ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:誘導

 
  楽山の病質3
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる興味本位の性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのでしょうか。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、責任を負わなくてよいのではなくて、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこでどうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない楽山という病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
内村鑑三不敬事件(ウィキペディア)

 
 
この3年あまりで、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。悪口を言う自分に都合のよいところだけを受け取って満悦するのです。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
聖書を読むときに、多くの人が犯す過ちは、超常の奇跡を受け取って、大事なことを見逃していることです。信仰=奇跡を信じること・・というのは間違いです。いちばん大事なことは、キリストが、どういう人に共感して救いを宣べ伝えたか、どういう人を厳しく批判したかということです。
 
 
キリストは、病人、弱い人、誇れるものを何も持っていない自覚のある人、余計な先入観のない心貧しい人、を救いの対象としました。一方、傲慢で、自分を正しい人と見なして、そうでない人を見下し、優越感に生きている者たちを、キリストは敵としました。その批判は、とても辛辣です。
 
後者は楽山のような人です。丁寧語で書いて、学者気取り、人格者気取り、バランスの取れた人物気取り、等々。実際は、誰よりも偏狭で訂正不能の偏見に生きています。コメントの遣り取りをしても、こちらの意見に対して雑言しか返せず、徒労に終わります。
 
自分の非を認めないのに楽山が議論したがるのは詭弁でやり込めたいからです。勝ち気分だけに生きているようで誰とも共感することはないと思います。「反省」「共感」など言葉だけ書いてきますが、文脈や前後関係に、実質として表れたことはなく、楽山と議論すると徒労と疲労だけが返ってきます。経験済みです。
 
 
冷たい暗闇から怨念を燃やす者

冷たい暗闇から怨念を燃やす者
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月25日、再録+加筆)
 
 
 
※ (2020年12月、2021年2022年12月、再録+))
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、3年以上経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。老後がやせる・・。
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意を込めて
答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
  記憶よ
 
わが身の出生の記憶
わが身の死没の記憶
生きとし生けるものの死の記憶
を持ち得ぬまま
宇宙と時空の中で
限りなく無に近く
あまりにも微小で
あまりにも玉響(たまゆら)に過ぎる
生存の揺らぎ
わずかに残る生と死の記憶よ
空色のように儚(はかな)い形
奥行き
深み
体のない
肉親の死は
記憶となり得ているか
 
(※ 父は死にましたが、母は、まだ生きています。腰を傷めて、介護付き老人ホームにいます。来年100歳になります。役所から、賞状と記念品、もらいました。)
 
(ネットより)
たまゆら(玉響)は、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」(瞬間)、あるいは「かすか」を意味する古語。ただし『日葡辞書』には「草などに露の置く様」とある。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
遅れましたが、集団が苦手なので教会にも行かず、ツリーもケーキもパーティーもなく、メリークリスマス・・です。古い暦では、夕方に日付が変わるそうで、12月24日夕方からクリスマスです。クリスマス・イブは、前夜祭ではなく、クリスマスの夜、ということだそうです。
 
(ネットより)
クリスマス・イヴ(英: Christmas Eve)、クリスマス・イブは、「クリスマスの夜」である。教会暦における12月25日の夜、すなわち常用時における12月24日の夜、(ユリウス暦では1月6日の夜) を指す英語の音訳である。日本では、誤って「クリスマス(12月25日)の前夜」と認識されることが多い。
クリスマス・イヴ(ウィキペディア)
 
 
 
 私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の地獄予約
 
 地獄が大好きな人たち
 2022年12月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
不感不応で訂正不能で、良心と悲しみの感受性を持たない楽山は、いつまでも平気で書いてきます。批判しても無駄ですが、むしろ、読者に向けて、その実体と実態を伝える努力が必要です。それは、日常的に、普段の不断の努力として、続ける必要があります。
 
 
*地獄マニア
 HSは元々、地獄の話が多い宗教なのだが、最近は特にその傾向が強まっている。
 だから、昨日はつい、こんな呟きをしてしまった。
 
楽山は、既に、長い間、地獄の話をしてきました。嘘、詭弁、妄想、自己中、笑いと怒り、悲しみの欠如、無反省、無責任、・・これらは、地獄の産物なのです。楽山は気づかないのです。地獄は、あの世にあるのではありません。この世の現実の中に、既に、いっぱい表れているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ほんと、この方たちは、地獄大好きですなあ。
「幸福の科学」というなら、天国の法でも説いて、
幸せなこと、楽しいことをたくさん紹介すりゃいいのに。
 
天国のほうを説けない楽山のような者が、この世に地獄を表してゆくのでしょう。物を言えば、何か書けば、必ず、自己満悦と決めつけの地獄が進行してゆくのが、楽山の、悔いることを忘れた自己中の生き方になっているのでしょう。関わると感受性も抵抗性も鈍麻してゆく伝染病のような楽山です。
 
 
そしたら、今日はこんなツイートが流れてきた。
いやはや、これはまたすごい広告だ。
地獄、地獄、地獄、地獄、地獄…。
これでは信者らが地獄のツイートばかりするのも仕方がない。
繊細な心の持主であれば精神的にダメージを受けもするだろう。
 
ニヤニヤ笑いながら、精神的にダメージを与え続けるのが、楽山の言論です。今日も、他者をディスっているようで、展開されているのは、他でもない、全ての不祥事を人のせいにする楽山の病質の表れ、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのです。
 
 
>>
そういえば最近になって幸福の科学が「地獄に堕ちる」とか「世界が終わる」とか盛んに言うようになったらしく、十数年来の熱心な信者さんがノイローゼになっていた
<<
>>
本日の産経新聞より、幸福の科学の雑誌の広告トップがこちら。地獄への恐怖を煽る商売に「地獄を感じた」わ
<<
 
超常の恐怖を煽るのは、カルトの常套手段であります。無神教カルトである楽山は、現実の恐怖をまき散らしてきました。それが、人をもてあそび、疲れさせ、幻滅させて、退かせるところの、楽山の自己愛妄想による嘘と詭弁であり、関わる人を、混乱と、疲労と、人格破壊に、陥れてゆくのです。
 
 
*エログロ雑誌と同じやり方?
ふと思ったのだが、これはエログロ雑誌と同じ手法かもしれない。
たとえば、週刊誌が怖ろしく、残酷な事件を記事にするのは、「怖いもの見たさ」という人の煩悩を刺激しようとするからだろう。オカルト雑誌が心霊スポットや恐怖体験を記事にするのも同じ理由だろう。HSが地獄をテーマにした本を売り出すのも、結局のところ、これと同じなのではあるまいか。
信者らが地獄の話に夢中になっているのを見ていて、「なんか、おかしい」と感じた理由は、この辺りにも関連してそうだ。
 
雑誌は、興味本位で見て終わりですが、楽山は、人間関係において、それが長くても短くても、まるで塵埃のような、印象操作、刷り込み、言い換え、などの、精神の暴力手段によって欺き、さらに人格を疲労によって鈍麻させ破壊してゆきます。話の筋が、何ごとも、一貫性がなく筋が通っていないからです。
 
 
このように、既に、地獄の予約済みのような、地獄の使者というより、感染源、あるいは精神の公害と口害として、楽山は棲息しており、何を言われても平気でいられる不感不応によって、関わる人間の精神内界の荒らしとなって、疫病のように蔓延させてゆきたいのでしょうか。楽山の仲間になってはいけません。
 
 
集合し蔓延する地獄

集合し蔓延する地獄
 
 
(2022年12月09日)
 
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
 
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
 
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
 
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 
(ネットより)
自己愛性パーソナリティ障害(NPD)
執筆者: Lois Choi-Kain , MD, Harvard Medical School
医学的にレビューされた 2018年 5月
自己愛性パーソナリティ障害は誇大性,賞賛への欲求,および共感の欠如の広汎なパターンを特徴とする。診断は臨床基準による。治療は精神力動的精神療法による。
(パーソナリティ障害の概要も参照のこと。)
自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心の調節に困難を有するため,賞賛および特別な人物または機関との関係を必要とする;優越感を維持するために,他者を低く評価する傾向もある。
自己愛性パーソナリティ障害の推定生涯有病率には大きな幅があるが,米国の一般集団では最大6.2%にも上る可能性があり,女性より男性に多い。
併存症がよくみられる。患者は 抑うつ障害(例,うつ病,気分変調症), 神経性やせ症, 物質使用障害(特にコカイン),または他のパーソナリティ障害(演技性, 境界性, 妄想性)を有していることも多い。
自己愛性人格障害:MSDマニュアル
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自分の地獄を自覚できません。地獄を食べ、地獄を排泄していることにも気づきません。だから、性懲りもなく、また書いてくるのです。楽山に関われば、いずれ幻滅と疲労の地獄を味わいます。双方向が成り立たず、付き合えば、凍っているのに粘着する虫のような、楽山に関わらないでください。
 
楽山が、独りで勝手に、良心を捨てて、成長を拒んで、地獄に落ちて行っても、それは、楽山の、自由意志であり、因業でもあるのでしょう。しかし、楽山は丁寧語と嘘と詭弁で、人を誘って、引き込んでゆく人です。決して巻き込まれてはいけません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の不幸宣伝2
 
 共感できるところ 1 
 2014年12月02日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
かなり前の楽山の記事ですが、訂正してはいないようだし、今も、良いほうには変わっていないようです。楽山は、アンチHSではありません。言ってきたことが、全部、嘘である可能性もあります。成長がなく、退化・変質・退行してゆくのも必然なのでしょう。
 
楽山には、思想や宗教の軸がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、刹那的な快楽を求めて、それ以外の高次の動機がないために、刹那的で、場当たり的な、快楽、肯定、正当性の見かけに慢心する本能があるだけでしょう。
 
 
*共感できるところ
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。
 
楽山は、アンチHSを気取っていますが、退会後も、HSに共感できるところがあるということでしょうか。あるいは、教祖願望から言っているのでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、何かに本気で「共感」するとか感動するということはないと思います。
 
 
*怒りに我を忘れると
人格を失ってしまって、天上も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人間、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.79)
 」
これはその通り。周囲の人々がギョッとするほど、突然、怒りを爆発させるタイプの人は、異常とされて敬遠されると思う。
 
楽山のように、無反省で無責任で、不都合なことを全部無視して、自分の言い分を書き続けるというのは、ただの誤解ではなく、故意に曲解しているわけですから、発言のたびに嘘と詭弁が表れてくる害毒として、批判対象としては、最も厳しい批判が向けられても仕方ないのです。
 
不感不応の楽山は、精神の鈍麻によって、よほど追いつめられないと、興奮するとかはないと思います。だからといって温もりもないので、ネチネチした鈍い否定が訂正不能に続いてく、じわじわと理性も感情も鈍くなり、深いダメージから、他者を婉曲的に痛めつける害毒となっています。
 
 
*自分の持ち場・役割 
神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.97-98)
今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。
(同上p.99)
 」
これには共感できた。宗教活動をするならば、それ以外の、家庭、職場、学校、地域などにおける自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たしてからにすべきではある。
今現在の自分の持ち場での責務を果たさずして、宗教活動ばかりに夢中になったとしても、それは底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らないだろう。
 
「自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たして」・・なんという白々しい嘘でしょう。楽山は、正反対で、自分の発言の責任を負うたことが全くありません。ここから、何らかの病質を疑うことになるわけです。楽山こそが、人並みに責務を果たしたことがない人です。
 
すなわち、楽山が、宗教について何を言っても、「底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らない」ということです。楽山は、自分で言って、自分で裏切って、自分が斬られていることに気づかないのです。
 
 
*言うは易し行うは難し 
学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)
 」
全くその通りだ。ただ言うは易し行うは難しというように、実践は難しいのも事実。
 
「全くその通りだ」と同意しておきながら「実践は難しい」と言っています。しかも、全然、出来ていないことを「言うは易し行うは難し」と、不可抗力みたいな言い訳を書いています。言葉をいじくって、何も出来ていない自分を良く見せようとする原始的な欲望からの嘘です。
 
楽山には、根底において、批判意識が薄弱であり、思想のベースというものが出来ていません。だから、体のよい言葉で、自分が与える害についても、ごまかそうとしてきました。それは、結局、成り立たないということが、楽山の発言を通して、明らかになっています。
 
 
*常識人と奇人変人 
どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.171)
 」
これは正論に思える。だからこれとは正反対に、へそ曲がりを目指そう、奇人変人は大歓迎というのは妙に感じる。
 
奇人変人の意味するところは、正常人の意味するところと同様に、微妙です。楽山の言葉についての認識の甘さ雑さが表れています。言葉の意味を100%か0%で気安く判断しているようなところが、しばしば見られてきたのです。それは、言論の未熟を自覚していないことを表しています。
 
 
*与えているという意識のない愛
「これだけのことを自分はした。」というふうに思ってはなりません。それを他の人に認められようと思ってもなりません。自分が愛の行為をしたときには、それを忘れてしまうことです。
[省略]
ごく自然に、そうしたいからする、自分はそういう行為をさせてもらうことがうれしいからしている、という気持ちが大事です。
(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、p.45)
 」
こういう「与える」という意識を持たない、ごく自然な親切はいいものだと思う。
 
「いいものだ」と言って、無償の愛を、それが自然だと言っているようですが、そういう自然なあり方を、全て裏切っているのが、楽山です。多幸症なのでしょうか、芝居なのでしょうか。楽山は、良きものを得たことも与えたこともないのです。自己正当化の詭弁だと思います。
 
 
*自然体の人生 
人には、それぞれ自然なる生き方というのがある。
自然体の人生というものがある。
(大川隆法『永遠の仏陀』幸福の科学出版、平成3年、p.57)
 」
他の人の人生に取って代わることはできないのだ。
自分は自分の人生を生きなければならないのだ。
(同上、p.65)
 」
人にはそれぞれ個性がある。自分の個性を知り、愛し、大切にできたら、それはきっと幸福な人生だろう。
 
そして、楽山は、結局、きれいごとに終始してゆくのです。多幸気分の浮かれ方で、言葉が、幼稚になっています。「個性を知り」「愛し」「幸福」・・などと言って、深みがあるでしょうか。宗教も信仰も思想も、そのような単純なものではないから、掘り下げる言論が必要なのです。
 
そういう楽山だから、愛も、善も、何も実践するどころか、企みの、作為の、騙し文句だけで、他者を、自分より低いものとして、世辞と軽口で、あしらってきたのでしょう。しかも、病質によって、無反省に続けているのは、偽善であり、悪よりも悪質です。
 
 
もうちょっと踏み込んでいうならば、自分の個性に合わない思想、宗教を無理に信じなくてもいいなら、それは幸福なことだと思う。
 
思想と宗教は、個性で判断するものでしょうか。善悪とか正邪とかは、どうなのでしょう。楽山は、自分の異常な人格を正当化しているだけです。自らの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、無反省、無責任、高等感情鈍麻、・・考えなくていいのでしょうか、否です。
 
驚き呆れます。楽山は、実に白々しいことを平気で言っています。理想の実現でなくても、誰にとっても努力目標はあるというのに、それらに、ことごとく背いて平気でいられる病的ナルシストの姿であります。誰の「幸福」も考えていない態度だと思います。
 
責任や反省という当たり前のことが、楽山の「個性に合わない」のでしょうか。全く実践していません。最低限の反省も責任も、楽山の「個性には合わない」ようです。これが示しているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いろんなところで安易で病的に異常な書き方になっていることです。
 
 
災難を伝道

災難を伝道
 
 
(2021年)
(2022年11月22日、再録+加筆)
 
 
 
  虫と区別
 
いかなる好意にも
応えることができなかった
いかなる悪意にも
打ち勝つことができなかった
鈍く変質してゆく
寄生とはそういうものかもしれない
 
虫になったのに
這う虫ほどにも動こうとしない
這う虫ほどの目的もない
命をもてあそぶ
命をもてあます
 
気づかないことは災いであり
さらに深く悪を宿し孕(はら)み育むが
気づかれない間は隠されているので
しばしば仕合わせのまま過ぎてゆく
 
気づくことも災いであり
さらに深く罪を教えるが
まれには幸せのように
まるで唯一の幸いのように
独り苦悶のうちに過ぎてゆく
 
好意や悪意の結末にかかわりなく
虫は汚泥に塗(まみ)れ
ときに傾いた日差しを受けている
 
それが昇る日なのか沈む日なのか
区別できないまま
さらにどうしたら受けることが
浴びることになれるのかさえ
区別できないまま
区別
というものから
根こそぎ別れる時を待っている
 
 
  耐える
 
もちろん
聖書、キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていきます。
共感・べた褒め・贈り物・共通点などの話から「こんなに気が合う人はじめて」「こんなに優しい人はじめて」「大好き」を示しながら一気に親友のような距離感になろうとしてきます。
<<
2022年11月19日
 
「自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていき」」・・まさに、楽山の優しさ芝居の丁寧語に当てはまるでしょう。つきあえる人と思わせるための柔和芝居でもあります。距離を縮めるどころではなく、関わらないことが大事です。
 
楽山が、このような引用をするのは、こういう引用をする自分は自己愛人間ではない、という印象操作なのです。あらゆる狡賢いやり方を、平気で、使ってきますから、注意・警戒してください。また、多くのHNに成りすましてくることも考えておく必要があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無反省、無責任、無理解、無神経な、楽山は、動機も根拠もなく、もっともらしいことを書こうとしますが、その浅さのために、失敗し続ける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であります。方向もなく、努力もせずに、書き続けて、刹那的な自己満悦以外、何も求めてはいないのです。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  捏造の文脈3
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、心霊主義と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、こちらからの批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
ウィキペディア
 
 
主張の対立:
 
(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
 
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。楽山は、理路を整理することが出来ないので、もっともらしく見せかけるしかなくなっている人です。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。訂正不能な根腐れと思っています。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし説明し、カルトに警鐘を鳴らせる心の持ち主なら今までの詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、気持ち悪いと感じます。
 
 
たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。
宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」
 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す・騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。
 
 
たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、
 
宗教的に間違っておれば、幸福をもたらすことはないのです。それに、宗教・信仰がもたらす幸福について説明もしないで論じること自体が間違っています。幸福感という言葉で、正しい宗教を信じていても、間違った宗教を信じていても、幸福感がありえる?と言っています。このような幸福感は御免です。
 
楽山は、幸福感という言葉も、正邪の言葉の使い方も、ぞんざいであり、浅い固定観念で気安く使っているだけです。楽山は、このように、思想・宗教を語る素地を持っていないのです。楽山は、いわゆる先入観しか持っておらず、先入観と偏見しかありません。
 
楽山の語るキリスト信仰自体が、概念遊びであり、生きた本物の信仰ではありません。楽山は、キリスト信仰を全く知りません。なのに、知っているかのように語っている楽山は、偽物のキリスト教を語って、悦に入るペテン師でしかないのです。
 
そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。要は、楽山は、いい加減に信じるのが良いと言っているようなものです。幸福感は主観ですから、楽山が幸福だと言うことに従って、地獄を見ることもあるでしょう。
 
幸福感は主観であり、さらっと言葉で表せるほど簡単なものではありません。騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。楽山に騙されて、聞き入れても、それはデタラメに過ぎず、決して幸福にはなれないと思います。
 
 
また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。
 
これは、信仰は "人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
「A」などと記号で論理を表したつもりの楽山ですが、その説明は、極めて幼稚な理屈遊びに過ぎません。いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。宗教と信仰の知識も感受性も持っていない楽山に、決して惑わされないでください。寒気がします。
 
中身に斬りこむことのできない楽山が、一般論的に、「幸福感」「A教」「必ずしも言えない」というボンヤリ言語の概念遊びという詭弁で、正当に見せかけて、ごまかしているという醜態です。しかも、ずっと変わらず、成り立つと思っているのです。とても低劣な文章です。
 
 
人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。
 
これを、一般則のように言って「困る」と結んでいる時点で、楽山の嫌らしい詭弁はアウトなのです。困るという楽山の印象を宗教一般に適用するという詭弁なのです。論理を全く気にしない刷り込み屋だから出来ることです。
 
楽山は、前に何度も書いたことですが、無神教カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。うっかり受け入れてしまいそうな文章も、よく見れば、意味の範囲など、全く理路にも共感にも結び付いてはいないのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉に相応しい深い理解を全く持っていない楽山の、詭弁による自己正当化とインテリ気取りの自慢に過ぎません。今、この記事で、誰よりも読者を困らせているのは、楽山その人です。
 
楽山こそ、体質的欠陥によって「簡単な理屈も分からなくなって」いるのです。楽山の自己中・自己愛性人格障害によるもので、まことに、常識的な判断すらできていません。偏見で語り、浅い思慮を理屈のように見せかけるのは、ペテン師ならではの作為によるものでしょう。
 
 
実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。
 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。宗教にはまり込んだからではなく、楽山は、知識もなく、共感もなく、何も分かっていないのに、宗教に、余計な、ちょっかいを出してしまう自己顕示欲と自己愛の奴隷なのです。
 
証拠は、楽山が自らの破たんした理路に気づかない不感不応の退屈な文章に、今まで、ずっと、表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。宗教と信仰についての安い見なしと詭弁にだまされないでください。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を謀っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 
 
これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。
 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。否であります。誰よりも、カルト体質の自己愛性パーソナリティ障害である楽山の言うことを利かないでください。関わらないでください。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、反省力も罪悪感も責任感も持っていないことが明らかになってきました。拙劣な文章を、まともに見せかける詭弁の刷り込みの筆致が、楽山の全てであります。
 
今の楽山こそ、詭弁、印象操作、刷り込み、嘘のでっち上げ、などによって、他者一般をマインドコントロールしているところです。とんでもない策士で、精神の詐欺師なのです。楽山から得た宗教の説明と情報は、話にならないほど雑で、かつ、宗教と信仰の真実とは、全く異なる安物です。
 
病的な体質のために、楽山は、今も、思考力・判断力と、さらに、情緒的感性も著しく低いので、詭弁に頼っているのです。だますことが人生になっているような人です。楽山に影響を受けないように「よくよく気をつけ」てください。
 
ヤケクソ状態に近くなれば、さらに危険です。決して交流しないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、パニックとなってゆくプロセスかもしれません。
 
私が楽山について言ってきたところの、訂正不能のカルト思想によって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとっていますが、マインドコントロールを仕掛けているのは楽山の法です。この楽山にこそ、近づかないように「よくよく気をつけ」る、というより、近づいてはいけない人です。
 
「気をつけたい」なら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁など書かなかったはずなのです。楽山は、根っから、カルトの素、という体質です。被害者であるかのように「気をつけたい」などと言っても、騙し続けてきたのは、今までに、楽山であることが、既に明らかになっているのです。
 
楽山という、詭弁で刷り込んでくる変質者は、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、反省もせずに、似たようなことを繰り返して、同じところをくるくる這いまわって堂々巡りしているネズミのようです。
 
腐った根性が、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、結果として、ますます深い悪意を表してしまうことになります。人の言うことを聞かず無視して、思慮深い人を気取る者は、結局、真実の欠片も得ることはありません。
 
楽山の書く文章を読んで意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、支配欲からの無節操な誘導ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。理路を組み立てることが出来ず、共感につながる説得力も皆無で、楽山は、大人の言論者としての成長していません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、くさく息荒く流涎しているだけの様相です。
 
楽山は、嘘と詭弁で、他者が悩み、混乱し、壊れてゆくのを、陰で嬉しそうに眺めて悦に入るような外道であります。楽山のように、正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになります。そしてついには自分自身をも破壊して失ってしまうでしょう。
 
 
混乱への罠(わな)

混乱への罠(わな)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月12日、再録+加筆)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない共感
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  祈りと叫び・共感の主
 
恵みの神様に感謝しますという賛美の祈りより
神も仏もあるものか!という本音の叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられるような気がします。
 
神の意志に背く地上の偽善者に笑われながら
その血まみれの蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を遣わされた神様だから
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
神の立場を決めつけない限り
この世のことも
あの世のことも
望むのは信仰に反しない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人格障害の症状として、後悔もせず、反省もせず、傷つけることを楽しみとしている楽山の、気安さや、気取り屋、嘘が、関わる人を、人間としての真実からも、救いからも、読者を遠ざけてゆきます。責任をいっさい負わない不感不応の病質は、いずれ自身の人格破壊をもたらすのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
   表示制限がかかったようです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
相変わらず、詭弁、詭弁…と言ってるけど、私の書き方は、事実を提示して、その感想を書くというようなシンプルなものです。
上の例で言えば、事実を時系列に並べて、その感想を、多少の実体験をまじえて書いてるだけ。
塩氏には、これが屁理屈・詭弁に見えるのかな?
https://twitter.com/A2_1nnt/status/1513042866230095872
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
午後7:59 · 2022年4月10日·Twitter Web App
 
どうして理解力のない楽山が、宗教や信仰について事実~真実を提示できるのでしょう。また、感想ならば何を書いてもいいのでしょうか。キリスト教と信仰を、曲解で語って、好きなだけ、おとしめておきながら、事実と感想という言い方で、言い逃れられると思っていることが異常です。
 
事実と感想というより、妄想的先入観をもって否定の印象を吹き込むのが楽山です。中立を装う欺瞞の筆致に気づかない人に、悪しき先入観を植え付けてきたのが楽山です。しかも、暗示するやり方で「実体験をまじえて書いてるだけ」という言い訳で済むと思っているとは呆れた人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
裏でコソコソ印象操作とか、ブログで欠席裁判とかは意味が分からんですね。私はツイッターもブログも公開で書いてて、誰でも反論コメントができるようにしてるので。
ていうか、ブロックしていながら、コソコソしないで堂々と意見を言いなさいとか、よく言えるなあ(笑
https://twitter.com/A2_1nnt/status/1513043507459416064
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
午後8:05 · 2022年4月10日·Twitter Web App
 
楽山は、嘘と詭弁の婉曲的な暗示で、反宗教を刷り込んできます。また、楽山は、アンチではありません。霊が分かるっぽい?という妄想があり、幼稚な宗教観をもって、教祖願望が見え隠れしています。しらばくれても、楽山は、いつも企みの嘘と詭弁で、印象操作して、刷り込んでくるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の我執2
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
西尾寛治は、右翼の思想家です。別の右翼の人を介してサイトなどを見ただけですが。この人だけでなく、楽山は、右翼としての記事も書いています。おべっかでしょうか。体質的に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、一貫した思想はありません。
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。楽山には罪悪感がないからです。
 
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
 
この手の議論には、さほど重要な意味はありません。人生はリアルですが、死後は想像~空想に過ぎないからです。それを信じ込むのが信仰というのは、全くの誤謬であります。信仰はリアルの人生を生きるためにあります。
 
 
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で、上に書いたように、真理の理解としては単純に否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、リアルとして、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。
 
それ以上の、特に超常についての断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。超常ではない人間としての身の程を弁えるのが信仰であり、神を恐れることであります。人間は、与えられた知性と感性を生かして生きるべきです。それ以上の神秘や超常は、神のみのものです。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。楽山は、やたら、宗教といえば、超常を語りたがりますが、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないの、というより、心配することが無意味だということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山は、乖離しており、違うのです。
 
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
合点が行くはずのない、自らが無となることに、合点が行くと言っている時点で、作為的で、かつ、嘘であることがバレています。実際には、楽山には、横暴を極めている現実も、嘘吐きの幻想も、実感などというものはないだろうと思います。楽山の人生が幻想だから、酷いことが言えるのです。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が「合点が行った」と思っているのとは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。楽山自身が、ホラーです。
 
こうであるはずだという願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志が強いからではなく、ますます鈍感になったからでしょう。
 
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉にも使っています。執着だらけの楽山が、何かを書く技量などない証拠でしょう。楽山は、今まで書いてきたことからは、自己顕示欲という欲への執着だけしか見せていません。
 
楽山は、死ぬまで、執着を去ることはないでしょう。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは何の関係もないのです。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、見逃すことは出来ません。引用元の様々な有名人を自己顕示欲のために利用~悪用してきたのです。まともに受け取ることは出来ません。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
祈祷と宗教を同一視すると、楽山の詭弁になります。一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章になります。気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにするのです。偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のようなインチキな小者は、ネズミのような小心で動いて、的を外しているのです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
真理を知らず、倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「この世」に適っていないで、「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。「真理(倫理)」に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。表れるのは、分かるっぽい?自認~妄想だけです。
 
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執と我執で利用~悪用する楽山です。
 
 
引きずる我執の醜い素顔

引きずる我執の醜い素顔
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
(2022年03月17日、再録+加筆)
 
 
 
  懐かしき訪問者
 
四角い静物の部屋に
タバコ一本の煙
上っていく
 
友と呼んでいいのか
珍客と呼んだらいいのか
どんな縁かもよくわからない人
ともかくも久々に我が家に迎えた
懐かしき訪問者は
二泊三日で忙しそうに帰っていった
 
何てシャバダバな人生なんだ
ぐらいの話はしたかったのだが
 
 
※ (ネットより)
シャバダバとは、意味のない音でメロディーを即興的につないでいくスキャットという歌い方で、おもにジャズで使われ、楽器を弾けなくても表現できる方法のひとつです。
 
 
 
  問いと問い
 
昨日があるから今日がある
そう でも
今日があるから昨日がある
でも どこか
では明日は
明日は?
 
 
  家の階段
 
数えることもないから
数えきれない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
 
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
 
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
 
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  祝福
 
この あかりの もれいづる
この いえに すまう ものは
つとめを はたして いこう もの
いこいを もとめて つとめる もの
ひとごとながら いのりを こめて
きぼうの くいを うちこめば
やみは またたいて ほしを かくす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山が、自らの嘘と無反省と無責任など、とんでもない偽善の最悪について「これも一種の、人間の性」と言った時点で、「人で在り続ける」ことをやめている証拠です。ブログやツイッターで好きなように、他者を、だまし、誘導してきたわけですから、「開いた出店を畳むしかない」ということです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 
 
 

このページのトップヘ