ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:罪

 
  妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
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  信仰者の感謝2
 
 
感謝だけでは
信仰は語れない
 
感謝する人の
善い話と
感謝しない人の
善くない話だけでは
信仰は語れない
 
感謝できないこともある人の心
 
人の心に触れ
人の心を通して
人の心を考えなければ
神の下にある人の信仰は語れない
 
悲しみから仰ぎ祈り求めるところから
信仰は始まるのではないのか
 
救われたという体験によって
すべてが感謝に変わって
そのままの感謝が一生続くだろうか
 
幾つも幾つも躓(つまず)きの石があり
何度も何度も躓いては
跪(ひざまず)く
その危うさを知っても
なお信じることに帰るしかないのだ
 
信仰者の感謝は
安定ではない
安定を装うことでもない
 
傷だらけの人として
帰るところに
待たれているという信仰ではないのか
 
 
祈るとき
既に総ては見抜かれている
それが全能の神のほうを向くということです。
 
悲しい心を見抜いておられる神に
人が無理して感謝の祈りを捧げるならば
神は、どう思われるだろう。
 
正直であるかどうか
それだけを見ておられる神に
正直な祈りを待っておられる神に
嘘の感謝をして
神は、悲しい人を救うだろうか。
 
信仰とは
救いのATMではないのだから
神の仕組みではなく交流なのだから
人が生きているなら
生きた祈りをするべきでしょう。
 
悲しいなら悲しいと
苦しいなら苦しいと
神などいないと思ったなら
そう思ったと。
 
本当にいないと思っているなら祈ったりしないはずです。
 
神などいないと思うのは、
祈る心が正直であるなら
神などいない
という"叫び"であることが伝わるだろう。
苦悩の叫びは、最も正直である。
 
神は正直な叫びであることをご存知である。
 
立派な祈りなど存在しない。
 
人が立派でないことを
神は既にご存知である。
 
神の前に
正直以外は通用しない
と言ったのはこのことであります。
 
 
感謝と讃美だらけの
嘘っぱちの祈りをする者を知っています。
神を信じてなどおらず
神を侮(あなど)り、恐れない者です。
人格そのものが嘘っぱちになっていました。
 
 
明暗

明暗
 
 
(2011年)(2019年)(2020年)
(2022年05月31日、再録+加筆)
 
 
 
  陰から光へ 2
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の罠と暴力の世界
 
すべて経験していなくても
弁えるべき知識として考えることだ。
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
飾り言葉になりやすく
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
キリストの愛を受け取った人々は
マイナスの世界を知っていた人々。
 
陰を知るゆえに光に反応できるのです。
 
 
キリストの
物や肉体の奇跡に彩(いろど)られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る偽善者の話を見苦しいと分かるためには
真善美と愛を少し知っているだけでなく
偽悪醜を知る必要がある。
 
反キリストのカルトと偽善者の存在を知ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
カルトの偽善者は愛を知らない。
彼らは都合の良さを漁(あさ)っているだけだ。
 
彼らに頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆説的に福音の一部とも言えよう。
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするなら
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
愛を知りたければ
カルトに感染しないための予防注射として
愛のない世界の存在を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など出来なくなるだろう。
 
 
罪人である人間は
真善美の信仰を知ったつもりで
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはない。
 
真善美の字面だけなら
真善美は私たちを裏切るからだ。
 
聖書もまた
信仰を心から讃(たた)える者だけでなく
信仰を讃えながら曲げる者が出てくることで
理解を深めることが出来る。
 
愛のないさまを見るとき
愛のある様を対極に思い描いている。
 
人は愛のないところを知って
初めて愛を求める。
 
キリストが見抜いた最も大きな罪であるところの、善の仮面をつけた偽善は、いつも"光"の芝居をするので、その陰の部分を知らない限り、あたかも光のように見えて、社交の世辞が斜光となって、人を欺き続けるだろう。
 
陰に潜む凶悪な偽善を見抜くために、陰を知ることが必要である。和(なご)みを装う笑顔の裏に、あざ笑いを見抜くだけの感性が必要である。その答えは聖書に、偽善と闘ったキリストの生き様にあります。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は何も見えないのと同じだろう。
 
光は
陰のあることを知らせて
光と自覚される。
 
私たちは陰影の中に生きている。
 
 
(2022年05月31日、再録)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
 
  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
黒ずんで逃げ出してゆく
 
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
  影絵
 
思い出そうとする
あったようで
あったとは思えない日々について
出会った人々の顔について
名前を抜きにして
明暗を分けることの出来ない影について
あまりよかったとは思えない
数々の自分の顔について
 
影絵を見るように
そこにあったと思い込む
生き生きと影が集う物語に
思わず友を呼ぶ
 
急にうすくぼやけて広がる低みに
一つの影が退場する
そして影絵の裏側で
舞台裏のしゃがんだ汗ばんだ顔の後ろで
折れ曲がった
顔のない
ぶら下がりのゆらゆらが
もう笑いもせず泣きもせず
役割を終えて手を離れ
いま平坦に横たわる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰にも感謝できず、不遇への復讐のような憂さ晴らしばかりをしてきた楽山は、感謝の心を忘れ、明るいところを嫌い、深い隠蔽の澱(おり)のような溜まり場に棲んで、そこに悪意を溜めて、嘘と詭弁に明け暮れながら、人間の条件である良心を、次から次に捨ててきたのでしょう。
 
 
 
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  敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
敬虔 砕かれた魂

敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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  分からないと言える勇気3
 
 
キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:夫婦が子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪いかだ。
 
A:「他人の妻」ということなら、守れるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教え、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:その解釈と訳は、キリストの教えではないと言っている。守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
 
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
B:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、信仰者も罪人でなくなるわけではない、守れないゆえに、正直に祈って、赦しを乞いなさい、という悔い改めの教えである。
 
 
偽善者は、守っていない自分を隠して偽ります。こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。神の前に、不完全で罪深い自分を正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。だから、女ではなく、他人の妻なら、不倫の戒めだから、守れるでしょ・・というような、気安い解釈をしてはなりません。
 
信仰は、誰でも理解できるように、すぐれてシンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。また、道徳でしかないような安易な解釈をしてはなりません。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに解放感を伴うのが理解です。伴わないのは実感のない辻褄合わせに過ぎません。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰の節操です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。その上で、身を捨てて、愛と共感を示されたのです。神のほうを向かず、神を恐れず、教えを安い道徳にしてしまう者がいます。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。そして、平板な道徳に堕して、いい加減な解釈をしてしまうのです。そういう、信仰を知らない偽善者も解釈者も、現にいるようです。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。気安い道徳への曲解は、信仰も信仰者も滅ぼします。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。お高くとまっているなら、追放するべきであります。
 
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、正直に祈り、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、信仰のいちばん大事なことです。
 
すなわち、信仰において、いちばん大事なことは、分かると言うことではなく、分からないことを正直に分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのです。
 
分からないと言う勇気は、祈りにおいて分かりませんと告白することでもあります。それは、神と違って完全ではないゆえに罪深い人間が、祈りによって、罪の重荷から解放されることでもあります。それによって、余計な力みや豪語から、神に祈る生き方へと向きを変えることであります。
 
 
分からないと言える勇気

分からないと言える勇気
 
 
(2020年03月03日)
(2021年03月04日)
(2022年03月10日、再録+加筆)
 
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
  罪と赦し(抜粋)
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。神に対しては、正義や善よりも、正直な祈りだけが、人間に可能な真実です。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではありません。
 
特に神様の前では、告白も、疑問も、願いも、どこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は赦された」という言葉は命をもって与えられます。「信じれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して赦されることはない」。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、趣味の話を書いてきます。そういうときにも、楽山の病質は表れてきます。例えば、自らの立場を無視して、趣味の話じゃからからええじゃろ・・とでも言うような、趣味と真実の区別もせずに、テーマを混同して書いてくるのです。楽山は、未熟ではなく、既に、老醜の失禁なのかもしれません
 
 
 
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  赦すこと3
 
 
※ 人格異常で批判対象となっている楽山が、余計なことを書いてくるので、このところ、後付けの批判のために、記事が長くなっています。
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。もう一つは偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではなく、なお偽善者の態度なのです。
 
人間の立場から見ると、赦されて安心することよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、また、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめ、破壊してゆきます。凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言って、さらに、自分を高める背教を勧めるのです。
 
悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がることなく、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
罪の赦しは無罪ではなく赦されて生きること

罪の赦しは、無罪ではなく、赦されて生きること
 
 
(2020年02月)
(2022年03月02日、加筆して再録)
 
 
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
信仰を超常奇跡物語としてしか見ていない人もいます。私たちキリスト信仰者は、神の業(わざ)であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人として生きてゆくために必要な、愛に通じる共感として、神とは違う低さと罪深さを弁え、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーつまり無視すると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
一般に、厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般にも嫌われるでしょう。無反省と無責任そして体質的に鈍感であるために無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、こちら側の体面のために本音を隠しがちです。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。
 
辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
 
  前進か後退
 
前には足跡がある
後ろには足跡がない
戻ることはあり得ない
止まることも許されない
嫌だ嫌だの挙げ句の果て
後ろを向いて後退(あとずさ)り
だから転んでは気を失い
目覚めればいつも仰天している
 
 
  罪の足跡
 
まっすぐ歩いたつもりが
振り返れば随分と曲がっている
右に左に
無駄な道のり
それら徒労
受け容れるしかないものたち
 
無数の足跡に紛れたり
別の足跡と交叉して離れたり
途切れているところもある
一度は死んだのかも知れぬ
 
いずれ満ち潮が
すべてを攫(さら)って消してゆく
足跡一つ残せませんでした
と泣きながら倒れるようにひれ伏して
許しを乞わねばならないだろうか
 
後ろがどうであれ
後でどれだけ消えてしまおうと
今ここで決めねばならぬことがある
 
目の前で一歩踏み出せば
足跡は一つ増える
踏み出すことは
踏みしめること
踏みつけること
踏み拉(ひし)ぐこと
何かを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
発作のように、コピペで大量の記事を書き、どんなもんだいとでも言いたいような楽山ですが、当たり前のことさえ、ずっと出来ないままなのです。反省、責任、どれもこれも、できないばかりか、理解さえしていないで、いかなる霊が分かるっぽい?のでしょう。呪いの悪霊でしょうか。
 
過去のコメントを断片的に引用して、「議論とは関係ない挨拶、雑談にまで、ずうっとケチをつけてくるというのはどうかしている。st氏にもこういうバカバカしさに気づいてほしいが、多分それは無理なのだろうな。残念。」などと書いています。無理な楽山に対しては、実際、ずうっと無理なのです。
 
NPDの症状は、日記的な話にも表れてきます。しかし引用された記事とコメント、私は覚えていません。楽山は、執念深く、細かいところまで引用したつもりでしょうが、今に至るまで、ずっと、楽山の無法は、表れてきたのです。それが、体質というものです。ピントをずらそうとしても無駄なのです。
 
 
 
 st氏から、つきまとわれる理由
 2022年02月28日 楽山日記(LD)
   さらに批判します。
 
st氏からつきまとわれる切っ掛けになった場面があったので保存しておきたい。
 
「つきまとわれる」という言い方をしていますが、つきまとうのではなく、批判するということです。楽山が、こんなふうに、しらばくれるわけですから、批判は、書けるあいだ、一生にわたります。根腐れを放置することは出来ません。
 
st氏は、シャローム氏と話をする私を異常だとして、批判しはじめている。
 
楽山とシャロームshalomにだまされたことに気づいたころの話だと思います。楽山とシャロームは、異常な偽善者です。ここに至っては全否定で、これからも批判を続けているということです。凶悪な訂正不能の悪の根性を持っています。
 
次に、st氏は、私の記事に対する反発心をあらわにしている。「人は人、自分は自分」という考え方は、よくあるものだけども、st氏にはどうにも我慢がならなかったらしい。
 
「人は人、自分は自分」・・・公共の福祉に反しない限りでという条件があることを知らないのならば、楽山は、無知であります。キリスト教について、嘘と詭弁で、デタラメなことをばらまいている楽山を容認することは出来ません。
 
年始の挨拶をしたのであるが、たったそれだけのことでst氏は敵意をあらわにし、悪口を言うようになった。
 
年始の挨拶をしている場合ではないということです。しらばくれる楽山は、人間とは思えない不感不応です。傍らで人が傷ついていても死んでいても、あけましておめでとう・・などと挨拶を交わしそうな者たちです。冷酷で、情がなく、攻撃的で、卑怯です。全否定で臨みます。
 
st氏から敵と認定された後は、すぐに次のようなモラハラを受けた。
質問だと思ってこたえたら、「明確な質問ではなく、疑問です」って…意味分からん。
 
何かを問うているのではなく、そのような場合ではなく、疑問を持って批判しているという意味です。質問などはしません。応答が、全く信用できない楽山だからです。今は疑問はありません。楽山とシャロームは異常者です。一人による成りすましも疑われます。
 
私が楽山を批判する理由について、楽山は、何も分かっていない、または、分かっているのに言い逃れと悪口しか返せないでいるのです。健全な社会には、いてはならない病質者です。くれぐれも、関わることのないようにしてください。相手を消耗させるエナジーバンパイアでもあります。
 
神からも、人からも、許されては、赦されては、いけない者たちがいます。強制力もなく、言論だけが頼りになるところで平気で嘘を吐き人をだます者たちです。いずれ、あるいは、既に、何らかの犯罪者であるかもしれません。匿名のネットをいいことに、怠慢と虚偽の地獄に生息しているのです。
 
人類の敵とは、国でも組織でもありません。楽山のような、人間の心を持たない輩、反社会性人格障害者のことであります。戦争を始める者、戦場で残虐行為をする者、その群れの中に、楽山のような高等感情を持たない者たちがいるのです。
 
 
 
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