていることが、何よりも、現実におけるホラーの異常性となって表れているのです。楽山の自己愛と自己満悦は、今後、さらに、異様な様態を表してゆくでしょう。
 
 
粉のように 無理解だから書いてくる

粉のように 無理解だから書いてくる
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月01日、再録+加筆)
 
 
 
悪魔については、自分にも当てはめて考える必要があります。超常の化け物としてより、怖い悪魔が、人の心には、棲んでいるのです。それに気づきもせず、笑っているのが、楽山であります。感情と情緒に深みがなく、企みに満ちて、他者の不出来だけがエサとなっているケダモノです。
 
楽山は、今のところ、3つのブログと、3つのHNで、2つのツイッターを書いています。これから、また、さらに別のキャラに成りすましてくることが予想されます。誰も近づいてはいけないと思います。HNを変えれば分からなくなるでしょう。だから、自己中の筆致を覚えておくためでもあります。
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているもの
と考えてみる必要が常にあるだろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
 
前に載せましたが
2019年07月26日 22:53
楽山に送られたコメント
 
「 
隆くんへ 
・・・
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
・・・
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 」
 
これに対して楽山は、
 
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」
と書いて、人間一般の話にすり替えています。
 
どうしようもない人です。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターですが
 ( 楽山から raku、隆から taka )
 
taka
@taka84156681
·2時間
物申す系YouTuberで誰かを追い込んで自殺させた例はまだいないとされる(シバターにはあるらしいが自殺とは断定されていない)
ただ今の時代は誰かを吊し上げて正義という名の集団リンチをなにかと目にするので将来的にそうなる可能性は十二分にある、そうなるとその物申す系は人を死なせたレッテルが
午前1:47 · 2021年8月17日·Twitter for Android
 
楽山は、悪事を好きなように続けさせないと自殺するぞ・・とでも言いたいのでしょうか。被害者のつもりなのでしょうか。通らないものは、通らないと言い続けるほかはないのです。誰も近づかないようにと批判しています。放置すれば、人格と人生を破壊されてしまう人が出てくるからです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害からの害を、自己愛性パーソナリティ障害者だから自覚できないということでしょうか。それとも、また、正義の味方気取りなのでしょうか。悲劇のヒーロー気取りなのでしょうか。加害者が、被害者面して、何を言っているのでしょう。
 
私は、楽山について、2年半の経過から言っています。罪悪感、後悔の念、羞恥心が、楽山にはありません。宗教・信仰など、真実の追求という大きなテーマを書く上で、楽山は、反省する気がなく、責任も負いません。言論の責任を負わない人に、言論の自由はありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
·8月15日
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 
このように、人の意見を拾って他の宗教を、あざ笑うのが、楽山の趣味です。こういう人には、宗教心も信仰もありませんし、ありえないと思います。自分を見ることが出来ない人なのです。だから、自分の問題に気づくこともないし、そういう人は、宗教とも信仰とも、真逆の人生になります。
 
つまり、信仰を持つ人を、自分より劣った人と見なしているということです。こぼれ話で、信仰者の失敗や失言を漁り、それを笑うことに生きがいを感じるのでしょう。楽山を批判して、3年余り、そういう態度ばかりでした。
 
信仰者は、人生の問題として、信仰を考えます。楽山は、なんで悩んでいるの?、宗教なんて意味ないでしょ・・とばかり、笑っているのです。信じないなら信じなくていいけど、信じることを笑う人は、人間性に欠陥のある人です。楽山の実在は、そういうモデルとなっているのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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