ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:正直

 
  主の祈り2
 
 
主の祈りは、
イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文。
 
もちろん、主が祈るためではなく、聖書・福音書によって明らかなように、私たち信仰者が祈るためにあります。そのお手本となるのが、主の祈り、と呼ばれているところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
 (マタイ6:6-9、新約聖書)
 
祈りは、独りで捧げるものだということです。信仰者は、神の前で生きているようなものです。すなわち、神は、私たちの言動と心の全てを見て、既に、知っておられます。そういう、ごまかしの利かない神に対して、告白や願いを祈るのだから、正直以外は、通用しないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 (マタイ6:9-13、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
11:1
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。 
11:2-4
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 (ルカ11:1-4、新約聖書)
 
ここでは、弟子に乞われて、キリストは、祈り方を教えています。弟子たちだけでなく、私たち信仰者もまた、教えによって、見習うことになります。もちろん、こう祈っておけば大丈夫・・ということではありません。
 
主の祈りは、信仰者の祈りの定型文ではありません。決まり文句で祈るのではなく、一人一人がそれぞれ、個人の信仰生活において、告白と悔い改めと感謝など、正直に祈ることになります。
 
私たちが、信仰者であっても、ひどい思い煩いに支配されることなく、生きることが許されているのは、ひとえに、神が、悔い改める者に対しては、限りなく寛容だからです。
 
既に、全てを見抜いてご存知の神様は、信仰者が、自発的に、ただ正直に祈ることを待っておられると思います。正直でなかった場合は、別の機会に、正直を取り戻して祈ればよいのです。このことは、神の寛容を表しています。遅れた正直は、先んじる偽りよりは、マシなのです。
 
下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。
 
(主の祈り:文語訳)
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
 」
 
神の計画の成就と、日々の願いと、赦しと、救いと、讃美が、述べられています。個人の祈りにおいては、さらに、具体的に、良かったと思うこと、感謝、悔いること、罪の告白、罪の赦しを願うこと、悩んでいること、・・などを、祈り願います。正直であることだけが必要十分条件です。
 
人が神に祈る時に、立派な祈りなどは、ありません。全知全能・絶対完全・永遠不変の神の前では、全知でなく全能でなく絶対でなく永遠でなく、不完全で移ろいやすい人間は、皆、口下手であります。いかに飾ることが空しいかということです。
 
 
  悪い祈り(信仰)の例:
 
「キリスト様へ、私たちのために死んでくださって、ありがとう」・・キリストの十字架の苦痛が、いかばかりであったかを忘れています。私たち信仰者のための十字架であっても、キリストの犠牲の苦難に共感しておれば、言えないはずです。
 
このように、人間としての弁えがなく、心無いところから、人間離れした悪い祈りが生まれます。キリストの罪の贖いによって赦されるのは、祈りに答えてであって、無罪の境地を与えられることではありません。救いの辻褄を覚えるだけでキリストの十字架の苦悩を知らない者・・になってはいけません。
 
「聖霊には昨日もお会いして話しました」・・人間には、聖霊と、陶酔気分を区別することは出来ません。聖霊は神聖であり、私たちは不完全なのです。どうして聖霊だと分かるのでしょう。こういう人間としての身の程を弁えない発言は、カルト的な超常願望から来ています。
 
聖霊体験は、無いとは言えないが、人が聖霊だと断定してよいものではありません。本当の聖霊体験を経験した信仰者は、恐らく、恐れて黙しているでしょう。そういう恐れを知る者にしか聖霊体験は起きないと思います。預言についても同様です。神秘は見せびらかせるものではありません。
 
信徒も預言すると聖書に書かれているからと言って、それを求め、さらには、それが起こったと言うのは、これもまた、神聖を決めつける超常願望の人間離れなのです。人間性を失った者には、救いも恵みも与えられることはなく、そういう者は、自分は特別という願望から自分信仰に向かっています。
 
自分は特別という意識がもたらす災いの一つの類型として、豪語があります。自己顕示欲で、または、言い込められて焦ることで、豪語は起こります。言っている内容が、超常の言葉で現実離れしていることや、アホみたいに幼稚か当たり前だったりすることから、区別できると思います。
 
異言というものもあります。聖書に書いてあるからと、神秘を探し始め、見つけたい、特別になりたい、という願望から、見つけた!・・という有頂天に至ることがあります。預言と同じように、内容を見る必要があります。神がかりになりたいという願望が妄想になる例でしょう。
 
神と一体になったら、神になるとでも思うのでしょうか。神の全能に、不用意に近づこうとすれば、一瞬のうちに燃え尽きる・・くらいの、神への恐れが必要です。信仰は、のぼせ上がることで高慢になり、精神病理になることがあります。畏れではなく恐れであります。
 
 (使徒行伝、口語訳)
19:5
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。 
19:6
そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。 
19:7
その人たちはみんなで十二人ほどであった。
 (使徒19:5-7、新約聖書)
 
神を恐れる、ということを、神を敬う、神の前に畏まる、などという程度の気持ちしか持っていないようになると、裁く神、戒める神、懲らしめる神を忘れてしまいます。全能と不完全の違いを弁えないようになってしまいます。それは、もはや、信仰ではありません。
 
信仰は、お伽噺でもヒーロー物語でもありません。命を支える水脈です。人間離れしてゆく方向にはカルト化しか待ってはいません。人間として正しいならば、神秘に恐れをいだくはずです。敬虔は、神聖への恐れから生まれます。ゆえに、それを欠いて幻を語っても、"特別" に悪くなるだけです。
 
信仰の恵みは、人間らしさに与えられます。一方、超常の魔法のような奇跡は、神に任されることです。信仰者は、新しい命と、生きるための方向と、時々の癒しを得て、よりよい人間になることを目指すのであって、そこを離れて、キリスト信仰の救いはないのです。
 
信仰は、人間らしさの真実を追求することです。全能の神の存在を意識して、自らの不完全と罪深さを知ることから始まります。であるのに、超常の豪語や自覚?に走ってしまうのは、欲望によるものであり、信仰の敬虔に逆行するものです。
 
おびただしいカルト系が、望ましくない方向へ向かっています。そして、そういうカルトや妄想家や自己中で人の話を聞かない無反省・無責任の流れは、人間に対するキリストの、この上ない共感とは、全く反対の方向へ誘導し、煽り、刷り込み、そして、人格を破壊するものです。
 
 
楽山の語る理屈モドキは、よく読めば、一度も成り立ったことがありません。さらに、表面的な理屈だけで、宗教を理解したことにしている楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という精神病理の檻(おり)に捉えられています。
 
楽山は、優越感のために共感がなく、反省せず、決めつけに生きています。楽山の、やさしげで、柔和を装う筆致を信用しないでください。騙された人からの "優しいお人柄ですね" などというコメントに満悦し、書くことに自己満足するだけで、真実追求の妨害者でしかありません。
 
 
絆(きずな)と祈り

絆(きずな)と祈り
 
 
(2021年11月17日)
(2022年12月01日、再録+加筆)
 
 
 
 讃美について
 
神を賛美することは、自分がいかに低く罪深い立場から神を仰ぐ必要があるか、という実感から生まれます。しかし、讃美する自分は正しいキリスト者、というような信仰自慢とお祭り騒ぎのニュアンスを感じることがあります。神は、絶対であり、人に讃美される必要はありません。
 
自分という信仰者は正しいという自覚で、喜んで~有頂天で、神を賛美するのは冒涜であります。そこにあるのは、信仰者の姿ではなく、カルト的陶酔気分か、または、褒めてなくては、という強迫観念、あるいは、褒めればよい、という自己満足でしかありません。
 
信仰者が讃美して、それが、信仰とダイレクトに結び付いたのは、まさに、迫害が身近に迫っていて、結束しなければならないという時代の、切実な必要と欲求によるのであります。それを、現代において真似て、いい気になる讃美信仰はキリスト信仰とは言えないでしょう。
 
 
 
  器を
 
この両手に囲めるだけの空を下さい
消えるものは消えるままに
この両手に掬えるだけの海を下さい
沈むものは沈むままに
この体に受けとめられるだけの光を下さい
失うものは失われるままに
この足に踏めるだけの大地を下さい
崩れるものは崩れるままに
この目に映るだけの奥行きを下さい
壊れるものは壊れるままに
喪失の限りある世界から
自らの喪失へ連なる調べを
受け入れるだけの小さな器を下さい
器はいつか喜びに砕けるでしょう
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀り
私が手に入れ
あるいは失ったもの
私を誘惑し
私を陥れ
私を快楽に酔わせ
私を責め苛むものから
どうか私を救い出して下さい
 
私が裁かれるべきであれば
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が跪いて俯いて
裁かれる姿勢で受けられますように
 
言い渡される宣告の前に
我が身の罪を食い
跪(ひざまず)かせて下さい
せめてその時には
私の罪と悔いが全て見えますように
 
できればその時までに
試みに会わせず悪より救い出してください
 
何よりも
ずっと
ずっと
私の躓(つまず)きを見ていてください
そして
その果てに私を拾い
お救いください
 
 
※ 
謀る(はかる)、陥れる(おとしいれる)、
跪く(ひざまずく)、俯く(うつむく)、苛む(さいなむ)、躓く(つまずく)
 
 
   契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 取税人とパリサイ人の祈り、という聖句を挙げておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:9-14
 
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
 
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
 
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
 
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  大事なもの4
    (過去の記事を加筆して再録)
 
 
大昔からの、聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
今それら奇跡を当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こっていない奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
それに
物や肉体の奇跡を起こすのは神の業です。
神に任せるべきことです。
 
超常の奇跡を当てにすることは的外れと知るべきです。
共感できないのだから心の縁にもなりません。
 
いたずらに感情を高ぶらせて
信仰と讃美を豪語するのは
偽善者の、のぼせか、三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人々と交わり
キリストが人間を深く洞察して
人間の悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
共感なき者たちによって捕らえられ
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として
どこまでも人間であるべきです。
天国を待ち望む民であり続けるためには
考えるべきことがあります。
 
少なくとも今は
当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で覚えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように耳に繰り返したりして
それで深めようとする信仰観は
むしろピント外れの偽善的徒労だと思います。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感したのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として聖書から学ぶべきことであり
信仰者として縁(よすが)にする信仰ことなのです。
 
それを理解することを魂の奇跡と呼んでいます。
物や肉体の奇跡に対して
心の奇跡と呼んでもいいと思います。
 
神の僕(しもべ)ぶった高慢ではなく
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋に
主の眼差しが注がれてゆくように
祈り乞い願い
癒しと救いの成就を待ち望む人間の姿を
神様に見ていただきましょう。
 
(旧約聖書:詩篇56:8)
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
嘆きがあれば
嘆きを正直に告白して祈りましょう。
それが祈りだと思います。
 
できることをして
心から感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが信仰生活だと思います。
 
 
 感謝と讃美について
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
1:5
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 
1:6
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
 (ローマ1:5-6、新約聖書)
 
「愛のうちに」「ほめたたえるためである」と書いてあります。感謝と讃美は、しなさいと言われて、するものではありません。せずにはおれないときに、正直な気持ちで、するものです。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。 
3:16
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 (コロサイ3:15-16、新約聖書)
 
「いつも感謝していなさい」・・できるでしょうか。この訳のままでは不自然な感じを受けます。
「感謝して心から神をほめたたえなさい」と書いてあります。感謝は、時々に生まれるものであって、しなきゃいけないからするものではありません。
 
「感謝して」「心から」・・つまり、感謝は、心から溢れるように、正直な気持ちでするものです。
感謝と讃美を、無理にして、それが信仰だと思うことのほうが、怖いのです。特に、讃美は、心からではないときにすれば、信仰とは無縁の儀礼~世辞~信仰自慢になってしまいます。
 
感謝と讃美は、折々に、自発的に、そうしたい気持ちに満たされた時に、するべきことです。それよりも、罪人としての自覚が大切であり、罪深い自分を、正直に捧げる告白の祈りが、信仰においては、必須だと思います。
 
縁(よすが)
業(わざ)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
僕(しもべ)
讃える(たたえる)
 
 
祈り 孤独

祈り 孤独
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年11月18日、再録+加筆)
 
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
哀しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
悲しい歌が今も好きです
 
 
  口をあける
 
死なずにいることしかできませんでした
夜ひとり口を空ける
呆けて待つ姿勢
それではいけないか
それではいけないな
 
遠くで犬が吠える
狼の遠吠えに聞こえる
過去を呼んでいるように聞こえる
次々に犬が吠える
今を憎んでいるように聞こえる
また遠くで吠える
未来に向かって叫ぶ牙のようだ
 
遠吠えしてみたい
吠えてみたい
叫びたい
夜ひとり口を開ける
声が出ない
入る
 
聞き取る間もない
 
犬歯を折る
口を引き裂く
喉を突き破る
頸椎を砕く
延髄を貫く
 
罪か罰か知る由もない
 
過去を呼べない速さで夜の風穴
涙腺を干す
 
 
  曲がり道
 
曲がり道はいつも刃物
十字路で振った
三叉路で濡らした
分かれ道を過ぎて拭いた
血と汗と涙
切った先に進むしかない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
それゆえ光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
 
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
 
 ※
 
 楽山の人格障害(抜粋)
 
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
エヘヘ・・が付いていそうな安易さを読み取ってください。誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」などではありません。「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  反面の偽善者3
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対してだけはは正直しか通用しない。
それだけでよいゆえに万人の救いとなる。
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ自分で体裁を整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しに包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
  反面の者
 
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
ああでもない、こうでもない、ていうか
それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
ずっと神聖に向かって
立小便をしている者たちだ。
真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
こうなってはいけない
というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
罪の門口に行って
やがて来たるものを待つためだろうか。
 
反面教師、即ち、悪い見本がいて、しきりに教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言う能力も資格もない。
 
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
滅びを自覚できない。
 
彼らは
自覚しないまま
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
信仰者は
信仰にとって破壊者となる偽善者に近づいてはいけない。
彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
偽善者を知ることは、ある意味、重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は、神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
信仰者は、神聖に対して、神聖の真理を知らなくても、救いの希望として、信じ仰ぎ祈るのです。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
偽善の色

偽善の色
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月31日、再録+加筆)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  共感性2
 
   (以前の記事を修正加筆しています。)
 
 
共感とは
共に感じること。
情緒や感動を共有すること。
相手の心情を全部でなくても理解すること。
相手と同じような心情を共有すること。
言葉だけではなく
相手を思いやること。
人間の最も大切な心です。
 
私のような者でも
少しは共感する性質があると思っています。
最近、台風が窓を破るのではと恐れましたが
自分が恐れるだけでなく
足らざるとはいえ
他者の無事を祈ってもいました。
我がことのように祈ったかは疑問ですが
全然気にならないわけではない
くらいのことは言えるでしょう。
 
特に、リアルな知り合いでなくても、
ほんの一部でも似た境遇だったりすると、
察している、察しているつもり、察していたい、
という気持ちが湧いてくるものです。
 
共感は人間の性質ですが
神様も人間に共感する御方です。
さらにキリストの人間への共感性は深く
鋭く悩み苦しみ悲しみを見抜いて
命を惜しまぬほどの共感と愛を表しました。
人間は、なかなか、そうはいきません。
 
知ったという発言だけなら誰にでもできるでしょう。
しかし神については、人には、思いこみが入ります。
入らないようにしましょう、ではなく
入るものだという自覚が必要です。
 
人は、ある時点においては思い込みの生きものです。
それを補うのは反省力です。
反省力も共感という土台の上に成り立ちます。
共感は信仰に近似してきます。
 
いつの日も
人は不完全です。
人の心は不完全です。
人の思考も不完全です。
人の言葉も不完全です。
人の信仰さえも不完全なのです。
 
ですから不完全な一人が
不完全なもう一人の心を
完全に理解することは出来ません。
 
ましてや不完全な一人が
完全で全能なる神の御心を理解するなど
到底できることではありません。
 
このことを理解しておかないと
カルト的な決めつけの信仰?になってしまうでしょう。
 
決めつけないことのベースには
人間の不完全つまり罪の性質への人間同士の共感があります。
それゆえに個別でありながら信仰の心を分かち合うことが
ある程度は可能になります。
 
福音書におけるキリストと救われた人々との交流は
物や肉体の奇跡とは比べものにならないくらい
福音書の最も重要なところです。
 
キリストは人を見抜き
人への惜しみない深い洞察と共感のために
特に悲しみを共にされます。
キリストが人生の同伴者と言われるゆえんです。
 
 
キリストに敵対するカルト思想の者たちは
殆ど共感性を持ちません。
ゆえに私たちも彼らに共感を覚えません。
そういったところ、つまり共感性の有無が
両方とも神を唱えているにもかかわらず
真の信仰と反信仰を分けるだろうと考えています。
 
 
共感は高等感情ですが素直な心です。
やさしい思いやりの心でもあります。
 
 
やさしげな言葉は使いまくるが共感性はゼロで
共感は必要ないとまで言っていた偽善者もいて
根拠は聖霊と神の啓示だと言い
議論の対象にならないと言っていましたが
元々まともな議論をしたことなど皆無なのです。
この人がキリスト者なら、この世は闇です。
 
信仰者めいたことを言い
別のときには否定的なことを言い
断定できないのだから
責任問題はないという者がいますが
学ぶ姿勢もなく
いい加減なことを人に言うのは人を惑わしたことになる
ということが分からないようです。
真実の追求において、
言論の責任を負わない者に言論の自由はない
ということを何度も突き付けるべきです。
 
自分が批判されて反論も弁明も返せない者は
別のところを批判する資格はない
ということは良心と常識があれば分かるはずです。
それが分からず批判されていることを無視して
正義の味方気取りで別のところを批判して平気でいる場合
次のようなことが考えられます。
1.常識的思考に欠陥がある。
2.良心が欠けているために共感性が身についていない。
3.最初から騙す目的と悪意のみである。
いずれにしても
受け取って反省し学習し成長する気がないわけですから
そのような者に他者を批判する資格はありません。
 
 
共感は、人間の場合
弱い人が弱さを自覚しているときに
おもに弱い人々の間で生まれます。
ふと思い出した聖句ですが
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間は、弱さを自覚しないとき
高ぶることが多く、共感することは難しくなります。
つまり、信仰者の共感は
自分の低さを知っている人間同士において生まれるものです。
それは信仰の態度でもあります。
 
共感は信仰を情緒的に成り立たせるものかもしれません。
また信仰の心を分かち合うときに必要なのかもしれません。
 
罪、低さ、弱さ、分かち合い、共感、信仰、
救われる人と救われない人を
人が区別するのは困難ではありますが
人を差別するためではなく
むしろ、自分が何を大切にして生きてゆくか
ということを考えるときヒントになるかもしれません。
少なくとも信仰の周辺事情ではないと思います。
 
このように、信仰については
教理的な言葉を駆使すれば語れるというものではなく
人間の日常の言葉の中に
信仰と切っても切り離せないものがある可能性を感じます。
 
信仰は人間のためにあります。
信仰は決して人間離れではありません。
 
すなわち信仰は
キリスト教の用語だけでは語れないところの
いわば懐(ふところ)の広さというような幅をもって
様々な境遇にある全ての人が
決して特別優秀になれるというのではなく
一人一人が個別なのだということを伝えています。
 
すなわち特別な悟りではなく
個別の事情において惹きつけ
私たちを招いているのでしょう。
 
ゆえに信仰において、
特別な学習・学問・能力によって獲得・規定されるものではなく、
良心からの敬虔と共感と反省と学習が可能な総ての人に
いかに不完全で罪深くても
信仰ゆえに人に与えられる恵みは
絶対の "神の義" とは異なるものとして
"信仰の義" と呼ばれます。
 
共感は、人間性に与えられた賜物です。
共感できる人は人間らしいのかもしれません。
欲望などと違って
信仰が支えて動かす良心の表れの一つであります。
 
良心については直観的に理解しているだけですが
良心の欠落をカルトなどに見ることが出来ます。
そこに欠けているものは、他に、
反省力、学習機能、自己修正機能、成長などがあります。
誰もが、自分で心がけるべきことで、誰にとっても必要なことです。
これらは、自己中心の自己愛やカルトなどに欠けていることです。
 
 
神を信じて、教理を学んで、
自分が特別になったなどと思わないでください。
また
自分が特別だから選ばれたなどとも思わないでください。
 
言ってみれば、上に書いたように、みな個別の恵みなのです。
個別だから違うところはありますが
優劣はないということが、信仰のもたらす恵みの特徴です。
 
信仰は、悔い改め、即ち、折々の正直な祈りによって成長します。
 
キリストに癒され、神によって赦されることは、
物や肉体に起こる奇跡よりもはるかに理解可能な、
悔い改めを通して起こる魂の奇跡に支えられる道であります。
 
 
深遠を

深遠を
  
              何となく敬意を表したい感じがしました。
             今は私がこのご老人くらいに年を取りました。
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年10月15日、再録+加筆)
 
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  ハンカチ
 
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性なんでしょうかね」と嘯(うそぶい)いて、みんないっしょでしょ・・とばかり、正当化する楽山に、騙されないでください。反省の出来ない人は、人間ではありません。楽山は、一種の、非人間です。人間離れです。気取りだけで出来ている男です。近づいてはいけません。
 
「自分もそんな風です」・・楽山も、ではなく、楽山が、異常ということです。正常ならば、人間ならば、反省しないということはないのです。何を考えて生きてきたのでしょう。恐らく、笑い、怒り、しかし、悲しみを知らない、罪悪感がない、反省しない、・・これで、人間のつもりでしょうか。
 
 
 
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  理解すること3
 
 
神は全能。人間は不完全。
ここから信仰を考える必要があります。
 
聖書は神の言葉であるが
私たちは人の言葉しか持っていない。
さらに
神の言葉だからと聖書を持ち出すとき
その解釈に人の言葉を使っている。
 
理解を目指す心の作業において
心が連動しているかどうかが重要である。
 
理解することは辻褄を合わせることではない。
辻褄合わせは多く自分に納得を強いて
分かったという思い込みに至っている。
恐ろしいことに、それを自慢することさえある。
 
理解は辻褄を超えたところにあり
共感という情緒的解放感を伴うゆえに
そこから活力と説得力が生まれる。
 
同じ言葉を言っても聞いても
心にあるものも受け取るものも
人と時と状況によって
特に学習と経験によって違ってくる。
 
ゆえに
理解するために説明するために
同じ言葉を繰り返せばいい
ということはあり得ない。
 
あるとき感動しても
次に同じものを受けたときは
感動したという記憶の知識になっていることが多い。
 
理解は心を揺さぶられる
という情緒的反応を伴う。
当たり前ではなく
気安く再現できることでもなく
辻褄合わせでもない。
 
知情意は分けられない。
分からない複雑な心を
便宜上、言葉で分けているだけだ。
 
多くの場合
辻褄が合うと分かったという。
数学ならそれでもいいように思われるが
初歩的な数学でも
整合性が分かっただけで嬉しいことがあるのは
そこから広がる世界があるからだ。
つまり数学においても
解放されて世界が広がることを理解と言う。
 
理解しなければ問題と答えを覚えるだけになる。
最悪なのはそれで理解を装うことである。
 
数学でなくても
理解は解放感という情緒的反応を伴う。
 
 
無自覚の無理解は辻褄だけにこだわり
同じ言葉を繰り返し
感動、理解、驚き、分かった、よかった
などと言うだけで
反省、トホホ、などと卑下して見せることもあるが
文脈の中の言葉の無味乾燥に気づかないで
殆ど呪文を自慢している。
そして負けないために
だます手口だけを覚えてゆく。
 
 
私の場合
数学は3次元以上が無理で学者になれず
国語は読書障害の傾向があって読書家になれず
絵画は遠近感覚が乏しく
音楽は楽譜の読み書きが全く出来ず
さらに寄る年波で健忘が激しくなり
対人関係が苦手で鬱も統合失調も怖くて
狭い部屋の中で独り言の多い私はどうしたらいいのか。
 
無理解を自覚するしかない。
出来ないことは出来ない。
知らないことは知らない。
分からないことは分からない。
 
死ぬまでは生きているのだから
理解しているつもりの
理解していなければならないはずの
ただ一つのことを求めて
細く細く感じて
狭く狭く考えている
という不完全の自覚のうちに生きる。
 
これも一つのワールドで
病と傷と欠点の多い心で出来ることをしている。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)10:38-42
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
妹のマリヤはキリストにベッタリで、キリストをもてなす家事を手伝わないものだから、姉のマルタは、何とかしてくださいみたいに、キリストに言います。その時の言葉ですが、マリヤを褒めるためではなく、マルタのために言っているのです。
 
キリストが来ているのだから、マリヤのようにキリストにベッタリくっついていることが信仰だ、と言っているわけではありません。それぞれに、性格の違いがあり、求めるものの違いもあり、人によって違うところを、キリストは見抜いて認めているのです。
 
マリヤは一途にキリストのそばにいる、それでいい、マルタはキリストを持て成そうと努めている。キリストは、それを承知の上で、それでいいけど、ご自身のもてなしのために、そんなに思い煩わなくていいと言っているのでしょう。
 
家事を手伝わず、キリストのそばにくっついていることが、信仰に反するなら、キリストご自身が、マリヤに注意するはずです。マルタは、思いわずらい、心をいためているので、そこに気づかないでいるから、責めたのではなく、キリストは、諭したのです。
 
思いわずらうことなく、できることをするのが、信仰だと思います。私にとっては、できることの範囲が、とても狭くなっています。
 
 
聖書をを理解するということは、人の言うことを信じ込むことではなく、単なる意味でもなく、自分の人生に解放感と活性を与えてくれる言葉の "心" に出会うことです。
 
御心を成就するのが信仰ではありません。
御心に叶うかどうを、不完全な人は、完全には判断できません。
不完全な自分の言動に、完全なる神の御心を当てはめてはいけません。
 
できる限りの言動に努め、神に、正直に告白し祈る自覚こそが信仰です。
完全ではない人が、寛容なる神の赦しを得て暮らす日々が、信仰生活です。
 
 
 
神の全知全能は、人が全知でも全能でもない不完全な存在であることを知るための、節操の理路となり、心の弁えとなるでしょう。人は、神の全知全能の詳細など分かってはいません。しかし、聖書を通じて、個々の場合において、神聖を想うことは出来るでしょう。
 
神は全知全能だから、既に、一人一人が、何を思い、何を悩み、どういう罪を犯したか、既に、ご存知のはずです。罪を犯さないように守ってくださるという信条は、人の心情であって、現実によって肯定されるばかりではないことを知るでしょう。信仰を得ても、私たちは、皆、罪人であります。
 
誰もが、失敗し、うなだれ、罪を抱えてしまうのです。そこに信仰の恵みとして、祈る機会として、救いがあると思います。ゆえに、全知全能の神は、人が、正直に祈ることのみを待っておられると思います。神を裏切らないということは、罪を犯さないことではなく、正直な祈りを捧げることです。
 
 
理解と解放

理解と解放
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年10月12日、再録+加筆)
 
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのでしょうか。
 
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれません。
 
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなります。
 
しかし相手が神様となると事情は違うでしょう。
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持ちます。
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もありません。
 
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分です。
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるでしょう。
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  なくてもいい時間
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
事実や言葉の合理性に、執拗に、こだわっても、共感のない辻褄合わせだけの場合があります。なんとなく分かったような気がするだけです。楽山は、そこから結論に至り、訂正不能となってます。楽山は、そういう妄想?で、人の意見を裁こうとします。よって、無知と無恥を生むだけなのです。
 
 
 
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