ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神経

 
  楽山の体質的精神障害2
 
 命の尊さと進化論
 2014年03月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
かなり前の楽山の記事です。しかしながら、最近言ってきたことと、基本的に、ほとんど変わりがありません。つまり、無反省と無責任をきたす体質的精神障害、即ち、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状が、ずっと前から、成長もなく、書いたものに表れ続けてきたということです。
 
楽山は、キリスト教と信仰について、何も勉強していません。そして、印象操作として、キリスト教についての浅薄で幼稚な偏見を並べて刷り込んできます。そして、神はいないとか、無神論の引用とかで、信じ過ぎてはいけない・・などと、程度問題で語ったりしてきました。
 
信仰は、浅く信じたり、深く信じたりするような、程度問題では語れません。程よく信じる信仰などありません。決めつけて固定するのはカルト、あるいは、楽山のような無神教カルトなのです。また、思い詰めて、思い込んで、訂正不能に信じこむ信仰など、ありません。楽山は何も理解していません。
 
信仰は、有無であり、その有無を最終的に裁くのは、神ご自身であります。信仰者は、正直に祈り、努めるしかありません。他者について、偽物であるかどうかを云々することは、信仰の根幹について触れた場合だけであり、楽山の言は、最初から最後まで、宗教と信仰において、真っ赤な偽物です。
 
楽山のような、詭弁を弄し嘘を吐く者が、信仰の欠片もないのに、信仰の根幹に真っ向から反する妄想や否定の発言を繰り返すゆえに、悪意ある反信仰・反キリストであることは、その言動から、他に考えようがないことをもって、明らかになってきました。
 
もはや、嘘によって、発言の信用度もゼロとなっている楽山に対しては、精神衛生上のダメージを避けるために、直接の遣り取りを断絶し、記事で批判を続けるしかない事態となっています。あざ笑いの悪意を隠しながら、丁寧語で誘ってくる楽山の口車に、決して乗らないように、お願いします。
 
私のブログの批判記事は、約10年、楽山については約3年いじょう、病質的偽善者の情報を広く知らせるために書いているものです。治療法がなく回復の見込めない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)について、表れてきた症状を明らかにしてゆくつもりです。
 
 
進化論の本を読んでいると
生命について考えさせられます
今、自分が生きているということは
生命の誕生から、今の自分まで
一度も途切れることなく
生命がつながっているということ
 
つまり、楽山は、心と物質を混同したまま、持ってもいない信仰の心を、紙切れのように扱い、神否定と進化論礼賛に結び付けたいようです。まず、神と進化という2つを対立させることが、良心を持たず、知恵の足りない楽山の、言いがかりの悪趣味と言えるでしょう。
 
神と進化論は、信仰と科学という別次元であり、一部の精神の混乱した楽山などの無神教カルトが、対立させたがっているようですが、土俵も土壌も違うテーマを混同するという幼稚な誤解~曲解であります。楽山という判別能力の基本の理路をも学び損なっている者が語れる問題ではないのです。
 
一見、何か、感動しているような書き方ですが、きわめて単純かつ短絡であることを見逃さないでください。この程度のことは、小学生でも考えることです。大人の、何かを伝えたいという真摯な態度ではないのです。人に対して、操ろうとすることしか考えない者の所業であります。
 
進化論を読まないと、生命の誕生や自分や他者の命のつながりが、考えられないのでしょうか。生まれ育って家族を見て、ふつうに勉強して、人の話を聞いて、考えることは可能です。わざわざ、進化論を持ち出し、反宗教へ誘導しようとすることが、楽山のインテリ気取りの捏造に他ならないのです。
 
 
祖先たちが
天災、疫病、戦乱など
さまざまな危機を乗り越え
生き延びてくれたからこそ
今の自分がいるということ
 
このことは、宗教も、進化論も、関係ありません。宗教を考えなくても、科学を考えなくても、これくらいは誰でも思いますし、いい大人が、今さら気づきましたという口調で語ったところで、少しも新しくはないことです。しばしば、楽山は、企みのために、大仰なことを言って未熟をさらします。
 
 
そうであれば
自分はこの生命を大切にして
次につなげなければ……ということ
 
小学校か・・と思うほど、発展性のない月並みな道徳を語る楽山です。実際は、こう書けば、感動してくれるじゃろ・・という狙いがあるのでしょう。楽山は、自分大事で、他者を大切にしておらず、平気で人を傷つけます。これを、「次につなげ」られたのでは、甚だ迷惑~有害です。
 
 
人は霊であって
永遠の命を持ち
輪廻転生している
と信じていたころは
祖先のことはほとんど考えることはなく
肉体生命の維持を軽んじるところがありましたが
 
以前より霊が分かるっぽい・・という自覚の、楽山の妄想は、しばしば霊を強調し、永遠とか、輪廻とか、過去形ではない超常趣味として、今も変わり映えもなく退屈に、続いています。楽山は、自分は特別だからと言いたくて、軽んじるどころか永遠不変に結びつけて妄想を語ってきたのです。
 
 
進化論に興味を持ってからは
祖先の労苦と
生命の大切さをより強く感じるようになったように思います
 
「祖先の労苦」は「進化論」によって感じるものでしょうか。進化論によらなければ「生命の大切さ」を「強く感じ」ないでしょうか。命だけでは、生きている姿を見るだけでは、楽山には「生命の大切さ」が分からないのでしょうか。実感もなく思いつきで書いていることが直ぐに分かる楽山の筆致です。
 
ふつうは、逆なのです。生きている命を通じて、命の大切さを思い、生命というものに興味を持つものなのです。いったい、どういう精神を持てば、このような、人間的直感の欠乏した、人間離れした生命観を書けるのでしょう。楽山の思考、ボロボロではないでしょうか。
 
さらに、いかに自分が他者を苦しめているかを、まるで感じない楽山が、「祖先の労苦」「生命の大切さ」など、感じているとは思えません。人を操るための、こう書いておけば、ひとかどの人物と思われるじゃろ・・という自己顕示欲の醜さだけが表れています。関わらないでください。
 
真の謙虚さを持たない病的ナルシストの、おぞましさが、直感の鈍さとともに表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であり、サイコパスと同系統の体質的病魔が、楽山を、このような、鈍感をごまかす三文芝居へと導いているのです。相手にしないでください。
 
 
 
 いろいろな信仰
 2014年03月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
気持ちの悪い文章を書いてくる楽山です。宗教と信仰は、小学校の算数ではないのだから、幼稚な決めつけと未熟な理路で語れるものではないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、深い思考も感受性もないことの悲劇の例が楽山であります。
 
 
聖典のことばは
不合理なものも
そうでないものも
すべてそのまま事実である
とする信仰
 
聖典の読み方も、まるで知らない楽山に、信仰の合理・不合理を語る資格はありません。このように、不合理という言葉で、宗教と信仰を、平気で否定する者には、悪意はあっても、洞察はなく、敵意はあっても、直観はないのです。楽山の言は、顔ではなく肛門を向けているようなものです。
 
不合理が、間違えた算数の計算のように不合理のままなら、人が受け取ることはないはずです。思考と情緒の広がりを全く持っていない楽山であり、ゆえに、何を書いても、通念を超える理解に結びつかず、かさばるボール箱のように、いずれ潰される定めに気づかないまま、煩わしさを積み重ねるのです。
 
 
聖典のことばのうち
不合理なものはすべて
何らかの象徴、比喩、たとえ話などである
とする信仰
 
今までの発言から、「象徴、比喩、たとえ話」なども、楽山は理解していませんし、受け取って考えることも出来ていません。いったい、何を読解したつもりで思い上がって、語ろうとするのでしょう。思い上がった小学生が、そのまま体だけ大きくなって、髭だらけの有頂天になっているだけなのです。
 
 
上の二つを折衷する信仰
 
宗教と信仰をパターンで分類しているつもりでしょうか。それは、宗教と信仰について、少しも感受性を持っていない人がすることです。それで不合理と断定する決めつけだけの楽山は、未熟で低劣な精神のままであり、単純に短絡して図々しく書いてくること以外、何も出来たことがありません。
 
 
一つ目の信仰は
純粋性という点では優れているのだろうし
二つ目の信仰は
信者の範囲を広げる効果があるのだろうし
三つ目の信仰は
宗教と現実との間でバランスをとるものだろう
 
直観と洞察の欠如は、このような安易な分類の仕方になるという例です。「優れて」「効果」「バランス」・・このような言葉で、宗教と信仰を表すこと自体が、楽山の、思考障害、妄想前提、劣悪、無効、アンバランスを表しているわけですが、楽山だけは、気づかないのです。
 
宗教と信仰を、オモチャか文房具のように扱って、宗教人と信仰者の気持ちを何も理解できないのに、分かったつもりになって対象化して、独りだけ満悦してきたのが、楽山の人生なのでしょう。批判されなかっために、ボンヤリ言語の曖昧さで化粧した楽山の文章は、腐敗の悪臭を発するだけです。
 
聖書を読んで、物や肉体の奇跡ばかりを有り難がって讃美する傾向に似ています。そういう人が純粋を追求すると、決めつけて信じ込んで豪語するようになるでしょう。これは、信仰を勘違いすることの、最も見苦しい姿です。信仰に完全は不可能です。必要なのは正直な祈りだけです。
 
 
おそらくこの三つ目の信仰が
もっとも無難だろうけれども
どの辺りを視点にしてバランスを取るかは
難しそうではある
 
宗教と信仰は、いろいろあるけど、無難だからという理由で信じるものではありません。恐ろしい勘違いです。ここに至っても、楽山は、自分の理解が足りない・・という結論だけは考えないのです。楽山は、無反省と無理解から、これが宗教だと思い込んで、無難というより、何も信じないことを選びます。
 
何も受け取らない人は、何も信じなくてよいのです。その代わり、受け取らず信じないことについて、語るべきではありません。宗教を、語るのも批判するのも、人間について、深い理解を、少なくとも求める姿勢が必要です。
 
未熟で、思慮が足りず、感受性がないところで、自分で勝手に辻褄を合わせた宗教と信仰を、分かっているかのように吹聴する楽山です。むしろ、そういう宗教観を広めることで、宗教は無駄だということを広めるリーダーになりたがっているのです。寸足らずの高慢は、病的な自己愛から来ています。
 
そして、物でも扱うように「バランスを取る」「無難」などと安い見方に短絡し、最後は「難しそうではある」などと、責任逃れ付きの結論を書いて終わりです。人の迷惑を考えないで、宗教と信仰という真実の追求に、厚かましく割り込んでくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
楽山は、未熟を自覚できず、反省もしないがゆえに、学習と成長ができないのです。ここが、治らない限り、まともな言論者には決してなれません。なのに、病識欠如の無自覚で、勝手なことを書いては、ますます、信仰からも、そして、人間としても、的外れになってゆきます。
 
 
幼稚に硬直した先入観

幼稚で硬直した先入観
 
 
(2021年10月13日)
(2022年11月07日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
 
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
 
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  失敗だった曲に合わせて
 
束の間の夢をいだいて
秋の街を歩いた
あの頃
君の心にはもう
動きようのない索引が
私をいっしょにまとめてしまう
はねるような笑顔で
秋の色をたたんで
君は去った
 
女は性を求めていた
彼女は位置を求めていた
そして仕事を
私は今も遊び人
使い物にならないリビドーを秘めて
また秋の街を歩く
君の音色を求めても無駄なこと
失敗だった曲に合わせて
私は歌い始める
そしてせめてはと
そっと
君の思い出に
裏切るように
生と死の
境目に沿って
歌を滑らせる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「恥ずかしながら」・・嘘です。楽山には、羞恥心はないと思います。羞恥心があれば、批判の早期に、書けなくなるはずだからです。お構いなしに3年以上書き続けています。羞恥心、罪悪感、悲哀の感受性、責任感、反省力、いずれも欠けています。ゆえに、芝居するしかないのでしょう。
 
批判の記憶の初期に驚いたこととして、楽山の言の一例ですが、否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・という発言がありました。否定したら否定した責任が、肯定したら肯定した責任があります。さらに、否定から肯定に訂正したことも責任をもって弁明する必要があります。
 
そのときから、楽山は、無反省、無責任、という要注意・要警戒の警報付きになりました。楽山に、世辞でも社交でも、黙って頷いていると、混乱して、人間性が鈍化して、楽山と同じような情意鈍麻の人間離れになってゆく恐れがあるのです。決して関わらないでください。
 
楽山は、ネットにおける病的疲労物質です。人の言うことを全く受け取っていません。宗教、思想、真善美について、何かを書ける人ではありません。感想さえも、嘘と詭弁に塗れています。楽山が何か言ってきたら、一言「あっちに行け」と書いて、出禁を告げてください。
 
 
 
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  楽山は宗教の敵
 
 2022年11月03日
 大川隆法とキリスト教(『メシアの法』)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
 
楽山は、たちの悪い反キリスト・偽善者です。しかも、相当に陰湿です。楽山と関わると、誘導の詭弁と嘘によって、その性質が伝染するかもしれません。楽山は、信仰の敵です。宗教の敵です。良心の敵です。罪悪感のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 
*大川隆法とキリスト教
 『メシアの法』を読んだら、キリスト教について語っているところがあったので、その部分についての感想をメモしておきたい。
*ドラキュラ?
まず大川隆法総裁は、聖餐式や十字架について否定的な見解を述べている。
「たとえとしても、非常に上品ではないたとえではあります。「自分の肉を食らい、血を飲め」と言っているわけですから、これはドラキュラ伯爵に先立つこと何百年前に、出てきたような感じです。「自分の肉を食べ、血を飲め」というのですが、気持ち悪いでしょう。
そういうようなことで、そのたとえ話は通じず、離れていった人も数多くいることは、『聖書』を細かく読めば分かります。」
 
楽山は、自分では、理路が整わず、共感性がないので、人の口を借りて書いています。楽山は、読書力がありません。言葉面だけを書いて、負の方向に誘導してきます。相変わらず、ホラー趣味で、キリスト教を侮辱して悔いない病質が表れています。信仰を理解できない恨みなのでしょう。
 
楽山は、キリスト教を、分かっていないのに、否定してくるのです。このような他罰性は、サイコパスの特徴です。実際には何も分からないのに、自分の憎しみと共通する言葉の表面だけを引用しては、そうだろ、そうだろ、と暗示して誘導してくるのです。人類の中で最も卑怯な部類だと思います。
 
聖餐式では、パンをキリストの肉として食し、ブドウ酒をキリストの血として飲む、という象徴的イメージを大事にしています。キリストが人間の罪の贖いとして十字架にかかったことを忘れないためです。ヘラヘラ笑って他者を軽く見る楽山には分からないので、アラ探しばかりするのでしょう。
 
 
「また、イエスは十字架に架かっていますけれども、その十字架がキリスト教のシンボルになるというのもちょっと信じられないことでしょう。これは、日本的に言えば、墓石か何かの形をかたどってぶら下げるようなものでしょうから、そうとう倒錯した宗教であることは間違いないのです。
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、pp.159-160)」
 
キリストの生と死が聖書に書かれているのは、重大な意味を持っているからです。それを受け取る感受性のない楽山は、自分の理路と感受性で言い返せないものだから、他者の言をもって、貶めてくるのです。とても卑怯です。倒錯しているのは楽山のほうで、根深い反宗教の怨念に生きているのです。
 
 
実を言えば自分も、キリストの体を食べ、血を飲むというのにはギョッとさせられるのだが、それでもその背景にはそれによってキリストと一体になり、清められるという思想があると聞けば、なるほどと思わないでもない。
 
「ギョッとさせられる」「なるほどと思わないでもない」・・いかに、いい加減な言葉を使っているかが分かると思います。これで、楽山本人は、まともなことを書いているつもりなのです。楽山の言葉は、有害であり、信頼度はゼロです。決して関わらないでください。偽者、偽善者の、典型です。
 
 
十字架がシンボルになった理由については、検索してみると、救い、勝利という意味かららしい。なるほど、生贄を捧げることで罪が赦されるという考え方からすれば、イエスの犠牲によって救われたとして、十字架を救いのシンボルとするのは理解できなくもない。
 
また「理解できなくもない」という曖昧な語尾による責任逃れのボンヤリ言語です。「救い、勝利」「イエスの犠牲」によって救われるということの宗教的な意味を、楽山は取引のような理解しかないために、口先で、玩(もてあそ)んでいるのです。なんという腐った根性でしょう。
 
 
私にとってキリスト教は異文化なので、その論理を理解するのは大変なのだが、聖書の神エロヒムの生まれ変わりだという総裁がその論理を解きほぐしもせず、倒錯と決めつけているのは随分とおかしなことだと思う。
 
まともな心を持っている人にとって、理解は、決して大変ではありません。生も死も大切にしない楽山のような知ったかぶりが、単純な短絡で、悪口と偏見の先入観をばらまいているだけなのです。理解できないということで終わりにせず、積極的に、偏見を植えつけているのです。
 
 
*ジョン・レノンは、キリストである?
最近では、「ビートルズのジョン・レノンも、イエス・キリストの少なくとも分身的な存在であるらしい」ということが分かっております。
(同上、p.181)
 」
 
ジョン・レノンは、数々の名曲を残したミュージシャンであって、キリストでも、キリストの分身でもありません。キリストは一人しかおらず、誰も、その代わりを務めることは出来ません。たくさんの心に残って響き続ける言葉が聖書にしるされています。
 
また、楽山のようなペテン師は一人しかおらず、誰も、その代わりを務めることは出来ません。つまり、楽山ほど、言葉が、いい加減で、何の糧にもならない人は、ただ、珍しいというだけです。死ぬまで、偏見をまき散らしてゆくのでしょうか。ならば、全否定されるだけです。
 
 
HSでは、無神論や唯物論を強く批判しているが、天国も地獄も宗教もない世界を理想として語るジョン・レノンを、キリストと同一視するのはどういうわけだろう。おそらくはそれなりの理屈があるのだろうけれども、それでもやっぱり釈然としない思いは残る。
 
有名人を、平気で引用し利用して、けがれた楽山は、「同一視」「釈然としない」という、ほとんど意味のないことしか書けないのです。聖書から何も受け取っていないからです。楽山の、こういう曖昧な言い回しを、楽山のボンヤリ言語と呼んでいます。
 
 
ただ、何となくではあるが、これには霊的、思想的な理由は殆どなく、総裁の周囲にジョン・レノンの大ファンがいて、その期待にこたえるためにジョン・レノンの霊格を高く設定しただけという気がしないでもない。
 
楽山の言うことを、真に受けないでください。有名人を引用するのは、有名だからという理由しかないのです。共感するという精神の機能が、楽山にはないということが、今まで、ずっと表れてきました。楽山の興味は、アニメとかホラーとかの、遊び半分の趣味以上ではありません。
 
楽山は「霊的」「霊格」という話にもっていかないと気が済まないのでしょう。その言葉に「高く設定」したなどと楽山が言っても、言葉だけ、霊が理解できるような辻褄を書かないではいられない無理解の楽山です。真実を知らないから、"霊" を付けて言い得たと思う醜さなのです。
 
 
総裁には教団の発足時に、元GLAの人の期待に答えて、高橋信次を高く評価し、霊言集をたくさん出したという話があるので、そんな風に思うわけである。
 
そうではなく、ただ、キリスト教に、いちゃもんを付けたいだけだと思います。楽山は、誰かを参考にして成長の糧にすることが出来ません。尊敬することも感動することもない楽山の人生に賛同すると、人生は、嘘と詭弁と悪意に満ちてゆくでしょう。楽山は、百害あって一利なしです。
 
 
*霊能力信仰?
彼の言葉や行動のなかには、この世的にはかなり倒錯したものもあるとは思うのです。だから、それが理解できないキリスト教徒は数多くいるでしょう。
例えば、「『この山動きて海に入れ』と言わば、しかなるべし」などと言っても、ちょっと、この世的には理解しがたいものがあります。
しかし、霊界では、そうした「アデプト」といわれるぐらいの人になると、霊界の山とかを崩壊させてしまうような力を本当に持っていますし、つくり変えてしまうこともできるのです。
 」
 
聖書の奇跡の話を聞いて「倒錯」としか思えないのが、反キリストで病的ナルシストである楽山の限界です。理解の深みや共感を読み取ることが出来ません。奇跡が分からないならば、保留すればよいものを、霊界の話に持ってゆくのが、無知と無恥の見栄が生き甲斐の、病的ナルシスト楽山なのです。
 
私はどうかと言えば、超常現象としか思えない奇跡については、人間の限界を超えているので、分からないと答えるでしょう。分からないことを分からないと言うことが、人に対しても、神に対しても、そこに正直な敬虔があることを表します。それを理解しないのが、病的ナルシスト楽山なのです。
 
 
イエスの言葉には逆説的なものはあるとは思うが、総裁はそれを倒錯と表現しているのだろうか。こういう言葉の選び方には、どうも悪意があるような気がしてならない。
 
悪意と言えば、楽山において、曖昧な語尾などのボンヤリ言語で、保身と防衛を謀る分、「悪意」をごまかす詭弁として、「悪意」の最たるもの、つまり、偽善の典型であり、赦されることはありません。「倒錯」者は、他でもない、楽山なのです。病的ナルシストゆえに気づかないのです。
 
 
とはいえ、それはともかくとして、この聖書読解は疑問に感じたので、聖書の該当箇所を見直してみたら、こうあった。
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何にもない。」
(マタイ17.20)
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコ11.23)
 」
 
楽山は、分からないのでしょうか。キリストの無理と思える教えは、神レベルの厳しさを持っています。信仰があれば、信じるならば、というのは、私たち人間には、完全な信仰がないことを教えているのです。楽山の聖書をはじめとする読書は、全く信頼できません。
 
 
この文章を読んだ限りにおいては、どうやらイエスは、信仰があれば、誰であっても山を動かせるとしていたらしい。難しい修行を積み、霊的覚醒を成し遂げ、特別な力を得た者だけが可能だというのではなく、信仰があればできると。
 
上に述べたように、楽山は、幼稚に短絡した解釈で、読者を惑わします。しかも「霊的覚醒」「特別な力」と言って、また、霊の話にしています。人間に完全な信仰は成立しないのです。だから、信仰者も、折々に、正直に祈って、神に、赦しを乞うことになります。
 
 
それに対して総裁は、霊的覚醒を成し遂げた特別な人物であってこそ、霊界の山を動かせるとしている。私にはどうもこれはあからさまな霊能力信仰であり、裏の考え方のように思える。
 
いつも、裏にいて、裏話ばかり語って、裏の悪意を、裏の気色悪さで、しつこく、口酸っぱく、繰り返し、性懲りもなく語って、評論家気取りなのが、楽山です。楽山の裏は、見抜きにくいかもしれませんが、くだらないことを、ネチネチと執拗に繰り返す執念が、傍証となるでしょう。
 
 
*イエス批判
十字架に架かったりするような、こういう、みすみすこの世的には命を失うようなことを好んでしたことを、「『この世的な知力』というか、『生きようとする意思』が弱い」、あるいは、「『生き延びようとする知恵』が弱い」というふうに見る人もいると思うのですけれども、これは、霊的覚醒の問題です。
(同上、p.236)
 」
これは他人の意見というより、総裁自身の意見だろう。たしか総裁は、次のようなイエス批判をしていたと記憶している。
 
キリストの十字架の意味を知らないのは、キリスト者ではないからでしょうが、楽山は、それを悪用して、HS批判のつもりでしょうか。人の悪口を言うだけに生きている楽山です。そして、自分が批判されると、何も、まともなことなど言えない出来の悪さを表してきました。
 
 
イエスには自虐的な傾向があったので、十字架という悲劇を引き寄せた、アガシャー、クラリオと名乗っていた前世でも、イエスの時と同じような悲劇的な最期を遂げている、これに比べてエル・カンターレにはそのような傾向はないので、ラ・ムー、ヘルメス、釈迦…いずれの転生でも成功し、悲劇的な最期はない、イエスは十二弟子だけでなく、もっと多くの弟子を集めていれば、捕らえられ殺されることはなかったろう…云々。
こういうマウント発言も、そういう自分自身の発言を「霊的覚醒の問題」として否定しているところも、いかにも総裁らしいなと思う。
 
すごいです。前世を語り始めました。アンチHSではないと思います。自分が、宗教家気取りでいたいのでしょう。すごいです。エル・カンターレは、HSの用語でしょう。もう一度、言います。楽山はアンチHSではありません。
 
なお、キリストの十字架は、キリストの使命として、その自覚とともに、聖書に書かれています。
 
 
◇◆ 追記 2022.11.3 ◆◇
*至高神エル・カンターレ
『秘密の法』にも、キリスト教について語っている箇所があった。
世界に二十億人もの信者がいるといわれているキリスト教のイエス・キリストでさえ、幸福の科学のなかでは、一人の指導霊にしかすぎません。その現実を知ったときに、「幸福の科学という宗教が、どれほど大きな力を背後に秘めているか」ということを、どうか知っていただきたいと思います。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、pp.297-298)
 」
HSでは、もっとも偉い神様はエル・カンターレである大川隆法とされ、それ以外の神様はみな格下扱いとなるので、イエスについても上のような見方になるのだろう。イエスであっても、エル・カンターレが率いているHSを支援する多くの高級諸神霊たちのうちの一人にすぎないのだよと。
 
このように、人の言葉を引用~悪用しないと、楽山は、主張も意見も、まとめることが出来ません。深い思慮からではなく、他者を貶したい動機しか表れていません。宗教を、まとめて否定したいだけなのでしょう。宗教観を掘り下げることの出来ない楽山が、自分の迷路に落ちて、堕ちてゆきます。
 
 
 総裁は90年代に出版された書籍『フランクリースピーキング』の中で、イエスの悟りが手の平の上に見えたと語っていたが、上の文章を読む限り、どうやらその時の意見は変わっていないということなのだろうな。
こういう考え方は随分と傲慢ではあるが、大抵の宗教では自分のところの神様が一番偉くて、他の宗教の神様は格下だとか、偽物だとするものだろうから、その意味でHSも普通の宗教だということはいえるだろう。
 
楽山は、ORを利用したり、キリストを利用したり、引用が、どんどん、気持ち悪くなっています。考え方が傲慢な分、自己中は目立ってきます。「HSも普通の宗教だ」と言っています。バレたのでしょう。楽山の言は、アンチHSではなく、傲慢な教祖願望に過ぎないのです。
 
楽山の宗教についての感慨は、自己愛、自己中、無反省、無責任、無神経、粗雑、訂正不能、他者無視、読書自慢、様々な気取り、ヒーロー~教祖願望、・・などによって、成長しなかったし、成長しないゆえに、時が経てば経つほど、ほつれが目立ってきて、とても見苦しいものになっています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、結局、自分を書いているようなものです。楽山が、これは嘘だと言えば、そう言う資格のない楽山の嘘になるのです。楽山が書く批判が、全部、楽山に戻ってくるブーメランです。それにも気づかないのが楽山の根深い病なのです。
 
 
自分のいない嘘と詭弁

自分のいない 嘘と詭弁
 
 
(2022年11月04日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
手段を選ばない楽山は、自分で語れないことを、ORを引用して語らせます。そうやって、楽山は、だんだん自分を失ってきたのでしょう。自己愛の我欲だけで、他者のことばかり繰り返し語ることが、その標的になるのは自分だということを、忘れさせてきたのでしょう。
 
 
 
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  原初から3
 
  2012年02月24日の記事
  「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
と言えば、かなり語弊があるかもしれません。
復活=死人が蘇る
という先入観があるからです。
 
キリストの復活と違って
ここで信仰における復活というのは
それまでとは違った命の体験として
人が解放されるということです。
 
原初体験は
自由意思による神への服従の決意へと導きます。
つまり
神への服従が
神と違う不完全で罪深い人間の自覚です。
そのことが
人の世の様々な執着からの解放という恵みになります。
 
勘違いしてほしくないのは
人の世を無視するということではないということです
無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても
それに耐えて生きるための信仰であります。
 
つまり神への服従というのは
襲い来る不幸に
いつまでも泣いて過ごすか
信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない神秘の部分があります。
不思議な御縁ということです。
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆(ほだ)されることであり
これらは
人間的な知情意への働きとして
ある種の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている。
 
具体的に言うと
イエス・キリストを好きになることです。
言い換えるならば
キリストからの共感を聖書で学び
キリストに共感することです。
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分の確信で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
であるなら
これらは目に美しく耳に心地よい偶像に
人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであり
人間の作為は
原初の面影すらないところへ向かうでしょう。
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
思いわずらいからの自由と
人間らしさへの一途な希求であります。
 
ゆえに信仰においては
神に対して
自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく
 
よって常に信仰はその原初から
自他による思いこみや固定観念を
吹き込まれたり糊塗されたりすることの
理不尽を拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は
個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために
こうせよという一つの言葉で確定できるものではないと思います。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰であるために
祈りだけは必須ということになるでしょう。
そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは
嘘と飾りは通用せず
ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
完全な信仰などあり得ません。
信仰によって人間が完全な正しさを手に入れることではありません。
完全なのは、神だけです。
 
信仰とは
人間の不完全を
神によって赦されて生きることです。
 
人間が受けるのは信仰の義です。
絶対で完全な神の義ではありません。
 
信仰は人間が立派になることでも
正しくなることでもありません。
出来るだけ正しく生きる
という道徳の教えでもありません。
 
ある時 正しくても 正しくなくても
 
信仰の恵みは
罪人の弁えをもって
神に正直に祈る時々を得て
この地上を生きる人になることです。
 
 
原初3

原初
 
 
(2012年)
(2020年)
(2022年11月03日、再録+加筆)
 
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
 
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
飲兵衛さんの
顔が和(なご)んできた
のに気づいた
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
 
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかったのだ
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのだろう
 
あのとき思った
案外精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
・・・・・・・・・
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自己愛性の病質のために、のぼせ上がって、分かりもしないことを、だらだらと書いてくる楽山を、どうか相手にしないでください。楽山の性(さが)は、人間の性ではありません。人の道も、信じ仰ぐ敬虔も、「だよなあ」「そんな風」「でしょうかね」で語れるものではありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、アドラー教(アドラー心理学)の影響もあって、楽山は、反省をしません。後悔もしません。罪悪感がありません。しんみりとした悲しみの情がありません。だから、ふざけ半分の白々しい作文になり、自己正当化の権化となっています。
 
 
 
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  楽山の詭弁と正当化2-2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
過去記事ですが、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、平気なんでしょうか、醜い老人への予約済みのような楽山です。
 
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養が必要な人間を語れず、人間の心を語れません。楽山が、「なるほどと思える話」を信用しないでください。「体調によって調整」などは当たり前で、さらに、誘導の詭弁と嘘が入ってくるからです。
 
人間として、気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのことを学習します。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。良さそうに見えることを書いてだますのが楽山です。
 
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
(ネットより)
どんなに立派な人でも、自分の行動を完全にコントロールできるようになるのは、七〇歳くらいになってからだ、ということ。
「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
このことばから、七〇歳のことを「従心」と呼ぶようになりました。
コトバンク七十にして矩を踰えず
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところのみに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。平気で超えてゆく、さらに踏みつけてゆく準備なのでしょうか。あとが怖い楽山です。
 
ゆえに、楽山にとって大事なことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山ではなく常識人のの欲せざるところの記事を何も書けなくすることだけのようでもあります。つまり、楽山の文章から、嘘、詭弁、自己顕示欲、などを、あぶり出すことです。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、人間の良心を捨てて、あるいは、良心に捨てられて、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。この安っぽさで、さらに、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語の詭弁を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、だまそうという意図でありながら、逆に、楽山を斬っている有り様です。楽山は、むしろ、君側の奸(くんそくのかん)のような体質であり、欲のために、丁寧語のアドバイスに見せかけて、他者を操り、虚偽と疲労へ誘導することを楽しみとする者です。
 
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
 
楽山の、自己正当化のために、独立心を、我欲・我執の自己中と混同する詭弁です。我執により我欲だけで言動している者は、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。楽山の「自分は自分」というのは、人に迷惑をかけて平気ということです。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、おぞましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのに、それを「正直な思い」と言っています。
 
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天獄であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。そこで、砂を飲み、石を食うのでしょう。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、あらゆる思考と言葉の軸が狂ってしまっている楽山を相手にしてはいけません。
 
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純明快に暴露されてしまう詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、平気で悪意だけを熱して生きることと、混同する楽山の、自己愛性人格障害の自己正当化です。楽山の真理は、どこまでも、楽山だけに都合のよい、実は、自他の地獄につながっています。
 
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、楽山のような、霊が分かるっぽい自覚?や、超常の知識なるもの?によって宗教を論じるなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、宗教も神も縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。楽山は、神秘どころではなく、シンプルな人間性さえも分かっていないのです。
 
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、反宗教の自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また同時に、悪意ある揶揄の的でもあります。つまり、シンプルを、安易と、履き違える深みのない楽山のような者は、救いなど、決して本気で求めてなどいないことが分かってくるのです。
 
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、不都合な意見を全部無視して、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために好都合な字面を、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。
 
涙の代わりに、見境もなく、弁えもなく、言葉を失禁して、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを混同し、著者に、見当違いの賛同をしています。
 
このように、楽山の理路は、ことごとく嘘っぱちであり、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、自己正当化の詭弁であり、恐らく、楽山の体質か作為であろうと思われます。このことが分かっている人によって、楽山が一日も早く追放されることを願ってやみません。
 
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそが、その悪意の主因となっていることでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の不正直な言い逃れによって続いているだけの、見るも無残な詐欺の路地裏であります。
 
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれ育ちが原因なのか、臆病どころか、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、いつも、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山ブログ&ツイッターだと分かるでしょう。また、妄想的に勘違いして、正直を見習いたいと言っているのは、もはや恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの子供だましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。楽山の、ビーズを切れやすい糸に通しただけの危険な辻褄が醜いです。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用が白々しくなって、自己満悦だけになるでしょう。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりでも、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。口先だけの良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交を大事に思っている人は、簡単に、だまされてしまうでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、どんどん、分かりやすく表れるようになっています。他者の人格を疲労させて破壊する者は、ついには、自分の人格を破壊してゆくのです。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。パニック状態になれば、何をするか分かりません。
 
 
 
 『国家の品格』藤原正彦著
 2021年10月20日 楽山日記(LD)
 
 
新しい記事です。どういう品格を書こうとしたのかさえ分からない文章です。人間としての品格を欠いている楽山らしい投げやりな筆致となっています。
 
 
これは大分前に評判になった本だけども、先日ようやく通読することができた。
その内容は、戦後ながらく正義とされてきた民主主義、自由、平等、論理といったものを批判しつつ、日本的な情緒、美、武士道などを再評価しようというものであり、保守よりの自分としては気分よく読めた。
 
「民主主義、自由、平等」は、何らかの主張を含んでいますが、「論理」を並列する意味が分かりません。そして、批判するのだそうです。楽山が「日本的な情緒、美、武士道」を再評価するというのは、ネトウヨらしいのかもしれませんが、楽山は、保守ではなく、思想家でもなく、破綻者です。
 
 
こういう日本人論はいくつか読んでいるが、数学者が論理の限界を語り、情緒の大切さを訴えるというのは意外でもあり、説得力がある。岡潔の場合はあまりに独自性が強く、この世離れしすぎているようでついて行けないことが多いが本書なら自分にも理解できる。
 
楽山は、数学や論理を理解しているとは思えませんし、情緒の大切さについては、何のセンスも持っていないと思います。その上で、「説得力がある」などという判定をするのは、自己愛性人格障害らしい傲慢か作為を表しているだけでしょう。
 
思想、特に、宗教と信仰には、人間的な視野と共感性は必須と言ってよいでしょう。この世離れして、霊能者気取りで、非常識な楽山が書いていますが、この記事の短い文章で、何を表し得たと思うのでしょう。「理解できる」という、その理解を、何も書いていないのです。
 
 
また本書は、文章が非常に整理されていて読みやすくなっているのも印象的である。これほど整理整頓が行き届いた文章は珍しいのではないだろうか。本書が多くの人々に読まれたのは、その内容だけではなく、文章がよかったためでもあるにちがいない。
 
理路も感性も整理されていない楽山に読みやすい本とは、絵本ではあるまいし、「整理整頓が行き届いた」と書いて、何を伝えたつもりになっているのでしょう。そして、「文章がよかった」と書いています。この舌足らずのまま、褒めまくりでアップしてくるところに、無恥の病質が表れています。
 
不明が多すぎて、文章としては短かすぎて、感想にならず、また、見出しとしては長すぎて、真理めいたことを書こうとして、何も書けない楽山です。楽山は、ちょっと書いて様子をみて、続きを書くつもりでしょうか。いくら書いても、いっしょです。楽山の孤独で、焦点もなく行方不明の思想と宗教です。
 
楽山のような、これくらい書いておけばええじゃろ・・という算段で、ちょうどよい文章を適当に書いたつもりで、他者を、褒めそやす言葉だけで、はぐらかして生きてゆく者は、結局、賛同者からも対立者からも、最も嫌悪される存在となってゆく定めなのです。
 
「気分よく読めた」「理解できる」「文章が非常に整理されていて読みやすく」「整理整頓が行き届いた文章は珍しい」「文章がよかった」・・このような、中身のない褒め言葉が、楽山の読書と感想なのです。中身を、全く表現できない稚拙な評論家気取りに惑わされないでください。
 
 
ウソッピ物語の流す血と涙

ウソッピ物語の流す血と涙
 
 
(2020年)
(2021年11月02日、再録+加筆)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
楽山がブログに載せたまま、ずっと無視しているコメントです。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  危険人物3
 
 
危険人物とは、犯罪性の強い人でしょうか。犯罪性の強い人は、日頃から乱暴であれば気づかれやすいでしょう。しかし本当に恐ろしい者は、そういう印象から遠いところにいます。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、よく見せるための言葉を身につけます。しかし、注意深く見ておれば、芝居だということが分かるでしょう。本性は、反社会性であることが多いです。サイコパスとも呼ばれます。反省し学習し修正し成長することが出来ないのです。
 
 
聖書では
偽善者と言われています。
守っている
知っている
分かっている
見えている
という確信に満ちて
しばしば教えたがり
出来た人物と言われるのが大好きです。
 
聖書では、まず、カインがサイコパスに相当するように思われます。
 
 (創世記、口語訳)4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 (創世記4:5、旧約聖書)
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、憤った、つまり、怒ったのです。しかも、神に対してです。そして、アベル殺害に至ります。これは、サイコパスの特徴です。悲しみを感じることが出来ません。笑いと怒りしか持っていません。
 
また、キリストに批判されて、ついには、キリストを殺してしまったパリサイ人も、全てではないが、同様であろうかと思います。
 
 
自己愛性パーソナリティ障害とかナルシシストとか言われます。反社会性人格障害とかサイコパスという言葉もあります。文字通り自己愛が強く、自我を自分で砕くことが出来ず、不備や欠点など自らの非を決して認めず、罪悪感がなく反省せず無責任で、あらゆることを自己中心にしか考えません。
 
あらゆる不都合において自分を責めることが出来ず、人のせいにします。ときに丁寧語や幼児語のような
平易な言葉で表し、精神療法のように優しく言って、柔和な自分をアピールします。
 
自己顕示欲が強く。気障(きざ)で衒奇(げんき)的で、"ひらめき"や、ときには霊感を誇示して、繊細で特別な神経を持っているかのように、一見、上品に振る舞います。しかし高等感情が無いために、人に対する思いやりや配慮に欠けていて、人と共感することが出来ません。
 
ネガティブな忠告をすることを遠慮せず、あらゆる深謀遠慮が不可能で、自制することが出来ないので、相手が傷つくことを配慮して遠慮するということが出来ません。
 
特に自らの失敗を処理できずに、弱そうに見える誰かに対して情報不足や無遠慮などお構いなしに、不向きや不適正のマイナスの忠告めいたことをして、アドバイスしたのだからと、いいことをしたかのように自己満悦します。
 
「向かないと思うね、うん」「ひらめきとしてね」「かなあ」「言えなくもない」とか、語尾「ね」付きの気色悪い丁寧語には十分注意しておく必要があります。実際は侮辱であり、受けた側は長くトラウマにさえなりかねないので、そういう人ととは、まともな付き合いなどしないことです。
 
出くわしたり何か言われたときは、そういう人だと分かったときも、逃げるしかありません。あるいは言い返すことも出来そうですが、言い返しても根腐れなので不感不応です。
 
偉そうな態度と併せて、謙虚そうな芝居をしますから、うわべの評価は一定しませんが、一度被害に遭うと一生忘れることはないでしょう。自分を責めることが出来ない人です。責められると、いつでも、腹いせの復讐を考えるような、陰険な原始反応しかできない人です。
 
勝ち負けと快楽原則で世渡りをしていて、人に勝つこと負けないこと優ることを生き甲斐とします。その前提で謙譲芝居をしてインテリぶっていますが、実際には真の勝利など全く知りません。
 
褒められることを快感としますが、人格的に欠陥があるので、多く失敗します。それらを知られることを何よりも恐れています。欠点を隠すことしか出来ず、生産的に反省し修正することが出来ません。
 
思想は通念的で独創性がないので、気取った言い方で、うわべ賢そうに見せかけますが、正体が分かれば、いちばん、つまらない人、そして、嫌われる人なのです。人格者として一定の尊敬を得ている場合がありますが、まともに見せかける芝居をしているだけです。
 
実際は、偽善者であり、人間らしい温もりがなく、冷淡で、自己満悦か、快と不快の快楽原則しかなく、大方、結局、怒りと怨念だけになっています。しんみり悲しむことが出来ません。だから共感が出来ないのです。代わりに、世辞の褒め言葉を多用する傾向があります。
 
代わりに反省や共感という言葉だけだったり、やさしさ芝居をするだけの大根役者です。本物と言えるような精神の産物を持っておらず、学習も進歩もしない怠け者で、冷酷な性根ですから、宗教・教育・医療など、人の命や人生を左右する仕事についてはいけない人です。
 
しかし実際、数式だけは得意だったり、口だけ達者だったりすることがあり、宗教や神秘や超常に関心を持っていて、決めつけていたりもします。人によっては、医者だったり、医学生だったり、指導者だったり、ある程度の知的職業についていることもあります。
 
宗教家や思想家や評論家などのインテリ気取りを伴うこともあるでしょう。しかし、発言は、大方、月並みで、独自性はなく、他者の言葉を、うわべだけ繰り返し、批判や反論をまるで理解していません。返してくるのは、嫌がらせや、いちゃもんや、荒らし的な雑言に終始します。
 
しかし人の悲しみに共感することが出来ないのです。対等の立場においての共感や同情を感じることができず、いつも上から下へ見下ろして教えを施す態度であり、人には反省が必要などと白々しく言いますが、自らの非を認めず反省することがありません。
 
最悪である偽善者は、不快を感じることはあっても、悲しみを感じない人。高等感情が欠けており、罪悪感がないので、反省せず、訂正せず、責任をいっさい負いません。ゆえに、軸のある思想を組み立てられず、共通の狙いがあると、人真似をすることが多いです。
 
丁寧で礼儀正しい外面を持つこともあり、言動の乱暴さが見られるとは限りません。しかし追いつめられると手段を選ばなくなるでしょう。気をつけてください。彼らは、演技と思い付きの気の利いた言い方をして、慢心して、・・腐っています・・
 
 
teineinakyoufu2

丁寧な恐怖
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年03月24日、再録+加筆)
 
 
 
  もうよそう
 
ひとりは首を吊り
ひとりはビルから飛び降り
ひとりは高い橋の上から飛び降りた
砕け散った肉や骨を拾うのが大変だったという
ひとりは死に際に哀しい視線で・・・
もうよそう
 
死ぬのに勇気は要らぬ
死を上回る恐怖があればいい
生きるのに勇気は要らぬ
死を上回る死があればいい
 
ストレスから逃げて逃げまくって生きてきた
そして死んだ自分を数えている
死んだ自分がまだいる ここに
ひとりの夜に対話する独語
団結はしないね
けんかもしない
 
いつかバイクの後ろに
いつも君が乗っている
スロットルを開ければ開けるだけ
君は笑ってついてくる
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
 
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
それゆえ光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
 
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
取材するには許可を取るというのは、マナーとしてその方が望ましいのは当然ではある。でも常にそうしなければならないというのは極端すぎる。
それでは取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない。この辺りについては、藤倉氏のいうことに理がある。
午前11:39 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
「取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない」ということから、楽山が書くのは批判を含む記事であることです。そして「氏のいうことに理がある」という評価を加えて、楽山が上から眺めて評価する立場で書いていることが明らかです。
 
楽山は、ご機嫌取りの丁寧語とボンヤリ言語を書き、そして、そのような返しを悦ぶようです。ここでも、人のことを言って、結果として、自分のことを表してしまっている楽山です。批判して、それが自分に返ってくる "ブーメラン" が繰り返されています。
 
なお、批判の場合は、いちいち許可を取ることは、マナーとして望ましいのが当然・・ではなく、必要ないのです。何故なら、批判は、批判対象に、苦言を呈することですから、無視する人はいても、許可する人は極めて少ないからです。それでも書くのが批判です。
 
そういう批判を、ことごとく無視して受け取らず、何事もなかったかのように振る舞い、言いがかりだけを書いてくるのが、嘘つきで偽善者の楽山その人です。そういう人の場合、ことらからの批判だけが続くことになります。
 
批判には、許可ではなく、根拠を示すというマナーがあります。それを無視して、好きなように、いちゃもんを書いてくるのが、楽山その人です。それは、批判を返すことではなく、ただの悪口に過ぎません。実に、よく見れば、楽山の言には、汲み取れる何の価値もありません。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教を、幼稚な先入観で、つまり、机上の理屈だけの固定観念で、繰り返し、無根拠に、無神経に書いて、似たような文言で、こちらをおとしめてきました。楽山を批判すれば、こうなるということですが、議論とは違う低次元ですから、批判は続くことになります。
 
ご機嫌取りとして、楽山は、優しそうな丁寧な言葉を使います。つまり、楽山の優しさは、世辞で取り入るための方便、つまり、便宜上の手段に過ぎません。そこには、冷静な楽山という印象の刷り込みがあり、やさしいお人柄・・などというコメントが来るのを喜ぶだけの楽山が見えてきます。
 
批判は、一つは、相手に間違いを改めるように説得することですが、自己中で訂正不能の楽山には無効です。理路の破綻と高等感情の鈍麻によって、理解が進歩しない曲解として固定しています。その有り様は、楽山の、カルト的体質を表しているのです。
 
ゆえに、もう一つの批判のあり方として、相手が不当であることを、読者一般に敷衍して、注意を促すことになります。不感不応の楽山に対する批判がそうです。批判対象に関わらないように注意を喚起するための批判~警鐘です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
·18時間
人殺しになりたくて入信した人は一人もいない。そんな彼らがなぜ加害者としてこの最期に至るのか、その背景を丁寧に理解しようとしないままでは、いつかどこかでまた繰り返される。
地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉” 
#地下鉄サリン事件 #オウム真理教 #文春オンライン 
午後5:25 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、なぜ、加害者に至っているのか。その背景を、楽山自身が、述べようとしないのだから、知る由もないのです。@rakusyo raku のような生い立ちなのでしょうか。
嘘吐きの楽山という履歴を積み重ねてきたのでは、信用できないし、何も解決しません。
 
何よりも、楽山が、無反省・無責任のままで、何も変わりはしないのです。変わることなく、嘘を吐き、詭弁屋の偽善者のまま、薄笑いのパーソナリティになりたい人がいるとは、信じがたく、驚きであり、脅威であり、恐怖であります。
 
楽山が、バラまいている精神の毒は、喩えるなら、水銀か鉛のようなものです。気づかずに受け入れていると、進まない理路のために、感性が疲労~鈍麻して、やがて、耐えがたい痛みに襲われるか、あらゆるところが傷んでくるのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
家田さん、宏洋さん、どちらの動画もおもしろい。絵文字(口を開けて笑っている顔)
お二人の様子は、家田さんの動画の方が和んでるみたいだから、こちらの方があとに撮ったんだろか。絵文字(考えている顔)
個人的には、宏洋動画の最後、これ以上突っ込んだら動画で流せなくなる…が、えらいウケた! ははは。大爆笑
午後7:16 · 2021年3月21日·Twitter Web App
 
楽山は、カルト批判をしているはずですが、このように、絵文字を入れて、繰り返し大笑いするのが、悦楽なのでしょうか。高等感情が育たず、原始的な感情だけになっているのでしょう。
 
楽山は、感情が、一つは陰性の怒り憎しみ恨み、もう一つは、微笑ましい嬉しい喜びではなく、誰かを低く見て、面白おかしいと感じて、あざ笑い、大笑い、高笑い、バカ笑いすることなのだろうと思います。怒りと笑いの感情だけでは、決して、理路が整う考え方にはなりません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと」分かっていません。「難しいんだよな」・・出来ない人は人間ではありません。「自分もそんな風」・・つまり、楽山は人間じゃない。「人間の性」のせいではなく、楽山が異常だということです。楽山は、反論したつもりで、実際は、否定されてゆくだけなのです。
 
 
例えば、批判返しに同じ主張を繰り返し書くというのは、常識人はしないです。しかし、楽山は、平気でやってきます。また、理路の流れの末節から、屁理屈の迷路に導いて混乱させ疲れさせるというやり方も、楽山が、理論家などではなく、腐った荒らしだから、できることなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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