ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:祈り

 
  超常と信仰2
 
 
神・キリスト、聖霊の聖三位は、いずれも、超常の御方であります。人間は、超常に住んではいないし、超常を解釈する立場でもありません。人間が神聖に関わるのは、あくまで、人間として、受け取り、考え、信仰者は、仰ぎ、希望として生きる縁(よすが)とするためであります。
 
超常の神聖なる世界を、人間が、推測したり想像したり、説を述べたりすることは、人間の知的な営みとして是とされますが、それを決めつけて信じ込むことは、背教に他なりません。超常を考えるより大切なことは、地上の日常、即ち、人間の生き方を考えることです。
 
神聖を語るに、神聖の用語を語っても、人には理解できません。理解したかのように振り回すのは、とても醜いことです。自分という人間に、神聖は、どのように影響しているかを語るべきであります。そのヒントは、他でもない、聖書にあります。
 
旧約聖書には、神と人の違いが、多く語られています。人は有限であり、神は、全知・全能、絶対・完全、永遠・不変の存在として語られています。この6つの性質は、いずれも、人にはないものであり、神聖なる御方だけの性質であります。
 
新約聖書には、キリストの、この上ない洞察力と共感性が語られています。数々の物や肉体への奇跡、超常奇跡については、現代において、殆ど起こっていないので、人間には理解を超えた神聖の力であり、そこに、不完全な人間の信仰は成り立ちません。生きる縁にならないからです。
 
キリストは、傷ついた人、病の人、取税人、姦淫を犯した女性、犯罪人、などを、選んで、救いました。その人々は、正直に告白する以外、何も持っていなかった人々です。一方、分かっている、守っている、知っている、見える、という人々には、信仰の義を与えず、敵としました。
 
聖書を読んで、不完全な性質、即ち、罪深さを常態として持っている人間が、何を受け取るべきか、そして、何を考えるべきかが、そこに、表れています。超常の神聖自体の理解は、終末まで、保留するべきであります。ゆえに、神秘と言われます。
 
私たちは、祈りにおいて、何が語れるでしょう。正しい絶対の完全な真理、救いの具体的な仕組み、終末まで、私たちは知りません。人間を見て洞察するキリストの共感に、私たちも、共感を覚えたゆえに、キリストを好きになり、祈るようになっただけなのです。
 
ですから、祈りにおいて、語れるのは、正直な、罪の告白と、癒しと救いの希望です。それを学ぶために、聖書があり、ヒントとしての教義があり信条があるのです。分かっているから信じるのではありません。信じていないと生きられないから、祈るのが、信仰です。
 
 
必要だったから求めた

必要だったから求めた 27歳 (・・今は68才)
 
 
(2021年)
(2022年12月16日、再録+加筆)
 
 
 
超常の神の辻褄を、日常の人の辻褄で、確定できません。肯定することも、否定することも、できないと知るべきであります。それよりも、もっと、自分が、何ゆえ、どのように、キリスト者になったのか、自分が、何ゆえ、聖書を読み求道しているのかを、人間として考えるべきだと思います。
 
キリストの深い共感に呼応して、私は、キリストに共感できるから、キリスト者になり、あるいは、求道を続けています。人間の共感性を失うようになって、教理の言葉を並べるだけになったら、もはや、人間を生かす信仰ではありません。
 
昔「愛の唄にはなぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩を読んだことがあり、愛よりも、共感という双方向の言葉が好きです。共感は、愛につながると言ってもよいでしょう。愛の行いは、人を生かしますが、一方、よかれと思って傷つけることもあります。人間は不完全です。
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
  自殺について
 
(「自殺は最大の罪」とは
「自殺者は最大の罪人」の意ではない
 これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
 死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
(神が生ける者の神であるように
罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
最大といわれる自殺の罪が
果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
(基督は確かに生きよと言われるだろう
だが その理由によって生きている人間は
思ったほど多くはあるまい)
 
死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
もともと基督など信じていなかったのだ
ということにすれば辻褄は合う
だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
 
生きたかったと
 
 
 
※ 
 
正直な告白と願い以外は、神には通用しないと思います。
 
絶対の神に対して、真善美の大仰な讃美だけは、しないほうがよいと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小学生の興味本位の謎解きのようなことを書いていました。神がいるなら酷い悲劇は起こらないはずだから、悲劇が起こっているということは、神はいない・・という主張ですが、神の辻褄を、自分の辻褄で語れると思うこと自体が、既に、神を少しも知らないということです。
 
酷い悲劇が起こる地上だから、生きるための縁(よすが)が必要なのです。楽山は、自己愛・自己中を生きる縁として、自分のほうが上だという優越感だけを求めて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の醜さを表すようになっている反キリストです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
訂正!
× Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
○ Pさんにとっての神は、逆らおうと思える存在なんですな。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @vincent20200110さん
神に対するアンチなんて
やろうと思えば誰でもやれる
 」
Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
私は、神には誰も逆らえないと思うけどね。
たとえば臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話はあっても、逆らった話なんて聞いたことないもんね。
午後9:47 · 2021年12月14日
 
「神には誰も逆らえないと思うけどね」・・神を知らないし、信じてもいない楽山が言っています。口から出まかせとは、このことでしょう。このように、知りもしない存在を、分かっているかのように、いけしゃあしゃあと書いてくるのが、自己愛性人格障害の特徴でしょう。
 
「臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話」・・楽山の夢想~妄想する神?は、「臨死体験」とかでないと、ぴんと来ないのでしょう。それを、「光の存在」「深い愛」「癒され」「改心」などと、目いっぱい飾ってきました。
 
実感のない言葉は文脈から浮いてきます。
 
楽山レベルの、アンチというのは、大嘘なので、無知で無恥な分、誰でもやれるだろうと思います。楽山のインテリ宗教家気取りは、止みません。楽山は、神を、そして、深い愛を、文章に表せたことがなく、全く知らないのです。言葉だけをいじくる楽山の企みは、空しいばかりです。
 
楽山の、マンガ的な落書きの世界で、"神"という言葉は、言葉だけで、何の意味も持ちません。そして、楽山は、自分の物差しで測れる神?を、せっせと貶めてきたのです。真摯な態度というのが、全くないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの、転落中の、楽山の特徴です。
 
楽山は、全てが分かっていないと気の済まない男なので、平気で、"神" と言い、それを自身の安っぽい概念の箱に納めてしまうのです。そこは偏見の溜まり場であって、信仰の欠片も芽生えも、ありません。埒(らち)もない暗く陰湿な魔道を、楽山は、ずっと、徘徊しているのです。
 
 
 
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  主の祈り2
 
 
主の祈りは、
イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文。
 
もちろん、主が祈るためではなく、聖書・福音書によって明らかなように、私たち信仰者が祈るためにあります。そのお手本となるのが、主の祈り、と呼ばれているところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
 (マタイ6:6-9、新約聖書)
 
祈りは、独りで捧げるものだということです。信仰者は、神の前で生きているようなものです。すなわち、神は、私たちの言動と心の全てを見て、既に、知っておられます。そういう、ごまかしの利かない神に対して、告白や願いを祈るのだから、正直以外は、通用しないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 (マタイ6:9-13、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
11:1
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。 
11:2-4
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 (ルカ11:1-4、新約聖書)
 
ここでは、弟子に乞われて、キリストは、祈り方を教えています。弟子たちだけでなく、私たち信仰者もまた、教えによって、見習うことになります。もちろん、こう祈っておけば大丈夫・・ということではありません。
 
主の祈りは、信仰者の祈りの定型文ではありません。決まり文句で祈るのではなく、一人一人がそれぞれ、個人の信仰生活において、告白と悔い改めと感謝など、正直に祈ることになります。
 
私たちが、信仰者であっても、ひどい思い煩いに支配されることなく、生きることが許されているのは、ひとえに、神が、悔い改める者に対しては、限りなく寛容だからです。
 
既に、全てを見抜いてご存知の神様は、信仰者が、自発的に、ただ正直に祈ることを待っておられると思います。正直でなかった場合は、別の機会に、正直を取り戻して祈ればよいのです。このことは、神の寛容を表しています。遅れた正直は、先んじる偽りよりは、マシなのです。
 
下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。
 
(主の祈り:文語訳)
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
 」
 
神の計画の成就と、日々の願いと、赦しと、救いと、讃美が、述べられています。個人の祈りにおいては、さらに、具体的に、良かったと思うこと、感謝、悔いること、罪の告白、罪の赦しを願うこと、悩んでいること、・・などを、祈り願います。正直であることだけが必要十分条件です。
 
人が神に祈る時に、立派な祈りなどは、ありません。全知全能・絶対完全・永遠不変の神の前では、全知でなく全能でなく絶対でなく永遠でなく、不完全で移ろいやすい人間は、皆、口下手であります。いかに飾ることが空しいかということです。
 
 
  悪い祈り(信仰)の例:
 
「キリスト様へ、私たちのために死んでくださって、ありがとう」・・キリストの十字架の苦痛が、いかばかりであったかを忘れています。私たち信仰者のための十字架であっても、キリストの犠牲の苦難に共感しておれば、言えないはずです。
 
このように、人間としての弁えがなく、心無いところから、人間離れした悪い祈りが生まれます。キリストの罪の贖いによって赦されるのは、祈りに答えてであって、無罪の境地を与えられることではありません。救いの辻褄を覚えるだけでキリストの十字架の苦悩を知らない者・・になってはいけません。
 
「聖霊には昨日もお会いして話しました」・・人間には、聖霊と、陶酔気分を区別することは出来ません。聖霊は神聖であり、私たちは不完全なのです。どうして聖霊だと分かるのでしょう。こういう人間としての身の程を弁えない発言は、カルト的な超常願望から来ています。
 
聖霊体験は、無いとは言えないが、人が聖霊だと断定してよいものではありません。本当の聖霊体験を経験した信仰者は、恐らく、恐れて黙しているでしょう。そういう恐れを知る者にしか聖霊体験は起きないと思います。預言についても同様です。神秘は見せびらかせるものではありません。
 
信徒も預言すると聖書に書かれているからと言って、それを求め、さらには、それが起こったと言うのは、これもまた、神聖を決めつける超常願望の人間離れなのです。人間性を失った者には、救いも恵みも与えられることはなく、そういう者は、自分は特別という願望から自分信仰に向かっています。
 
自分は特別という意識がもたらす災いの一つの類型として、豪語があります。自己顕示欲で、または、言い込められて焦ることで、豪語は起こります。言っている内容が、超常の言葉で現実離れしていることや、アホみたいに幼稚か当たり前だったりすることから、区別できると思います。
 
異言というものもあります。聖書に書いてあるからと、神秘を探し始め、見つけたい、特別になりたい、という願望から、見つけた!・・という有頂天に至ることがあります。預言と同じように、内容を見る必要があります。神がかりになりたいという願望が妄想になる例でしょう。
 
神と一体になったら、神になるとでも思うのでしょうか。神の全能に、不用意に近づこうとすれば、一瞬のうちに燃え尽きる・・くらいの、神への恐れが必要です。信仰は、のぼせ上がることで高慢になり、精神病理になることがあります。畏れではなく恐れであります。
 
 (使徒行伝、口語訳)
19:5
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。 
19:6
そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。 
19:7
その人たちはみんなで十二人ほどであった。
 (使徒19:5-7、新約聖書)
 
神を恐れる、ということを、神を敬う、神の前に畏まる、などという程度の気持ちしか持っていないようになると、裁く神、戒める神、懲らしめる神を忘れてしまいます。全能と不完全の違いを弁えないようになってしまいます。それは、もはや、信仰ではありません。
 
信仰は、お伽噺でもヒーロー物語でもありません。命を支える水脈です。人間離れしてゆく方向にはカルト化しか待ってはいません。人間として正しいならば、神秘に恐れをいだくはずです。敬虔は、神聖への恐れから生まれます。ゆえに、それを欠いて幻を語っても、"特別" に悪くなるだけです。
 
信仰の恵みは、人間らしさに与えられます。一方、超常の魔法のような奇跡は、神に任されることです。信仰者は、新しい命と、生きるための方向と、時々の癒しを得て、よりよい人間になることを目指すのであって、そこを離れて、キリスト信仰の救いはないのです。
 
信仰は、人間らしさの真実を追求することです。全能の神の存在を意識して、自らの不完全と罪深さを知ることから始まります。であるのに、超常の豪語や自覚?に走ってしまうのは、欲望によるものであり、信仰の敬虔に逆行するものです。
 
おびただしいカルト系が、望ましくない方向へ向かっています。そして、そういうカルトや妄想家や自己中で人の話を聞かない無反省・無責任の流れは、人間に対するキリストの、この上ない共感とは、全く反対の方向へ誘導し、煽り、刷り込み、そして、人格を破壊するものです。
 
 
楽山の語る理屈モドキは、よく読めば、一度も成り立ったことがありません。さらに、表面的な理屈だけで、宗教を理解したことにしている楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という精神病理の檻(おり)に捉えられています。
 
楽山は、優越感のために共感がなく、反省せず、決めつけに生きています。楽山の、やさしげで、柔和を装う筆致を信用しないでください。騙された人からの "優しいお人柄ですね" などというコメントに満悦し、書くことに自己満足するだけで、真実追求の妨害者でしかありません。
 
 
絆(きずな)と祈り

絆(きずな)と祈り
 
 
(2021年11月17日)
(2022年12月01日、再録+加筆)
 
 
 
 讃美について
 
神を賛美することは、自分がいかに低く罪深い立場から神を仰ぐ必要があるか、という実感から生まれます。しかし、讃美する自分は正しいキリスト者、というような信仰自慢とお祭り騒ぎのニュアンスを感じることがあります。神は、絶対であり、人に讃美される必要はありません。
 
自分という信仰者は正しいという自覚で、喜んで~有頂天で、神を賛美するのは冒涜であります。そこにあるのは、信仰者の姿ではなく、カルト的陶酔気分か、または、褒めてなくては、という強迫観念、あるいは、褒めればよい、という自己満足でしかありません。
 
信仰者が讃美して、それが、信仰とダイレクトに結び付いたのは、まさに、迫害が身近に迫っていて、結束しなければならないという時代の、切実な必要と欲求によるのであります。それを、現代において真似て、いい気になる讃美信仰はキリスト信仰とは言えないでしょう。
 
 
 
  器を
 
この両手に囲めるだけの空を下さい
消えるものは消えるままに
この両手に掬えるだけの海を下さい
沈むものは沈むままに
この体に受けとめられるだけの光を下さい
失うものは失われるままに
この足に踏めるだけの大地を下さい
崩れるものは崩れるままに
この目に映るだけの奥行きを下さい
壊れるものは壊れるままに
喪失の限りある世界から
自らの喪失へ連なる調べを
受け入れるだけの小さな器を下さい
器はいつか喜びに砕けるでしょう
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀り
私が手に入れ
あるいは失ったもの
私を誘惑し
私を陥れ
私を快楽に酔わせ
私を責め苛むものから
どうか私を救い出して下さい
 
私が裁かれるべきであれば
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が跪いて俯いて
裁かれる姿勢で受けられますように
 
言い渡される宣告の前に
我が身の罪を食い
跪(ひざまず)かせて下さい
せめてその時には
私の罪と悔いが全て見えますように
 
できればその時までに
試みに会わせず悪より救い出してください
 
何よりも
ずっと
ずっと
私の躓(つまず)きを見ていてください
そして
その果てに私を拾い
お救いください
 
 
※ 
謀る(はかる)、陥れる(おとしいれる)、
跪く(ひざまずく)、俯く(うつむく)、苛む(さいなむ)、躓く(つまずく)
 
 
   契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 取税人とパリサイ人の祈り、という聖句を挙げておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:9-14
 
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
 
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
 
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
 
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  大事なもの4
    (過去の記事を加筆して再録)
 
 
大昔からの、聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
今それら奇跡を当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こっていない奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
それに
物や肉体の奇跡を起こすのは神の業です。
神に任せるべきことです。
 
超常の奇跡を当てにすることは的外れと知るべきです。
共感できないのだから心の縁にもなりません。
 
いたずらに感情を高ぶらせて
信仰と讃美を豪語するのは
偽善者の、のぼせか、三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人々と交わり
キリストが人間を深く洞察して
人間の悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
共感なき者たちによって捕らえられ
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として
どこまでも人間であるべきです。
天国を待ち望む民であり続けるためには
考えるべきことがあります。
 
少なくとも今は
当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で覚えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように耳に繰り返したりして
それで深めようとする信仰観は
むしろピント外れの偽善的徒労だと思います。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感したのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として聖書から学ぶべきことであり
信仰者として縁(よすが)にする信仰ことなのです。
 
それを理解することを魂の奇跡と呼んでいます。
物や肉体の奇跡に対して
心の奇跡と呼んでもいいと思います。
 
神の僕(しもべ)ぶった高慢ではなく
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋に
主の眼差しが注がれてゆくように
祈り乞い願い
癒しと救いの成就を待ち望む人間の姿を
神様に見ていただきましょう。
 
(旧約聖書:詩篇56:8)
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
嘆きがあれば
嘆きを正直に告白して祈りましょう。
それが祈りだと思います。
 
できることをして
心から感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが信仰生活だと思います。
 
 
 感謝と讃美について
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
1:5
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 
1:6
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
 (ローマ1:5-6、新約聖書)
 
「愛のうちに」「ほめたたえるためである」と書いてあります。感謝と讃美は、しなさいと言われて、するものではありません。せずにはおれないときに、正直な気持ちで、するものです。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。 
3:16
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 (コロサイ3:15-16、新約聖書)
 
「いつも感謝していなさい」・・できるでしょうか。この訳のままでは不自然な感じを受けます。
「感謝して心から神をほめたたえなさい」と書いてあります。感謝は、時々に生まれるものであって、しなきゃいけないからするものではありません。
 
「感謝して」「心から」・・つまり、感謝は、心から溢れるように、正直な気持ちでするものです。
感謝と讃美を、無理にして、それが信仰だと思うことのほうが、怖いのです。特に、讃美は、心からではないときにすれば、信仰とは無縁の儀礼~世辞~信仰自慢になってしまいます。
 
感謝と讃美は、折々に、自発的に、そうしたい気持ちに満たされた時に、するべきことです。それよりも、罪人としての自覚が大切であり、罪深い自分を、正直に捧げる告白の祈りが、信仰においては、必須だと思います。
 
縁(よすが)
業(わざ)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
僕(しもべ)
讃える(たたえる)
 
 
祈り 孤独

祈り 孤独
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年11月18日、再録+加筆)
 
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
哀しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
悲しい歌が今も好きです
 
 
  口をあける
 
死なずにいることしかできませんでした
夜ひとり口を空ける
呆けて待つ姿勢
それではいけないか
それではいけないな
 
遠くで犬が吠える
狼の遠吠えに聞こえる
過去を呼んでいるように聞こえる
次々に犬が吠える
今を憎んでいるように聞こえる
また遠くで吠える
未来に向かって叫ぶ牙のようだ
 
遠吠えしてみたい
吠えてみたい
叫びたい
夜ひとり口を開ける
声が出ない
入る
 
聞き取る間もない
 
犬歯を折る
口を引き裂く
喉を突き破る
頸椎を砕く
延髄を貫く
 
罪か罰か知る由もない
 
過去を呼べない速さで夜の風穴
涙腺を干す
 
 
  曲がり道
 
曲がり道はいつも刃物
十字路で振った
三叉路で濡らした
分かれ道を過ぎて拭いた
血と汗と涙
切った先に進むしかない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
それゆえ光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
 
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
 
 ※
 
 楽山の人格障害(抜粋)
 
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
エヘヘ・・が付いていそうな安易さを読み取ってください。誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」などではありません。「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  在る・祈る 3
 
 
新約聖書の中のパウロの言葉で、愛の賛歌とも呼ばれる聖句です。

 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
 
この聖句を全て反対にしてみます。
 
寛容でない。情け深くない、冷酷。妬む。高ぶる。誇る。
無作法である。自分の利益と快楽だけを求める。苛立つ。恨みをいだく。
真理を悦ばないで、不義を悦ぶ。
忍耐しない。信じない。正しさを望まない。耐えることが出来ない。
 
大方、楽山に当てはまります。
 
さらに、世の中に溢れている身勝手な愛というものの実相でもあるでしょう。
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる愛と呼ばれるものの罪の実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世にあって
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ・・祈りへ・・
 
 
 
  唖然
  ↓
  怒り
  ↓
  憎しみ
  ↓
  恨み
  ↓
  怨念
  ↓
  呪い
  ↓
  病
  ↓
  鬱
  ↓
  諦め
  ↓
  悲しみ
  ↓
  感受と思考
  ↓
  祈り
  ↓
  思考
  ↓
 今できること
 (復活)
 
 
 
  弱虫
 
明るく見えても
穏やかに見えても
やさしそうに見えていても
ときおり激しさや険しさや苦悩を覗かせるのは
押し潰されそうになりながら
消え入りそうになりながら
懸命に重たいものを支えているのかもしれない
 
常にプラスの方を向いていなければ
常に前向きでいなければ生きられぬ
というほどに
 
だとすれば
暗さを暗いまま
激しさを激しいまま
腐肉を腐肉のまま押し出してしまうのは
すでに認めざるを得ないのだが 改めて
不治の弱虫だと
ある日ふるえるように 思う
 
最も悪質な弱さというのは
弱虫だということではなく
弱虫だということを認めないことだろう
 
 
 
  恋歌
 
あなたの こえが ききたくて
みみを すましてみるけれど
いまは やさしい ほほえみも
うたごえさえも とおすぎて
 
あなたの ゆめが 知りたくて
こころを こめてみるけれど
とおい おもいで 追うばかり
間(あわい) せつなく 問うものを
 
つきぬ おもいよ いまさらに
なにを もとめて たちどまる
ささげるものと 問われては
とどかぬ うたと しるゆえに
 
わたしの おもいの はかなさを
ささのは ささぶねに おりなして
この かわの もに うかべましょう
はてる さだめと しりながら
はてる さだめと 知るゆえに
 
 
 
  イエスの教え
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
イエス・キリストは、やさしかっただけではなかった。
 
戒め・律法を守っているという訂正不能の確信によって罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。
 
あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。
 
イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦し敵対している。
 
律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのだろうと思う。
 
律法学者やパリサイ人は、例外を除いて、高慢で、傲慢で、怒りやすく、人前で豪語し、威張り、教えを受け取る器がなかったゆえに、真っ向から、キリストの敵となった。この性質を持っているのが、サイコパスであり、また、楽山のような自己愛病質である。
 
 
祈りの向かうところへ

祈りの向かうところへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  楽山には、良心がないために、執拗な自己正当化の詭弁が止みません。
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
闇宇宙の俳諧師・藤倉善郎
@SuspendedNyorai
カルト問題で特定の団体や加担者を批判すると「信教の自由」とか言うアホがいますが、「信教の自由」を振りかざす上祐史浩に「人を不幸にする自由はない」と毅然と言い放ったのが坂本弁護士。カルト問題における最も基本的な大前提です。
午後5:34 · 2021年11月4日
 
楽山は自らを省みることがありません。念のため書いておきますが、楽山の言ってきた言論の自由や、以前の記事のテーマ「自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?」も大前提に対する、あからさまの違反です。曖昧な格言や一般論で、個別の自分を正当化することは出来ません。
 
「人を不幸にする自由はない」・・ならば、人に迷惑をかけてはいけない。言うだけで責任を負わないという自由はないわけです。楽山のように他者を無視し、学習しない言論はあり得ないのです。言論における「最も基本的な大前提」です。楽山という自己愛性人格障害者に欠けているものです。
 
無反省、無責任、無視の、一方的な言は、言論ではなく、いちゃもん、嫌がらせ、貶め、悪口、誘導、刷り込み、印象操作、侮辱の類であり、常識的ルールの無視であり、成立しません。しかも、楽山のように、自分の不祥事を人のせいにするに至っては、到底、人間とは思えない所業であります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
誠実さを貫けば、決して多くの友は得られないだろう。でもいつだって、正しい友を得ることが出来る。―ジョン・レノン
午後2:52 · 2021年11月4日
 
誠実さを欠けば、多くの友は得られず、正しい友も得ることが出来なくなります。楽山は、誠実を知らず、嘘と詭弁と刷り込みばかりしています。だから、悪の仲間がいたとしても、誠実な友がいませんし、正しい友を得ることも出来ません。有名人の言葉で自己正当化しても無駄です。
 
 
(楽山と思われる)raku がリツイート
セルピー
@self_pararevo2
·10月27日
【秩序ある状態にするには】
世界の秩序に於いても、
国や社会の秩序に於いても、
会社や家庭の秩序に於いても、
いかに、
不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先すべき重要なことです。
(引用:ZEROの法則/宇場稔著/幻冬舎)
 」
午前9:07 · 2021年10月27日
 
いかにも、楽山が、このツイートを引用しそうなのは、楽山においては、不快な感情の原因を無視する自己中が最優先になるということです。その通りに、楽山は、不快、不都合を、受けることはもちろん、与えたことも無視します。それを正当化するため、曲解に走り、いっそう、醜さを増してゆくのです。
 
このように、楽山は、他者の言も曲げて、自己正当化の具材として悪用します。楽山には、基本的な理解の客観性がないので、自分に有利に見える意味を暗示できそうだと思ったら、エサに飛びつくように、一般的な意味など考えもせずに、引用してしまう短絡的な衝動に走るのでしょう。
 
自分だけでなく他者のためにも「不快な感情による「感情損失」を減少させていく」協調性が、一般的に大切です。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく自分の快楽しか考えていないので、自己中の視点だけで誤読し曲解して引用し、むしろ自ら、病質から墓穴を掘ってゆくのです。
 
「不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先」・・最優先なんだぞ、オレはそれをやっているんだ、という、殆ど、本能のような楽山の、みじめな曲解の言い逃れです。引用部分を、自己中心的にしか受け取れないところの、精神の貧困が明らかです。
 
都合が悪いことは無条件に無視してよいなどとは、どこにも書いてありません。楽山は、企んで、あるいは、体質によって、注意深く言葉の本質を掘り下げることが出来ません。それは、まるで、ケーキや玩具の前に、子供が、我を忘れる姿に似ています。人格の低格化です。
 
無反省無責任の自己中について、良識があるなら、楽山の場合には病識があるなら、上のツイートを無条件で引用することはしないでしょう。少なくとも、良心に基づく説明と反省を書くはずです。それをしないのは、今まで、ずっと我欲だけの自己中を続けてきた体質的欠陥があるからです。
 
私は、過去に、楽山にだまされていた数か月があります。一見、中立な立場の人だろうと思っていたのです。しかし、偽牧師シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という妄言に、楽山が無条件同意したことが気づくきっかけになって、以後は批判を続けています。
 
楽山は、ブログとツイッターで、複数の、恐らく、たくさんの、HNを使っていると思います。シャロームも、楽山の成りすましではないかとさえ疑っています。真偽はいまだ不明ですが、嘘と芝居が大好きな楽山は、丁寧語を使いますが、性根は、荒らしだと思います。だまされないでください。
 
ヤフーブログ時代の、楽山ではないかと疑われるHNは、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。スクショが残っていました。楽山の信頼度はゼロです。
 
 
 
楽山は、ツイッターでは、前と同じように、自己正当化に都合のよい文言を漁(あさ)っては載せてきます。楽山日記コメント欄の再録です。削除しないのは、コメント者が、親族だからでしょうか。それとも、教師、または、そのような立場の人でしょうか。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。体質的なものなので、一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
 
 
(2021年)
(2022年11月08日、再録+加筆)
 
 
 
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  反面の偽善者3
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対してだけはは正直しか通用しない。
それだけでよいゆえに万人の救いとなる。
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ自分で体裁を整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しに包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
  反面の者
 
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
ああでもない、こうでもない、ていうか
それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
ずっと神聖に向かって
立小便をしている者たちだ。
真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
こうなってはいけない
というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
罪の門口に行って
やがて来たるものを待つためだろうか。
 
反面教師、即ち、悪い見本がいて、しきりに教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言う能力も資格もない。
 
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
滅びを自覚できない。
 
彼らは
自覚しないまま
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
信仰者は
信仰にとって破壊者となる偽善者に近づいてはいけない。
彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
偽善者を知ることは、ある意味、重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は、神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
信仰者は、神聖に対して、神聖の真理を知らなくても、救いの希望として、信じ仰ぎ祈るのです。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
偽善の色

偽善の色
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月31日、再録+加筆)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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