ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛

 
  楽山は見物人
 
 HSUに違法行為はない!
 (『宏洋の言いがかりを完全論破』)
 2021年05月23日 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
動画は省略します。私は、宗教と信仰の敵、楽山を批判しています。
 
*HSU議論
宏洋氏のHSU批判に対して、与国氏らが反論していたので、ここに貼っておきたい。
・【ぼったくり】【脱税疑惑】HSU(ハッピーサイエンスユニバーシティ)の高すぎる学費が明らかに。『私塾』の授業料は非課税ではないので、脱税になるのでは?
・【嘘つき】『幸福の科学大学』が違法行為をやっています【イケハヤ】【ホリエモン】【堀江貴文】【中田敦彦】【HSU】【ハッピーサイエンスユニバーシティ】
・宏洋の言いがかりを完全論破 HSUは宗教修行を行う高等宗教研究機関 【宏洋氏に物申すシリーズ113】
 
また、人の口を借りているだけの楽山です。何かの試合を見ているスタンスなのでしょう。真に迫って批判が必要だという気持ちや、アンチに共感する心はないと思います。楽山を信用しないでください。真剣味もなく、自己顕示するだけの目立ちたがり屋だと思います。
 
*三つの論点
宏洋氏はHSUの脱税疑惑、学費比較、名称問題を論点しているが、広報チャンネルの反論は次のようになっている。
*脱税疑惑
まず脱税疑惑については、HSUは高等宗教研究機関であり、授業料はお布施(非課税)であるとのことだ。
*学費比較
宏洋氏の「学費比較」は不公正であり、印象操作だという。
*名称問題
HSUは「university」であり、「大学」とは名乗っていないから違法とはならないとのことである。
 
楽山は、HSの言い分を引用し、省略しますが動画を貼って紹介しながら、そのことについて、自分で批判していません。できないのでしょう。楽山を、アンチHSと見なすのは、間違いだと思います。精魂込めるという態度が、楽山には皆無であり、見物人・傍観者の立場しか表していません。
 
*公明正大、単純明快な正論に期待する
こうしてみると、広報チャンネルは、タイトル通り、宏洋氏の主張を完全論破したといえる。
 
楽山は、無反省、無責任ですから、他者の "完全論破" を判断することも出来ません。ただただ、自分を、まともに見せかける自己顕示欲の強情であり芝居に過ぎません。自分を、批評とかの出来る知識人と思わせたい楽山の、むしろ、欲望の表出であります。
 
ただ個人的な感想を述べると、学費比較については広報チャンネルに理があるとは思うが、他の二つについてはディベートとしては面白いけれども、その主張が現実社会で受け入れられるのは難しいのではあるまいか。法律論として通ることはあるのかもしれないが、一般人の多くはこういう理屈にはあまり良い印象は持たないだろう。議論では勝っても、その結果、社会的信用を失ったというのでは仕方ないし、広報チャンネルはこの点についても注意してみてはどうかと思う。
 
「ディベートとしては面白い」・・・楽山は、体質的に相手の言うことを少しも聞いていませんので、何を言われても反応しません。つまり、ディベート・議論・討論などは出来ません。人の口を借りて、人のことを揶揄して、議論に見せかけています。
 
「法律論として通ることはあるのかもしれない」・・・楽山は、法も、法の精神も知らないし、何より、反省・責任といった最小限の人道すら身に付いていないので、法律について、何か実のあることを言う、という能力はありません。
 
こういうのは、すべて、楽山の "気取り" です。人の、ときには本の、口を借りて、自分を上等に見せようとしてきますが、受けて答えるという反応が出来ないことは、今までに表れてきたことですから、もはや、また言ってる・・という空しさだけ、性懲りもなく空回りさせているのです。
 
「良い印象」・・・楽山の丁寧語や、学者口調に、だまされて、受け入れている人がいるかもしれませんが、印象は中身を示しません。だから、印象操作という詭弁を使う楽山のような者が、今もネットで存在しうるのでしょう。嘆かわしいことです。
 
それと、アンチを自称しながら、HSをサポートしてアドバイスをしているかのような筆致です。どっちの味方なのでしょう。楽山は、明確な立場というものを持てない人です。自己の主張も立脚点もなく、自己を顕示することだけを面白がっているのです。
 
楽山などいなくても、アンチは活動しているわけですから、楽山が書いていることは相手にしないでください。楽山が、アンチとHSについて、何か語っても、言った責任を負わないのですから、結局は、余計なお世話であり、障害にしかならないと思います。
 
楽山は、どこまでも単方向の自我の奴隷であり、誰の仲間にもなれない人です。平気で他者の意見を無視するような人ですから、こちらも議論や行動の仲間・戦力からは完全に除外して、徹底して無視してゆくしかありません。交流しても、節操のない楽山は、何も言ってないのと同じです。
 
 
末路の自己顕示

末路の自己顕示
 
 
(2021年05月24日)
 
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
(旧作です)
 
 
 
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古い作2つ、宗教詩2つ、批判1。
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・
 
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
(90年代)
(2020年03月06日、若干修正して再録)
(2021年03月20日、再録)
 
 
希望

希望
 
 
 
楽山について:
 
約2年以上、楽山を批判しています。楽山は、複数のブログで、好きなように書いていますが、その主張に一貫性がなく、真摯さが感じられません。キリスト教について、否定して、神はいないという主張に賛同して引用して、一方では、教会にご機嫌取りのような賛同を表したり、お祈り芝居をしたりと、まるで、何を言いたいのか定まりません。
 
霊が分かるっぽいという霊能者を気取ったり、学者に賛同してインテリを気取ったり、ひと言でいえば、宗教を心霊と超常の話に短絡させて、肯定したり否定したり、結局、楽山は、何かを気取っていなければ気が済まない人のようです。そのような気取りだけで語れるような宗教も信仰も存在しないと思うのですが。
 
さらに、複数のHNを使って成りすましている可能性があります。シャロームと楽山が同一ではないかという疑いを前から持っていますが、疑いを濃くすることはあれ、楽山が、潔白を表すような文章を書いたことがありません。今も疑惑ではありますが、むしろ、それ以外にも、成りすましているのではないかという疑惑が増えてきました。
 
最近も、確定できないので書かないけれど、疑わしいHNが複数あります。一括すれば、楽山は、インテリで、まともで、評論家で、言論が得意な整った人を気取っているだけと言えるでしょう。本音は、宗教を憎んでいるようにさえ思われます。整えることよりも、かき乱すことに快感を感じているのではないかと思います。
 
自殺を肯定するような you tube もあって、辟易とする時代ですが、楽山を批判しながら、いろいろなHNとサイトが、楽山繋がりかどうか、じっくり注意深く見てゆくしかありません。楽山に近づくのは、とても危険ですから、相手にしないでください。
 
誰がアップし、その関連記事を誰が書いたのか、確定はしていませんが、穏やかならぬ youtube の動画と筆致でした。コメント、ブログ、ツイート・リツイート、youtube ・・疑えば切りがないことです。でも、自己愛性病質者と、間違って付き合うことの弊害は、もっと悲惨であります。
 
 
(2021年03月20日)
 
 
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  駄々と児戯2
 
 事実と価値判断について
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 楽山批判を加筆して再録
 
 
他者の意見や批判を平気で無視する楽山の、また知ったかぶりの批評家気取りの、独り舞台の独り芝居が始まったようです。全く学習する気のない楽山は、自分と同じと思った意見のことを、関心、愉快、という言葉で表します。そして、誤読と曲解によって、内実の全く違う事柄について、同感し、賛同し、学者と同じレベルであるかのように、自分を高めようとするのです。
 
最近、『宗教的経験の諸相』を少しずつ読んでいるけれども、なかなかに難しい本だ。でも自分が関心を持っている問題に触れている箇所もあるので、そんなときは、実に愉快な心持ちがする。例えばこの部分など。
提出された事実についての結論は同じであっても、価値の根拠についてはめいめいの精神的判断が異なっているのであるから、それに応じて、啓示としての聖書の価値についても、人それぞれが見解を異にすることになるわけである。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」
 
聖書は、人間のあるべき姿をテーマとしています。そのテーマについて、「人それぞれ」を当てはめるのが、楽山という偽善者です。ある人は善人、ある人は悪人、ある人は偽善者、ある人は人殺し、人それぞれでいいのでしょうか。
 
楽山の妄想的な訂正不能の宗教と信仰についての決めつけは、到底、見解の相違で済まされるものではなく、明らかに、無理解+悪意の産物であり、極めて、程度の低い詭弁なのです。
 
人それぞれは、本質ではなく、現象であります。やむを得ない必然としてあることだから、大きく、軸ごと、外れる、ということがあってはなりません。楽山は、宗教の本質から全く無縁のことに執着して邪魔をしているだけです。
 
例えば、偽善を、ちょうどよいとか、善ほどではないが似ているなどと、言うことはないのと同様です。偽善は、悪を隠す分、悪より、はるかに悪であり、最悪と言ってよいのです。そのことを、最も厳しく批判したのが、他でもないイエス・キリストであります。
 
楽山は、個人の精神的判断、という言葉に、都合がよいと悦ぶのでしょう。不可避的にそうならざるを得ない人間一般の知性の限界を示しているのですが、それを、それでいいのだから、自分も正しいという方向で書いてゆくのでしょう。・・何とでも自分の都合で解釈を曲げるのが楽山です。
 
楽山は、こういうのに、幼稚な短絡で出来た自説のお伽噺を結び付けて、高名な学者に賛同した体を装い、自分もそのレベルの識者だと、婉曲的な印象操作や刷り込みや暗示的表現によって、自慢、自己満してゆく習性のようです。
 
既に、心の理論においては関係ない霊感の話をぶち込み、奇跡についての考え方においては詭弁が循環論法に陥る、などという、小中学生でも恥ずかしくて書かないような幼稚な初歩的な誤謬~詭弁を露呈してきました。
 
にもかかわらず、なおも、同じことを続けて、高い自分を執拗にアピールしたがる悪癖が、インテリ気取りのナルシシストの楽山の汚い筆致として表れてくるのです。
 
思い起こしてみれば、自分がこういうことをはじめて意識したのは渡部昇一の本を読んだときだった。タイトルは失念したが、聖書について学問的に研究している神父がおり、どのような歴史的事実が明らかになろうと、それによって信仰は揺らぐことはない云々というような話で、キリスト教とはすごいものだと感動したのだった。
 
楽山には、「感動した」と書いているだけで、真の感動はないと思います。今まで、楽山が書いてきた文章に、文脈として、真面目な感動がなかったからです。自分のお伽噺に一致した文言や言葉があれば、実に気安く賛同の言葉を書き、感動芝居をしてきます。分かるんだと言いたいだけなのです。
 
それに、楽山は、キリスト教を侮辱し、神を否定する反キリストです。その企みの延長しか表していません。ここで、「キリスト教とはすごい」などと書いても、狼と少年でしかありません。楽山には、自己中の偽善のの履歴が、いつも、楽山を否定するように出来てしまっているのです。
 
楽山の、言葉の一致だけの"分かる"は、聖書とキリスト教およびキリスト信仰の理解にはありません。前から言っているのですが、同じようなことを書いてくるのは、カルトの特徴です。学習機能のなさが、ここでも表れています。
 
恐らく、この部分は、キリスト教を揶揄するために書いているのでしょう。だから、私は、こういうのを白々しい芝居と言っています。"キリスト教とはすごい"とは心にもないことで、キリスト教を論じている自分を、根拠もなく、自慢したいだけなのです。だから、すごい、としか書けない。
 
またこの手のことは中村元の本にもあったと思う。歴史上の人物としての仏陀と、信仰対象としての仏陀を分けて考えるというように。
 
例えば、歴史上のキリストは、人の解釈では、完全に明らかになることはないでしょう。人が分けて考えるのではありません。人には分からないことであり、決めつけてはいけないということです。
 
歴史上の人物については、確からしさを、ある程度、明らかにするのが学問ですが、決定的にはなりません。根拠が覆り、新しい説が出てくる可能性は、残り続けるのです。そして、いくら明らかにしたつもりでも、信仰対象となると、話は、別のものになりうるのです。
 
楽山は、キリスト教についても、史実上のキリストと神の表れのほうについてだけ、いちゃもんをつけて、それで、キリスト信仰をも批判した気でいる自己満なのです。読むたびに、楽山の中立を装う態度には吐き気がします。
 
史実としてのキリストには諸説あります。楽山のような反キリストのデタラメで何の役にも立たない解釈もあります。しかし、そのことは、信仰対象であることを少しも揺るがすことはないのです。共感によって結ばれることは、楽山が言うような悪意ある事実の有無や理屈の話とは全く違うのです。
 
キリストについての史実は二千年前、キリストから受ける恩恵は今のことだからです。
 
似た考えとしては夏目漱石の『文学論』にもある。観念とそれによって起きる情緒とを分ける考え方だ。自分はこれによって、小説の文章は、事と心とを分けて書いてあり、その二つがよく整理されている文章ほど読みやすいと知ったのだった。
 
今までの記事とコメントから、情緒を持たない楽山が表れています。それだけでなく、理路は臭い詭弁のペンキまみれであることが表れてきました。今回も、そうだから、これからも、そうでしょう。こういうのを、因業というのだろうと思います。だから、いくら言葉だけ見栄を張っても、楽山に、文学は分かりません。
 
誤謬と詭弁しか知らない楽山ですから、事と心を分けて整理することなど、とても出来ないと思います。自己愛によって、反省をしない楽山には、ベースにある精神、すなわち、スピリット(エスプリ)が育っていないのです。読書においても、楽山は、自分の言葉と同じ言葉を見つけると、満悦するものだから、読みやすいなどと言っています。
 
すべて、今までの記事とコメントに表れてきたことです。アドラー教の影響が残り続けていて、都合の悪いことを無視してきたから、知性も感性も、宗教と信仰の理解も、子供レベルの先入観を超えるものではありません。それを、ごまかすために、学者の名前を利用しているだけなのです。
 
たとえば、「彼は走った。どうか、まにあってくれと祈らないではいられなかった」とか、「彼女は振り返った。そこに彼が立っていた。なぜ? 心にそんな疑問が浮かんだ瞬間、自分が泣いていることに気が付いた」というように。
 
楽山の稚拙な勘違いが表れています。行為と心を分けていると指摘したいようですが、行為を表し、当然のごとく、心を表しているだけです。同じ人間、または、その共感を表しています。主題は分かれてなどいません。
 
というより、表現を分けて書くことがあるのは、普通に見られるということです。言葉の組み合わせに心が必要で、それによって、心を表します。心無い楽山は、観念、事実、行為、情緒、心、などの理解が出来ていないので、解説しても言葉を並べて得意になるだけです。
 
また、曲解、また、詭弁、楽山が書けば書くほど、楽山の外れ方は、甚だしく、呆れるばかりです。
 
純文学は型を崩すことを目指している面があるし、作家または作品によってさまざまな文体があるので全部が全部このようではあるまいが、少なくともこの傾向はあるだろうとは思う。
 
純文学と来ました。常に新しい表現世界を目指すことは、文学、芸術、などにおいて、当然のことです。型崩れの楽山が、批評の体をなしていない楽山が、型を崩す、などと、ありふれて擦り切れた型に嵌った言い方をしても、何も指摘したことにはなりません。
 
楽山は、独自の発想ができないために、手持ちの、広がらない通念的な言葉の世界から、ありふれた書き方を、卓見に見せかけて、書くしかないのでしょう。
 
そこに、謙虚さが、欠片ほども見られないので、いくら執拗に繰り返し書いてきても、丁寧な言い方をしても、底の浅さと、因業の深さと、訂正不能の硬さと、高慢の高さだけが、表れてきます。そこが、有能無能を問わず、心の正常健康人と、決定的に異なる点です。
 
楽山は、霊が分かるっぽいと思ったときから、思い込み信じ込みに至って、カルトの安い夢物語に嵌り、中立と中庸を気取るために、はっきりしないボンヤリ言語という安易さで、作文において、語尾を中心に、曖昧表現と、子供のような駄々を繰り返して、自己修正が出来ず、よくこんなことを公共にアップして人に見せることができるもんだと言いたくなるような、無責任の荒野をうろついているわけです。こういうのを、恥知らずと言います。
 
ちなみに自分は恥ずかしながら、宗教に凝っていたことがあるせいか、こういう区別がいまだ曖昧なところが無くもないことを告白せざるを得ない。宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって、「私はこのことを信じているのではありません。これが事実なんです」という風に〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある。どうも自分は宗教を止めた今でも、この癖が多少残っているらしい。この点よくよく気をつけたいと思う。
 
ボンヤリ言語とは、例えば、「無くもない」「せざるを得ない」のような言い方です。これを、丁寧、柔和、などと受け取らないでください。言いたいことがハッキリしない者の筆致です。
 
楽山は、本当の宗教も信仰も知りません。信仰は、心の問題であり生き方なのです。事実が信仰ではなく、信仰が事実でもないのです。何を言っているんだろう。楽山は、本当の宗教も信仰も知りません。心が無いからです。
 
「〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある」・・間違っている例です。一部の間違っている例をもって、宗教と信仰を全否定したつもりになるのが、楽山の破綻した理路であります。
 
自分のことを言っているふうを装いながら、丁寧に教えを垂れるかのように見せかけて、楽山が言っていることは、宗教に凝っていたから区別が曖昧になるとか、自分を省みず宗教のせいにして、わけのわからないことを思い込み信じ込むのが宗教、という宗教への偏見を広めようとしています。
 
いわゆる、下等な責任逃れの台詞、無理解という自分の失敗を他者のせいにする、ということでしかありません。「宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって」・・楽山の宗教観においてだけです。
 
分からないだけでなく、分からないのに分かっている態度、しかも、それで、教えようとする姿勢、これは、信仰とも真実とも全く無縁の自慢であり、信仰と宗教について、甚だ迷惑な、刷り込みであり、印象操作であり、詭弁なのです。
 
楽山のような種類の人間が、歴史においても、固着した妄想的な高慢~傲慢によって、宗教についての様々な偏見と先入観のイメージをまき散らして、宗教をおとしめてきたのだろうと思います。
 
何の意味もなく存在して、意味を求めようともせず、何の意味もない言葉を吐き出して、善を装いながら、嘘の決めつけだけを伝染する偽善者は、どこまでも救いに対する害毒です。人の迷惑を全く考えないのに、善人のつもりで物を言ってくるので、相手にしないでください。
 
 
なんでも人のせい?

何でも人のせい?
 
 
(2020年03月02日、同日一部修正)
(2020年03月03日、一部修正)
(2020年03月04日、一部修正)
(2021年03月05日、再録+)
 
 
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  楽山の上から目線
 
 2021年02月21日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 信仰と現実(ツイート保存)
 抜粋して批判。
 
 
性懲りもなく、次から次に、何かを書いてくる楽山は、そのたびに、恥ずかしい悪名のHNをさらすことになっています。
 
上から目線で、アドバイスふうに、刷り込んでくる楽山は、自己愛・自己中による人格破綻の進行する様を表しているに過ぎません。
 
よく知りもしないHSについて、私は、とやかく言うつもりはありませんが、宗教を知るだけの器を持たないのに、信仰について何も分かっていないのに、的外れのまま、資格も視野もなく、とやかく言ってくる楽山に対しては、批判を貼りつけるしかありません。
 
*内面
想像するに、上のような状況にある時の信者の内面は、次のようになっている。
信仰心旺盛のとき…「HSの教えは本物だ。人にはみな仏性があるのだから、この教えが本物であることは分かるはずだ。たとえアンチであっても、この教えを知ったら改心しないではいられないだろう」と奇跡の改心を信じている。または「自分はアンチを折伏する使命がある」と宗教的使命感に燃えている。
現実主義、合理主義に変わるとき…HSの教えを説いても、アンチから反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ、奇跡の改心を信じなくなり、「アンチと不毛な議論をしていても仕方がない。自分の話を聞く人にだけ話そう。救える者から救ってゆこう」という現実主義、合理主義的な路線に転換する。
 
楽山が言っている「立て板に水」とは、どういう意味でしょう。
 
(ネットより)
立て板に水(たていたにみず): よどみなく、すらすらと話すことのたとえ。
 
「反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ」という表現で、意味が通じるでしょうか。切りがない徒労、無駄に時が過ぎる、という意味を言いたいのでしょうか。辞書くらい引いたらどうでしょう。
 
楽山の、"横板に雨垂れ" のような記事です。言うたびに疑問と誤謬だらけの表現と内容の、楽山の言葉が詰まってゆくようで、先が見えません。
 
楽山にとって、旺盛な信仰は、現実主義や合理主義と対立するものなのでしょうか。むしろ、楽山の宗教観が、現実や合理から乖離していることを表しています。前に書いたと思いますが、楽山は、信仰を、非現実で、非合理の、夢・幻・お伽噺として見ていることが表れています。
 
信仰は、この世を生きるためにあるものですから、楽山の信仰話が、いかに甚だしい先入観と偏見で出来ているかが分かります。すなわち、こういう楽山のような人の話を真に受けていると、信仰者は、現実離れしてゆく非合理のために、堂々巡りとなり、無駄に疲れるということを表しています。
 
人間は、現実の中で生きているわけですから、現実離れしたり、合理を考えなくなったりすることは、即、生きることが困難になることではないでしょうか。そうなっているのが、楽山なのです。
 
なお、信仰というものは、人が正確に伝えられるものではありません。楽山は、深みのない教条主義的な宗教観か、夢物語の奇跡信仰という概念しか持たないので、教えを伝える奇跡の改心という魔法を信じることを信仰だと思い込んでいます。いたずらに混乱させる楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、安易な概念から、軽口をたたいて、分析して整理したつもりになります。信仰に必須であるところの心の深みがなく、共感性を持ち得ないからです。
 
楽山は、誰の心配もしていません。聞く人を自分より劣った者と見なして、上から眺めることを楽しんでいるだけです。相手にしないでください。
 
ただし自分の説法能力、感化力の乏しさは反省しない。自分の言葉を受け入れぬアンチはけしからんと、すべてアンチが悪いとする。
 
楽山の言に、説得力が見られたことは、一度もありません。楽山は、嘘と詭弁で誘導することを、説法能力とか感化力とか思っているのでしょうか。楽山のそれは、だますことです。
 
楽山は、自分の言葉を受け入れない者や否定したり批判したりする者は、けしからんと反論や批判をする代わりに、話にならないと無視しますが、いちばん話にならないのは、楽山その人であります。
 
言っておきますが、楽山は、すべての不祥事を人のせいにします。楽山は、非を認めたことがありません。楽山が、今まで、言ってきた「反省」「トホホ」「共感」などの謙譲言葉~芝居は、言葉だけで、全く内実がありません。
 
アンチに関わってきては退散することを繰り返す信者は、この二つの心理状況を行ったり来たりしてるのだろう。
 
楽山の、自らを一度も省みることなく、他者を上から目線で眺めて、批評家気取りで意見する、という姿勢と態度は、そのまま、本当の先生は自分だと言っているのと同じです。
 
「信者は、行ったり来たりしている」・・ここに最大級の軽蔑が表れていることを見逃してはいけません。楽山には、思いやりや共感という高等感情がないので、気遣いが出来ないのです。丁寧語を使っても、性根は、とても冷酷です。
 
*信仰の敗北
ちなみに私は無宗教なので、信仰によって考えるより、現実主義、合理主義寄りの考え方をしている。奇跡の改心は絶対に無いとは思わないが、人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない。
 
楽山は、自己愛性の人格の異常です。宗教を理解していませんが、自分のお粗末な頭と心だけを絶対化して宗教・思想を語ります。霊が分かるっぽい?自覚があり、ホラー趣味と同レベルで宗教を語り、現実主義とも合理主義とも交点すらありません。
 
「奇跡の改心」について「絶対に無いとは思わないが」と言っている楽山の頭の中にある "奇跡" は、魔法みたいな奇跡だと思います。その前提で、「絶対に無いとは思わないが」と奇跡には否定的であることは、心の奇跡を否定する先入観につながります。心というものを知らない者の言であります。
 
「人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない」と言っている楽山は、自分で言っている通り、通念と先入観の絶望的奴隷として訂正不能に陥っています。ゆえに、そのことは、学習不能となって、信仰の敗北というより、楽山だけの絶望的敗北となっているのです。
 
>私はこういう考え方なので、
 
楽山の考え方は、あってはならない考え方です。現状が、うまくいっていないことを自覚することは、進歩し成長するために必須なのですが、楽山には、この自覚がないのです。
 
KENTO氏がアンチから距離を取ろうとするのは理解できる。特定の信仰を他人に押し付けようとするのも、押し付けられるのも迷惑なことであるし、そういうことから離れるのはよいことだ。でも信仰者がこういう考え方をするようになるということは、ある意味、信仰の敗北ではあろうし、このことはきちんと自覚してほしく思う。
 
信仰は、まず、「押し付け」られるようなものではありません。楽山は、押し付けていないつもりのようですが、代わりに、嘘と詭弁で刷り込んできます。「とても迷惑なこと」です。
 
押し付けはよくないと明確に書くべきところを「そういうことから離れるのはよいことだ」と書けば、宗教から離れる印象になります。乱暴な理路と筆致です。
 
「信仰の敗北」「このことは自覚してほしく思う」・・楽山は、信仰について、その望ましい在り方も、勝利も敗北もを理解しておらず、信仰を感受できてもいないのに、さも分かってるふうに言ってくる、ということを忘れないでほしいと思います。
 
繰り返しますが、押しつけはよくないと言う楽山は、嘘と詭弁で、だましてくるのです。自分を大切にしてください。決して、楽山を、相手にしてはいけません。楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
 
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(2021年02月22日)
 
 
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  楽山の独り言
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
 
 
また、性懲りもなく、楽山は書いてきます。しかも、何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。折れないのも、書いてくるのも、無反省・無責任と同じく、病質の症状なのです。だから、楽山の言は、全否定しかないのです。
 
*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。
 
議論は双方向のはずですが、楽山は、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。
 
*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。
 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、楽山の気安く甘い見方です。
 
楽山との話は、世辞で終わらせない限り、永久に終わりません。こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害者意識でしかありません。ふつう、無反省・無責任は、議論で成り立たない、ということが、楽山には分からないのです。
 
事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。
 
楽山が相手だと、水をかけ合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、時間を奪われるというのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。総て、罠です。楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 
意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。
 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っているのに、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、自らの非を認めることがありません。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きていてはいけない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで、失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。
 
人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。
 
楽山については、人格を中心に問題としてください。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、良い方向に変わってゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、それが、楽山の趣味なのです。ですから、真剣味はゼロです。
 
悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。
 
楽山の勝手な気持ちで、キリを設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにするでしょう。食い下がれば、ストーカーと言うでしょう。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 
分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。
 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。
 
「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病気の人格です。
 
こういう人は、それこそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の罠にはまらないようにしてください。
 
その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。
 
楽山は、反省しない人です。ひょっとして、ボクって、ヨワくて、オチャメでしょ、という、受けねらいでしょうか。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたところです。楽山には、欲望はあっても、教訓はないと思います。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきたに過ぎないのです。
 
*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。
 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 
*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法は仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法は仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。
 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、理論であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。
 
HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。
 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。
 
したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法は仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。
 
意見を交わすのに、反対意見を排除する目的で、楽山は書いているのでしょうか。排除されるのは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかもしれないかなあ・・とでも言いたげに。
 
こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。
 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 
まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。
 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで締めています。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。
 
一切、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか。否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。
 
事実を言い、評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいることを敷衍して、警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、人格を含めた否定だけをして、深入りしないようにしてください。楽山は病気です。
 
 
股の間の黙考

股の間の黙考
 
 
(2021年02月08日)
 
 
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