楽山の依存性無神論
ドーキンスの話
楽山日記(LD) 2021年07月03日
類似の批判記事があります。
「楽山の縋りつくもの」
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
という人のツイッターのようです。学者のようですが、一面的な印象です。
楽山を、自立した大人と思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害だと思います。我執を満足させるために、人の口を借りないと、人の名前を借りないと、まともなことを何も言えない不全と悪性の人なのです。さらに、人の迷惑、何も考えていません。
>(楽山)
*ドーキンス
ツイッターにて、ドーキンスの『神は妄想である』について語られていたので、気になったツイートだけでも保存しておきたい。
<
いつも卑怯な楽山は、どう気になったのでしょう。悪意以外ないと思いますが、自分で書いても、ボロボロになるからと、学者らしい人のツイッターを、コピペしにくい形で、転載しています。
「
欧米では無神論が台頭していますが、この手の無神論Tシャツあるいはノー宗教Tシャツというのが無数にあるようです。イマジン~はもちろんレノンの「イマジン」の歌詞によりますが、自爆テロで崩壊したWTCの図柄はドーキンスが出演した英国のTVの新聞広告に由来するものでしょう。
ドーキンズやデネットの無神論は宗教を口にするいかなる人にとっても重要ではないかと私は思っているのですが、信者さん一般はドーキンスの本など読む義理を感じないでしょうし、人文系の研究者も「これは自然科学からの一方的な議論ではないか」と、敬遠する傾向があるのではないかと思います。
」
だったら、書かないほうがよいと思います。早速、楽山のような自己愛性人格障害NPDの者が悪用しています。実際、自然科学からの決めつけが見られます。それと同時に、生きてゆくための支えとしての信仰が無視されていると思います。信仰に証明は付きません。
「
ドーキンス『神は妄想であるThe God Delusion』をどう読んだらいいか? ちょっとずつ読んでみましょう。目につく言葉を拾ってみます。第1章。ドーキンスが「神」をどういう意味で使うべきと思うかを書いた所があります。それは「①我々が崇拝するに値する②超自然的な③創造者」だ、と。
」
超自然的、創造者、いずれも、聖書の超常現象ということをテーマとしています。これは、決してキリスト信仰の中心ではありません。何故なら、超常は、人間の手に負えないことだからです。
「
つまり、無神論者は「説明が未だつかない領域というものがある」と認める。しかし「説明がつかないのなら説明がつくまで待とう」と考える。逆に、説明のつかない現象に対して「神霊がやった」あるいは「超自然現象というものがある」と「説明」するが、宗教(神信仰、奇跡信仰)です。
」
違います。多くの信仰者は、生きるための心の支えとしています。ゆえに、祈りの信仰と言えるわけです。このことを無視して、否定の的外れを言ってくるのが、楽山などの、一方的な、いちゃもん屋とか、無神論者の中の思い込みの強い人たちだろうと思っています。
無神論が、科学であるなら、宗教化してはいけないのですが。科学万能から、科学教、さらには、科学カルトになって、余計なことを言う人が出てきているのでしょうか。
「
無神論的一元論は《体系的説明+空白領域》で考える。宗教的二元論は《体系的説明+神霊的説明》で考える。神霊的説明は実は説明ではなく説明のつかないものをパッケージにしたものです。そしてこの非説明的説明を認めないのは傲慢だと言う。しかしこの態度そのものが無神論者には性急=傲慢に見えます
」
命といえるのは、心の救いです。それを、霊ということはあるでしょう。しかし、聖霊などの超常の心霊の説明は、人間には出来ません。悪霊も同様です。そういう言葉を使って信仰のつもりの宗教人がいたら、その人たちは、信仰者ではないということです。
「
「信仰の信仰」とは、自分では神様を信じていないのだけれど、信仰はとても大事だとの立場をとることです。「神の信仰」が神を信じることであるのに対し、「信仰の信仰」は信仰には美徳があると信じること。自分はその美徳に与っておりませぬと遠慮するわけですから、心理的にはやや屈折した立場です。
」
信じていないけど、大事だ、という言い分は、私には分かりません。大事にするだけで、拠り所としないことには、信仰の心は、分からないと思います。なお、私は、洗礼をもって、信仰の証明ということには反対です、神の保険に入ったかのように、多くの教条主義が生まれるからです。
「
無神論者ヒチンズによれば、⑥マザー・テレサも「神が信じられない」と神父に告白しており、このタイプに近いのだとか。神父は「そのような苦しみこそ主の十字架の苦しみです。悦びなさい」といったようなことを言う。こうなると「信仰」と「信仰の信仰」と「不信仰」の境界線がかなり怪しくなります。
」
ある意味、信仰は、不信仰の自覚とも言えるところがあります。アダムもエバも、キリストに救われた多くの人々も、不信仰ながら、神に、キリストに縋りつくことを忘れなかった人たちです。救われた人々が、そのあと、価値観が変わっても、聖人のような信仰者になったわけではないでしょう。
「
先走って言いますと信仰問題は結局「政治的」な問題だというのが私の認識です。信仰という概念で事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ているのが宗教者であると。もっとも宗教者はその政治性を認めないでしょう。政治性を認めないこと自体が政治的なのでは?と水掛け論になります
」
政治的な問題になってゆくのは、信仰ではないと思います。したがって、「事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ている」のは宗教者でも信仰者でもないと思います。政治には、誰もが巻き込まれて政治を考えるでしょう。しかし、信仰が政治的になったら、信仰ではないです。
「
言い換えれば、ドーキンズは神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題だと言っているわけです。ドーキンズがそう考えるのは、神学者も一般信徒も「神」を数学的な観念の類ではなく、啓示、奇跡、祈りへの応答を通じて《経験》的な領域に具体的に介入する存在と考えているからです。
」
「神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題」にはなりません。神の全能は、科学という限られた人知では測れないからです。つまり、神への信仰は、人知の及ばないところに生きる意義を託すことであります。
すなわち、信仰は、科学的に分かるから信じる、科学的に矛盾するから信じない、というところには、その欠片すらもありません。
「
《経験》に顔を出すものは、すべて科学の研究対象となります。心理的介入ならば心理学や生理学が、オカルト的介入ならばオカルトそのものの当否を決める科学が、歴史的介入ならば歴史学が関わることになる。それらのどれでもない形而上学的存在といったものが想像可能かが問題となるでしょう。
」
心理学は、さらには精神医学も、一部には、人文科学の発想とか直観からの資産を利用しますから、自然科学と同列ではありません。実験、観察、帰納、演繹、という論理立て以外の筋道を使っている学問は、別の科学ということです。
しかし、法則性による科学が、信仰を語ることはないのです。信仰には、生きる目的とか、情感とか、愛とか、科学の扱わない問題が、濃厚に関わってくるので、何でも、何かの○○学で述べられると思うのは間違っています。
「
というわけで、神学者や一般信徒がふつうに語っているところの《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象となり、「あり得るか」「あり得ないか」の確率を計るべき対象となることになります。そんな神の有無をガチの不可知論の対象であるかのように述べるのは間違いだ、というわけです
」
「《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象」となるのではなく、その中の、教条主義的なところが、批判の対象となります。その典型が、楽山の語る神理解であり、浅ましい病質者の、悪口と寝言のようなものです。
「
一般則として、何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います。それを怠るのであれば、まわりの人間はあっさり無視してかまいません。「ここは霊のスポットだ」「証拠は?」「証拠はない」「どうやって調べる?」「調べようがない」「ではさようなら」でOKです。
」
「何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います」・・いかにも科学教の信者が言いそうなことです。しかし、神の存在の証拠を、人が見つけるということ自体、もはや信仰から遠く外れたことです。信仰は人の、心に、あるものです。科学的手段で云々できることではありません。
「
では、神の(哲学的抽象観念としての神ではなく、啓示などにより歴史に介入するとされる神の)存在の有無については、惑星間ティーポットの場合と比べてどうなるでしょうか? 結局、個人ないし集団の言説という以上の存在性の証拠が挙がっていない以上、神もティーポットも同類ということになります。
」
「惑星間ティーポット」が分かりませんし、検索しても、茶器のことしか出てきませんが、無意味な例として挙げたのでしょうか。なお、想像の産物は、自由だが、根拠を持ちませんので、信仰の根拠にはなりません。上に述べたように信仰の根拠は、個人の心の癒しの体験です。
「
そこでドーキンズは、有神論者に対して「君は他宗教については無神論者なんじゃないか」とツッこむという戦略を提案します。聖書の神を信じる人も、ゼウスについては(惑星間ティーポットと同様)「存在しっこない」で片づけてしまいます。だから有神論者も他宗教に関しては無神論であると。
」
信仰に、論理性を求めても、結局、心にあるものを、伝達の暗号である言葉で完全に表すことは出来ないと知るべきです。しかし、ヒントにはなるわけです。科学者は、証明云々と、厳密性を誇って、得意気に信仰に関わるべきではないのです。
>(楽山)
*反省
ツイートはこれ以降も続いているが、質、量ともに素晴らしいので油断するとすべて保存したくなってしまい、きりがない。そんなわけで、とりあえずはメモはここまでとしたい。
それにしてもこれを読むと、自分は『神は妄想である』は通読済みのつもりだったが、全然読めてなかったことを思い知らされる。日暮れて道遠しを思う年になってきてはいるが、焦らず地道に精進するとしよう。
<
楽山は、「地道に精進する」人を侮辱する人です。楽山は、怠け者なので、人の口を借り、本の言葉の表面にしがみつき、嘘と詭弁で、反キリストの悪魔性の役割を演じて、ざまあみろ、できた、とばかり、笑っているのです。これほど愚かになったら、まともに生きてはゆけないわけです。
>(楽山)
*注意
上は、連投ツイートの一部を保存したものである。そのため前後のつながりが不自然なところもある。このテーマに興味のある方は元ツイートを確認してもらえればと思う。以上。
<
つまり、楽山は、自分の言葉で説明することが出来ない、と自分で証明しています。いかなる文章も、自分で理解して、処理できないものだから、名のある人の口を悪用するしかなくなっています。引用された側の迷惑は、一切考えない悪性度です。しかも、楽山は、何か言われたら、人のせいにします。
楽山の、自己愛性の、反キリスト性が、全開です。手段を選ばす、人の口を悪用してきます。広い世界には、様々な人がいます。あちこち見まわして、人並みの理解力もない悪魔性の楽山が、HNを変えながら、悪用できる対象を探していますから、注意・警戒してください。
神を信じるとは、全能ではない自らの人としての不完全と罪性を認めることが主軸です。ゆえに、人が、神の超常の業(わざ)について、希望することはあっても、あったのだ、起こるのだ、と信じ込んでしまうことは、神に対する越権行為という背教であり、同時に、自分の心を損なうことなのです。
宗教の堕落についても、人間の罪性についても、聖書においては明らかです。宗教の代表者たちがキリストを殺しました。歴史においても明らかでしょう。人間には、独裁を見抜く知性も、排除する力もありませんでした。
堕落やカルト化や政治集団化を批判するのは善いことだと思います。しかし、そういう一部をもって全部を否定することは出来ないです。キリスト信仰者は、言論の全否定をペテン師の楽山には向けるべきですが、神とキリストに向けることは決して出来ません。既に心の恩恵を受けているからです。
神は論にあらず
(2021年07月04日)
在るもの
目の前の
そこに在るもの
静物
生物
動物
虫のような
命
事物
移入された感情
論理的に
感覚的に
直観的に
在る
のだが
無い
のかもしれない
背を向けたら
後ろには無い
後ろには
別のもの
論理も感性も拒んで在る
全く別の在り方で
背後から関わるもの
背後から支え
倒すもの
振り向けば
目の前に無いもの
目の前に存るのか
(90年代か?)
(古い記事は載っていません)
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
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