ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自由

 
  人からの自由3
 
 
正月早々ポップアップで作業を妨害した可能性のある楽山は、証拠がないじゃろ❔・とでも言って、しらばくれるかもしれません。しかし、思い当たる加害者は、楽山以外にいないのです。楽山は、犯罪衝動を抑制できない人だということを自ら証明しました。つまり、弁明不可の、危険人物なのです。
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうということです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰の、他罰性に陥る危険があります。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、そのような詭弁で成り立つ信仰はどこにも存在しない、まず最初に自分が自分の自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりです。
 
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」と言い出し、聖霊を自己正当化に振り回し、理解不能の造語的組み合わせをしてきます。その場で繕っただけの言葉遊びを聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
人からの自由b

人からの自由
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
  培地
 
つけっぱなしの蛍光灯で
夜は明るすぎて
 
閉めたままのカーテンで
昼は暗すぎて
 
培地の中の生命体は
増えようがなくて
 
昨日も今日も
ずっと一つのまま
外へ出るのは自由なのだが
またすぐ戻ってきて明日も
よくて一つのままだとわかっていながら
0(ゼロ)になることを恐れている
 
一つ・・のあいだに触手を伸ばす
ペン先の呼吸
 
つけっぱなしの蛍光灯では
夜は暗すぎて
 
閉めたままのカーテン越しに
昼は明るすぎて
 
隠れてないで出てらっしゃい
まだ一つにもなっていないくせに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま行進しているつもりのピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わること自体が災難であります。
 
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうと言うことです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は、
「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」と言い、
それは、キリスト信仰ではないと批判すると、
「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、
そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」などと言い出し
思いつきで聖霊を持ち出して、自己正当化に悪用し振り回し、中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、決して誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
自由

自由
 
 
(2019年12月10日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま、行進するピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わることが悲劇であります。
 
 
 
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  楽山の独裁
 
 
 「自由の意味」田中美知太郎著
 2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
 
 
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。聖書において顕著であります。
 
*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
 
(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。
 
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。
 
*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
 」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。
 
まるで、現実がそうさせていると言っているようです。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。
 
*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
 
哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が詭弁という虚偽性には、うんざりします。
 
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として独立していないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
 
*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
 
楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということも出来ない、してはならない、ということが分かります。
 
楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが全くできない人です。
 
*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 
何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって流れるだけです。
 
またしても、人それぞれ、というのが出てきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。
 
このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 
そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負わない者には、永遠に自由を許してはいけません。
 
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないようです。
 
しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 
実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害の偽善者が、教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。
 
これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
 
理屈ではなく、ネットでは、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
 
楽山は、まさに、病質の怖さを見せています。ゆえに、「注意は必要だろうとは思う」という、安易で鈍い当たり前のことしか言えないのでしょう。
 
*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
 
楽山には、興味深いのでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。
 
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて、好きなように曲げて、本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。
 
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
 
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。中身のない楽山の繰り言であります。
 
楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、平たく言えば、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
 
自己中は、自由とは違う。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱す。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。
 
楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことを踏まえるということが病的体質のために出来ないという症状なのです。
 
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。
 
このような判断は強化されてきました。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったからです。楽山は、言論の妨害者です。
 
 
自己中は自由とは違う

自己中は自由とは違う
 
 
(2021年03月19日)
 
 
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