ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:病質

 
  楽山の害2
 
 
年が明けて、楽山がいかに悪意の人であるかが明らかになりました。ウイルス攻撃までやってくるとは、信じられない犯罪者です。前科もあるのでしょうか。犯罪者を相手にしていたとは恐怖です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの、良心の無い表れです。決して関わってはいけない人です。
 
この4年しなかった具体的なウイルスによる妨害行為を、ついに楽山はしてきました。踏んではいけないサイコパスの獣道です。ブロガーではなく犯罪者の没落の底なし沼です。この世とあの世の、地獄への闇の道です。これからは、犯罪者として逃げるのでしょうか、白(しら)を切り続けるのでしょうか。
 
楽山は、今回、してはならないことをして平気でいられるサイコパス性を証明しました。なお、その上で、平然としてツイートを書いてくることで、さらにその態度が、罪悪感のない凶悪かつ凶暴性であることを自ら証明しています。そのことに全く気づかない情性欠如の犯罪者だということです。
 
平気で嘘を吐き、丁寧語で人を騙す性質は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山の症状として組み込まれいるもので、前から指摘してきたことです。口だけでなく、今回、犯罪行為となって表れているということで、自己中病質の実害が、さらにエスカレートする可能性が大と判断しています。
 
楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。
 
このまま、人のPCをぶっ壊して平気なのでしょうか。そういう人は、ふつうの顔は出来ないはずです。許されず、赦されない人になります。楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。いずれサーバーに報告するしかないでしょう。
 
私は、キーボードが全く反応せず使えない状況なので、画面上のスクリーンキーボードを使って、マウスで、よちよちと入力して書いています。マウスでポイントするのはミスが多いですし時間がかかります。こういうことをさせて平気でいられることは根っからの病質の証明です。
 
楽山には、宗教の感受性がないと思います。御縁がないという言い方をしますが、楽山は、それ以上に悪質です。それが、今回の妨害行為によって明らかになりました。自分が理解できない宗教を否定しないではおれないという病質なのでしょう。私は、ただ、出来ることをしているだけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅(笑う顔、汗)
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、
あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。
道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、
宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
2023年1月15日
 
カルトの脅迫めいた話を「笑(汗)の顔」で語る楽山です。どこまでも他人事だと思っているのでしょう。今になっても普通に話す常識人を気取っています。実際は、ウイルスで他者のPCを破壊した犯罪者です。このツイートの呪いとかの超常話は、カルトの話であって、宗教の本質ではありません。
 
 
 
  楽山の害2
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
● 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
楽山の筆致は、深い洞察など何もないのに、読む側が批判する意志を持たなけば、気づかないうちに、そう言えばそうだけど・・みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになるような特徴があります。だますために書いているからです。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。即ち、曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが疲労し変質してゆく危険性があります。成長しなくなり人格破壊と言ってよいと思います。
 
似た言葉による詭弁の刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」という言葉の妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、いずれも大人の責任を持つ人の、個人の意志の尊重であり、楽山の自己中とは全く違います。
 
お笑いにも似ていますが、楽山のは、笑うどころか、極めて有害で人格破壊的な詭弁の一種であるところの「と言えなくもない」「・・そうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」等々の言い回しもあります。責任回避のための、捏造の婉曲表現です。
 
● 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。
 
つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。こういうのは、読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが、必要です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による精神の詐欺行為であります。
 
つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄仮面の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘であり、楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けないでほしいと思います。
 
楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てたり読み取ったりすることも出来ないことが、錆びたオモチャを並べるような文章を書いていることに表れてきたからです。そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけで、訂正不能になっています。
 
楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧にすることがないわけですから、実際上、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用・悪用して、飾り、だますしか、なくなるのです。高名を悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為など、バレないと、高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、1年半~2年近く批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような返しを時々してくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師という判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
自分への害だけを考えるなら、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至っておりませんので、今後、生きておれば、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
 
 
  教えのパラドックス
    前に思ったこと、今思うこと
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
私が、最初、読んで思ったのは、厳しすぎて、守ることなど到底できない教えだということです。情欲をいだくことがなくなれば、子孫など出来ない、人類滅亡じゃないか・・と思いました。しかし、どう見ても、守るのが無理な教えを、キリストは、なぜ、言ったのでしょう。
 
これは、その通り守れという教えではないということです。人々は、どうすれば天国に行けるか、どうすれば神のように正しくなれるか・・ではないのです。キリストは、信仰の救いは、どうすれば救われるという行為義認ではない、ということを言ったのではないか。
 
つまり、神への恐れが足りない人々に対して、何よりも、神のように正しくなることは出来ない、ということを言っているのではないかと思います。大きな結論としては、罪なき人は一人もいない、誰もが罪人なのだから悔い改めが必要なのだという意味ではないかと思います。
 
聖書では、正しいからではなく、正直に罪を認めた人や、救いと癒しを必要としているが罪に塗れていて諦めている人が、キリストによって救われています。一方、自分は正しいと思っている人は、キリストによって厳しく批判されているのです。
 
キリストは、この教えを、神のように正しくなりたいならば、こうでなくてはならないが、守れるか、守れないだろう、だから、誰にとっても悔い改めの告白と祈りが必要だ、と言っているように思えます。キリスト信仰の条件は、善でも義でもなく、神の前に正直に祈るかどうかなのです。
 
神の前で正直に祈る人は、悪意をもって、故意に不正や悪を目指すことは、しないということでもあります。
 
楽山は、その対極にあり、丁寧語を使っても、心は欲望だけのケダモノです。
 
楽山のように、慢心して凝り固まっているような病質者は、誰の助けにも参考にもならず、迷惑と害だけを振り撒いてゆきます。全ての価値観を自己満足の快楽でしか感じないのです。公共というものを何も気にしない人です。罪悪感と良心が育っていないサイコパスです。
 
嘘と詭弁でキリスト信仰を汚している楽山のような、一部の自己中体質の嘘吐きに、どうか、だまされないでください。関わらないでください。
 
 
だます だます

だます だます
 
 
(2020年)
(2023年01月16日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
年が明けてから、楽山の犯罪性が明らかになっています。にもかかわらず普通を装っていられることから、サイコパスは罪悪感がなく反省しないということが、楽山を通して表れ、楽山の恐怖の本性を表しているのに、楽山だけが気づかないのです。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
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  超常と日常3
 
 
聖書に書いてある超常現象、つまり、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活について、信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。何故なら、超常現象の奇跡を信じても、そういう奇跡は、少なくとも、人間には理解できないことであり、かつ、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで、もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから、超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。神の超常は
神に任されることです。
 
さらに、人が超常にこだわることは、日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は、神のみのわざです。神のみに任されることです。人が自分の都合で、神のわざを信じ込むのは、神のわざを決めつけることであり、不遜というものです。
 
一方、心の奇跡は悔い改めであり、神と人との関係において起こることです。心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を信じますと言っても、信じると何が起きるというのでしょう。処女のまま妊娠しますか。何か超常現象を起こせるようになりますか。死んでも肉体が蘇りますか。誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。信じたら超常の奇跡が起こると言われても、実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。病気になってもすぐ治るのでは、病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
 
超常に執着することで生じる鈍感さは、日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。超常の奇跡に頼ってしまえば、人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから、奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは、神の御心に任されていることです。
 
信仰は、信じれば奇跡が起こるという交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は、怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような、
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると、もっと考えるべき日常のこと、人間としての節操や、愛と共感そして真実の追求など、人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが超常現象を信じることは、思考と感情をゆがめてゆくのです。大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら驚きを持って見るでしょう。それで命が助かったら感謝もするでしょう。しかし、それはその時の驚きと感謝以上にはなりません。そういう奇跡で人は成長しません。私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
奇跡に頼って
過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
その上にあぐらをかいて、
もはや人間とすら思えない状態になっています。
この人のどこが救われた人なのでしょう。
滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は、超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。私たちは、私たちに与えられている良きもの、つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において、それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、キリストに対して正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
聖書において
教条と戒律主義に陥った者たちは
儀式の形式を守ることで
良心の実質を疎かにして
守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
選ばれた者という自覚に思い上がり
そしてキリストを殺す者となり
神の怒りを買いました。
 
信仰は共感の可能な心によってのみ受け取られ、悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、神のごとくであることを求めない敬虔によって、代わりに人間らしい心を与えられ、育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるためには、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、
神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常

超常と日常
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月21日、再録+加筆)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業は、何を言われても、何事もなかったかのように無視して書いてくることです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、継続的に批判しなければならなくなります。
 
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。しばしば書いてきた「反省」「とほほ」などは、もはや、楽山の嘘の典型です。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、自覚がないか、または、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明するだけです。根腐れの進行であり、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
 
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
 
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
 
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
 
遭遇から終焉に至るまで
出会(でくわ)す有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
 
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
 
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
 
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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