ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神義論

 
  楽山の弁神論(2)3
 
 神義論、弁神論についての対話 2
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの偏向した負の情熱、つまり、怒気のベクトルが、無反省に、執拗に、詐欺的言説によって、にじり寄ってきます。また、自作自演でしょうから、信者も老人も楽山です。
 
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者「神は悪を止められるはずなのに、なぜ止めないのかと仰いますけどね、そこには神の深いお考えがあるんですよ」
老人「たとえば、どんな?」
信者「神の愛は、砂糖菓子のような愛ではないんです。砂糖菓子は美味しいです。でもそればかり食べてたら虫歯になってしまいます。だから神は、人々の魂を鍛え、進歩させるために、幸いを与えるだけでなく、試練を与えることもあるんです」
老人「つまり、神は、人々の霊性の向上のために、あえて悪の存在を許容しているということかな」
信者「大雑把に言えばそうとも言えますが、だからといって神は悪を奨励しているわけではありませんからね。悪と見えし、この世の苦難困難は、魂を磨き、霊性を向上させるための砥石としての役割があり、そこに意味があるということです」
 
このように、神を、人間の考える正義の立場から、矛盾だ、矛盾だと、正論を繰り出したつもりになるのが、楽山のような偽善的無神教かるとの生業(なりわい)なのです。なのに、代わりとなるものを何も提示できない無責任さなのです。それと、虫歯の喩えは、ひどいものです。
 
楽山は、霊性の向上、などという、一見、高尚に見える言葉が大好きでが、それに見合う中身が全くありません。信仰に必要なのは、人間に相応しい心なのです。上の記事のような、試練だと言えば、死んだら試練にならないでしょう、という責め方は、陳腐であります。
 
神がなぜ悪を止めないのかという疑問は、誰もがいだくでしょう。私もいだきます。しかし、そういう疑問があるからと言って、無神教カルトに堕してゆくのは、楽山の、人間としての浅さと短絡と身勝手ゆえです。信じるかどうかは自由です。しかし信仰を侮辱することは許されません。
 
信仰者は、先ず、苦悩があり、そこからの、慰めでも、励ましでも、癒しでも、救いでも、いただきたいと思うゆえに、聖書を読むのです。危機を逃れられるからでも、死なないからでもなく、危機のほうから訪れてくるから、耐え忍ぶ力が欲しいのです。
 
信仰者は、机上で小理屈を捏ねている気取り屋とは、種類が違うと言ってもよいでしょう。ですから、決定的なこととして、楽山のような偽善者は、人を救う道を、何も提示しえないわけです。総て、机上の空論だからです。楽山の信仰理解は絵に描いた餅だと分かります。
 
楽山は、愛と共感を知りません。ゆえに、キリストの愛と共感も知りません。それが、妬ましいから、文句を言っているという極めて低次元の自己中であり、それを、何々論だとか言って飾っているだけなのです。自己愛に生きる者は、他者の意見と、自らの矛盾を、両方、無視する人生になります。
 
誰も認めてくれないから、その小理屈を言うことにだけ快感を覚えるのでしょう。言ってみれば、いちばん、この地上で、何処にも正当に届かせるものを持たないで、独り言を書いて、他者をあざ笑い、侮辱し続けている人種なのです。
 
 
老人「それは、逆境にある人が、自分自身の心を奮い立たせようとするときには有効な考え方だろうが、他人に対しては適用できないものだね」
信者「どういうことですか?」
老人「たとえば、逆境にある人が、『この苦難、困難には意味があるんだ。自分はこれを乗り越えることで、魂を鍛え、さらに高く飛翔できるんだ』と前向きに考えて頑張るのは結構なことだ。でも、児童虐待事件などについて、『この苦難困難は、この子の魂を向上させるためにあるんです。神の愛は砂糖菓子のようなものではないんです』と第三者の立場から言うとしたら、こんなバカなことはない。あなたはそうは思わないかな」
 
楽山が、幼稚な辻褄で、悲劇が起こるから神はいない、と言うなら、同じように、「こんなバカなことはない」ということです。
 
まことに、人の意見を聞かず、繰り返し、陳腐な意味付けを欲するのは、楽山のような自己愛者の性(さが)であります。もう一度、書くと、代わるものなど、何も持っていない楽山だということを強調しておきます。つまり、どこまでも気取りだけであり、からっぽなのです。
 
誰も、良い意味付けをしてくれないものだから、正義の味方気取りで、自分で意味付けをして、それと違うものを否定する、という、みじめな人生を送っているのです。しかし、信仰の意味も意義も知りませんから、やたら神を否定する不良でしかないのに、気づかないのです。
 
 
信者 「それとこれとはちがいます。その二つは同列には語れない問題です。大人の話と、子供の話を同じにするなんて、頭悪すぎです」
 
「頭悪すぎです」これが、楽山の本音です。自分以外の人が、頭悪いと思ってしまう自己愛者なのです。だから、高慢から、説教をしたつもりでいて、実際は、誰も聞いていない、誰にも良い影響を与えられない、という人生を、独りよがりに歩むことになります。
 
 
老人「でもこのたとえによって、この世の悪は、人の霊性を向上させるためにあるという考え方は、逆境にある当人に奮起を促すための精神論としては有効な場合はあっても、この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全であることが分かるだろう」
 
「この世に悪がある理由」を説明されないと気が済まない楽山です。そして、完全な理論を求めているらしいですが、その割には、楽山の嘘と詭弁が、ひどすぎる経過なのです。
 
 
信者「そんなことは勝手に決めないでください。たったこれだけの例で不完全と決めつけるのは卑怯です。あなたは自説に都合のいい例を持ち出してるだけじゃないですか」
老人「ある仮説が不完全であることを証明するには、その仮説で説明できない事例を一つだけでも挙げればそれで十分だと思うけどね。でもまあいいか。それで、この件について他に意見はあるのかな」
 
「この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全」・・完全に知らないと、楽山は気が済まないのでしょうか。今の現実はどうかということから出発できないのは、楽山が、非現実に生きているからでしょう。前提を確認します。老人も、信者も、楽山です。
 
仮説をあげても、神を説明することなど出来ていないし、否定することも出来ていません。さらに、楽山は、信仰者から、キリストの与える愛と共感の感動体験を奪うことは出来ません。楽山は、部外者の気楽なお山の大将として、苔というよりカビのように生えて、獣道を、へらへらふらふら、徘徊しています。
 
不思議なのは、虐待された子供が死んでしまっては救いも何もあったものではない、という疑問を、まだ、楽山は言っていません。気づいていないのでしょうか。だとしたら、とても、程度の低い疑問ということになります。何から何まで陳腐な楽山です。
 
このように、虐げられたまま死んでしまう人々にとって、神はどうして救わなかったのか、という疑問があります。その答えは、キリストの愛と共感に包まれている、また、それを知る、ということが、希望と救いになるわけです。楽山のように屁理屈をこねる乱暴者には、分からないことです。
 
死後のことは、神に任されるので、人が決めつけてはいけませんが、想像して、願うのは、神を拠り所とする信仰者の自由な思いということです。それで不服な人たちは、耐えるのではなく、信じないほうを選ぶのでしょう。楽山はどちらでもなく、神はいない、いないと、虚しく吠えています。
 
ゆえに、天国ということが聖書には登場するのです。その希望を支えるのは、愛と共感のために、命を惜しまなかったキリスト、その御方に対する私たちの愛と共感なのです。ゆえに、天国は、人々の間にある、というキリストの言葉が意味を持ってきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
信者 「当然あります。はっきり言って、あなたは我が強すぎます。我が強すぎるから、自分の小さな頭で考えたことが全てだと思って、それで結論づけて得意になってるんです。物事はもっと大きな視点でとらえるべきです。悪についてもそうです。そういうことは、自分の小さな頭で考えるんじゃなくて、もっと大きな視点…いわば神の視点でみてこそ、その意味が分かるんです。それでこそ、悪、苦難、困難、悲惨…などが存在する本当の意味が分かるんです」
 
若い楽山も、年寄りの楽山も、どちらも楽山です。どちらも何も分かっていません。特に若い信者のほうは、キリスト教をかばっているように見えますが、年寄りに負けることで、神を否定するのが、楽山の狙いなのです。意見が分かれているのは、楽山の虚構と虚妄の芝居に過ぎません。
 
「神の視点で」見ることなど、人には出来ません。ここに、でっち上げの、にわかクリスチャン芝居の若者の正体が、バレてくるのです。楽山が、失敗して醜態をさらす若者役を演じることで、話し全体としては、神を否定するという話です。
 
楽山は、こういうことを好んで、わざとらしさも平気で、刷り込んでくる人です。楽山は、よっぽど、かまってほしいのでしょう、ほめてほしいのでしょう、インテリ、優しい、賢者、・・と言ってほしいのでしょう。やさしいお人柄ですね、というコメントが来て、うれしそうにレスしていました。
 
 
老人「つまり巨視的視点からみれば児童虐待に宗教的な意義を見出せるってことかな。いやいや、どういう視点から見ようとも、児童虐待に存在意義を見出すなんて、人としての情緒を保っている限りは、それは無理だよ」
信者「だから言ってるでしょう。人の視点では分からないんです。神の視点でなくては…。あなたはこの問題について、あれこれ言うなら、まず神の視点を得てから言ってください。神の視点も、神の心も何も分かっていないくせに、あれこれ言うのは傲慢というものです」
 
実際に起こってくる事件や不幸や災害について、神義の意味を付けるのは、我は神なりと、思い上がった人の言であります。人間は、災いに際しては、泰然自若などしておられず、意義など語れるはずもないのです。それは、超常がらみの机上の無信仰カルトの楽山教?の妄想であります。
 
どうしても、楽山は、見にくく狭い視野で、神と信仰を考えるようです。知らないこと、分からないこと、見えないことがあるという信仰の世界に、楽山が、どこまでも反発してくる病理のわけが、ここにあるのでしょう。神の視点・・持ってるつもりでしょうか。愚かすぎます。
 
 
*イワン
老人「この辺りの議論については、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンとの対話で表現されているね。有名な「大審問官」の少し前のあたりだ。イワンは、神の存在と児童虐待の関連について熱く語っているよ」
信者「話をそらさないでください。あなたに神の視点が分かりますか。分からないなら黙りなさい。あなたの努めは、知識自慢をして知ったかぶりをしないで、まず黙ることです」
 
楽山の言い分が、あまりにも幼稚で、かつ、批判に対して何も答え得ない男なので、書くな、ということは、前から言っています。無責任なことしか言えないなら、言論の自由はないのです。楽山は、責任も負わず、他者を無視し、群がる蝿のようにわずらわしい騒音となっています。
 
 
老人「なかなか手厳しいね。すぐ終わるから、ちょっと話を聞いみてほしいね。記憶に頼って話すので、不正確な部分があったら申し訳ないのだが、この物語の中で、イワンは、神の計画のために幼児の犠牲が必要だとするなら、自分は天国への招待状は受け取る気にはなれないという風なことを主張しているんだ。神の計画が成就したあかつきには、犠牲になった幼児も、他の人たちもみんなが天国で幸せになるとしても、そのために罪のない幼児を犠牲にしなければならないというのには納得できないと…」
 
納得できないから神はいないと言って、神がいなければ納得がいくかと言う問題に、この二人は、何も答えを用意できていないのです。はっきり言って、悲劇が起こるから、お伽噺の慰めではなく、現実に耐えて生きるために信仰が必要なのです。
 
 
信者「それで一体何が言いたいんですか」
老人「あなたは児童虐待について神の視点から見ればその意味が分かり納得できるというけれども、私はそれが神の計画の一部であったとしても納得できないということだよ。人としてそれに納得してはいけないとも思っている」
 
神の視点は、人間にはありません。神の視点から見れば意味が分かるというのは傲慢です。老人は、人ですから、神の視点を持ちません。若者は、気安く超常に話を飛ばして、老人を批判している時点で、分からないことを分からないと言えない自己愛者です。どちらも楽山です。
 
信仰の原動力が愛と共感であることを知らないし感じることも出来ない楽山です。神が、その被造物である人を、いちいち納得させる必要はないのです。それでも、人は、キリストに引き寄せられてゆくのです。楽山は、このことが、全く理解できないのです。
 
楽山は、興味本位の屁理屈をこねるだけです。とても身勝手な自己愛性人格障害から、神の計画にも、信仰の世界にも、いちゃもんをつけるだけです。何の関係もないし、何も知りもしないのに、執拗に文句だけは言ってくる、という、ストーカー的な迷惑部外者です。
 
 
信者「それは確信犯として神に逆らうということですよ」
老人「イワンはそういうところはあるかもしれないね。多分彼が言う幼児というのはキリストのことなんだろう。神の計画のためには幼児の犠牲が必要であり、その犠牲の後は、その幼児も他の人も天国で幸せになるだとか、罪のない幼児を犠牲にして天国に入りたいとは思わないだとか主張しているからね。ただイワン本人は、教義、ドグマを批判しているだけで、神そのものに異議を申し立てているつもりはないかもしれないが」
信者「なにやらグチグチ言ってますが、ようするに神がすることは気にいらないと文句を言ってるのでしょう」
老人「上のことは、イワンの心理を自分なりに想像してみただけだ。私自身の考えをいえば、もし神が存在するとしたならば、こういう問題については、宗教教義やドグマによって簡単に割り切って済ませてしまうのでなく、大いに迷い悩むことを人に求めていると感じるね。だから神は、苦悩するイワンはもちろん、イワンに反論できないアリョーシャのことも温かく見守っているだろうと思う」
 
人間を、好きなように実験材料として語っているところに、楽山の、非人間性を垣間見ることが出来ます。そこに、実感はなく、「悩む」こともなく、「温かく見守」ることもないのです。いつも、言葉だけ、人間らしいふりをしていますが、言い損ねた台詞のように、浮いているのです。
 
「大いに迷い悩む」ことの跡が、楽山には、全く見られません。独り芝居で、結論の出ようのないことを、偉そうに語って、気取りたいだけです。老人の、神が「温かく見守っているだろう」というのは、上のほうの「納得」できない、という台詞と矛盾しています。
 
楽山の我欲が原動力だから、芝居も対話形式も、恣意によるために、いい加減な作りになっています。どちらの考え方としても、もし神が存在するとしたならば、という、あとの理屈を、楽山の狭い世界観によってこねていることです。
 
まず、信仰は理屈ではないですし、その時点でアウト、さらに、楽山の貧相な理屈で分からなければ否定、という傲慢の時点でアウトなのです。アウトの部外者なのに、執拗に書いてくる、ここでアウト、チェンジ、なので、もう出てこないようにしてほしいわけです。
 
 
信者「呆れた。自己都合信仰も、ここに極まれりですね。あなたの言い方だと、神は、人が信仰に迷い、悩み、棄教して、無神論者になることを期待しているかのようではありませんか。自分が退転し、無神論者になったからって、神がそれを望んだからだというのは、自己都合信仰にもほどがあります」
老人「私が言っているのはそういうことではなくて、ちと口はばったいのだが、端的に言えば愛が大事だということだよ。この世の悲劇、悲惨について、宗教教義やドグマによって「因果応報ですね」「前世のカルマですね」「霊性向上のための試練です」などと簡単に判定して済ませてしまうのは冷淡すぎるのであって、それよりは宗教教義やドグマによって割り切ることはできず迷い悩む方が人としてまっとうな生き方だろうということ」
 
楽山は、愛を、字面の概念だけで語れると思って、信仰を、愛だから冷淡ではいけない、とか言うことで語っている時点で、信仰を、薄い同情に貶めています。これは、つまり、楽山は、神の理路を、人の理路、実際には、楽山の、みすぼらしい壊れた心無い理路で考える時点で、またアウトです。
 
こういう野蛮な理路は、結局、信仰に難癖をつけるだけに終わるからです。それと、信仰者が、思い悩むことには、祈りと信仰があり、癒しや安らぎという恵みを受け取っているから耐え忍ぶわけです。老人の楽山の「迷い悩む方が人としてまっとうな生き方」は暴論です。
 
心に半端な持ち物が多い人は、信仰に至りません。その最悪な場合は、他者の信仰を尊重することさえしなくなり、自我の執着で一生を、不平不満でいっぱいにしながら終えることになるのです。楽山に書くなと言った理由の一つが、ここにあります。我執の不幸をまき散らすなということです。
 
 
信者 「なにやら、もっともらしいことを言ってますが、結局は自己正当化のための屁理屈ですね。信仰を全うできずに退転したくせに、それを認めたくないために、屁理屈を並べてる」
老人 「これは屁理屈かな? それではついでにもう少し屁理屈を並べさせてもらうと、イワンは大雑把に言えば無神論者だね。でも深い愛を持っていることは確かだ。だから神は愛であるとすれば、深い愛のある無神論者であるイワンは、神とともにある無神論者と言える。一方、何でもかんでも教義やドグマで割り切ってしまう教条主義的な信者は、愛に欠けている。こういう人は、神を失った信仰者であり、神とともにはいない。あなたは神を信じるかどうかを最重要事項としているけれども、私は信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかないと思う」
 
「神とともにある無神論者」・・明らかな矛盾律の詭弁を出してきました。自己弁護だと思いますが、楽山は、無反省・無責任・自己中だから、信仰を論じる資格がないと言っているのです。楽山は、深い愛を持てず、無神論者としても成り立たない幼稚さで、慢心しているナルシストです。
 
二人とも楽山ですから、「信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかない」などと言っています。宗教を考えるうえで、信仰と、愛を、分ける時点で、アウトなのです。何度、アウトになっても、不勉強で怠慢な楽山は、病質のために反省しません。
 
 
信者「ははは。『酸っぱいブドウ』ですね。イソップ寓話では、キツネは美味しそうなブドウを見つけて食べようとしたものの、いくら飛び跳ねてもブドウには届かなかったため、『このブドウはどうせ酸っぱくてまずいんだ』と負け惜しみを言って立ち去ったそうです。あなたは退転をして信仰を失ったから、信仰なんて価値はないと負け惜しみを言ってるんです。かわいそうな人ですね。あなたを見ていると、教祖様が『何があっても、絶対に、信仰を失ってはいけない』と繰り返し警告しておられる理由がよくわかります」
 
信者は、合理化機制の話をしていますが、老人は信仰を失ったという設定なのでしょうか。教祖様というのは、楽山が執着しているHSの教祖のことでしょうか。楽山は、分かると言っています。まだ、執着しているわけです。主旨がバラバラです。そして、二人とも、楽山なのです。
 
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者「あなたの無駄話のせいで、大分話がそれたようなので戻しますけど、あなたはこの件については、そもそも問題の立て方が間違ってますよ。『なぜ神は悪を止めないのか』と言いますけど、この世界には因果応報という法則があるんです。すべては善因善果、悪因悪果です。因果は決してくらますことはできません」
老人「それについては先に述べてるね。この問いの前提は、神は全能であるということだよ。それだから、『神は絶対、全能、完全で、悪を止めることができる。それなのに、なぜ悪を止めないのか』という問いが生まれる。あなたのように、因果律が絶対で、神はそれを曲げることができないとするなら、この問題が生じないのは当たり前だね」
 
老人が、神の全能によって信仰を捨てたという設定なのか、楽山の、まやかしは、理解できませんし、理解する必要もないのです。楽山の因果律は、楽山の頭の中にしか存在しないものですから、楽山のゴミ箱を漁ることはしません。
 
人の言論で、神を明らかにすることは出来ません。また、神の全能は、人の都合で動くわけではありません。つまり、信仰者は、神を分かるのではなく、神を恐れ、キリストに共感し、この御方を、生きるために必要とする人です。
 
 
楽山は、こちらが批判記事をアップすると、ぽつぽつと、新しい記事を追加アップするようですが、その中身は、他者の本の都合の良いところだけを引用するような、身勝手で、独自性がなく、それに加えて、小姑のような愚痴を並べる、という成り行きになっています。
 
楽山は、批判対象記事を、新しい記事で、後ろに、後ろに、隠したいようですが、既に総てコピペしてあるわけですから、こちらは、じっくり、ゆっくり、批判記事を練ってゆくことになります。これからも、必要と思えば、何度でも、批判の俎上にあげてゆくでしょう。
 
 
楽山は、太平洋戦争のA級戦犯、大川周明の記事を書いて、賛同しているようでした。相変わらず理路になっていないようだが、楽山は、右翼青年だったのかもしれません。下書きは出来ているので、7月上旬には批判記事をアップする予定です。(去年の話です)
 
 
荒野の血便

荒野の血便
 
 
(2020年06月28日)
(2021年07月04日、再録+)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
 
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
 
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
 
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  ブラックリスト
 
大きなビルの中
長い廊下
曲がり角とドアと
背筋を伸ばして歩く
清潔な背広とネクタイの間に
ブラックリストが
ときどき見えては隠れる
緊張するからジョークも出る
生きているのは噂話(うわさばなし)か冗談か
計算され尽くした角度を計算し尽くした
弧を描いて置かれた
物と人の間で
またブラックリストが見え隠れしている
人が恐れる
ブラックリストをよく見ると
おびえているのだ
最も恐れる
ブラックリストを見た人の
リストに載っていないかと
 
 
  私の出入り
 
みみ に はいる ふるえ
ひびき に するのは わたし
こえ に するのは わたし
め に はいる ひかり
かたち に するのは わたし
いろどり に するのは わたし
 
もの に するのは わたし
いみ に するのは わたし
ムードに するのは わたし
イメージに するのは わたし
 
つくるのは わたし
おぼえていくのは わたし
わすれていくのは わたし
こわすのは わたし
こわれるのは わたし
 
こわすのは だれ
わすれるのは だれ
おぼえるのは だれ
つくるのは
だれ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
このところ、楽山は、ツイッターでの応酬が頻繁なようです。自己正当化合戦みたいです。こういうのが楽山の人生なのでしょう。決定打がないまま、一生にわたるでしょうか、まさか、しかし、宗教、カルト、妄想、自己中、といった世界では、それが、ふつうに生き甲斐なのかもしれません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は、アンチを論破したら粘着されたと言うけど、現実はこうでしょ。
① 棒氏はアンチに噛みつくも、返り討ちにあってアカ削除
② 新アカつくってアンチに噛みつくも、またもや返り討ちにあってアカ削除
③ ②を繰り返す。
論破されて粘着してるのは、アンチでなく、棒氏の方だよ。
 
楽山の言う議論というのは、自分が相手を論破、相手は粘着ストーカー、と詰(なじ)ったり、話の筋を変えたり、そっちが悪い、などと決めつけ続けるのが楽山の処世なのです。元々実りを期待していないので、あることないこと、屁理屈と詭弁で、まとまりもなく責めて攻めてきます。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と議論してはいけません。曲がった知性と感性を持つ者と遣り取りしても、異常に疲れるだけで、百害あって一利なしです。こちらの人格がおかしくなる恐れがあります。じっくり考えることの出来る記事でのみとするべきです。
 
私はブログ記事で楽山を批判していますが、楽山は、真っ当な返しが出来ません。受け取る感受性がなく、理路を組み立てる知性がないからです。かつ、楽山を私のサイトの出禁にしています。楽山は、異常に多数投稿や異常な長文投稿をしてきます。そして、詰(なじ)ることしかできないのです。
 
コメントの遣り取りと違って、即時応答の必要ない記事ですから、思考を混乱させられる恐れも、楽山のペースにハマることもなく書けます。楽山が私への記事を書いてもツイートしても、そこにあるのは、決めつけの悪口を書いてくるだけなので、それを批判するかどうか、こちらが判断してゆきます。
 
ネットにおける楽山は、結局、荒らしなのです。嘘を吐き、詭弁を弄して、なじる、おとしめる、皮肉を言って笑う、などですから、それを、いちいち指摘してもよいし、もっと、根深いところにある楽山の体質的欠陥を指摘してもよいので、もはや、手加減はしないつもりで書いています。
 
 
 
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  楽山の弁神論?2
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようですが、肯定も否定も成り立つことはありません。
 
対話形式の、信者も老人も、楽山です。楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 
 
*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
 
「悪い事をしたという自覚がない」のは、楽山であります。今回もですが、キリスト教を、安っぽい屁理屈で、おとしめ、否定してくるようです。情緒面での共感性がない楽山の白々しい感情表現を入れた三文芝居です。
 
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」
 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。楽山には神はいないのかもしれません。
 
勘違いしないでください。楽山は、無神教カルトです。「神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか」といったようなことは、神はいないということの根拠として楽山が書いてきたことです。神は信仰の対象です。信じる人は、決して、神に条件をつけません。
 
人の世界に、悪があるからこそ、悲劇が起こるからこそ、生きる支えとして、神を、キリストを、必要とする人がいるのです。悲劇が起こるから、と言い張って、楽山が、いつまでも、いつまでも、神不在の精神で生きるのは、楽山の勝手ですが、信仰者への侮辱ですから批判対象となっています。
 
 
*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
 
老人も信者も、楽山です。醜い三文芝居で、結局、信仰者を侮辱してくるのです。理路が壊れていて、誰とも議論できないものだから、楽山が勝利するような独り芝居の対話形式で、捏造概念の神?を語っているだけです。その神?は、キリストの父なる神とは関係ありません。
 
 
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
 
老人も楽山だということを忘れないでください。神の意志と行為を、人が解明することは出来ません。とんでもない決めつけで、楽山は、神をレイプするような大罪を犯しています。神の意志と行為と在り方は、人の論理を超えており、人が扱って答えが出ると考えることが背教であります。
 
楽山は、全能なら悲劇を止めることが出来るのに、止めないじゃないか、ゆえに、神はいないという理屈というよりクレームですが、神が全能をもって何をなさるかは、神に任されることです。祈り願うことは出来ますが、地上世界への執着からああだこうだの悪口は、反キリストの信仰無縁と同値です。
 
 
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」
 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神教カルトです。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、反宗教の偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはないと以前から言っています。神聖について、見える、説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定する立場です。悲劇が起こるからおかしいではなく、悲劇が起こるから支えを必要とするのです。部外者は黙るべきです。
 
「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」・・違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。さらに、分かったつもりの者は、かえって、分からないことだらけになるでしょう。それゆえに、ますます、神を貶(けな)すのです。愚連隊のようです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような屁理屈いちゃもんを捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくる慮外者です。
 
楽山は、人間として罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最悪の醜態を曝(さら)しているわけです。いくら、芝居の対話を作っても、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山の嫌らしさ、きたなさだけが表れてくるのです。
 
「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。
 
ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、「分かっていますよ」、と言っています。楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。楽山には誰も近づいてはいけません。
 
楽山は、自己愛性人格障害の、恐ろしい顔を見せてきました。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、何の学習も成長も進歩も反省もなく、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。かつ、責任を負わない精神不全者である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を考える。
特に批判に対して不感不応。理解力がない。
理路が理解できない。理路を組み立てることも出来ない。
泡沫的屁理屈。噴霧される悪意。
反論や批判には無視と忘却で生きている。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、深い議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶(おとし)めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、未熟で幼稚な疑問のまま、思考と感性の発育が止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、神を知らず、真のキリスト者にはなれないのです。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊の加害者です。
 
・・怒鳴るより悪い、いやらしい言い方、というのが楽山には分からないんでしょうね・・
 
楽山ほど物わかりの悪い人も珍しいです。しかも、恐れを知りません。神に抵抗する勇者でも気取っているのか。しかし、表れているのは、楽山の救いがたい無知と無恥と、知性と感性の、ふしだらな倒錯だけなのです。このような楽山とは、交わること自体が不幸と言えるでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
いちゃもん屋の精神症状

いちゃもん屋の精神症状
 
 
(2020年)
(2022年06月28日、再録+加筆)
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、今も、ツイッターで、正義の味方を気取って、HS批判を書いています。一方で、自分を見ることせず、他者の批判だけするということが、成り立たないことを知らないのです。だから、楽山が元気であることが偽善を促進するわけですから、楽山周辺は、裏を返せば腐敗臭に満ちてゆくのです。
 
 
 
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  楽山の悪意2
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 (一部省略)改めて批判。
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。我執だけが臭気と持ち味の楽山です。今回、楽山は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。こういうことをやって満悦する楽山は、訂正不能の一方的な病質者だから、誰も関わってはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に、読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
数か月だまされて、そのあと、批判を始めて約3年、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)で、無反省・無責任で、書くことをやめられないままの、成長のない楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。自己愛性人格障害は、学習も成長もしないということです。
 
*神義論(弁神論)
最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。
・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。
 
楽山は、神が、ご利益的に人の都合に合わないことに、いちゃもんをつけて、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
人には成り立たないところの神の全能を考えるならば、むしろ、神の考える幸いと、人の考える幸いは、違っていて当然なのです。神の考える信仰と、人の考える信仰も、違っていて不思議はないのです。ゆえに、人間には、神を恐れ、キリストの愛に縋(すが)る信仰があるのです。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れる態度が必要です。楽山は、条件を出して、神の合否を決めており、信仰に一歩も近づいてはいないのです。神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に惨めったらしく、神を否定するような、知ったかぶりだけの、楽なお山の大将を気取っている偽善者であります。読めば、楽山の高慢な姿勢は、神にも信仰にも縁はないだろうと分かるのです。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、キリストの共感に支えられて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。楽山は、外部の野次馬です。
 
神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。
 
恐ろしいことに、楽山は、神を、人の論理で扱えると思っているようです。この時点で、楽山は、信仰には一歩も近づくことのない人となっています。だから、楽山は、信仰が「やっかい」なものに思えてならないのでしょう。「やっかい」と思うなら、何も書かないことです。
 
楽山が、神の行動方針を決めて、悲劇を止めるかどうかで、是非を決めつけているさまは、恐れを知らず、自らを高みにおいて、こともあろうに、神を、裁いていることになります。まるで、神にも、人にさえ、何の縁もないところの、虚妄の空間を徘徊する楽山です。
 
難しく飾って言っても、きわめて単純で、短絡した幼稚な理屈を、神に当てはめていることが自明であります。神は、楽山のような、やっかい者が、すっきりするように辻褄を合わせることはありません。疑問は、信仰者でもいだきますが、楽山には、ベースとなる人間性がありません。
 
楽山は、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神?のあり方など屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
楽山は、何でも言うことを聞いてくれる奴隷のような童話の神を所望のようです。全ての、恐らく、楽山の悲劇を止めてくれる都合のよい神でないと信じないのです。こういう御利益信仰の在り方は、現実によって全否定されるものです。楽山の都合で守ってくれる神は、どこにもいません。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと信じないぞ、という、自己中の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の与える信仰の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマンの不細工を表しているのです。
 
楽山は、この地上に、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、殺伐とした、下手くそな、お絵かきの幼稚さだけを見せてきます。その惨状が楽山の精神世界なのです。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともないまま、自慢げに、丁寧語の芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、学習せず、他者の、字面だけ都合のよい言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考え始めたときから一歩も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。いくら真面目そうに装っても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を省みないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。信じないなら、信仰について語らないでほしいです。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。その欠損を自覚することも出来ません。「反省。とほほ」など、自覚に類する言葉を使ったとしても、何も変わらない前後関係と文脈から否定されています。物わかりが悪いのに、字面だけ、まともを装う楽山に、だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく、思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。結局、楽山は、人をだまして、地獄への道連れにしたいだけだろうと思います。
 
 
道連れを求める闇

道連れを求める闇
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
(2021年11月30日、さらに修正して再録)
 
稚児(ちご、ややこ)
譫言(うわごと、せんげん)
ルサンチマン ≒ 弱者に募る怨念。負け犬の遠吠え。自省しない妬み根性。
 
 
 
  時の筈
 
こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈(はず)も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
殆ど動物の反射のように、覚えた弁明の言葉を並べても、一切、弁明になっていない楽山です。悪意が、いずれ自分を破壊してゆくのを待つしかないのでしょうか。とはいえ、こちらは、疲労と徒労という被害を既に被っているので、さらに広がるのを防ぐために、批判を続けるしかありません。
 
 
 
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