ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:言葉

 
  信仰と教義と学問そして思考3
    2013年03月13日を再録+必要なら修正
 
 
コメントの日付は省略します。ずいぶん昔の、ヤフーブログ時代の、今では見つからないブログ「日常×非日常」の記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから編集を加えて記事にしています。
 
 「信仰をなくす(必要性)」について
 
信仰、さらには宗教というと、人間としての共感以外にも、余計なものが着いてきてしまうことがあります。「信仰をなくす」は、信仰がなければそもそも言う必然のないことです。信仰と思っているものの中の、余計なものを削ぎ落とすか、少なくとも、区別することが必要です。
 
 
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
 
これが端的に表していると思うのですが、「信仰をなくす」必要性を考えることが、既に何らかの教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。つまり、言葉だけを固めるだけでは、なくさなくていい信仰を明らかにすることには、近づくことさえ困難になります。
 
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、それは、キリストが、実践したことです。なのに、慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであるのに「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
 
一人一人違う信仰を、言葉で一致させることは不可能です。厳密には言葉も一人一人違うからです。大事なことは、キリストに救われた人間の心を、感じ取り、考えることでしょう。救われたのは、教条に専念した人ではなく、そういう人に軽蔑される悲しい人々だったということです。
 
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに、長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。この場合「なぜ神は・・」は「神様、分かりません!」という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、「なぜ神は・・」を神義「論」として答えを得られるという考え方がおかしいのです。
 
教義、教理、信条は、信仰のヒントとなる言葉であります。大事なのは、信仰が生まれる土の器、という比喩で表された信仰の心なのです。信仰は、心以外にはないからです。
 
かつて、偽牧師シャロームshalom は、心のどこを探しても信仰はないと言っていました。土の器という言葉から、何か魔法の器があり、魔法のような信仰?を受け取るつもりなのでしょう。人間離れの偽善者は、そういうところまで、無理解を魔法に置き換える害毒となります。
 
 
 「クレド」について
 
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。神という御方として・・選択肢が他にない人においては「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして、私にもあります。祈り嘆き叫ぶ相手として・・であります。
 
いつでもどこでも正しく通用するかのよう語られる「信条」は、そのものが言葉である以上、実感できるように心と、隠された導きを要することです。最悪なのは、"分かっている" と言うために、導きを決めつけて思い込むことです。人は、神の関わる信仰を、完全には知りえません。
 
信条を、信仰そのもののように語ることは、批判対象になるだけでしょう。信仰は、形無きものです。神と、神の賜物は、推測や想像は可能でも、人が確定することは出来ず、ある時、判断するだけであり、不可知と弁えるべきことです。聖書と体験から、成長してゆくのが、人の信仰です。
 
 
「教義的信条という類のものは信仰に含まれない」
 というコメントについて
 
本当に含まれていないでしょうか。神学を知らない私でさえ含まれていないとは言えないから自己も含めて批判したいのです。教義的であっても信条は、信仰そのものではなく、忘れないほうがよいヒントとしての道しるべとしての役割を持っていると思います。言葉は、そういうものです。
 
ヒントは、ヒントとして、大事にすればよいのですが、若き日より教会などで教えられたものに無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものやROM回路的思考のような言葉が、無意識にこびりついていて、先入観のように、いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
 
 
 「神学批判」という批判コメントについて
 
少なくとも私はよく知らない神学を否定することは出来ません。私は、人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないと思っています。
 
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、神の関わることだから信仰の整合性は、人の側には完全には解明されません。人が信仰の整合性を学問に求めることは出来ないと思います。無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足そして自分信仰への固着になります。
 
信条について・・神の全知全能を信じるかと問われれば、私は信じると答えるでしょう。しかし神についても、全知全能についても、全知でも全能でもない私という人は理解できません。神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
 
つまり「分かりやすいとか分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、信仰は、神の全知全能を信じるという言葉だけでは成り立ちません。それは、言葉としての出発点に過ぎないのです。
 
学問は、失礼ながら興味に始まっているような気がします。
 
信仰は、私には、まさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。
 
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないでしょうか。モノローグで終わりたければ、それでよくても、ダイアローグにしたい私には耐えられない」
 
 
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
 
なんとなく分かるような気がするのは、私は学者ではないので「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。ですから専門用語をいっぱい使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
 
楽山の言うことを受け入れても、何の役にも立ちません。詭弁によって理路が混乱し、曖昧さによって感性が鈍麻するだけです。そして、神経~精神が疲労し、人格そのものが鈍化してゆき、最終的には、人格が破壊されて、楽山と同じようなボンヤリ人間になってしまうでしょう。
 
「日常×非日常」ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について私も時々コメントを入れてきました。
 
さて信仰的思考、ここでは信仰について語るときはどうかというと、やはり、日常語レベルで、ある程度の整合性が必要になります。論理的整合性というと難しくなりますが、支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しやごり押しであってもいけない、ということです。
 
信仰者としての聞く態度と思考には、賛成意見も反対意見もあるわけですから整合性というか説得力というか、根拠や筋道は必要になります。詭弁や思い込み~妄想を除外する必要もあるでしょう。キリスト者の共感として、キリストの共感が聖書にしるされてあり、信仰者のキリストへの共感があります。
 
信仰は理屈ではないし、神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。しかし人の側の信仰の受け取り方は、人間性の問題です。人間性の問題である以上、信仰における人の姿勢や態度そして思考について、信仰者という人間の共感に基づくところの弁えは必ず問われるのです。
 
それらすべてに、決定的に、致命的に、不合格なのが、楽山と、シャローム、という、良心のないゆえに、罪悪感も、共感もなく、妄想的な決めつけと信条だけの異常者なのです。信仰を持たないだけではなく、神に逆らって、反キリスト思想を刷り込もうとする彼らに、関わってはいけません。
 
 ※
 
現実を生きる信仰は、決して超常を理解することでも信じ込むことでもありません。宗教と言えば超常という先入観を作ったのは、キリスト教と他の宗教そしてカルトの責任であります。宗教と信仰の、現実の人間との関係をずっと考えています。超常の理解力は人間にはない、ゆえに超常と呼ぶのです。
 
人間が生きるために必要なことが超常であるなら、人間は決して救われません。キリスト教はキリスト信仰によって、キリストと心貧しい人々の間に生まれた温もりと潤いによって始まっています。キリストの、人々への悲しみへの共感こそが、人間が生きることの源泉となっています。
 
超常奇跡ばかりを語る説教を信じてはいけません。人間が生きるのには、人間らしい悲しみの共感が必要です。言葉ではなく、生きる理由が絆として心にあり、共感と癒しが人生に同伴することが、キリスト信仰の賜物であります。キリストとともに・・というのは、具体的には聖書とともに・・ということです。
 
超常は神のものです。まるで我がもののように超常を語る口に惑わされないでください。そのために、人には手に負えない、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、・・という言葉が、神を表す言葉として用意されました。超常に近づくのが信仰ではありません。祈りとともに生きるのが信仰です。
 
 
整合性

整合性
 
 
(2013年)
(2021年)
(2022年12月30日、再録+加筆)
 
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  甘栗
 
甘栗を噛む
ぱりっと音がする
指で殻を割る
ころりと栗の実が顔を出す
今度はうまくいったと口に放り込む
手に残った小さな殻
ふと内側を覗(のぞ)く
しばらく見入ってしまう
一粒の小さな実を結ぶということ
 
 
  祈り・潜熱の循環
 
冷たい熱に
まだ温もりがあるならば祝福を
 
真空にエネルギーがあるように
虚空には潜熱がある
保存則を守りながら
やがて諦観となって灯火を揺らす
諦めとしての灯火と
諦めと裏腹な灯火と
どちらが燃え上がるでもなく
対をなして虚空を漂う
いつか再び温もりとしてこの胸に
還ることがあるでしょうか
 
クリスマスに何のお手伝いもできず
凍りついた無為のまま
震えて過ごした冷たい熱に
まだ生きて祝福を賜るならば温もりを
 
内に秘めた温もりを
人々の間に灯す術を知らず
潜熱として閉じ込めて
冷たい空へ解き放つ
冷たい空は冷たいままだ
身は熱を奪われてますます冷たい
何も伝わらなかった
何も伝えることができなかった
と次の潜熱が疼き始める
 
 
  アノニマス
 
気がつくと群れの中にいた
仕事をしているらしくもあり整然として
そのくせ働いたときの充足感も
疲労さえもなかった
そこではお互い顔を見ることも
肉声を聞くこともなかった
ある者は快く語り
ある者は苦悩をのぞかせ
ある者は淡々と語った
首のない会議
しかしその集まりは匿名ではなかった
それぞれが仮の名であれ名乗り
責めがあれば負う覚悟さえ示していたのだ
肉声を聞こうとし語ろうとし
高めようとする姿勢
それがすべての始まりであった
もどかしく伝えようとして伝わらないもの
もどかしさゆえに語ろうとしていた
それが終わりのすべてであったかもしれない
ある者はうなだれて去り
ある者は再開を期して帰っていった
 
気がつくと独り疲労があった
誰のために、と
ふと思った何のために
切られることもなく選ぶこともせず
自分を切り刻んで見せるだけで
高められる何があろうか
失ってみれば確かにその通りであった
旅立たせる翼はなくても
そばだたせる耳ぐらいは欲しかった
それだけはどうしても
 
ここで完ぺきなほどに匿名の
独りの声は宙にかき消え
磨いてきたつもりの刃に
ぽつぽつと浮いている錆を見つめていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のしてきたことは、「人間の性」で「自分もそんな風」という人間共通のことでは決してないわけです。楽山の固有の罪と偽善です。楽山は、空しい詭弁の言い逃れをしています。多くの人を、無駄に疲れさせ、だましてきたのは、罪悪感のない病質です。
 
良心のある人ならば、こうはなりたくないと思うような人間に、楽山は、なっているのです。言葉だけ見ても、バレていますし、これからもバレてゆきます。もはや、いくら、良さそうな言葉を見繕って並べても、病質は、必ず表れてるでしょう。楽山の、一切が、詭弁という無駄なのです。
 
反キリストの楽山と、偽牧師シャロームは、同一の成りすましかもしれませんが、いずれにしても、ネットの匿名性を悪用して、宗教、思想、映画、霊能、などを、興味本位で書いて面白がっているだけの、荒らし体質の者たちだと思います。決して関わらないでください。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害:診断基準
 ハートクリニック こころのはなし
ハートクリニック こころのはなし
 
誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
 
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係すべきだ、と信じている。
過剰な賛美を求める。
特権階級(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)。
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
尊大で傲慢な行動、または態度。
 
 
 
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  考える信仰3
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
言葉の意味する概念や情緒が
誰にとっても完全一致するわけではありません。
同じ言葉でも、厳密には、
時と場合と人によって伝わる内容は異なります。
人間にとって言葉は
交流と理解のための暗号に過ぎないのです。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
感じることと考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、思い上がった背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
聖書は、絶対の神を伝え、ゆえに、
人間は絶対ではないことを伝えています。
これは、信仰の大きな目的であります。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして種々の異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょう。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争の中の信仰は、狂気とも言うべき残酷なものとなることがあります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで、社会のお邪魔にならない、影響力の乏しい人畜無害のような印象になることがありますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、生きて成長するための道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。ゆえに、信仰者は、試練に遭い、ときに、砕かれます。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。そして、何か言われると、聖書語を振り回して豪語するでしょう。これは信仰者の態度ではありません。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。神ではなく、自分の持っている神の概念を、神と呼んでいるのは、自分信仰です。大事なことは、訂正不能にしないことです。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること 共感すること

考えること 共感すること
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月28日、再録+加筆)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  イデオロギー3
  
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着の教条です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
イデオロギー(ウィキペディア)
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
教条は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それらだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
しかし
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、哀しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身
に気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、
正直でなかったら、飾ったら、
また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、神に対して、共感と人の言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者がいます。神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
祈りは、独りでするものです。集団の祈りは、何かのきっかけになることはありますが、大方、讃美歌と同じであり、人々は、讃美だけで生きられるものではないほどに、心に、しこりや、闇を、気づかぬうちに抱えています。本当の祈りは、故意に隠すことのないように、独りでしてください。
 
 
神に 人は

神に 人は
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月31日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
祈りは夜とともにあった
言葉は夜であった
光は夜のかたすみに
あやうい形で揺れていた
祈りは涙と親しく
いつしかお互いに拒んでいた
涙は形にならなかった
祈りはさまざまに否みながら
光となって揺れていた
光は言葉であった
それらすべてを包み込む
形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。自慢したいのでしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、一方的な決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分はバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想を語ることから、楽山には教祖願望があるように思われます。
 
神を、信じ過ぎてはいけないのではなく、自分の思い込みから訂正不能の心になってしまうのはカルトなのです。楽山は、無神教カルトとして訂正不能です。視野が広いつもりでいるようですが、信仰については、楽山に視野はありません。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の自己愛は、自分を大切に・・などという調和ではなく、自己絶対の訂正不能を招いている妄想であります。楽山が教祖になったら癒しも救いもあったものではないのです。何故なら、楽山は、自分の言ったことに責任を負う気が全くないからです。楽山の言には、方向も目標もないのです。
 
 
 
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  教条主義2
 
 
繰り返す決まり文句は、心の面倒を見ない。
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
そこにアクティブな波動がないからだ。
 
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。▷ dogmatism の訳語。
「教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表しています。偽善の多くが、教条主義の所産です。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪なのです。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られます。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、慢心し、人間の心を忘れていました。よって、キリストにとって最悪の敵となったのです。
 
多くの思いは言葉で表され、言葉は伝達のための暗号であります。つまり、ダイレクトに心を伝えているわけではないことを弁えておく必要があるでしょう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかであります。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになります。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってきます。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってきます。真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、努力目標であったりなど、当為と事実が混同している場合もあるのです。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいません。神を信じているという意志表示に過ぎない場合があります。神の偉大さを知って信じるのではありません。しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはあるというように、言葉による表現は、曖昧であることが多いです。
 
しかし、表現を変えてはいけないと思い込み、同じ言葉だから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてきます。そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいでしょう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともあります。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのです。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがあります。典型は、やはり、パリサイ人です。神の言葉と言っても、受け取る人間は人の言葉しか持ちません。
 
また、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山のように、浅い屁理屈をもてあそんで、人間に人生に必要なことを汲み取れず、深みもなく、共感もなく、慢心して、繰り言のように言い張るということもあります。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己満足の絶対化から、逆に、非人間的な言動が目立つようになります。論理性が、辻褄合わせになり、故意に合わせるために、的外れな理路になり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、詭弁となって無理を押し通して破綻してゆきます。
 
実際は、浅はかで不自然な言動となって表れます。思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくでしょう。教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆきます。
 
いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになります。そうして楽山のような反キリストの教条主義が生まれます。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたします。理路も情緒も、深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手や、さらには、神のせいにする特徴を持ちます。
 
楽山もそうですが、教条主義者は、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってきます。そして、屁理屈遊びで、相手を負かそうとするのです。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人ですが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような自他の人格の変容~破壊を来たしやすいでしょう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もありますが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきです。つまり、悪を隠して善に見せかけるという偽善者なのです。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いようです。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、被害者によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いであります。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
心の中身がない

心の中身がない
 
 
(2021年04月17日)
(2022年05月04日、再録+加筆)
 
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
  夏の朝
 
夏の朝まだ早く
外はまだ暗く
しかしぼんやりと夜明けの気配
まだ眠っている頭と心を
揺さぶるように告げるもの
 
もうすぐ朝だよ
すっかり明るくなった頃には
また汗と蒸し暑さの中で
悲鳴をあげる元気もなく
重たい体を持ち上げて
その時はっきり見えるものを
呪いたくなるだけだから
いま眠気の中に咲こうとしている朝に
力を抜いてご覧なさい
 
やがて暑くなる夏の日だって
都会から田舎まで
夢見る若者から老人まで
健やかな者だけでなく傷ついた者まで
等しく朝の予感を用意してくれている
 
ぼんやりと見ている目が
静かに受け取る機会を与えられた
明け方の涼しいひとときを
心の薄明かりのゆえに
ただの薄明かりに過ぎないかどうか
動かなくてもいい
力を抜いてご覧なさい
 
寝ていてもいい
起きてもいい
たとえ朝もやの
霧の
低い雲の
水滴の
みずみずしさに触れなくても
見えない日記はすでに記している
 
ただこのひとときが
その傷と苦悩の中で
許されたことを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の言うことは、とても幼稚な理屈で、かつ、とても曖昧なことが多いのに、そこに、詭弁を絡ませてくるから、冷静で柔和だと思って受け容れてしまう人が出てくるのです。そういう悪の実績があるのでしょう、楽山は、一人前の思想や宗教を語ったつもりになって、続けている嘘吐きとなっています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
英さんの話を読んで思い出したが、英さんは乱暴な発言が多いが、迷言もあるんだよね。たとえば、これとか↓
たぶん、東大での討論と、自衛隊駐屯地での割腹がごっちゃになったと思われる。
午後7:36 · 2022年5月3日
 
「乱暴」「迷言」「だよね」と、なじっておいて、相手の間違いを指摘しています。つまり、単なる記憶違いの指摘ではなく、傷つけて、おとしめたい、という病質からの悪意が表れています。楽山は、冷静を装いますが、人をバカにした態度は、表れてしまうのです。それが生き甲斐だからでしょう。
 
私は、楽山に厳しい批判を向けていますが、そこにあるのは、バカにしたいのではなく、真剣に怒っているからです。ゆえにこそ、感情を抑制して表現を考えます。おとしめたいのではなく、楽山には、堕ちてゆく、かつ、他者を落としてゆく病質があるという判断に基づいています。
 
 
 
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  心の波動3
   (過去記事再録+)
 
 
心の波動は、心の活性と呼んでもいいと思います。
 
心を表し伝えるために言葉を使います。しかし、私たち人間は罪深いゆえに、人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く、心を、いつも、間違いなく正確に言葉にすることは出来ません。ゆえに、伝えたつもりで伝わらない、分かったつもりで分かっていない、ということが起こります。
 
心を表すために対応させている言葉は、それこそ人それぞれの学習経過により、微妙に、時に、著しく、人によって違うものを伝えてしまい、誤解を生じ曲解に至ることがあります。人間も、人間の言葉も、絶対ではないのです。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに、言葉を確定することによって言葉に対応させているつもりの心が確定されるものではないのです。言葉は心を伝えるための暗号であり、言葉で対応するための心は、喩えるなら波動のようなものなのでしょう。
 
固定した形を持つ言葉と、揺れ動く現象である波動を持つ心、一対一の対応などありようがないのです。心の波は振幅を持っていて、言葉および感覚可能な媒体によって、あるとき感動という大きな波を生じても、別の時には振幅は減衰しています。
 
感動は、いつも新しいものであり、一方、過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず、感動そのものではないことがあります。ゆえに、感動を伴うべきこと、例えば信仰において、言葉としての信条を唱えるのは、記憶を強化するが、感動を強化しません。ゆえに、信仰を強化しません。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦しなどの、信仰にとって、なくてはならないものは、言葉の反復によっては強化されないのです。しかし、私たちは、信仰を表すのに言葉しか持ちません。言葉に関わることで、信仰を新たにすることについて、聖書は、端的に述べています。"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めるためには、特に祈る時には、訂正不能ではない反省する心と学習意欲が必要です。悔い改めることは、求道者が信仰者になる時だけではなく、信仰者の信仰生活の主軸であります。何故なら、それは祈りに他ならないからです。
 
私たちは地上で完全になることはありません。ということは、気づかぬうちに罪を犯しているということです。だから、私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり、それこそが悔い改めです。悔い改めによって反省して改めて学習することが、信仰の成長なのです。
 
私たち信仰者は悟ってなどいません。完全なる神の前には、いつも恥ずかしい存在なのであり、その恥じらいを敬虔と呼びます。恥を知らない者になってはいけない。言葉に頼るしかない祈りも不完全であり、神の前には恥ずかしい言葉なのです。
 
人の祈りは、完全な祈りではありません。しかし、いかに不完全で恥ずかしくても、繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは、私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ、神は、寛容をもって、神の民である私たちが正直に祈るのを、いつも待っておられるからです。
 
正直な祈りは人から神への唯一の音信であります。
生ける神への、生ける人からの、唯一の音信であります。
 
正直な祈りを覚えることが信仰生活の初めであり始めなのです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
※ 夥しい(おびただしい)
 
 
 
心の波動

心の波動
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
(2021年02月23日、再録+)
(2022年02月27日、再録+)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートです
 
楽山は、また、人のツイートを悪用して、自分の破綻した人格を、不相応に、高く尊く見せようとしてきます。届きようもない人の話に飛びついて、まるで、自分であるかのように、同列であるかのように、努力と才能の人を装います。楽山に努力と才能の跡が見られたことはありません。
 
楽山は、いつも、我が身を反省せずに、楽な山の上から見当違いの物を言っているだけなのです。この楽山の高慢に付き合うことだけはしないでほしいと切に思います。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる。―アルベルト・アインシュタイン
午後9:22 · 2021年2月21日·twittbot.net
 
楽山は、他者の意見をリツイートして、自分は「無知に気づ」いていると言いたいようですが、ならば、上から目線で物を言ったり、人の意見を無視したりは出来ないはずなのです。しかも、アインシュタインです。楽山のような減らず口の怠け者が引用するのに最も相応しくない人物です。
 
学ぶ気もなく人のことばかり、評論家気取りで文句言ったり、笑ったりしているのが、楽山です。さらに、自分の無知と無恥にいちばん気が付いていないのが、楽山です。わざとらしい丁寧語を使っても、無反省、無責任、無神経な、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は隠せません。
 
このように、楽山は、他者を利用して "謙虚アピール" をしてきますが、実際は、自己愛の先入観と偏見で、訂正不能に、同じことを繰り返し言ってくるだけなのです。そして、バランスが取れているつもりのようですが、それどころか、自分を改善しようとする動機さえ、まるで持たない人です。
 
バランスというより、動いたり変わったりする必要を感じない人です。無知に気づくというより、無知と無恥を、徳や柔和や謙虚や視野の広さと勘違いして訂正しない人です。そういう人ほど、自分とはスケールが甚だしく異なる有名人の言葉の引用に飛びつくのでしょう。全然、見習えていないのに。
 
楽山のように無反省・無責任・無神経の自己愛からは、人が自分を褒めているように見えるのでしょうか。読んでも何の糧(かて)にも参考にもならない文章を書き続けています。自分の非を認めない者は、ゆえに成長できない者は、他者に何かの良い影響を与えることなど出来ません。
 
固定した病質の精神から、都合のよいことだけを表し、都合の悪いことは無視して人のせいにするような、楽山の訂正不能は、関わる人に、結局、言い知れぬ徒労と疲労を与えるだけなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1.のコメント者は、楽山について、よく知っている人かもしれません。目上の、近親者か、あるいは、師に相当する人なのでしょうか。楽山が、削除しないのは、大事な人だからでしょうか、それとも、そういう約束か条件でもあったのでしょうか。
 
それにしても、この忠告を無視し続ける楽山の心境というのは、いったい、何なのでしょう。楽山の心底が、闇だと書きました。楽山は上のコメントを削除しない。しかし、楽山は、このコメントを見ながら、何も感じないでいられるのでしょうか。人間なら、信じられないことです。
 
 
 
過去記事のコメント欄などをコピペしてコピペして一度に多量の無駄に長い記事を書く楽山の精神と目的は何なのでしょう。楽山は、これが自分の集大成です・・とでも言いたいのでしょうか。焦点がなく、数と量の多さを誇示したいのでしょうか。
 
熱心さを買ってほしいのでしょうか。しかし楽山に情熱はありません。楽山には、正当な高等感情がないのです。ないものは伝わりません。楽山の異常人格が暴発することにうんざりするだけです。勝手であり、自由であり、楽なのかもしれないが、その間も、生きる時間が消費されてゆくのです。
 
読者も、生きる時間を有効に使いたいわけですから、恐らく、楽山のトンデモ衝動に付き合うことはないだろうと思います。異常人格がブレーキを失ってゆく症例となるけれど、そういう症例報告は、症例自身には、症状なのだから、治癒からは、どんどん遠ざかってゆく方向でしょう。
 
楽山は、陰性の感情に駆り立てられて自分を見失い衝動的となり、さらに、量で圧倒できると思っているのでしょうか。執着なのでしょうか。発作なのでしょうか。どれだけ多量に書いても、読者を考えない自己中と自己顕示欲だけが嫌味なほどに表れて、自ら節操のなさを、わざわざ公開している楽山です。
 
 
 
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