ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:曲解

 
   いちゃもん2
 
  とこしえの御座 (詩編9:8)
  https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564781.html
  楽山のブログ。
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)
 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書)
 
このように、裁きと救いの聖句です。
しかし、楽山は、永遠にこだわっているようです。
 
聖書の文脈を読まないで、
気になった言葉だけで考えているようです。
 
そういう自分を反省することなく、
聖書に文句を言う自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
けっこう好きだった・・などという趣味的な言葉で聖書は語れません。圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、気味が悪いという気持ちに近いようです。「気が遠くなる」という大仰だが月並みな言葉です。楽山は、またしても、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
聖書の、とこしえ、という言葉が、物理的な時空で語れないのは当たり前のことです。楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは、めまい、というのは、嘘だと思います。また、信仰を、おとしめるつもりのようです。「気が遠くなる」「めまいがする」・・安易で空疎な感想です。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
「足下がふらふら」「怖い気」がする、嘘だと思います。信じるかどうかは、自由ですが、楽山は、信じてもいないのに、いちゃもんをつけるつもりのようです。どこまでも、超常ホラー趣味の域を出ることのない大嘘吐きの飾り言葉だけの楽山です。
 
 
そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。
 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つという、少年の空想的な想像からの興味から、卒業しないまま、想像できないから躊躇してしまうほど気分がよくないと言って、暗に、常識的想像では、信仰は成り立たないと言いたいのでしょう。
 
このように、楽山という反信仰者は、暗に、ほのめかすことによって、信仰をおとしめ、その印象を吹き込もうとするのです。いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。
 
結局、何が言いたいのかが、わからないほど、記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。はっきり否定せず、肯定せず、しかし、否定的な印象をすり込んでゆくのでしょうか。この記事、書く必要が、どこにあったのでしょう。
 
そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。
そう感じたなら、そう書く前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。それが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業であります。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、欺いてばかりだったことの災いとして、起こってきます。まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまって、ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になり、言葉だけ大袈裟になるのです。楽山は、そういう経過で、反キリストとなっています。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、シャロームの、讃美噴射とボロクソ節に表れてきたのです。キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
 
キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。なぜなら、彼らは既に分かったつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっている、このことが、もたらす害は測りしれません。
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを、分からないと言う正直さが基本です。
 
 
 
楽山は、無理解と偏見からの、いちゃもん屋です。聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、はっきり言って子供のような、いちゃもんをつけているに過ぎません。程度の低さを、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために感じないのでしょう。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、聖書の伝えようとする意味を、分からないのではなく、わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとする悪意によります。
 
つまり、記事本文に書いてある言い方は、キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、印象操作であり、この、背伸びしただけの、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。心貧しさとは正反対の、精神の貧困が表れています。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の悪意の企みであり、ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。何故なら、彼らは、既に分かっているつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。そして、正直に祈る心を持たない者は、自己顕示するしかないのでしょう。
 
しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、意地悪にヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。大人の振りをする楽山のような自己愛者の児戯は、何の価値もなく、感想としても、見苦しいだけなのです。
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。信仰者が、神の前に祈るとき必要なのは、そのとき精いっぱいの正直さだけです。
 
それしか神には通じないことを、楽山は知る由もなく、神聖を侮(あなど)り、低め、あざ笑いながら、結局、分かったふうに、自分の高ぶりだけを表すことになるのです。この虚偽は、神の前に、一番やってはいけないことなのですが、楽山には分かっていません。
 
 
無思考の雑言

無思考の雑言
 
 
(2020年8月13日)
(2022年08月16日、再録+加筆)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
  動かない死
 
肉体は座ったまま
動かなかったので
次第に乾いていった
頭皮から離れたフケが髪の間に点々として
かつて食したであろう食物の残渣が口角でひび割れ
鼻から頬にかけての皮脂が乾いて
こわばったうろこのように落ちかけていた
 
そのまま消えていくと思っていた
座ったまま便通は圧迫され
腸の動きは眼のように不明だった
眼脂に覆われていたのである
 
やがて形なく
透き通り
消えてゆくはずのもくろみは
思いに反して
よりかたくなで
固い肉体を作り出していた
 
心は座ることができなかったので
乾いてはいても
絶えず何かを思わずにはいられなかった
とうに周囲とは無縁であったが
いつしか清潔な裸体を想像していた
 
明日はなく
昨日は捨て
今日の消滅を願っていた
来る日も来る日も
死は肉体よりも心に近く
そのくせ清潔な裸体ばかりを描いていた
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、理路の見せかけて、いちゃもんばかりを書いてきました。よく読めば、その文脈は、楽山の偏見と先入観によって乱され、成り立っていないことが分かるのですが、楽山のボンヤリ言語の曖昧表現と、トホホ言語の謙虚芝居によって騙されている人は多いようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
若い頃はこういう言葉に感動したけど、年を取って、さまざまな理不尽があることを知ると…ね。
たとえば、実の親から虐待され殺された子、通り魔や暴走車によって突然命を奪われた人…そういう人に向かって「その体験は人生を磨く砥石にすぎない」なんて言えないと思う。
>>
ryuho-okawa.org
人生を光らせる砥石
たといどのような苦しい地上人生を送ったにしても、わずか六十年七十年の苦しみは、永遠の人生から見たら、ほんの一瞬の出来事でしかないのだ。 たといどのような困難がふりかかろうとも、それらは私たちの人生を磨き、光らせるための砥石にしか過ぎないのだ。
<<
午後8:00 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
突然の悲劇に、お伽噺は通用しません。しかし、楽山は「「その体験は人生を磨く砥石にすぎない」なんて言えない」と言いながら、その力動を、キリスト教の信仰否定に費やしています。なのに、救われて生きるヒントになることなど、楽山は何も提示できないという不細工でしかありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
霊的人生観は大切だというのは分かるけど、巷には霊的人生観を持ってるのに人格的に問題ある人もいれば、霊も神も信じてないのに善良な人もいる。
このことからすれば、精神性を高め、よい人生を送れていれば、霊的人生観や信仰を持とうが、持たなかろうが関係ないと思う。
ryuho-okawa.org
正しい人生観
どうか、正しい人生観を持っていただきたいのです。正しい人生観に基づいて生きていただきたいのです。それが、後悔しない生き方なのです。 「死んでからあと、死後の世界があります。 あなたの本質は肉体ではありません。肉体のなかに宿る精神的存在、魂、別の言葉で言うならば、心と呼ばれているものが、あなた自身の本質です。 その事実をもとにして、現在ただいまの生き方を考えてください。そうすれば、残された人生...
午後8:21 · 2022年8月15日·Twitter Web App
 
「霊的人生観は大切だというのは分かる」・・分かっていないと思います。楽山は「人格的に問題ある人」です。「霊も神も信じてないのに善良な人」ではない。「精神性を高め、よい人生を送れて」いないのが楽山です。今日も、平気で白々しい嘘を吐いています。楽山の言葉が楽山を裏切ってゆきます。
 
 
 
信仰の恵みとは
人間が
いずれ死ぬという定めにおいて
生きるられるようにすることであります。
それを
キリストの共感の同伴が
可能にするのが魂の奇跡であります。
 
超常の奇跡ばかりを追う精神には
とうてい理解できることではないでしょう。
 
 
 
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  とこしえのマンガ2
 
 とこしえの御座 (詩編9:8)
 2019年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
「主は裁きのために御座を固く据え
 とこしえに御座に着いておられる。  
 (詩編9:8)」
 
 (詩篇、口語訳)
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
 (詩篇9:7-9、旧約聖書)
 
救いに関する大事な教えが書いてあるのに、楽山は、自らの空想に都合のよいところしか引用していません。楽山が、「しえたげられる者」ではなく、しえたげる者だからでしょうか。
 
 
以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
 
楽山が好きなのは、超常言葉であることが表れています。人間の心に目を向けないことも、ここに、表れていると言ってよいでしょう。しかも、聖書に表された神の性質を、神を否定している楽山が、ほとんど趣味的な表現で「けっこう好き」だったに過ぎません。
 
 
でも近頃は、そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなる」・・とこしえ、ということを、想像することは、3次元+時間軸に縛られている人間には出来ないはずです。楽山は、どんな想像をして、気が遠くなったのでしょう。超常だからすごい、ということくらいでしかないと思います。
 
ボクって感受性が過剰・・とでも言いたいのでしょうか。芝居がかっていて、わざとらしいですから、その分、浅くて軽い気持ちの嘘だと分かります。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、宇宙の百倍の大きさの石があるとして、、一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
 
何という分かりにくい喩えなのでしょう。「宇宙の百倍の大きさ」も「一兆年」も、人間には、想像の域を超えているはずですが、自分は分かるんだと言いたいのでしょうか。自尊過大の誇大妄想的な表現としか言えないでしょう。あるいは、何かの物語のパクりでしょうか。
 
 
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
とこしえ、だから、永久なわけです。そこで、人間の限界を感じるはずです。神の御坐を持ち出す必要はないと思います。なんか、ズレていると感じます。「めまい」は、またしても、軽い気持ちの、嘘でしょう。なんだか、気障(きざ)というか、安いというか、自分で分からないのかと思います。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、そういう時間を生きることになるのだろうし、これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
永遠を、時間としか考えられない楽山です。ときに聞くことのある、一瞬が永遠、という言葉も、楽山には理解不能なのでしょう。小学校の時空の認識のまま止まっている感じです。想像力が、正常に発達していないのかもしれません。能力の問題ではなく、体質の問題でしょう。
 
「足下がふらふらしてくる」「怖い気もする」も、軽い気持ちの、嘘でしょう。全体に、楽山は、実感がないことを補うかのように、大袈裟で単純な言い方をしてきます。飾りだけの作文です。かなり、気持ち悪いです。
 
 
そんなわけで以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、最近はどうも、そういうことは想像することさえ遠慮したい気分になってきている次第である。
 
楽山の「憧れ」ほど、怪しいものはないでしょう。想像は遠慮できる性質のものでしょうか。浮かんでくるものではないでしょうか。想像は、楽山にとって、はっきり決意して、浮かばせるものなのでしょうか。想像は、できるときに、してしまうものです。
 
しかし、神の性質は、想像さえできないものです。恐らく、楽山の永久(とこしえ)は、いくつもの作り話が可能になるような、紙に書いたマンガのような、平面的なものなのでしょう。
 
 
とこしえの加害

とこしえの加害
 
 
(2021年)
(2022年08月09日、再録+加筆)
 
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
 
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
 
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分は優れているという自覚で、実質が伴わないのを、嘘と詭弁で飾ることによって、自意識を保っているのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。反省しないことと罪悪感の欠如が、最も加害性につながります。思いやりや共感などの高等感情がありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これも、よく分かるわあ。
「えっ!?」という違和感は、安易にスルーするのでなく、大事にしないといけないとしみじみ思う。
(引用ツイート)
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 8月5日
関係の初期に感じた、なにか奇妙だという感覚。それが後になり、自己愛性が原因だったとわかるが、本人に自覚させることは困難。
 」
 2022年8月6日
 
「よく分かるわあ」・・よくも、こんな白々しいことが言えるものです。奇妙、自己愛、・・最も感じさせてきたのが、楽山です。この期に及んで、まだ、こういう言い逃れの詭弁を弄するところに、楽山の底知れない悪意が垣間見えてくるのです。楽山は既に「なにか奇妙」ではなく、はっきり異常です。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。言動の動機が自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
「少しずつ神に近づいている」・・ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。楽山は、小学生レベル、偏見と先入観レベルであり、深い情緒を持っていません。楽山は、聖書について、何も分かっていません。楽山が書けば、それだけが表れてきます。
 
ヨブは、例えば、自分は、神にとって、何なのですか。監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをすることがあるということです。楽山は、何も分かっていません。楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。
 
楽山の「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。それだけ悪魔性が強いということです。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもなく、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分も、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、コリント13章を挙げるのは、笑止であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。
楽山は、不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、何も信じず、何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、本心ではなく、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人であり、キリストからも決して赦されることのない偽善者の一人です。またしても、楽山は、詭弁を弄しています。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけのナルシストは、真っ向からのキリストの敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語ると、このようなものに近くなるでしょう。
 
楽山の、神義論と弁神論の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家が、でっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
つまり、このような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していて、偽善者に相当する楽山です。楽山は、神の前で、神に気づかず、役に立たない知識を振りまワズ自己顕示欲の奴隷として、あらゆる真実の追求に対する反逆者であります。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:13
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。
8:14
その頼むところは断たれ、
その寄るところは、くもの巣のようだ。
8:15
その家によりかかろうとすれば、家は立たず、
それにすがろうとしても、それは耐えない。
8:16
彼は日の前に青々と茂り、
その若枝を園にはびこらせ、
8:17
その根を石塚にからませ、
岩の間に生きていても、
8:18
もしその所から取り除かれれば、
その所は彼を拒んで言うであろう、
『わたしはあなたを見たことがない』と。
8:19
見よ、これこそ彼の道の喜びである、
そしてほかの者が地から生じるであろう。
 (ヨブ8:13-19、旧約聖書)
 
「人情の機微をも知らずして」、まさに、楽山の拠るところは、蜘蛛の巣のような、罠に満ちています。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。精神の詐欺師であること以外に、何が言えるでしょう。
 
こういう者に掛ける言葉は、あっちへ行け!、以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきて、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。
 
こういう聖書とキリスト教の記事を書けば、だまされる人は増えるかもしれませんが、楽山の、神とキリスト教に対して放った無反省の暴言を、あとになって、ほめ言葉を書けば、中和できる、反省しなくてもごまかせる、という企みであり、逆に、楽山の性根の腐れの証拠になってゆくのです。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、気味の悪い三文芝居か子供だましのレベルです。内村鑑三を引用して、字面だけ読んでも、心の無い楽山にキリスト教を語ることは出来ません。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言えないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に賛同しました。
 
このことは、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となっています。悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得して、言うことを聞かせようというような意図は全くありません。楽山は、シャロームと、恐らく、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、まるで通じない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、また、理解を装って書こうとする、この不感不応の醜い姿勢こそが、楽山の、おぞましい悪意であり、宗教と信仰への根深い怨念なのです。
 
情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきた楽山には、不能になっていることを考えもせずに、悔いもせずに、あたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いて、それで何とかなると思っていることが、何よりも、殆どホラーに近い異常性として表れています。
 
 
デタラメしか出てこない

デタラメしか出てこない
 
 
(2020年)
(2022年08月08日、再録+加筆)
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「自分もそんな風です」と、「人間の性」という言い訳で、反省をしない楽山です。反省をしない人は、人間ではないのです。成長もないのです。したがって、そういう人は、人間としての発言は出来ないし、してはならないのです。
 
 
 
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  楽山の被害者芝居3
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。無神教カルトと呼んでいます。柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも平気で芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあります。
 
そして、それら楽山の芝居は、ことごとく、今までの経過において否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。にもかかわらず、否定されたことを忘れて、また、平気で書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
 
ドラマを見ている気分でしょうか。「カルトの危険性について学ぶ」のが「スリルがあって面白い」と書いています。実感というものを感じられず、分別も節操もなく、全くの興味本位で語ってきます。楽山は、どんなテーマでも、冗談半分でしかなく、本気がないのです。
 
 
香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
嘘と詭弁と婉曲表現と同情芝居で、人の心をもてあそんできた楽山が、マインドコントロールについて語る資格はないです。カルトの、大袈裟で安請け合いの説教と違って、楽山は、常識人を気取って仲介でもするかのように、優しい言葉遣いで近寄ってきます。もっと厄介な新手なのでしょう。
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできますが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、遺伝子がどうの、超常がどうの、学者の本がどうの・・と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。カルトもスピリチュアルも大好きで霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、評論家気取りで書いてきます。
 
このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。恐らく、カルト被害者に共感するように見せかけて、実際は、宗教と信仰を、軽い道徳レベルにおとしめたいのだと思います。そのリーダーか教祖になって、正義の味方として讃えられたい自己顕示欲が動機でしょう。
 
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
元HS信者でアンチHSを気取っていますが、この2年余りの経過では、楽山が常識人だとは、とても思えません。今までのことを訂正もしないで、ときによって、カルトの犠牲者を装い、カルトを「(笑)」を入れながら、批判めいたことを書いて面白がっているのです。
 
しかし、一方で、霊が分かるっぽいことを書いていましたし、また、霊言などを引用しています。宗教と信仰についての理解は、小学生レベルの、超常ホラー趣味以上ではありません。いちばん警戒するべき相手は、カルトと心霊の妄想にこだわっている楽山その人です。
 
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、楽山の新しい手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。教祖願望の表れでしょう。
 
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然できないことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトの説教に当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。楽山の、いちばん大きな悪性は、自らの非を認めず、反省をせず、一切の責任を負わないことです。
 
キリスト信仰の反省は、罪深く不完全な自分を自覚して、世俗の騒音から、神の前に、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、正しくなることでも、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。人間は、どこまでいっても、不完全です。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手段であり、それによって、逆に唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自己中なので、他者の影響を受けません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想がベースなのです。
 
楽山は、恥知らずで、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、怠慢を貪って、楽山の言うことを聞いておればよいと、自己満悦教?を広めたがっています。
 
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神?相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしてきます。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか。楽山は、自分以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。
 
聖書は、人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を知る心がある人には、響くものです。
 
響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。
 
楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない、ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
「これは間違いなく本物だ!」とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。批判者を装って、自分の自己中妄想に染めようとしているのです。
 
「恥ずかしながら」「よくよく反省したい」・・楽山の反省芝居に、だまされないでください。こう書いておけばいい・・という軽さで書いてきます。楽山は反省したことなど一度も無いと思います。楽山は非を認めることができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、理路は詭弁であり、情緒的感受性に欠けており、洞察のない屁理屈だけしか持っていません。満足するのは、楽山だけであり、誰も、何も、深くて良いものを受け取ることなどあり得ない、口先の虚偽につながってゆきます。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語とトホホ言語と名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解できないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、皆無です。平板で、通念的なことから始めて、いかがわしい超常の話を語ることで悦に入るのです。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかなく、そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さ以外には何もないので、疲労と徒労が残るだけです。付き合い続けると、楽山と同じような、ボンヤリして鈍い人格破壊に至る恐れがあります。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。楽山ブログは、妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
恐らく、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害のために、生きてゆくのに、芝居をするしかなかったのかもしれません。しかし、それは無責任であってはならず、無反省であってはならないものです。どちらも楽山は無視して、人を傷つけるだけのサディストになっています。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも、
 
・・あっちに行け・・だけです
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
※ 
 
楽山は、神がいるなら神が悲劇から救うはずだから悲劇は起こらないはずなのに、救われない悲劇が実際あるのだから神はいない、という言い分のようです。楽山の考える幸・不幸を、知りもしないし信じてもいない神に向けて決めつけています。こういう柔和の欠片もない確信が悲劇をもたらすのです。
 
信仰からではなく、心からでもなく、楽山は、物と好都合だけを欲しがる欲望の人です。そういう人が、声高に、無神論なるものを吹聴しています。人は、有神も、無神も、証明できません。信仰という形無きものは心の中で活きています。それが分からないのが、楽山のような心無き者たちです。
 
楽山の大きな罪そして偽善は、神に代わる救いを何も提供できないことであり、さらには、絶望している人に、神はいないぞと、傷に塩を塗るようなことを言っているに等しいということです。絶望を解決できず、いかなる救いも知らず、自説自慢だけで、口だけは減りません。
 
信仰者としては、どうしようもない地上の世界だからこそ、神という最善の絶対者を信じ仰ぐことが必要になるという動機であります。そして、救いがあるとは思えなかった人が、キリストの愛と共感に導かれて、祈りにおいて神の前の正直さだけを捧げて生きているのです。
 
神は、その全能を、人の卑しい欲望含みの思考で分かるように示すことは、なさらないのです。神の救いは、地上だけでもないかもしれません。例えば、地上以外のことについて、感性の貧困な楽山は、ホラー以外、何も希望を語れないにもかかわらず、神?とか霊について得々と語る偽善者です。
 
神と人を引き離そうとする反キリストの幼稚で次元の低い話に惑わされないでください。信仰者も、あの世の希望だけにすがっているわけではありません。理屈ではなく、既に、地上において、キリストの気高さへの憧れと共感という賜物を恵まれて、キリストを忘れられない人が、信仰者になります。
 
 
ずるっとだまして知らぬふり

ずるっとだまして知らぬふり
 
 
(2021年)
(2022年07月30日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  台風一・上陸間近
 
台風は上陸するらしい
お前はもう終わりだ
おしまいだ
と言わんばかりに
 
風音が家を壁を窓を
軋(きし)ませる震わせる
時々金物か瓦か何か固い物が
ぶつかり合う音が聞こえる
 
外のバイクは大丈夫か
月極駐車場に置いてある車は
夏に除草剤を撒(ま)いた庭に
秋になって思いがけず
生えてきた草の中に
咲いていた赤紫の小さい花たちは
テレビは終夜放送で台風情報
 
外は荒れ狂っている
 
言わんばかりに
死の実感を持たないのは
お前だけだと
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学も、このタイプですね。
すべての宗教が入ってて、「俺様偉い」と。
>>引用ツイート
@rumrumrumrum
 · 21時間
もう一回、韓国の統一教会の
孔子とブッダとキリストとコーランが腰に手を回し合う像の写真を載せておこ。コーラン(本)と仲良くしてるキリストが不憫。
カルトって「全ての宗教がオールインワンで入ってます」みたいな思想好きよね。聞いてみたら、すっとこどっこいの「俺様偉い」の内容だけど。
<<
午後9:27 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
すべての宗教より「俺様偉い」と思っているのは楽山です。自己愛性人格障害の楽山は、宗教も信仰も見下ろす視線しか持っていません。伝統宗教もカルトも、同じ視線で見ています。霊言などの超常が宗教だと思っているのです。聖書も読み方も、頭の中だけの辻褄合わせだけで、心が無いのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>
唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。
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これは耳に痛い言葉だ。新興宗教にハマって、「これこそ、本当の真理だーっ」と思いこんでしまった経験があるので。
>>引用ツイート
本ノ猪
@honnoinosisi555
 · 7月28日
「唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。唯一無二の真実を宣言するということは、言葉を「急速冷凍」して、その結果、新しい意味が現れる可能性を狭めてしまうということです。」(伊藤守監訳『現実はいつも対話から生まれる』P49)
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午後9:08 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
「新興宗教にハマって」は、かなり嘘くさいです。楽山は、真理=自分の思想、という見方です。つまり楽山は「世界をたった一つの固定された言葉へと単純化」して客観視だと思い込んでいるのです。その結果、心無いために、洞察も根拠もなく、言論を月並みな「急速冷凍」食品にして満腹しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
kazu 訳あり3児育ててます(^^)
@kazu75543205
精神科から親子がポロポロ泣きながら出てきた。子に病名がついたらしく、母親が「今まで叱ってばかりでごめんね。そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいいよ。あなたはあなただからね。お母さんがいるうちは全力であなたを守るから!」と話していて、盗み聞きした私号(泣号)(泣汗マーク)
午前11:24 · 2021年7月19日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
自分の精神的利益のために都合がよいと思ったら、人の迷惑お構いなしに引用してくる楽山を批判しています。楽山は、どこまでも正義の味方のふりをして、背伸びして、背伸びして、自分の言うことは意味があると思わせたくて、顎を外しかけています。
 
楽山が、これを引用するのは、「そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいい」というところでしょう。楽山は、自分も、こういう脳で生まれてきたから悪くない、そのままでいい、と言いたいのです。違いが分からないのは幼稚すぎます。
 
これまでも、言葉面だけ都合のよさそうな話を、本から、ネットから、引用してきた楽山です。反省と修正のための知性と感性が足りないことの証明です。言葉面だけで、直感がないのです。自分で弁明できないから、人の口を利用して、その目的は、自分の正当化・・なんて、呆れた話です。
 
不可抗力の過ちや病気と、悪意からの悪行は違います。楽山は、意志を持ち、その意志によって、嘘を吐き、詭弁ばかりを弄してきたのです。これが悪くないなら、この世は、悪人の天国になります。楽山は、だんだん、程度の低い詭弁を弄するようになっています。
 
過ちを認めて、親が責任を負うのと、楽山のように、非を認めず、無視して、無反省、無責任に、悪行を続けるのとは、全く違います。大人の年齢である楽山の責任を負うてくれる人はいないでしょう。この話を、お涙ちょうだいにおとしめて、楽山は、恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山が、他者を引用するとき、必ずと言っていいほど、楽山の都合に合わせた暗示か詭弁の作為が働いています。読者が読んで何となく良い話として受け入れることを楽山は狙っているのです。どこまで、いつまで、言葉の盗人家業を続けるのでしょう。最低だと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
罪悪感のない、真剣味のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山を批判しています。楽山が書けば書いただけ、その病理と症状が現れてきます。それでも書いてくれば、それが、無反省で無責任で無神経な、楽山という人格だという証明になってゆく経過です。
 
 
 
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  無責任の楽山が批評(2)?
 
 2022年05月07日
 信者と批判者の対話(3)降りかかる火の粉
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 
  抜粋して批判。
 
 
楽山と遣り取りをして、社交だけではなく、反対意見を言うと、火の粉が降りかかってきます。楽山は、自身が批判されたときに返すだけの、まともな理路を持っていません。だから、社交の世辞と褒めてくれる人しか相手に出来ないのです。人格障害だからです。
 
 
*つづき
前記事のつづき。
*まえおき
今朝、ツイッターを見たら、初夏氏が拙ブログを話題にしていました。場所は、ここです↓
(省略)
ご覧いただければ分かるように、初夏氏のツイートは、文章の区切りと、ツイートの区切りが一致していないので分かりにくい。
ここでは分かりやすさを優先して、文章の区切りによって引用し、その感想を書くことにしたいと思います。それでは本題に入ります。
 
楽山の文章は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の我執から書いているので、真に分かりやすい文章は書けません。世辞か社交か、同じことを繰り返してくるかでしょう。そして、こちらを粘着するストーカー扱いしてきます。知性も感性も障害されている人です。
 
 
*悪癖
 まず初夏氏は、当ブログの記事について、こう書いてます。
昨日、久々に「退屈な文章」を読みました。
多数の誤解に満ちているので一文書いておきます。
①>ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
②>根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」
③>信者である(中略)大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為(中略)信者の論理にすぎない。(中略)まずは〈大川隆法=神〉であることを証明(中略)無理である。
 初夏氏は、不必要な煽り、印象操作をする癖がありますが、それがここでも出てます。「退屈な文章」「多数の誤解」というのがそれです。
 また初夏氏は、相変わらず引用ルールを無視してます。引用するときには、きちんと引用元のアドレスなどを明示しないと、読者は、批判、引用、引用元を確認した上で判断をすることができないでしょうに。
 
楽山は、悪口を言うことだけは達者なようですが、批判の理路ではなく、相手を責めることだけが目的です。指摘はするけれど、他者の欠点を書いて、自らのことについては、全く反省しない人です。無反省、無責任、訂正不能で、書いて、公開して、褒められたいという我欲だけだと思います。
 
 
*ごまかし
①私がツイートを消す理由は「他者を傷つけるかもしれない文章を長々と掲示する事は悪行だから」です。これは社会通念と完全に一致します。③とも関連しますが、アンチ思想に立てば、消されれば困りますよね。
他者を気遣ってツイートを消した場合は、同じツイートは二度としないものです。「あんなことを言って申し訳ないことをした。もう二度と言うまい」というように。
でも初夏氏は、ツイートを削除しては、また同じツイートをすることを繰り返しています。自分のツイートに批判リプがつくと、それを消して同じツイートをやりなおすということもしてる。
上の説明では、こんな風に消したツイートと同じツイートをする理由にはなりません。よって上の理由は、後付のごまかしです。
 
どう見ても理路の苦手な人を、いじめることに快感を覚えるようです。分析や理路に見せかけたことを書いてきますが、自らは、全く責任を負う気がありません。以前、楽山は、否定を書き、肯定を書いたから、責任問題は生じない・・などと言っていました。そういう、いい加減さが、楽山の特徴です。
 
心理学を心霊として解釈したり、論理を書こうとして矛盾だらけになって訳の分からない結論を書いたり、曖昧な命題を勝手に拡大解釈して自己正当化の根拠?にしたりと、だますための嘘と詭弁しか持っていないようです。AならばB・・などといった論理学の初歩の話で混乱させてきたりもします。
 
 
*独り決め
②『アンチ論法』『「神様」のいる家で育ちました(第5話)の批判』等は、キッチリとした根拠に基づく結論です。企業秘密なので詳細は言えませんが・・・
人はだれでも、自分はきちんとした根拠に基づいて意見をいっていると思ってるものです。
だから自分で自分の意見には、きちんとした根拠があると言ってもしょうがないです。
 
楽山は、修正が出来ない人です。都合が悪くなると、スルーすると言って無視します。ときに、常軌を逸したような長い文章や多数の記事を、読者のことなど考えずに、衝動的に書いてきます。他者に分かりやすく書く、根拠を示して説明する、などが、楽山は出来ません。理路を養っていないからです。
 
 
*詭弁
③これは分かりやすい詭弁です。既に画像に記しているように「画像や言葉の対象が皆様の家族であった場合(中略) それが答えです」という事です。自身の好悪がどうであれ、他人の両親へは一定の敬意を払うのが常識です。→
2022-05-07 x
公人を批判することと、一般人を批判することを同列に扱うのは詭弁です。
 
曖昧な命題を、個別の、たとえば自分に当てはめて、また、逆に、個別のことを、一般則みたいに扱って、混乱して、混乱させるやり方ですが、初期には世辞が入るので、分かりにくいこともあります。数か月遣り取りをしたことがあり、徒労と疲労を受け取るだけでした。相手にしてはいけない人です。
 
 
*聖職者
同じく、多数の人が敬愛する人物を「私は興味が無いから」という理由で罵倒してはならない事も常識です。
私はそういうことをした覚えはないので、誰を念頭において書いているのか分かりませんが、宗教家は聖職者であろうから、よりいっそう厳しい目で見られるのは当たり前のことです。
ましてや、神を自称したならば、相当の批判、非難、嘲笑がまきおこるのもやむを得ないことです。それが嫌なら、そんなことは言わないことです。
 
楽山は、有名人の著書を読んで、自分に都合のよいところだけを引用して、自己満足する生業です。間違いを自覚できず修正しません。そういうことが、批判を始めて約3年も続いています。言論から退却するべきですが、病質のために、何とも思わずに続けていられる、これも、症状なのです。
 
 
*ごちゃまぜ
ちなみに、画像がHSの教えです。 
2022-05-07 O
何かを信じるか信じないかという問題であれば、人格者かどうかは関係あるかもしれません。
でも何かが有るか無いかという問題と、人格者かどうかは別のことです。
これらをごっちゃにしてはダメです。
 
信じるか信じないか、という問題と、有るか無いか、という問題は、どちらも、人格が関係ないとはいえないでしょう。楽山は、霊能気取りと評論家気取りがあり、何も信じてなどいないと思いますが、混乱と疲労を意図的に与えることは愚かな悪であり、それらを、ごっちゃにして、整理できていません。
 
 
*おまけ
他所で書いたことだけども、誹謗中傷に対しては、私は心の教えの実践で対応します。
2022-05-04 1人を信じ、世を信じ、神を信じよ
2022-05-04 2弱き善人であってはならない
2022-05-04 3 奪う愛はいけない
2022-05-04 4相手を変えようとするのではなく
この他には、批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるものであるから、ありがたく頂き、反省の材料にすればよいという教えもあったでしょう。自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくるという教えもあったでしょう。
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
「批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるもの」ならば、楽山は、批判を受け取るべきですが、実際には、都合の悪いことは全て無視してきました。実に、白々しい、そして、頑強な悪意を表しています。正気でないから、このような、心にもないことが言えるのです。
 
「自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくる」・・それが、ずっと起こっているのですが、楽山に自覚は見られません。真っ赤な嘘であり、キレイごとを言って、ごまかそうとしています。いちばん、反しているのが自分なのに、まるで気づきません。
 
 
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
楽山は、「他人の言葉が」全く気にならず、無視できる人です。そうやって生きてきたのでしょう。だから、いつも、軽々しく物を言います。自分の発言が自分を斬っていることに、まるで気づかないのです。破綻だらけなのに何度も言ってくる楽山のような人と交わると、人格を破壊される恐れがあります。
 
 
◇◆ 追記 2022.5.7 ◆◇
*忘れ物
初夏氏のはじめのツイートについて、感想を書くのを忘れてたので、ここに書いておきます
画像に記していますが、文句・悪口・挑発・アンチ論法でない限り「否定・裁き・論破」は行いません。しかし先日の某氏は、私が指摘しているように『暴言・開き直り・悪口・ズルい行動・逃げ回る姿』が著しい人でした。だから論破させて頂きました。
 
楽山は、自己中なことしか言いませんから、「論破」など出来ない人です。他者を混乱させて、参らせて、退かせるのです。楽山の屁理屈のペースに嵌ってはいけません。それは、人を傷つけて悦ぶサイコパスの所業なのです。いかなる議論にも論争にも、楽山は参加する資格のない人です。
 
 
その遺恨から、当人や彼のお友達達から、→
私へのゴウゴウとした悪口が湧き上がっています。心を鎮める事をお勧めします。
まず結論からいうと、ここでも初夏氏の悪癖がでています。それは何かというと、事実と認識判断をごちゃまぜにする癖です。
 
楽山は、宗教も信仰も知りません。頭の中にこしらえた概念を神と見なして侮辱する無神教カルトの一人です。楽山は、自己愛から、世辞は言っても、執拗に繰り返される罠であり、聖書にあるような人を獲る漁師ではなく、人を傷つける狼の性根だと思います。
 
 
たとえば初夏氏は、次のことを書いています。
某氏には、暴言、悪口などがあった
某氏を論破した
某氏とその友人らから恨まれ、悪口を言われた
これらはすべて、初夏氏がそのように認識したということにすぎません、でも初夏氏はさも事実であるかのように書いています。
このように、事実と認識判断をごちゃまぜにして印象操作をするのは、初夏氏の悪い癖です。
 
楽山は、相手の弱みにつけ込みます。自分の弱みを知りません。自己中のために、理路は小学生並みになり、学習と成長がなく、感性は殆どありません。つまり、思いやっているような優しさ芝居はするけれど、心の温もりと潤い、本当の優しさと悲しみを持っていません。言葉面に騙されないでください。
 
 
ちなみに、まともな人は、事実と認識判断はきちんと区別しています。
 
楽山は、それが出来ない人です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスには出来ないのです。出来ているかのような言い方は、楽山の保身に過ぎません。恐ろしいほどの先入観と偏見だけが妄想的に楽山を支配しています。
 
 
たとえば、上でいえば、きちんと某氏の発言を提示して事実を示した上で、自分はこれは暴言と判断したと書くものです。悪口、開き直り、逃げ回る姿、論破などについても、そのようにするでしょう。
 
楽山にとって、事実も真実も判断も、自己愛の世界で決めているので、客観性がありません。優しさ気取りの暴言者であります。スルーすると言って無視、衝動書き、嫌がらせ、嘘と詭弁、手段を選ばない傲慢不遜を隠しながら、餌を待っている、どす黒い人です。どうか近づかないでください。
 
 
初夏氏は、もし本当に対話を望むのであれば、ここのところはよく理解してほしいと思います。
 
人間として必要なことを、何も理解できていない楽山が言っています。それこそスルーでいいと思います。そして、決して関わらないでください。遣り取りしないでください。近づかないでください。楽山は、遣り取りと議論の対象として、甚だしく失格です。
 
 
ところで少し話は変わりますが、初夏氏のスクショ嫌いは、事実と認識判断の区別をせず、〈認識判断=事実〉と安易に考えてしまいがちで、そのためにスクショ提示の必要性が理解できないことも一因でしょう。この点についても、よく考えてみることをおすすめします。
 
楽山は、妄想と偏見ベースの誤信念による判断です。罪悪感がないので、平気で、嘘を吐き、傷つけてきます。そういう場合、丁寧語こそが、いっそう、傷を大きくします。つまり、楽山は、丁寧に、傷つけてくる人なのです。この丁寧さは、だんだん、最悪の鬱陶しさから悲劇になるでしょう。
 
言論は、事実と当為があるわけですが、楽山は、事実だの証拠だのと言ってきます。楽山の事実には多くの嘘があり、さらに、詭弁で捻じ曲げられています。楽山は、当為つまり「べき」の付くことは、殆ど持っていません。我欲が勝っているからです。
 
楽山は、事実をねじ曲げます。そして、どうするべきという節操の当為がないのです。批判してきた3年余り、楽山に対する最悪という判断は、楽山の記事を読むたびに強化されるだけであります。乱暴者だと分かるほうが、よっぽどマシだろう、という私の批判経験の積み重ねになっています。
 
 
 
 2022年05月06日
 信者と批判者の対話(2)大川隆法は神なのか?
  抜粋して批判。
 
楽山の論理モドキの卑怯さは、楽山が、罪悪感のない、一方通行しか持ち合わせず、とても卑怯な、自分のことを棚に上げたまま、人を批判し、傷つけ、あざ笑うというやり方です。しかも、それは、真実の追求とは何の関係もなく、楽山の我欲からの欲求に過ぎず、百害あって一利なしなのです。
 
 
*はぐらかし
最後に、感想を一言。
初夏氏は、いつも質問には答えず、はぐらかしてばかりなのだが、今回もそうなっている。
大川隆法が神であることを証明できるようなことを言いながら、結局、その話から逃げてばかりいる。
こりゃダメだ。
 
はぐらかしも、逃げてばかりも、楽山の得意技です。それによって、楽山の評価は、ますます、どこまでもどこまでも地獄のように堕ちてきたのです。いちばん卑怯で、いちばん「ダメ」なのは楽山です。
 
 
つまり初夏氏の主張は、〈大川隆法は神である〉という信仰に基づいているのだ。だから、教団内では通用しても、教団外では説得力は持たない。〈大川隆法は神である〉と証明できない限りは…。
 
神を証明しろ・・というのは、キリスト教について、楽山と無神教カルトが、声高に言い続けていることですが、まだ言っているということは、学習能力がないのでしょう。神を証明できたら、信じる必要はないということです。ずっと、この愚かな、いちゃもんのままなのでしょう。
 
 
もしこの証明をなくして、教団外に強要したら、それは信仰の押し付けでしかない。信仰への配慮、尊重を求めることは間違いではなかろうが、「神である大川隆法への冒涜は許されない。大川隆法を神のごとく敬え」というところまで行ったら、それは無茶である。
 
信仰における愛とか共感とかを、楽山は全く理解できないので、語ることが出来ません。神と人の関係と結びつきは、少なくとも、破れた革のような、楽山の概念では、分からないままなのです。そういう人は、この世の厄介者として生きるしかないのでしょう。
 
 
初夏氏にはこの辺りの道理を理解してほしいものだと思う。もしこの道理をわきまえず、自らの信仰による正義を振り回すなら、このような悲劇をもたらすことになるだろう。そんなことは避けるのが吉である。
 
他者に言う前に、自分が道理を理解していないのだから、楽山の丁寧を装った暴論は、思想にならず、学問にならず、共感にならず、ゆえに、愛にも見放されているようです。愛と悲しみの代わりに、笑いと憎しみを育ててきたサイコパスの楽山は、真実の敵です。
 
 
楽山は、資格のない者が、他者を批評・批判すると、身の程を弁えない、資格がない、といった評価が付いて回ることに気づかないのでしょうか。なお、楽山は、ツイッターを非公開にしましたが、また、公開に戻したようです。どういう不安定な心境で生きているのでしょう。
 
 
我が身を省みない者

我が身を省みない者
 
 
(2022年05月09日)
 
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
遡(さかのぼ)ること
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
 
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでもいいが
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
 
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
 
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る

まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない

吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、どこまでも、人の言うことを聞かず、世辞と社交と、何か言われると、嫌がらせだけで、生きてゆけると感じてしまうところから、楽山の人生は、すでに限界を見せてきたのでしょう。多くの不祥事が隠されているような気がします。全部、人のせいにしてきたから。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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