ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の無責任引用3
 
 言葉のズレ(幸福の科学と一般では、同じ言葉でも意味が違う)
 2020年12月22日 楽山日記(LD)
  を再録し、改めて批判。
 
 
楽山であろうと思われる犯罪者の妨害によるフリーズは、ウイルスかどうかもはっきりしないまま、改善しません。キーボードは全く使えなくなりました。犯人は平気なようです。罪悪感がないことは楽山と一致します。あるいは、そういう仲間でもいるのでしょうか。もはや、人間とは思えません。
 
楽山の世界は異常です。言葉の意味・概念・イメージが、浅く硬く固定されて訂正不能です。だから学術用語を使っても、歪曲され平板な意味になって、真に受けてはいけない場合が殆どです。楽山は、サイコパスに近い自己愛性パーソナリティ障害NPDだと思います。やはり危険人物でした。
 
ウイルスについて楽山から違うという弁明もないようですし、さらに、ここまで黙っていて、こちらに言われてから、違うと楽山が言ってきても、それは、今さら信用することは出来ません。今からは、ほぼ正式の呼称として、闇に隠れる犯罪者楽山と呼ぶことが多くなるでしょう。凶悪です。
 
 
信仰は、自分の罪を認めることから始まりますが、楽山には、それがありません。だから、楽山は、人のことばかり書いてきます。導いている立場を気取って、発言の大方が詭弁というやり方で、さらに自己愛と自己中を深めてゆくのです。
 
楽山の過去記事ですが、楽山は、堂々とは何も言えず、せいぜい、当てつけか、悪口を言いふらし、あとは、コピペで記事を書いたり、冷静・柔和に思わせるための嘘の芝居で、忠告めいたことを書く、というくらいしか出来ないのでしょう。
 
楽山は、また、自分の卑怯な性質をごまかすために、記事を書いてきました。しかし、その大部分が、他者のサイトからの引用となっており、そのことが、かえって、楽山が、自分では何も書けないことを露呈してゆきます。
 
 
*言葉のズレ
信者と一般人の言葉のズレについて、Togetterにまとめられていたので、ここにも保存しておきたい。
・一般とは違う幸福の科学の言葉 - Togetter
 」
全体的にみて、皮肉、風刺が効き過ぎてはいるが、たしかにこんな風なのだからおかしい(笑)。
 
おかしい楽山が、何かを、誰かを、おかしいと笑うことを、信頼しないでください。楽山は、いかなる他者に向かっても、おかしいと言う資格はありません。楽山は、自己中心の見なしで、おかしいと言っているだけです。また、ゲームのように面白がっているだけです。
 
楽山に、知性や理性があるなどと思わないでください。心の無いところに、知性も理性も感性もありません。知性ではなく無知が、理性ではなく無理が、そして不感不応があるだけです。楽山は、お山の上にふんぞり返って、人を下に見て、面白がっているだけです。
 
心の無い者には、知性と理性の代わりに、ごまかすための、世辞、嘘、詭弁、妄想、自己愛、自己中があるだけです。それらは、総て、無知によるものであり、無理にこしらえるもので、かつ、無恥によって、後悔せず、反省せず、責任を負わず、ズルズルと言い続けるだけなのです。
 
 
*一例
特に印象に残ったものを、ここにも保存しとく。
 
楽山の記録は、楽山によって恣意的に選択・操作されて出来てゆくものですから、保存せず、破棄してください。いかなる問題を解決するのにも、役には立たないと思います。楽山の印象は、無責任な忘却化、偏見となってゆくだけでしょう。
 
以下のまとめは、別サイトに書いてあるもので、楽山は、何事も、まとめることが出来ません。だから、時により、状況により、言うことが、ころころ変わります。楽山の情緒不安定と高等感情鈍麻によって、楽山の忠告めいた文章は、汚染されています。近づかないでください。
 
 
「悪魔」
(一般)特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在
(HS)大川隆法や教団に批判的な者、またはおかしいと思ったことをおかしいと口に出して言う者
『嘘』
【一般】
事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽?(いつわ)?り(デジタル大辞泉)
【HS】
幸福の科学に対する批判的な言説。
一説によると大川隆法無謬性信仰を元に、総裁や法を批判するとしたら嘘だからという前提に立つ。
 
何やら、分類しているように見えますが、超常の話です。理路も感受性もない楽山は、現実の大事なことを書けないのです。いつも、楽山は、人をだますために言うだけです。楽山には自己を訂正する機能が全くありません。自己愛に凝り固まっているからです。
 
物知り顔に、楽山が言うのは、他者の文章から無断で持ってきたものか、自前の、嘘と詭弁に他なりません。真実という意味では、人のことなど、興味もなく、遊び道具に過ぎないので、何の責任も負う気がないのが、楽山です。
 
 
『地獄』  
【一般】宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界  
【HS】
長いものに巻かれず、勇気をもっておかしいものをおかしいものを言った者が死後に集う場所
 
どちらの意味でも、神も宗教も知らない楽山は、ホラーとしてホビーとしてしか考えることのできない人です。何も信じることがなく、自分以外を、寄る辺とすることが出来ないからでしょう。自己愛絶対に生きる楽山は、宗教と信仰に、生涯、縁のない人であることを表しています。
 
 
『社会的信用』
【一般人】
しばしば融資の可否を決める指標となる。収入安定や前科無しなどで測る。
【HS】
教団が大川隆法総裁の霊言に「ある」と主張するもの。
イタコ芸の回数や出版数、お金を出して新聞に広告を載せた実績などで測る。 
 
楽山に前科があるかどうかは知りませんが、楽山には、他者の心をもてあそび傷つける性質があるので、一般の信用も、HS流の信用も、ないということです。現実を無視して、超常を語っておきながら、責任も負わないし学習も修正も出来ないなら、いったい何を信用しろというのでしょう。
 
 
『自由』
【一般】義務や制限に縛られないこと
【宗教者】欲望・煩悩に惑わされないこと
【HS】大川隆法総裁が許した範囲内で選択できること
『宗教弾圧』
【一般】
個人や集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別・迫害すること。
【HS】
幸福の科学に対して他者が批判的なことを述べること。
「批判される=弾圧されている=権力側が恐れている=HSが素晴らしい証拠」と脳内変換させる途中の段階。
 
自由と、自分勝手を、混同しているのが、楽山です。社会道徳を知らず、責任とか反省とかについての知識も弁えもないことが、楽山の言動に、この約3年間、表れてきました。だから、何度も、無反省・無責任と書きます。これからも、書くことになります。
 
こういう人は、結局は、信頼されません。それを全く無視して、書くことをやめない病質が、楽山にはあります。楽山が、書けば書くほど、書いたことが批判記事とともに資料として蓄積することに、楽山は何も危機感をいだかないのでしょう。我欲に固定して、学習不能だからでしょう。
 
 
『守護霊 霊言』
【HS】一人にひとりずついる「守護霊」の話。地上に生きている人の「潜在意識」であり、「本心」「本音」そのもの
【一般】大川隆法総裁が生きている有名人に成り済まして行う、通称「イタコ芸」
『証拠・証明』
【一般】質を重視。因果関係も重視
【HS】数量を重視。霊言は数出しているので証明済み。
因果関係は、都合の良いように設定すればそれでよい。
 
楽山は、親戚が霊が分からないっぽいのには驚いた、と記事に書き、楽山自身は、霊が分かるっぽいつもりのようです。しかし、楽山の言う霊とは、宗教的なものではなく、ホラーや超常の趣味の言葉であり、何も努力しなくても備わっている霊であり、怠慢な楽山を、空想と妄想で満たしています。
 
 
『常識』
【一般】
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。
【HS】
大川隆法や幸福の科学を批判せず、その言説や活動を尊く正しいものとして共感と賛同の意を以て耳を傾けること。あるいは受け入れること。
 
楽山が「普通の知識や思慮分別」を持っているなら、無反省・無責任ではなかったはずです。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山には、普通の、良識や、高等感情がなく、ゆえに、罪悪感もなく、人に悪を当てはめる快感だけを求めているのです。
 
楽山は、自分信仰、自己絶対の思い込みが前提にあるので、他者を信じることがありません。丁寧語も、霊性・柔和を装うための手段に過ぎません。ゆえに、正当な理路の組み立てが出来ず、詭弁に走って、まともに見せかけたり、世辞を糊塗することで、ごまかしているのです。
 
ゆえに、楽山は、他者の言うことを受け入れることは、世辞以外にはなく、逆に、いつも、他者を、楽山の安い天秤に乗せて、評価・批評し、扱い利用したがるのです。楽山の言動は、総て、気取りによる病的なナルシストの症状だと思います。
 
 
『信仰の自由』
【一般】どの宗教を信じるか、または何も信じないかも含めて自由なこと
【HS】どの宗教を信じるかの自由。信じない自由は含まれない。
尚、大川隆法総裁が仏陀であることは、「前から知っていた」と「今知った」しかあり得ない。
 
楽山は、自由と、自分勝手を、混同して、キリスト教を、好きなように、何度も、けなして、訂正もせず、反省もせず、責任も負わないで、書き続けている約4年の流れです。これだけ批判されても、楽山は、平気でいられるだけの高等感情鈍麻による厚顔無恥です。
 
信頼度は、ゼロであり、自由など重要なテーマについて、楽山に問うのは無駄であり、また、楽山は、問うことに答えられる何ものも持ってはいません。批判目的以外で、楽山を対象にしてはいけません。決して楽山と遣り取りをしてはいけません。恐ろしい疲労が待っているからです。
 
 
『脱カルト』
【一般】悪しき集団から抜け出て社会復帰すること
【HS】基本的には一般と同じだが、幸福の科学から抜けた場合のみ「転落」と言う
『発展』
【一般】
勢いや力がのび広がること。盛んになること。「都市の―」。次の、いっそう高く盛んな段階に移っていくこと。
【HS】
以前語っていたことと矛盾することを言った時の説明。「法は-する」。
 
「以前語っていたことと矛盾することを言った時」に、何の罪悪感もいだかず、反省も訂正もしないのが楽山です。否定を言い、肯定を言い、どちらも、言った責任を負いません。真に受けると酷い疲労だけが残ります。楽山は、言論や意見交換の場に、いてはならない人なのです。
 
 
『深い考え』
【一般】
表面的・短期的なことだけではなく、本質的・中長期的なことも含めて熟考すること。
【HS】
総裁の理解しがたい言動・行動を無理矢理納得するために使う用語。
「これは、主にーがあるに違いない」
 
楽山には「深い考え」は皆無であります。借り物、無断引用、理解しないまま引用しているもの、嘘、妄想、自己正当化など、邪悪なものだけで、言い逃れに終始します。楽山が、記事を書いて、あるいは、ネットに何かを発表して、さらに深まってゆくのは、「無理矢理」な人格の異常さだけです。
 
 
『目安』
【一般】当て。 目標。おおよその基準。また、おおよその見当
【HS】基本的には一般と同じ。但し「奉納目安」となった場合は、一般の「定価」とほぼ同義
『唯物論者』
【一般】
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する価値観を持つ人。
【HS】
①宗教や信仰、霊界、真理に関心を示さない人。暗に一般大衆を指す。
②幸福の科学を批判し、エルカンターレ信仰の意義を否定する人。
 」
 
楽山の唯物論と、信仰についての言は、どちらも、心を考えていない前提です。だから人間の言葉とは到底言えないものです。学者の引用で語りますが、楽山自身は、マンガ・お伽噺・ホラー映画レベルの辻褄だけです。分かってもいないのに学問や宗教の用語を使って見栄を張ります。
 
 
*反論
今のところ、このまとめに対する信者側の反論は、KENTO氏によるものだけのようだ。
2020-12-22 パスタ氏とジョニー氏は
https://twitter.com/KENTO00687971/status/1340789023216861185
(現在、消去されているようです)
 
引用サイトに書いてある、知らないのに語るな、というのは、楽山の無知と無恥に対して当てはまるでしょう。知らない人が、知らないことさえ知らないのが、いちばんの偽善の悪につながります。楽山が、そうです。理解も洞察も直観もないのに、言葉だけ執拗で煩わしいだけの出まかせ状態です。
 
 
ツイートを読むと、冒涜だ、悪口だ、HSのことを知らないんだという風に、大変に憤慨しているけども、まとめ内容は事実に反するという論証は一つもないことからみると、信者側から見ても、これらは事実であると認めざるを得ないということなのだろう。気の毒なことである。
 
「気の毒」と言って、さげすみ、楽しんでいる、愉快犯が楽山です。楽山こそ未熟なのに、他者の未熟を指して、「気の毒」≒ 才能がなくて悟らない人は哀れだ、というニュアンスを伴う言い方しか出来ないのです。まともぶる外道の乱暴者に、だまされないでください。
 
「論証は一つもない」と言っていますが、楽山こそ、論証も、根拠を示すことも、一度もなかったのです。自分を見ないで、人のあら探しをして、批判したつもりになって悦に入る楽山こそ、他者を、婉曲の丁寧語で、疲れさせ、かつ、貶めることしかできない、悲惨で、気の毒な人なのです。
 
 
*自己を客観的にとらえること
自分がHS信者だったころ、現代新興宗教事典のようなものでHSの項目を読むと、非常に不満に思ったものだった。ワイドショーでHSについてまとめられた動画をみても不満だった。そこに嘘はなくとも、「そんなんじゃない」という激情を抑え難かったのだ。
 
今も批判に対して、まともな返し、つまり、弁明や反論が出来ず、動機と根拠が、批判者についての、捏造の事実や、詭弁や、決めつけ~妄想に過ぎない楽山です。それと、恐らく、楽山には、激情も、情熱も、無いと思います。楽山にあるのは、欲求不満だけだと思います。
 
 
でも今にして思うと、この時の感覚は、録音した自分の声を聞いたときの感覚と似ているのかもしれないと思う。実際の自分の声は、自分が思っていたのと違っていたのと同様に、実際のHSも自分が思っていたのと違っていたので、そこに戸惑いが生じていたのだと。
 
楽山の感覚は今も同じです。こういう反省のような発言を真に受けないでください。無反省と言われたものだから、あたかも、反省しているかのような、過ちを認めたかのような、思いやっているかのような、楽山独特の芝居です。「反省、とほほ」とか言うこともあります。
 
反省文を書くときに、「とほほ」とか、書くでしょうか。こうかけばいいじゃろ・・という気安さで、言葉を置いているだけで、その前と後に、全く変化も成長も見られなかったのです。これは、中身のない大根役者、楽山の、低劣な、偽りの三文芝居なのです。
 
楽山の芝居や詭弁を、今まで楽山の言ってきたことが、ことごとく否定しています。真実の追求は「録音した自分の声を聞いたときの感覚」と言って弁明できることではありません。拙劣な比喩を書いているだけ、うまく表現できたと思っていることが恐ろしいのです。
 
言葉のズレではなく、体質的な欠陥ですから、治ることは期待できず、実際、約4年間、変わることなく、成長も改善もすることなく、続いています。自分を見ない楽山は、言論者・批判者には決してなれません。楽山は、いわば個人カルトであり、約4年間、嘘と詭弁と無理解しか残していません。
 
楽山の発言の、正当性の証拠が、今まで、ずっと無いので、言えば言うほど、無根拠の嘘の芝居になります。他者を、いつでもだませると軽く見ている証拠です。楽山は、発言が、ことごとく失言となって山のように積み重なっても、全部無視して、不感不応の独り芝居を続けています。
 
 
KENTO氏以外にも、上のまとめに反発を感じる信者もいるだろうけれども、この辺りのことに注意しつつ、事実は事実と率直に認め、反省すべきところは反省し、修正すべきところは修正したらいいのではないかと思う。
 
「反省すべきを反省」せず、「修正すべきを修正」しないのが、まさに楽山なのです。人のことを、とやかく言う資格はありません。注意、忠告、反省・修正を促すことが、自分で出来ないし、言われてもしない楽山は、実に、厚顔無恥となり、人格が悪魔性になってしまいました。
 
楽山の発言は、自己愛に慢心したベースからの出力です。これに頷けば、結局、人間性と共感性を破壊されて、腐った麩(ふ)のような中身のない、偽りの人格模様になるでしょう。どうか、自分の精神衛生のために、精神を侵す公害の楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
前の記事で「信仰も棄ててしまえばあっけないもの」と書いた楽山は、あっけなく信仰について否定の結論を出してしまうほど考えることに怠慢で短絡的で、その精神から、学習しなくなったために、何を書いても熟練の欠片も生まれないゆえに、何も成り立たないという地獄に落ちています。
 
 
欠落の単方向

欠落の単方向
 
 
(2020年)
(2023年01月15日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と雨音
 
ときに強く
今にも屋根を天井を貫き
身を貫くかのように
上から下へ容赦なく叩きつけて
天からの怒りのようでありながら
絶え間なく打ち続く夜の雨音にも
トトンピチャピチャと撥ねる音
ボトリボトリと落ちて当たる音
流れる水の音が渾然(こんぜん)一体となって
響く夜のシンフォニーは単調ではない
 
絶え間なく落ちてくる水滴は
水となり水に叩かれ水となり
淀み
流れ
躊躇(ためら)うこともなく
変わり続ける夜のオーケストラは変調でもない
 
絶え間なく過ぎている時間にいて
外も内も変わり続けていることに
変わり果てた姿に唖然とするまで
気づかない壊れた楽器は
オーケストラになれない
 
眠れぬ夜のシンフォニーに
しばし耳を欹(そばだ)てて
眠れぬ夜の耳鳴りと区別しながら
もはや明日の目覚めと呼べなくなった
今日の睡眠を水に流している
 
 
  早朝の時間
 
眠れない夜ふと
とうの昔忘れたものに
眠らない夜の向こうから
呼ばれたような気がして
澱(おり)を覗(のぞ)いてみる
 
そう簡単に覗けるはずもなくて
深林のような
墓地のような
来たところから帰るところへ
明日の目覚めは望みません
と祈りさえしたくせに
 
一方では
いきれのような
ほとぼりのような
まだ足りない
まだ足りない
まだ尽くしていないと焦がれていて
いたたまれない時間がまだ残っている
と呟(つぶや)くほどにかすんでゆくから
習慣も癖も拡大しないと壊せない
崩せないフォントの往来だ
 
いってらっしゃいで帰ってくる
ただいまで出かけてゆく
集散も孤独も活動しないと死にきれない
早(はや)眠れない速度の早朝だ
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。心を持たず、無反省と無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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  楽山の反省芝居2
 
 『知的生活の方法』渡部昇一著
 2021年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ウイルスか荒らしのせいで、キー操作が約10秒ほどフリーズと復旧を繰り返す、という異常が続いています。つまり、文章作成に要する時間が約2倍になります。こういうことをして、いわば、他者のネット寿命を半分に短縮することしか出来ない犯罪者がいます。
 
この犯人には、大きなテーマについて、個人が、未熟を承知の上でも、それなりに情熱をもって、命を込めて、文章を作成して公表する心が、理解できないのです。自己中の欲求不満の憎しみから直情的に行為に短絡して、後先を考えない衝動的なサイコパス人格なのでしょう。
 
 
楽山は、反省文らしきものを書いてきました。とても浅い、おふざけに過ぎません。既に、4年近くが過ぎ、無反省と無責任では済まないのです。それでも、呆れるほど、全ての非を無視したまま済ませようとしてきます。楽山が書けば、批判記事が付いてくる、という成り行きが続きます。
 
 
*内容
『知的生活の方法』を読み返してみた。前半は知的生活の基本(自分に正直であること、繰り返して読める愛読書を持つべきことなど)が説かれており、後半は知的生活を継続する上での注意点、教訓などがいくつも紹介されている。
 
知情意の全てが不足~欠損している楽山が、「知的生活」などと言っています。気取っていないと気が済まないのでしょう。正しい教訓を真摯に受け止めているなら、現在のような嘘と詭弁のお気楽山にはならなかったはずです。また、嘘を吐きました。信頼度ゼロらしい日々を過ごしているようです。
 
 
*反省
前は本書を読んで、わくわくして前向きな気持になったものだったが、今回はそれよりも自分の未熟さを思い知らされた気分である。
 
「わくわく」しなくなったのは、高等感情鈍麻が進行したからでしょう。ますます生きるセンスが壊れてゆきます。それを反省せずに正当化する嘘の生き方です。「未熟さを思い知らされ」ているなら、今回の記事など書かなかったはずです。楽山の言葉が、楽山の嘘を知らせています。
 
 
まず一つは、自分は克己心が弱まり、背伸びした読書をしなくなっているということである。著者は楽しみとしての読書だけでなく、意志を用いた読書もしているらしい。でも最近の自分は、後者の読書はさぼっているので、ここは直したい。
 
「背伸びした読書」とは何でしょう。楽山が、現にしていることであり、恐怖です。「意志を用いた読書」とは何でしょう。楽山は、誇大妄想的に、いい言葉を拾っては自分に当てはめてきただけです。実にお気楽に「ここは直したい」と言って、忘れてゆく楽山です。全部、嘘です。
 
 
もう一つは、未読本を追いかけてばかりで、同じ本を繰り返し読むことを怠っているということである。本を十冊読むとしたら、そのうち二、三冊は過去に面白いと思った本の再読にしてみようかと思う。三つめは空間確保である。こればかりは良い案は浮かばず、今後も改善できそうにないのが残念。とほほ
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の精神病理から言葉を選んでいるので、「とほほ」が読者に対して失礼だということが分からないのです。ならば、反省して、自らの書いてきたことを否定するしかありません。この3年間は、「とほほ」で済む話ではありません。
 
病質のために無反省だから、おかしな文章を書いてくるのです。言い換えれば、「とほほ」と言えば反省したことになると思う心性が異常であり病質なのです。真剣味がない方向に人格破壊が起きているのです。「とほほ」と書くくらいなら「改善できそうにない」なら書くべきではないということです。
 
 
この他にも反省点は多くあるのだが、とにかく今回は自分のふがいなさを痛感した次第である。でも落ち込んでいても仕方がないので、自分なりに状況を改善する努力をすることにしよう。
 
「反省点」「ふがいなさ」「痛感」「改善する努力」・・今までのことがなかったら、うっかり真に受けてしまいそうな、謙虚芝居の楽山です。しかし、無反省で、言葉だけで、実際は、努力というものをした跡が表れたことはないのです。楽山が、否応もなく、楽山の失格を表すブーメランです。
 
「状況を改善する努力」という当たり前のことを、全然してこなかった楽山が、今さら、何をするつもりなのでしょう。楽山には、何を言っても信じてもらえず、相手にされなくなって、独り言だけの日々が待っています。人間で在り続けることから、どんどん、遠くなってゆきます。
 
 
(ネットより)
イソップ童話のひとつ「オオカミ少年」。「嘘をつく子供」というタイトルでも知られています。ではまずあらすじを簡単に紹介していきましょう。
ある村に、羊飼いの少年が住んでいました。退屈しのぎに「オオカミが来たぞ!」と叫んでみると、大切な羊が襲われたら大変と、大人たちが武器を持って大慌てで飛び出してきます。しかしオオカミはどこいもいません。
大人たちは少年を叱りますが、少年はその後も懲りることなく嘘をついては、慌てる大人たちの姿を見て面白がっていました。
ところがある日、本当にオオカミが現れます。少年は慌てて「オオカミが来たぞ!」と叫びましたが、もう大人たちは誰も彼の言うことを信じてくれません。
結局助けは来ないまま、大切な羊たちは皆オオカミに食べられてしまったのでした。
このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。
 
まさに、楽山は、ひどい目に遭うまで恐れを知らぬ、嘘吐きの、オオカミ少年の、成れの果てに向かっています。本当に危ない時に、崖っぷちの大事な時に、誰にも助けてもらえない人生です。
 
 
自滅ガイド

自滅ガイド
 
 
(2021年)
(2023年01月12日、再録+加筆)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
期待するものと
期待されるものの間で
つり上げられた信仰が
病気の小魚のように
しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の嘘と詭弁と罪と偽善が「人間の性」であるなら、とうに人類は滅びています。楽山の被害者は、おとなしく退いてゆく人ばかりではないと思います。楽山が良心のある人ではないように、この地上には、良心のない人が、いっぱい、います。心からの反省は、そういうこの世を生きるためです。
 
人間でなくなってゆく危うい道を、楽山はさまよっているのです。オオカミ少年みたいな楽山が、同類の、嘘吐きやサディストに出会う、という、ヤバいプロセスでは、相手の暴力性によって、路地裏に転がり、がけの下に潰れ、海面に膨らんで浮かぶような惨事もあり得るでしょう。
 
 
 
自己愛性人格障害の男性の行動の特徴について
 
自己愛性人格障害の男性の行動面の特徴は、女性のケースとも共通しているものもあります。しかし、女性とは違うのが、自己愛の強さからくる行動が「男らしい行動」として好意的に解釈されてしまい、受け入れてしまうことがある点です。
 
(最近はめっきり聞かなくなりましたが)男尊女卑、家父長制、亭主関白といった文化・風習に通ずるものがあるために、自己愛が強くて面倒な男性として見られるのではなく、昔気質な男性として、自己愛の強さからくる迷惑な行動が許容されてしまうのです。
 
しかし、傲慢で自分勝手な行動に出る割には、内心は非常に臆病で小心者な一面がある。しかし、そんな「男らしくない」内面を他人に知られれば、自分の自尊心が深く傷つく恐れがあるからこそ、更に傲慢さに拍車をかけたり、他人を威圧するかのような言動に出てしまうことがあります。
 
 
 
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  楽山の妬み3
 
 幸福の科学の元幹部たち
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。リンクなど、省略。
 
 
楽山は、人間が、無反省・無責任、訂正不能の体質のまま、片寄らない言論者を目指せば、モンスターにしかならないという例になるでしょう。それは、自分の負うべき責任を放棄したがゆえに、自分という存在が消えてゆくプロセスでもあります。
 
本を読んでも、他者の意見を聞いても、反省もなく、責任も負わず、自分を高めるための自己正当化だけが目的ならば、ゆえに、都合の良いことだけ拾って、都合の良いことだけ受け取って、都合の良いことしか書かないならば、そこに、学習も成長もなく、ゆえに、いかなる解決も生みだせないわけです。
 
敵か味方か分からないようなことを書いて、しかも、日によって変わってきて、向上心がないままの高慢な人格ならば、関わる者を、傍迷惑の渦に巻き込むか、破壊するだけでしょう。あらゆる信頼を失うだけのプロセスでは、積み重なるのは迷惑と害だけなのです。個人的な憎悪や恨みではないところの公害であります。
 
楽山は、また、人の意見を引用して、自分の記事を書いてきました。断りもなく人を利用して、無反省の無学習のままの楽山の人生は、責任を負わないことで、真実を求める人を、オモチャをもてあそぶように傷つけて捨ててゆきます。公共の害である楽山には、もはや、見るべきものがありません。
 
楽山は、孤独のうちに、誰にも借りはない、責任は負わない、という世迷言を繰り返し、自らの存在をも、だんだん消していって、最後に口を利かなくなるまでを、誰の信用や信頼を得ることもなく、過ごしてゆくのでしょう。結局は、迷惑なだけの、誰にも相手にされない人生なのでしょう。
 
楽山は、教祖になりたいが、なるための人望も力量もないので、自己顕示欲だけになっています。もはや、真っ当に存在したいという意志もないのかもしれません。だから、楽山は、欲と意地だけで、考察のないまま自己顕示に終始して有害な煙のような実質のない存在となってゆくでしょう。
 
何か言っても、楽山は、世辞と、ごまかしだけで、批判に、反論もせず、答えもせず、逆に、いちゃもんの悪口を、言いたい放題に言うことだけはやめないのです。楽山には、邪悪な宣伝・洗脳・煽動者として批判される悪と偽善以外に、存在様態がありません。
 
 
*元幹部
ツイッターをみてたら、このページが貼られていた。幸福の科学の幹部だった小澤利夫氏が、キリスト者になったという話である。
・創価学会幹部、幸福の科学幹部からキリストへ
 」
*馬鹿げたこと
これは誰のことを言っているのかは明白だ。
考えてみると知識豊かな日本であるのに、宗教関係に至ると、本当に馬鹿げたことを平気でやっている。昔も今も、世の指導者たちの権力と、名誉と、傲り以外の何ものでもないのです。
肉体を有する人間は、生きていても、死んでも人間に変わりありません。ところが日本の宗教界には、「我は神なり」「私は仏なり」等と言っている者たちがいます。
神仏であるなら、人智で計り知れない現代日本の深刻な経済を、好景気に変えてみよ。神仏であるなら、三百万人の失業者に対し、納得のいく仕事や職場を与えてみよ。
 」
教祖が神を自称したり、生き神様を崇拝したりというのは、馬鹿げたことといわれても仕方がないことではある。 
 
宗教を、悪口で否定するなら、それに代わる救いを提示しなければなりませんが、楽山は、言いっぱなしで、責任を、一切、負わないのですから、相当に、いや、いっそう、気味の悪い、馬鹿げた存在と言われても仕方がないのです。人のことばかり悪く言う体質が表れています。
 
仏様の心が分かるっぽい気分で、霊が分かるっぽいことを、自らの超常体験として書いていてhttp://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html、ホラーが大好きで、自ら不思議な能力者気取りで、リーダーか評論家気取りで記事を書いている楽山には、思想の実質が何も伴っていないのです。
 
このように、楽山は、人の意見など聞かずに、自分の気持ちの良さと都合の良さだけで、言いたいことを言い続けています。オレこそ生き神じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。そういう方向しか持っていないのです。楽山は、誰とも、誠の友人になれない人です。
 
 
*人生は一冊の問題集
「人生は一冊の問題集」という考え方は、HSから離れても頭に残っているようだ。HSをやめた今でも、教えにはよいものがあると考えているのだろうか。
人生とは、まさに一冊の問題集です。
 」
 
問題意識など、持ったことのない楽山が言っています。総て、自分のうちに、自我によって、解決したつもりになって、忠告できるかのように勘違いしても、それは、人間世界に通用しない、無反省と無責任の言動となって、妄想的自己確信から破壊になってゆくのです。
 
あらゆる問題は、楽山に言っても、一定しない楽山の、保身と妄想によって、徒労と疲労を残すだけです。批判する前の最初の3か月、楽山とコメントの遣り取りをしましたが、全くの無駄で、一種異様な徒労感と疲労だけが残っています。こういう人種とは遣り取りは禁忌!ということを敷衍したいのです。
 
相手にしてはいけない人だったと気づいて、私一人のためならば、相手にしなければ済むことでしたが、楽山は、キリスト教と信仰に対して、極めて幼稚な屁理屈で、無知~勘違い~偏見~妄想を表しながら、否定してきたので、以後、批判を続けています。誰も近づかないでほしいとと言いたいのです。
 
キリスト者(クリスチャン)には、議論や、理路について、苦手な人が多いようです。戒められている悪い言葉と批判を混同して、批判禁忌と思っている人もいるようです。悪意でキリスト教を否定してくる楽山は、反キリストのモデルでもあり、できるかぎり、批判を続けてゆくつもりです。
 
 
*生き神様崇拝
ここでは、『太陽の法』を高評価してる。
でも、神を自称する教祖には、どうにも我慢がならないらしい。
宗教に無知な人々にとり、特に『太陽の法』という「幸福の科学」の本は、宗教の何たるかを、やさしく解き明かしたものです。だからこそ、わずか十年の歳月で、数十万人の会員が世界中からその神の教えを求めて集ってきたのだと、思っています。
でも残念なことには、「我は神なり」という誤解される教祖の言動に、その頃から、その会にもいられなくなりました。私以外にも、去る人々が少なくありませんでした。
今、世で「私は神仏なり」という者を真に受けるのは、危険なのです。宗教界の中で、己が神であり仏であるとは、その教祖が口にすべきことではありません。
 」
ふと思い出したが、フライデー騒動のころだったろうか。それより前だったろうか。小澤氏がテレビのインタビューにこたえて、大川隆法は間違ってると思ったら退会するというようなことをいっていて驚いたことがあった。
支部では、これについて、小澤氏は大川隆法が間違うはずがないということを前提としたうえで、たとえ話をいっただけだと説明されたが、小澤氏のその後をみると、これは本気だったようだ。
 
楽山のような理屈倒れの精神の貧困な者でない限り、神聖なる存在は、今まで知らなかったような、魂の解放を伴う何からの光を感じることがあるのだろうと思います。聖書の、キリストと、救われた人々との交流に、それは表れているのです。楽山のような浅はかな知ったかぶりの言とは全く違います。
 
楽山の言うことは、誰かが言いそうな月並みなことばかりです。一応、筋が通っているなどと思って、頷いてはいけません。誰かが言いそうなことは、誰でも言えること、人真似に過ぎないこと、そういうことばかりを、中庸を気取って言っている楽山を、決して信頼してはいけません。
 
 
*十人の九次元霊
そういえば、九次元には十人の神霊が存在して、エルランティ、エルカンターレ、イエスなどが上位にあるという話があったのだった。でもその中では、イエスでなく、エルランティがもっとも偉いというニュアンスだったと思う。エルランティが、他の惑星から人類を連れて来たとか、神の光をプリズムにかけて分光させてるとか。でもまあこの辺りについては記憶が薄れてきているので、自分が間違っているかもしれん。
幸福の科学においては、東京大学出身の大川隆法ご夫妻から、イエス・キリスト様こそ、天上界の十大天使の中で最高の霊力を持たれる「神の中の神」だと、教えられてきました。
イエス・キリスト様のことは、今では聖書的な教えから理解しておりますが、イエス・キリスト様こそ最高の方であることは、じつは幸福の科学時代から教えられていたことなのです。
 」
 
楽山の「自分が間違っているかもしれん」を真に受けてはいけません。「記憶が薄れてきているので」ということと、同じ意味の、一種の安全弁なのでしょう。自分で、既に、間違っているかもしれないと思うなら、攻撃や否定をすることはなかったはずなのです。
 
実際には、無反省・無責任の楽山において、真摯に間違いを認める楽山を見たことがありません。上は、受け狙いの、白々しい謙虚芝居の、心にもない "トホホ言語" なのです。楽山は、謙虚芝居を、病質的思考障害の言い訳として、しばしば書いてきます。
 
もし、楽山が、間違える自分を認めていたら、否定した後で、平気で、祈りの三文芝居など、するはずはないし、そのあと、対話形式で、また、否定するようなことも、ないはずなのです。言ってることがバラバラです。思いつくままに、キリスト信仰を侮辱して、独りで優越感味に浸るのが目的でしょう。
 
それが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの人生なのでしょうか。結局、楽山は、楽山自身が積み重ねてきた負の実績によって、否定されてきたのです。今、ブログで書き続けているところの、他者を利用した雑言も、その類から外れるものではありません。
 
人を利用する、有名人も利用する、都合の良いところだけを拾ってくる、真剣味もなく繰り返し書いてくる、それらすべては、真実の追究ではなく、ただただ、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山の忌まわしき因業と症状であります。
 
 
*ファルコン告発
創価学会や、幸福の科学で経験したことの中には、なかなか文字にしにくいような事柄も、たくさんあります。イエス様は、
「さばくな、さばかれないためである」
と言われましたので、そうしたことなどはすべて、神様におゆだねしたいと思います。 
 」
ファルコン告発では、小澤氏がHS時代のことをあれこれ言わない理由について語られていたのを思い出す。
 
ファルコンというのはHNで、HSを批判した個人のようです。小澤氏というのは、元HSの幹部らしいですが、よく知りませんが、創価学会 → 幸福の科学HS → キリスト教と、目まぐるしい人生を送った人のようです。安穏として人をバカにする楽山とは対照的です。
 
このように、公表するにあたっての説明が何もない、というのが、楽山の記事の特徴です。罪悪感や羞恥心などの、高等感情の鈍麻によって、気配りもないのでしょう。恐らく感受性も乏しく、それこそ、活字のような型に嵌った精神で、合う合わないだけで結論するような偏見の人だと思います。
 
「さばくな」という聖書のキリストの教えは、カルトが、他者に、批判するな、という言い分のために、悪用されやすい聖句です。ここで、楽山が言っているのも、似たようなものでしょう。裁くことではなく、人間同士が、議論し、批判し、弁明することが、信じることの追求と学習が可能になります。
 
言論において、批判を許容する真面目な交流がなければ、教祖気取りの自己満悦か、言論は社交に堕して、真実追求など全然できなくなります。元幹部のことを書くのは何故でしょう。アンチは見せかけで、実際は、俺がいちばん・・と言いたいのでしょうか。
 
 
*原氏
ところで、原氏について検索したところでは、今もスピリチュアルな方面での活動をしているようではあるが、プロフィールには、幸福の科学も、大川隆法の名前も見当たらないようだ。高橋信次については恩師として多く語っていることと比べると、その違いに驚かされる。
教団との取り決めがあるために沈黙しているのか、個人的に思うところがあって伏せているのか、それともほかに理由があるのか、判然としないが、何か深い事情がありそうではある。
 
楽山が、この記事を通して、次から次に、知らない名前をあげるのは、煙に巻くつもりでしょうか。誰がどうした、という話だけになっている楽山です。「驚かされる」「何か深い事情がありそう」などと、結論のない表現も、いい加減にしてほしいのですが、楽山は、平気なのです。
 
それが、病質というものでしょう。楽山は、責任ある主張の出来ない人であります。反省・修正・責任感・直感・推敲・考察などといった言論のセンスが、自己愛性人格障害のために育たず、人格も鈍感になり、論旨がまとまらなくなってゆくのでしょう。
 
 
*期待
いろいろ難しいこともあるだろうけれども、元幹部には、できれば当時のことを率直に語ってほしいものだ。日々の平穏な生活を大事に思えば、口が重くなるのも致し方ないのではあるが、当時の本当の事情を知ることで救われる元会員、および現役会員とその家族は大勢いるだろうと思うので。
 
楽山は、元幹部に対して何かを勧め促すような器量が自分にあると思っているようです。実際は、反省せず、責任を負わず、思い付きで、いい加減なことを言い、それで、まともぶっている楽山は、ただ、ひたすら精神病理の袋小路を徘徊しているだけです。
 
誰からも信頼されていないことを、言葉でごまかして、ヒーロー気取りでいたいのでしょう。人間、堕ちると、あるいは、至らないと、こうも卑しくなるものなのでしょうか。取るに足らない楽山の、中身のない背伸びが続いています。楽山は、関わる人も集団も、結局、裏切るでしょう。病質の宿命でしょう。
 
何も負うことのできない人間が、不都合を無視することで、万能を得たかのように批判されても批判されても、自己正当化に明け暮れて、とうとう、自分の意見など、何も見えなくなって、何も成り立たなくなって、人の意見ばかり、貪っているようです。
 
 
 
評論する亡霊

評論する亡霊
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月31日、再録+加筆)
 
貪る(むさぼる)
 
 
 
  哀歌・性
 
想いがうまく伝わらなかったり
想いが独り善がりに伝わりすぎたり
あるいは些細なことから
勘繰(かんぐ)り
疑い
妬(ねた)み
嫉(そね)み
ときに怒ってしまう
人間の性(さが)であろうか
そうなってしまう人間同士の
関わりというものが
哀しいね そんな
哀しいことばかりではないのだけれど
ただでさえ己(おのれ)の業(ごう)や罪の
重さに宿命のように
押し潰されそうなのに
だから もちろん
露骨な悪意を向けられたときには
Fight Fright
or Flight
抗(あらが)うか戦(おのの)き
竦(すく)むか逃げるか
することになるけれど
そうでない限り
本物か偽物か分からないと
疑う性を片隅に抱えながら
どんなちっぽけな出会いも
たとえイミテーションでも
込められたものは
とても壊れやすいかもしれないから
小さな宝石として大切に
そっと扱わなければいけないんだ
あるいは些細なことから
解(ほぐ)れていくまで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。人間以上だと思っているのか、自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。

 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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昨日から、デタラメなポップアップの広告が出て来て、×を押しても消えません。ウイルスか荒らしでしょう。楽山でしょうか。ついに、あからさまな犯罪者になったのでしょうか。やはり、サイコパスなのでしょうか。スクショ画像を添えておきます。作業画面を妨害しています。犯罪者楽山と呼ぶことになりそうです。
 
荒らしか22022-12-30_22-34-44  (2)

荒らしか2022-12-30_22-34-44  (1)


 荒らしか32022-12-30_22-38-52

 
  楽山の詭弁と狙い
 
 論点整理(人の心がわからない)
 2022年03月24日
  を批判。
 
 
罪悪感の無い楽山は、何も言えないときでも、何か言って、反論したことに満悦します。引用も、私は忘れているのをよいことに、自分に都合のよいことばかり引用してきます。荒んだ心の形骸に、身をゆだねると、さわやかさを微塵も含まない陰険な企みに生きることになるのでしょう。
 
今の問題を語れず、反論も出来ない楽山は、4年ほど前の私のライブドアブログのコメント欄を掘り出してきて問題があると言いたいようです。一種の逃避ですが、楽山としては、記憶が薄らいで曖昧なところしか、恣意的な解釈が通らないからでしょう。
 
「>・・<」は楽山、
「>>・・<<」は、シャロームshalomです。
 
 
*自己中
st氏は、楽山は人の心がわからない、共感ができないと繰り返し書いている。
でも、st氏は過去にこんな問答をしている。
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。
<<
 
楽山との関わりが続くと、このような疲労、混乱から、人格破壊のような結末になること、以前から書いていますが、楽山は、以前から、自分に向けられることを、こっちに向けてくるという、卑怯な手段を取ってきます。楽山のように底まで汚くならないと、このような悪だくみは出来ないでしょう。
 
 
>>
今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。stさん自身の宗教記事の初めにコメントを書いておられます。医師免許を持ちながら、医師を続けることができなかったことも、そうしたことはおそらくくstさんの個人的な背景に起因している考え方、生き方ではないかと私は思います。
<<
 
私は完璧な人間ではありません。偽牧師シャロームは、私の個人情報をバラして、おとしめることで、退かせようとしています。こういうのは、よほど悪意に満ちていないと出来ないことですが、楽山が、よく使う方法でもあります。底意地の腐ったシャロームのコメント、楽山の鬼畜の引用です。
 
 
>>
stさんは本来他の人と面と向かえば話すこともできないと書いておられますが、パソコンの普及によってブログはそんなstさんにとって、言葉や思いのたけを思いっきり吐き出す自由な時間、生き方を与えてくれたのでしょう。
<<
 
シャロームは、私の対人緊張症を、あげつらって、おとしめています。こういう人です。それを、悪意の楽山が、また掘りだして引用してきます。こういう人です。成りすましの可能性が高くなります。人間の情感を持たず、丁寧語で、ごまかしても、こういうところに、獣性は表れてきます。
 
頭も心も整理できない楽山は、人に向かって、思想や宗教について、話す理路を持たない人物です。にもかかわらず、ネットだからと、無責任と無反省で言いたいように言って悦に入り、他者を、どんどん、おとしめて、優越感を感じようとします。とっくに退場処分になってもよい人です。
 
 
>>
そのブログでの自分の自由な生き方、考え方が否定されるような考えには鬱積された怒りと批判がとどまることなく大量に吐き出され、ありとあらゆる批判、否定、攻撃となるようです。
2018/11/4(日) 午前 11:40[ shalom ] 
<<
 
冷静に書いているように見えますが、シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」と書いたことで、バレました。前にも書いたことです。楽山が、今も、シャロームの言を引用するところに、楽山の病質が表れています。楽山による成りすましも疑っています。
 
 
>>
一旦批判が始まると相手が弱み、謝罪を示すまでとどまることはないようです。それをもって悔い改めだと考えておられるようです。
<<
 
論争になると、楽山は、際限なく、理路を混乱させて、雑言を浴びせます。そして、相手が参って疲労を表すと「疲れたんじゃないですか」と、ねぎらいの芝居をします。得意技のようです。楽山は、理路を崩すのが得意で、理路を組み立てることは出来ません。まともな議論など、したことはないのです。
 
だから、否定を言い、次は、肯定を言って、軸がないのに、それをもって、責任問題は生じないなどと言ってのけます。議論を、まるで理解していない証拠です。楽山とは、戯れにも、試験的にも、議論しようなどと思ってはいけません。楽山の議論は、いつも、罠(わな)なのです。
 
なお、謝罪は期待していません。それができる人とは思っていないからです。また、二人が謝罪しても、信頼度ゼロだから、本気として受け取ることは出来ません。もはや、早くネットから、いなくなってほしい二人であります。全否定される前に改めるべきでしたが、それだけはしない楽山です。
 
 
>>
自由さんはstさんの良き理解者になることができるかもしれませんね。わかりませんが。時間がある時、stさん自身で書かれた記事を日記などほかの記事もよく読んでみられるといいですね。
2018/11/4(日) 午前 11:45[ shalom ]
<<
 
楽山の冷静、シャロームの優しさ、いずれも、芝居です。楽山一人の成りすましも疑っています。本性は、罪悪感の無いサイコパスです。ゆえに、何を言われても、自分を責めることなく、反省することなく、何事もなかったかのように平気でいられるのです。高等感情が、無いのです。
 
 
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。
<<
 
Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。こういう人は、楽山やシャロームと付き合ってはいけません。楽山とシャロームには、いやらしい善人言葉を見せかけにして、言論者からは、ほど遠い卑怯さが、見られます。気づくまで、時間がかかったということです。
 
 
(当時の私のコメント)
誰のことでしょう。Vさんのことでしょうか。彼とは、物別れに終わって、ずいぶん経ちます。Vさんがやったことは、シャロームが間違っているということが、Vさんという人は哲学者なので分かるはずなのに、シャロームに大事なところで調子合わせをして、その間、私のコメントを隠したことです。そういう大事なところで逃げる行為は、3度目だったので、縁を切りました。
2018/11/4(日) 午後 1:27st5402jp
 
Vさんは、哲学者としての実質を持っていたようです。楽山とシャロームは、同一成りすましかもしれないが、共通しているのは、言論の、いろはも知らないということです。まるで理路になっていません。だから話を逸らして、迷路に誘導し、混乱させてくるのです。
 
楽山は、自己正当と他罰性の前提に立って、悪口だけを言い、根拠を示せません。ゆえに、あの人もこうだった、攻撃してくる、などと、平気で言えるのです。負の宣伝、プロパガンダに過ぎません。議論の実質には何も触れていません。
 
私は、いちいち、過去記事やコメントを掘り出すことはしていませんが、楽山は、利用できるものは何でも利用~悪用します。今の、最近の、無反省、無責任、自己中の指摘には、何も答えたことがないのです。この世の悪の卑怯な偽善性を体現しています。
 
 
st氏は、自分のせいで病的状態にまで追い込まれた人がいたと知らされても、一言の詫びもなく、自己弁護をするばかりである。
 
シャロームと楽山は、一方的に私のせいにしています。かつ、真っ当な説明も弁明も出来ません。手段を選ばず自己弁護に終始します。高等感情の無い病質だからできることです。これからも基本的に変わらないでしょう。自分の都合だけで、おとしめに利用しますから、決して相手にしないでください。
 
 
論争中の相手に対して厳しくなるならともかく、すでに交流が絶えて久しい人に対しても、「言い過ぎた」「申し訳なかった」の一言もないというのは、まったくどうかしてる。
こういう事例をみると、「共感がない」「人の心がわからない」というのは、st氏の投影、自己紹介だと判断せざるを得ない。
 
論争中の相手にこそ、間違ったら、訂正して「言い過ぎた」「申し訳なかった」も言うべきです。信頼できない相手と分かった時点で、一切の、謝罪は、してはいけません。そして、そういう判断を裏切ることなく、楽山は、書くたびに、病質の悪性を露わにしてゆくのを、今、見ています。
 
 
*甘え
ところで、st氏は上のコメントで、V氏がシャローム氏を支持し、st氏から離れたことを責めているが、思い返してみれば、私にも同じようなことを言っていたのだった。st氏は、私がst氏ではなく、シャローム氏を支持したことを怒ってた。
 
Vさんの話をしても、Vさんの発言はありません。Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。シャロームと楽山については、シャロームは約10年前に、楽山は3年余り前に、とんでもない人と気づいて、真実の敵だと思っています。
 
 
こうしてみると、st氏がいう「共感がない」「人の心がわからない」というのは、結局、こういう意味なんだろう。
「どうしてシャロームの味方をするんだ。どうして私のことを分かってくれないんだ。あなたには人の心がわからないのか。人に共感するということができないのか」(要約)
これは甘ったれた考え方だが、孤立してる人がこう考えるのは已むを得ないことであり、可哀想なことではあると思う。
 
私が「どうして私のことを分かってくれないんだ」と思っていると?・・とても気持ち悪くて、吐き気がします。共感は、人間性の最も大切な心ですが、楽山には、自己主張に聞こえるとは・・人間性の欠けた病質者らしい感じ方です。楽山には、共感ということを直観的に理解する感性がないのです。
 
共感が直観的に分からず、楽山は、自己中の自己愛によるご贔屓を求めること・・だと思っているのでしょうか。小学校へ行きなさい・・と言ったほうがよさそうです。誰も、楽山のような変質者には、卒業証書は与えないでしょう。学ばなかった報いが、色濃く表れています。
 
楽山のように人の心が分からない者は、表面的な言葉で、人を騙せると思っています。私は、それを批判しています。楽山を変えるためではなく、誰かが間違って交流することのないためです。社交では分かりません。このように文脈もなく悪口の当てつけになる劣悪さから臭気のように暗示されます。
 
楽山が、シャロームのような偽牧師に味方すれば、仲間だろう、同類だろう、くらいのことは考えるわけです。その判断は、今も変わりません。楽山は、さわやかさというものが全くない、とても気持ちの悪い男です。いつまで腐れ続けて、悪臭を放ち続けるのでしょう。
 
ライブドアには、シャロームのいちゃもんコメントがあり、私は、それも批判しています。もうだいぶ前のことです。記事「楽山の三文芝居」HNは、名無しの猫、シャロームであることは、文章の表面だけ丁寧な筆致から、指摘しても、違うと否定しないことから、明らかなのです。
のコメント欄
楽山とシャロームの、憎悪は、増悪するようです。汚物を見るようで、見苦しい限りです。
 
楽山は、いくら批判しても、理路を理解できず、情緒を受け取れないので、不都合に対する敵意だけで、平気で、記憶が薄くなっている過去の文章をネタにして、詭弁を弄し曖昧な迷路に誘導しようとしてきます。良心の節操が皆無の楽山です。一般読者が楽山に近づくことのないように批判しています。
 
 
自己満足に過ぎないと思いますが、また、楽山の粗製乱造の記事が、多量にアップされているようです。断末魔だと思います。量で優っても、ずうっと質が最悪の楽山です。誰も見ないことを願って止みません。常識も、見境も、なくなってきたのでしょう。前と同様、私も、全部を読むことはしません。
 
こんなに書いたぞ、全部見てみろ・・という楽山の自己満悦が、拙劣な理路と、鈍い心を押し切って、書きまくる衝動に打ち込ませています。悪い病人です。誰も信頼しないでください。関わると、とばっちりを食らいます。結局は、誰からも信頼されることはないのです。
 
 
無知なる闇

無知なる闇
 
 
(2022年03月27日)
 
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人道から外れ続ける楽山は、人間性を、元々知らないか、なくしたのでしょう。記事に書いたように、共感が分からなければ、愛も分かるはずはありません。楽山に近づく特に女性は要注意です。楽山は、知らない、分からない、理解できない・・ということが、病質者を通して、もたらす災いの資料です。
 
 
 
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  楽山こそこそと悪口
 
 st氏から粘着されてます。
 楽山日記(a)2022-03-17
 
 
今回、楽山は、アメブロのほうに書いていますが、どういう基準で決めているのでしょう。こそこそと逃げ隠れしながら、自業自得が招いた居心地の悪さを、私に「粘着されて」いると言って、自分は被害者、こちらが加害者という決めつけで、憂さ晴らししたいようです。反省だけはしない楽山です。
 
コメント引用は、画像になっているので、省略します。ヤフーブログ時代のコメントですし、楽山に都合のよいものしか載せていないようだから、今も、楽山自身が、通らない一方的な自己正当化をして、訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと証明しているわけです。
 
*3年
 st氏が、私に粘着してくるようになってから3年が過ぎた。
 この状態は、まだまだ続きそうなので、ここらで、ことの発端について書いておこう。
 
批判を粘着としか受け取れない精神の貧困が固定している楽山です。3年批判しても、何年批判しても、変わらないだろうということは、最初の数か月で分かっていたことです。誰も、精神を傷つける病質者の楽山に関わらないように、邪悪な楽山の情報を敷衍(ふえん)するために、批判しています。
 
*挨拶するな
まずst氏が、私に粘着しはじめた切っ掛けは、私がシャローム氏と話をしたからだった。
st氏はシャローム氏を敵視し、糾弾していたので、そんなシャローム氏と話をする私のことが許せなかったらしい。(自由=楽山です)
 
楽山は、シャロームshalomと話をしたのではなく、シャロームに賛同したのです。シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言で、バレたので、約10年批判して、今は所在不明です。楽山、シャローム、易坊の3人の、楽山による成りすましも疑っています。
 
*アドラー心理学
次に私は、アドラー心理学に関連して、「人は人、自分は自分」という記事を書いたのだが、これがst氏の逆鱗に触れたのだった。
 この記事内容は、シャローム氏の持論と重なるところがあり、そこが気に入らなかったようだ。
 
「人は人、自分は自分」は、節操のある大人について成り立ちますが、楽山のように、反省せず、責任を負わず、詭弁を弄し、平気で嘘を吐くような病質者には、決して成り立つことはありません。加えて、今回も同じクレームしか言えない楽山は、理解力が病質のために鈍麻して学習と成長がありません。
 
*正月
 決定的だったのは、2019年の正月だった。シャローム氏の挨拶に返事をしたら、シャロームの仲間だと糾弾された。
 
実際、シャロームに賛同したのだから、シャロームの仲間だという判断になるのは当然です。あるいは、楽山の成りすましかもしれません。今までも、多数のHNを使って、人をだまし、おとしめ、荒らしてくることで満悦するのが、楽山の趣味のようです。とても卑怯で汚い男です。
 
*モラハラ?
この後は、何を言っても否定される状態になった。
 
楽山は、反省して改めることもないので、楽山の悪意に満ちた嘘と詭弁を批判して、楽山に近づかないように、読者にアピールすることが必要です。何度も書いてきたことですが、楽山は、被害者意識に凝り固まっていることが分かります。今に始まったことではないのです。
 
「女性ですか」という質問に答えたら、それは「明確な質問ではなく、疑問です」と怒られる始末。
以上。これが、st氏から、つきまといを受けるようになった理由である。
 
「女性ですか」・・これは、覚えていませんし、意味が分かりません。楽山は、分かるように書くことが大の苦手で、いつも、曖昧にしか書けません。それを、ボンヤリ言語と呼んでいます。何度も何度も、同じことを言ってきます。大事なことは、反省して改めるか、退くことです。
 
*付記
ちなみに、この記事はツイッターなどに書いたことを補筆修正したものである。
また、ここで紹介した会話はヤフーブログのサービス終了とともに消されてしまったのだが、その内容は以下に保存したので、興味のある方は御覧ください。
 
どう「補筆修正」したのでしょう。詳しくもなっていないし、説明にもなっていないし、分かりやすくもなっていないし、根拠もなくて、いつもの悪口に過ぎません。最近は、ほぼ同じ不平不満を繰り返すだけになっています。
 
いくら保存して、ねちねちと繰り返し書いてきても、楽山が、自身の問題を認識せず、いちゃもんや文句ばかり書いてきた履歴だけが表れてきます。まだ気づかないようです。これで、反論のつもりなら笑止です。楽山の粘着性による繰り言に過ぎません。
 
自分に当てはまる「粘着」などの悪口を、こちらに向けてくるのも、以前からです。同じことばかり書いてきて、進歩がないのも、病質によるものでしょう。誰も、関わってはいけません。近づいてはいけません。楽山は、危険物、害毒、疲労と徒労と人格破壊の病原の作用しか持っていません。
 
 
陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ

陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ
 
 
(2022年03月18日)
 
 
 
  影と陰
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見(もくろみ)は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠(わく)に括(くく)られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らに纏(まつ)わる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  ずっと・冬から春へ
 
景色はまだ冬枯れ
空は霞(かす)んで
でも今日は暖かいからと
あまり気が乗らないのに
バイクに乗って
春の陽気の散漫な光の中を
冬の陰気な無表情の顔が走っていた
鼻水が少し出てきた
冬なのか春なのかと
風はずっと揺さぶり続けていたから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
反省が「難しい」と言う楽山は、ときに「反省。とほほ」と書きますが、その前後で何も変わっていないことで、また「とほほ」のマンガのような軽さから、嘘だとバレてきました。自己正当化の保身のために苦情を並べても無駄なのです。被害者芝居も無駄なのです。罪にも恥にも気づかない楽山です。
 
 
 
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