ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神の言葉

 
  神と人と言葉2
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように、人間に理解できるような神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。 しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心を持つところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、よく見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性によるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。
 
そういう隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない愚痴です・・去年、母の転院のこと・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神の言葉・人の言葉

神の言葉・人の言葉
 
 
(2020年7月11日)
(2021年07月21日、再録+)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  体質と言葉2
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、
先天的または後天的に規定されるところの
その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は
それを表した人の言葉によってではなく
それに反対する人の言葉によってでもなく
それを発する人の体質によって
救いともなり
邪悪ともなる。
 
神の言葉は
受け取った人の言葉になると
人を生かすことがあり
人を壊すこともある。
 
こういうことがなぜ起こるかは神の秘密であろう。
以上は、認めるしかない事実である。
認めない者は、自分信仰になる。
 
神の言葉は
人の言葉となって
先ず、人は、
神と人の、そして、
神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきである。
 
神の言葉の真理は不可知であり
人の言葉の真実は曖昧に可知である。
 
この違いのみが、心掛けて弁えるべき信仰の節操である。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
絶えることがないのは、
常時の平安ではなく、
必要なときに
祈りに答えて与えられる癒しと平安である。
 
人は、受け取れるものを受け取るが、
信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、
受け取って忘れるのではなく、
受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、
即ち、固定できるものではなく、
いつも人生に必要だから否定できなくなることであり、
 
それは、信仰が、
固定して揺るがないのではなく、
忍耐強く求め続けるものであり、
否定の判断が下せないほど必要だと思い、
希望し続ける祈りの生き方による。
 
それゆえ、信仰は、
いつも、新しい目覚めを求め続ける。
 
完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのである。
信仰は、成長する。
 
正直な祈ることによって人は
神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからである。
 
 
異常な体質の特徴。
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに
不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮深く理路を整えることができず結論的決めつけを繰り返す。
情緒面で、深い高等感情が発達しないし、
他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、
ゆえに、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、
そして、整わないまま結論を、でっち上げて、
作り話や、デマなどで、相手を侮辱するしかなくなる。
暴論も正論も理解できず区別できずに、
自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られる。
自分が上だという立場から抜けられないために
相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出す。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、"万事を疫"病となるように、今に至る成り行きが出来ているようです。
 
決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。
批判するのでなければ、遠ざかることだけが最善の方法です。
 
 
(2020年03月16日)
 
嘲る(あざける)嘲笑い(あざわらい)
 
 
逃げなさい

逃げなさい
 
 
(2021年03月24日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば、責任はないと思っているようです。
 
しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、そのまま賛同か、利用したことになるという責任を、全く理解しないのが楽山の、自己愛からの自己中の病質なのです。口出しするな・・ということを、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たない宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。
 
人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。それに文句を言っているのは、全部、余計な口を出すことで、お節介だといいたのです。
 
通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いこと言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
それに、楽山が、暇つぶしで宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないわけですから、とんでもない無礼な話であり、ゆえに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、このツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を気にしないということは、正常心理では、ありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、自ら、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。
 
 
(2021年03月24日)
 
 
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