ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:詩篇

 
  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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  避け所2
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。
聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。
そして、神と人の違いと、キリストの人への洞察と共感が書かれています。
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。
しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。
キリストの共感は、人の心に響く共感であり、神の愛だからでしょう。
 
旧約聖書(口語訳)の詩篇から
全部ではないですが「避け所」という言葉を載せてみます。
 
 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
セラ:
(ネットより)
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神のほうを向きます。
仰ぐように見上げる人もいるだろうし、罪人らしく頭を垂れる人もいるでしょう。
 
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。
祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。
 
言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。
 
神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、
また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、
 
 なぜ、人は、
 
主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、
 
 ということを告白しないのでしょう。
 
聖書に書いてある完全なる神の性質は、
私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。
 
善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、
不完全な罪人である私たちは、
限られた能力によって判断し実行しているだけだということです。
 
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目が届きません。
私たち人間は、善も悪も、最後までたどることなど出来ません。
 
卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、
悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、
信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。
それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、
非力、ということだけではなく、
正しさを決めつけすぎているということです。
 
総ての、時空を、善悪と真偽を、支配する神に向かって、
私たちは、
人としての自らの感覚と感情と思慮で明らかであることだけをもって善悪と言っているのではないか。
 
あらゆることにおいて私たちの善悪と真偽の判断は不完全であります。
しかし、その判断に基づいて行動しています。
 
したがって、私たち信仰者は、
自分で思っている以上に、神に対して罪を犯していると思います。
 
罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、
心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、解放と癒し、ゆえに、時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。時々の祈りに答えて与えられるものであって、完全であるかのように人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。
 
神に対しては正直以外通用しないということは、言い換えれば、精いっぱいの正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの "神の前" なのです。
 
 
避け所

さけどころ
 
 
(2020年03月05日)
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
(2021年03月10日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
  もちろん避け所にはなりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ひなこ
@hinacoccoro
·3月8日
おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神がいると思いますか?
私自身にもこの恐怖心は刷り込まれていましたが、
「自分のこの気持ちは決して悪ではない。こんなことをする神が本物であるはずが無い」と結論付けるに至りました。
 
批判することで、嫌がらせをしてくる者はいます。それが楽山です。粘着性の習慣的恐怖を植え付けて言動を制御し、人格破壊を招く者です。
 
「おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神」はいないと思います。神の前に人が出来ることは、精いっぱい正直であることです。神は、その正直さを見て信仰の義を与える御方です。
 
しかし、そういう、正直を全く持っていないのが、楽山です。そんなことをする人が本物の批判者であるはずがない、という気持ちで、楽山を批判するに至っています。
 
>>
引用ツイート
napple
@napple71165698
 · 3月8日
返信先: @darknessZ96969さん
裏切ると阿鼻叫喚堕地獄への道避け難し、って何百何千回と唱えて信者は自分に刷り込んでますからね、相当怖いんだと思います。
午前9:44 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
<<
午前9:51 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
 
刷り込みは、本当に怖いです。それを平気でやってくるのが、楽山です。学習機能がないので、同じことを繰り返し言ってきます。そうして、相手を消耗させ、疲れさせるのが、楽山のやり方です。
 
しかし、楽山のうちには、既に地獄があり、楽山は、それを他者に広めようとします。楽山は、そういう魂胆を隠して、正義の味方を気取っているだけなのです。
 
なりふりかまわず、他者のツイートや、本などを、好き勝手に、都合のよいところだけ、汁をすするように引用し悪用して、自分の責任を逃れようとしています。リツイートもそうです。
 
 
楽山は、自分で書いてないからええじゃろ・・と考えるのでしょうか。どこまで、常識的思考が遅滞しているのでしょう。引用者が、引用するツイートを選択する時点で、既に、引用者の思想が表れているのです。当然、引用の責任が、引用者に問われることになります。
 
批判目的でなく、他者の意見を引用すれば、それは、賛同を意味します。ゆえに、自分の意見と同様に、責任が生じます。このことは、本からの引用でも、リツイートでも、同じです。さらに、引用には、賛同した引用の内容とともに、引用元に対する責任も伴います。
 
誰もが、引用コピーするときには、その責任を、当然のこととして、負いながら引用しているのです。その責任を負えるからです。楽山は、発言の責任を負わないために、負えないために、ツイート引用、即ち、リツイートをすれば、責任を免れて楽になるとでも思っているのでしょうか。
 
言論に、責任の逃げ道も避け所もないのです。楽山は、本からの引用や、リツイートなら、自分が書いたものじゃないからぁ・・という責任逃れの言い訳が成り立つと思っているのでしょうか。だとしたら、この愚かさは、驚きです。
 
 
(2021年03月10日)
 
 
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  楽な芝居2
 
 2020年01月25日
 「わたしの心は恐れない」(詩編27)
  楽山日記(LD) → 批判を再録+加筆。
  
 
シャロームの仲間であり、カルト宣伝者として、ねちねち書いてきた楽山ですが、しばらく、黙っていたかと思ったら、まとめて書いてきました。自分の悪をすっかり棚に上げて。
 
どんなときも、何を言われても、自分を真善美の立場に置くナルシストの典型的な自己宣伝の文章です。数々の失言とカルト贔屓(ひいき)を明らかにされても、なお、自己顕示欲が働いて、謙譲芝居付きの、詭弁と印象操作の、人生に何の実りももたらさない作文です。
 
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
聖書の詩編を通読したいと思いつつ、近頃は他のことばかりして読書を中断していたのではあるが、再び頁を開いてみたらすぐに良い言葉に出会えた。
ヤハウェはわが光、わが救い。
わたしは誰をか恐れよう。
ヤハウェはわが命の砦、
わたしは誰をかおじ恐れよう。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、pp.61-62)
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
自分はクリスチャンではないし、聖書の神を信仰しているのでもないが、それでもこの言葉を読むと心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。
ノンクリの自分でもこうなるということは、聖書には宗教の壁を超えた何かがあるということなのだろうか。こういうことをすぐに神の実在に結び付けることは躊躇されるけれども、自分とは全然関係ないだろう数千年前の外国で書かれた言葉が心にしみるというのは不思議と言えば不思議ではある。
 
以前から、無神論の本などで、キリスト教を揶揄し否定してきたのが楽山ですから、
 
心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する
 
・・これだけ、わざとらしい歯の浮くようなセリフを、平気で並べてくる楽山なのです。
 
真っ赤な嘘だと思います。あざとい・・。
 
楽山の文章は、いろいろ読んできましたが、楽山に、少年のような清々しさは皆無です。
 
 
 2020年01月25日
 キリスト教では輸血を禁ずることはない? (異端とカルト)
 
その宗教がカルトかどうかは、異端、異教かどうかで判定されないというのはよく分かる。もしそれが是とされるなら、A教の教義によって「B教は異端、異教であってカルトだ」といえば、B教の教義によって「A教は異端、異教であってカルトだ」ということも可能となる。
 
詭弁です。算術的論理による詭弁です。両方言うじゃないか、という言い分は、全く、どっちが正しいかを考えない理屈です。これを空論と言います。心ない者の言論の特徴なのです。
 
多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えれば、明らかなことがあります。反社会に結び付く思想が信条になっておれば、カルトとして批判するべきなのです。
 
そもそも、言論の自由には、責任が伴います。楽山は、自分の言ったことの責任を取ったことがありません。批判を無視して、さも道理であるように、楽山が書くことには、大方、的外れと嘘が付きまとってきました。
 
それを、私は今まで書いてきましたが、楽山には、"仏様の気持ちが分かるっぽい" 霊感?の自覚のわりに、人間としての感性がないので、組み立てられないのです。そして短絡した幼稚で単純な理屈を出して、結論を下しています。
 
そうなれば、各宗教がたがいにカルトと呼び合うことにもなり、そういう状況を一般からみたら宗教はすべてカルトだということにもなってしまいかねない。
 
楽山の言い分は、こういうことで終わるのです。では、楽山は、どうやってカルトかどうかを決めるのでしょう。楽山自身が、カルトだから、自己弁護しているに過ぎません。つまり、言い合いになるから、どれもカルトとは言えない、という幼稚に短絡した詭弁なのです。
 
やはりカルトかどうかは、特定の宗教教義による正邪判断ではなく、人権という視点から判断するのがもっとも公平であり、客観的だろう。個人的には人権なるものも一種の思想であり、宗教でもあると感ずるところもなきにしもあらずではあるが、少なくとも、特定の宗教教義による判断よりも普遍性、客観性どちらの面でも上であるのは間違いなかろう。
 
このことについては、前に、何度か、書いてきたのですが、読んでいないのでしょうか、それとも、気に入らないことは無視するというアドラー教にしたがっているのでしょうか、また、同じことを書いています。宗教気取りで、内容を見ないで、犯罪行為に及ぶまで待てと言うのでしょうか。
 
もう一度、上に書いたこと、反社会に結び付く思想が信条になっておればカルトなのです。
 
実際問題としては、自分の常識感覚や一般社会の基準から見て、異様な風袋、言動をする宗教団体をみれば、カルトだと感じてしまうわけではあるが、そこは相手の信教、表現の自由を尊重することとして、その団体がカルトかどうかの判断は、人権侵害や違法行為のあるなしを確認してからにすべきなのだろう。
 
人権侵害や違法行為のあるなし、というのは、逮捕できるか、裁判できるか、という基準であり、カルトの定義でも基準でもありません。
 
社会悪につながる邪悪な思想や言動を勧める教えはカルトです。つまり逮捕は出来ないが、批判は出来るということです。
 
このように、弁明できないのに、同じことを言ってくるのが、カルトの特徴であり、カルトである状況証拠となり、批判の動機を強める原因になってきたのです。楽山の体質は、紛れもなく、カルトです。ゆえに、カルトを擁護しているのです。
 
いつ読んでも恣意的な作為であり、清々しいところが、まるで感じられない楽山の作文です。
 
この手続きを怠ってしまうと、人権侵害をするカルトを批判しようとして人権侵害を犯してしまうという、まさにミイラ取りがミイラになったと言われるような事態に陥らないとも限らないし、ここはぜひとも注意が必要ではある。
 
人権侵害を犯してしまう、つまり、強制力のことでしょう。一見、道理のようなことを何度も言って刷り込もうとするのが、これも、カルトの特徴です。警察を見れば分かるように、反社会的行為に及ぶならば、人権は制限されて当たり前です。
 
シャロームは、明らかなカルトですし、最近は、"名無し"と名乗るようになって、荒らしの本性を表し、嫌がらせばかりして、馬脚を隠さなくなりました。
 
カルトは、違法行為に走る前日まで、カルトではなかったのでしょうか。楽山は、前から、カルトが、物を盗むか、だますか、人を殺してから、カルトと呼べと言っているのです。
 
反論も出来ないのに、また同じことを書いてくる楽山こそ、歩き出したカルトの亡霊であります。
 
楽山は、作為に満ちており、微塵の清々しさもありません。
 
 
 2020年01月26日
 心を悩ますな(詩編37)
 
 
*悩まず、苛々せずにいること
最近は、カルトについてあれこれ書くことが増えていたのだが、詩編を読んでいたら、こんな言葉があった。
悪をなす者のために心を悩ましたり、
不義を行う者のためにいらだったりしないように。
その人たちは草のようにたちまち枯れ
青草のようにしおれてしまうのだから。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.87)
読書をしているとき、自分の抱えている問題に対して、ドンピシャの答えと出会うというのは間々あることではあるが、今回もそうなったようだ。
 
 (詩篇、口語訳)
37:1
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2
彼らはやがて草のように衰え、
青菜のようにしおれるからである。
 (詩篇37:1-2、旧約聖書)
 
悪を為す者、不義を行う者として、誰を決めつけているか、草のように枯れ、しおれてしまう、という聖句を誰に当てつけているかを考えると、呪いをかけているようで、身の毛が弥立つほど気色の悪い楽山の体質です。
 
ふつう、こういう切り返しのある言葉については、自分の悪はどうかと考えるものですが、楽山は、ドンピシャとの答えとばかり、のぼせ上がって、内省もせず、載せてしまうのです。
 
嘘と詭弁で悪をなし不義を行うのは、楽山です。早く、衰え、しおれてほしいのです。
 
楽山は、幼稚であり、単純に短絡する無思慮であり、清々しさの欠片もありません。
 
そういえば西洋の小説で、聖書占いについて読んだことがあった。悩みがあるとき、聖書を無作為に開けば、そこに答えがあるという話だ。自分は聖書占いをしたわけではないけれども、カルトについてあれこれ考え、書いていたときに、聖書を読み、上のような言葉と出会うと、アドバイスをもらったような気にもなるし、偶然以上の何かを感じないでもない。もちろんそんなのは妄想だとはわかってはいるけれど、根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ。
 
「根が迷信深いのでついそう感じてしまう」のなら、はっきり否定するべきでしょう。しかし、楽山は、感じてしまうことを否定せず、霊が分かるっぽい自分を表す性癖があります。つまり「根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ」と言いながら、それを肯定しているのです。
 
「感じてしまうのだ」という「のだ」の強意の語尾で、迷信深い自分よりも、霊が分かるっぽい自分の霊感をひけらかし、にもかかわらず、そういう迷信深い自分は愚かだから書かないでおく、ということが楽山はできないのです。
 
迷信深いと自分で言ってる楽山が、呆れたことに、迷信深いことをそのまま書いて、批判者を侮辱してきているということです。どこまで、けがれて、そのけがれを、そのまま、出してくるのでしょう。
 
批判にくじけないのではなく、批判を無視して迷信の世界に、本心は、埋没したいのではないかと思いますが、それを、独りの感慨に納めることができず、人に向かって顕示することに、傍若無人のナルシストの姿があります。
 
楽山の自虐芝居は、謙虚だと見せかけるための、作為の予防線です。
 
*善は楽しい!
 ところで、上の言葉には、次の言葉が続いている。
ヤハウェに信頼して善を行なえ、
この地に留まって真実をもって糧とせよ。
ヤハウェによって喜び楽しめ、
彼は君の心の願いをかなえてくださるだろう。
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
悪は長くは続かず、いずれ自滅するから、そんなことに関わるよりも、まずは自分が善を行うことに専念せよというのは、わりとよく聞く話ではある。でもそれとともに、喜び、楽しむことを推奨しているところは、ハッとさせられる。
 
 (詩篇、口語訳)
37:3
主に信頼して善を行え。
そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4
主によって喜びをなせ。
主はあなたの心の願いをかなえられる。
 (詩篇37:3-4、旧約聖書)
 
最善が何で、最悪が何かさえ弁えない楽山であるのに、善を行い喜び楽しめというところに、独りで、ハッとさせられるそうです。何て中身の薄い、単純な読み方と書き方でしょう。
 
カルトの味方をして、カルトの正当化をして、同じことを言い張って、進んだつもりで、自身の言葉のミイラになった楽山が、また、うろつき出しています。
 
どんなに苦しくとも、それを耐え忍びつつ善を行えというのは悲壮感が漂うけれども、善を行いつつ喜び楽しめというのは愉快な心持ちがする。
 
善を分かっておらず、善とは縁のない楽山が、限りなく詭弁に近い言葉遊びをしています。
 
楽山は、いつも、楽でいたいようです。だから、心を悩ませる真実からは、いつも、目を背けてきました。そういうことが、惜しみなく表れる楽山です。ここ2年は、総て批判になったことも、改めて、間違いではなかったと思います。
 
耐え忍ぶことなく、悪と偽善に短絡している楽山です。誰が、真に受けて騙されるでしょう。まさに、人の弱みにつけ込むような文章です。
 
楽山には、ひとかけらの清々しさもなく、短絡した文言で人を惑わせます。
 
でも考えてみれば、善とは本来、苦しく耐えるものではなく、喜ばしくも楽しいものではあるかもしれない。
 
また単純に、聖句から悟りを開いたかのように、善の本来を、説き出しました。決して、楽山に対して、素直になってはいけません。楽山は、作為の小細工の洗脳および煽動家です。
 
良心に素直でいられるときは心は軽いものであろうし、そうであれば善とは喜びであり、楽しみでもあるとも言えるだろう。とすれば、自分が善にとどまっているかどうかは、自分は今、喜び楽しんでいるかを自問してみれば、おおよその見当はつけられそうだ。喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろうが、少なくともこれは一つの目安にはできそうではある
 
逆必ずしも真ならず、という、シンプルな論理を無視しています。目安にもなりません。悪と偽善を悦び、他者を、だまし、傷つける楽山のような者がいるからです。
 
「おおよその見当はつけられそう」と言いながら、見せかけの謙譲「喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろう」と言い訳して、反省力があるかのような書き方の上で、しかし、しっかり「少なくともこれは一つの目安にはできそう」と言って終わりです。こういうのを、印象操作というのです。こういうやり方をする卑怯な人に対しては、全否定するしかないのです。
 
楽山の言い分には、全く深みがありません。だから、曖昧な言い方しかしないのです。しかし、曖昧にボンヤリ言語で書いて、それで言い得たと満足するのでしょう。ごまかしが、すさまじいです。
 
深みを覗くことをしないか出来ないことの言い訳のように、自分を低くするのではなく、真実を安く見積もって、悦び楽しむことが善の目安というところに、じわじわと持ってゆく詭弁です。楽山の背伸びは、自覚もなく、安い言葉で満たして膨満する肥満の腹のようです。
 
楽山には、嫌というほどの否定で対処する他にない、という、動機付けを、こちらに毎度毎度してくるのです。楽山には気づきがないからでしょう。裏があるだけの平板で薄っぺらな自己満悦・霊感?零感ナルシストです。
 
覚えてください。楽山の作為は、見かけの言葉だけで、柔和とは真逆です。楽山は、宗教など、全く信じてはいません。宗教を、観念で、もてあそんでいるだけです。なのに、聖句に、的外れの、わざとらしい嘘の感想を書いています。総て、自分の霊感?零感を自分で褒めているだけです。
 
子供だましのような幼稚な内容、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、ふらふら、否定も肯定もしないわりに、無根拠に、すりこんでくる詭弁、深い情感のない泥濘なのが明らかなのに、それをごまかすかのような、見かけだけ派手な感動言葉、これらは、シャロームの当てつけの丁寧語と並んで偽善者である楽山の変わらぬ筆致です。
 
読むたびに、何か汚いものを押し当てられて汚れてゆくような不快を感じます。読んでも、生きるのに、何の役にも立ちません。付け焼刃の知識で自らの捻じれた知性?を捻じれた作文で見せて、保身のために独り痙攣しているようなものです。楽山に、近づかないでください。
 
楽山は、清々しさなど影も形もない人です。
 
 
裏側

うらがわ
 
祈り「主よ、私が、安穏としませぬように、そして、できることをする、ということに、全身全霊を注げますように、少しばかりの勇気と、くじけない忍耐力と、祈る心をお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
 
 
(2021年02月17日、再録・同日一部修正)
 
 
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