ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の大好物3
 
   『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
   2021年01月09日 楽山日記(LD)
     を改めて批判。
 
 
(ネットより)
浅野 順一(あさの じゅんいち、1899年12月12日 ‐ 1981年6月10日)は、日本の牧師、神学者(旧約聖書学)。青山学院大学名誉教授、キリスト教功労者。
 
(ネットより)
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、楽山が書いていることは、キリスト信仰に沿うものではありません。キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりたいのです。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
ヨブ記は、痛々しく信仰と試練と救いを深く考えさせられるのですが、楽山は、趣味のように「楽しく読めた」と書いています。楽しく読めるテーマでしょうか。楽山が、いかに宗教と聖書を軽く見ているか、いかに悲劇に共感できないかが表れている記事です。サディストの感想です。
 
そもそも、分かる・理解するということの深みが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたこともないのです。キリスト教については、さらに、幼稚な先入観と偏見と詭弁による攻撃が明らかになっています。
 
したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったつもりで自慢し、批判したつもりで、否定のイメージを刷り込むことに他なりません。読書は、楽山にとって、そのためのネタ探し以上ではありません。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、荒らしに過ぎず、決して学ぶ者にも教える者にもなれないのです。
 
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、平易だからではなく、安易に受け取って読みやすいなどと言っているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものはないのです。
 
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
引用元著者は、サタンが友人に姿を変えていると言いますが、悪魔と、人と、神の区別が、あっさり、つくものでしょうか。安易な短絡です。サタンの仕業にして、私たち人間に、何が得られるというのでしょう。教理的に語ればよいというものではなく、人間のテーマとして考えるべきです。
 
「サタンが友人にその姿を変えている」・・このことを、ホラーのように捉えている楽山です。状況によってはサタンのようになりうるのが人間です。楽山は何も分からないのです。私たちが学ぶべきは、私たちが陰気な悪意と攻撃性詭弁の偽善者になれるということです。楽山の有り様が典型です。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。楽山は、ヨブを誘惑する悪魔性の典型として、信仰を攻撃する悪魔性の典型として、猿真似の記事を書いています。
 
何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を公開して、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、無理解が表れるだけです。楽山は、キリスト信仰に対して、初心者を怠惰な反キリストへと誘(いざな)う悪魔性を発揮しているのです。
 
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らぎます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。やさしさや丁寧に見せかけて、ネガティブな印象を吹き込んでゆく企みに乗らないでください。
 
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のような超常ホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して、決めつけてきたのです。そして、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。自分で聖書を読めていないから、他者の言に頼るのです。
 
ヨブの友人たちは、建前を言い本質を語れない、信仰と救いの本質を語れない、という、私たち人間の限界を示しています。悪魔と言えば、私たちも悪魔性を持っているのです。信仰者が、悪魔ではない善人というのは大間違いです。悪魔性があるから罪を犯すことを弁えるべきでしょう。
 
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、何を言っているのでしょう。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
その悪質な典型が楽山です。サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた人たちです。注意してください。楽山も「簡単にはサタンだと見破れなくなる」存在です。そして「立派な説教をし」ているつもり、「真理を語ることができる」つもりなのです。実際は、良いことを何も語れない楽山です。
 
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
どうも引用元の学者は、悪いことを、皆、サタンが憑りついたせいにしているようです。無理な護教に思えます。私たちは、悪意を、人間の性質の一部として持っているのです。ゆえに、原罪と言うのです。そこで悔い改めるかどうかで、悪と、信仰が、分かれるということです。
 
人間は、しばしば、夢中になって議論しているとき、真実の追求という姿勢から、勝ちを得ることに没入してしまうことがあります。その時、人間に見られるのは、希望ではなく情熱でもなく、怒気であります。これを常時持っているのが、悪魔なのです。それを楽しんでいるのが楽山です。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、引用には、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を超常の存在まで決めつける人は、楽山のように、自分を省みることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
もう一度言いますが、何でも、悪い人をサタンにしてゆくのは不適切です。何故なら、私たちも、当然、著者も、サタンと似たような、悪意の人になりうる罪性を持っているからです。サタンは、悪しき誘惑の源として機能するのでしょう。そこに、どっぷり浸(つ)かっているのが楽山であります。
 
完璧な善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して正直に祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
楽山は「勇者」などと言っていますが、信用しないでください。楽山は、キリストも聖書も、否定している男です。小馬鹿にする台詞に過ぎません。信仰者は、神に対して正直であり、正直な祈りを心掛けます。その正直さを、全く持たないのが、楽山です。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。楽山は、以前から、悲劇が起こるのは、神がいない証拠だと言ってきた人です。神に文句を言い、人が神に評価を下してよいという口実を捏造しています。楽山は、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めない自己中の病者です。
 
エレミアは、神の言葉を伝える預言者です。ヨブは、勇者ではありません。また、ヨブは、楽山のような反キリストの悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。楽山からは、無知と無恥が表れるだけです。
 
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったというより、不当な扱いをされたと思ったら、そのことを正直に、神に言う人なのです。神は応えて、ヨブは叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。楽山は、生まれ育った時点で、人間になり損なった人なので、何も分かっていないのです。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、ねじ曲げられ、糊塗されて、反信仰を、刷り込んでゆく手段となります。楽山は、正直でない分、ヨブより悪魔のほうに似ています。
 
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。聖書は、ユーモアではなく信仰の話であります。楽山は、「了解」しているのではなく、曲解しているのです。
 
「ヨブへの親愛の情、ユーモア」ではなく、真剣に言い合っているのです。実に、ピント外れの感想です。何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものを読んでいないと思います。いい加減な軽口で褒めるところにも、楽山の、おふざけで宗教に反応する読み方→生き方が滲み出ているということです。
 
こういう破綻は、出てしまうものなのです。真剣味も、真面目さも、納得も、感動も、嘘の芝居でしか表せない楽山の、穴だらけのバケツです。何度も、不可避的に、楽山は、まともなつもりで、実は、自分で自分を切り刻んで滑ってゆくだけの笑止の存在に過ぎないのです。
 
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
 
いつから、この著者は、神の責任を問う立場に立ったのでしょう。神の責任だけを書いて、人の罪と救いにつなげることがないなら、キリスト者の書いたものとは思えません。どうして、幸も不幸も命も死も、神の手の中にある・・というような書き方をしないのでしょう。
 
当然ながら、神は、いちいち、試練について、こうだからね、心配しないで・・みたいな説明はしないのです。人には、苦難の時、不幸の時、死する時が、必ず訪れます。そういう地上を造られたからです。キリスト教は、ご利益宗教ではありません。厳しい現実を生きる支えであります。
 
ゆえに、肉体の生も死も超えたところから、クレームだけではない、正直な祈りを待っておられるのです。楽山のようにはならないでください。人の話も、自分の言っていることも、まるで分らないまま、自己満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 
神が悪いみたいに書いていますが、人間の罪の性質を表すための聖書の話なのです。ヨブに与えられた不幸は、試練であり、むしろ、ヨブ記という地上の話の中で、最後に報われるのは、神に救う意志があり、ヨブが耐えたからであります。
 
ヨブに起こるような不幸も、そして、幸いも、悲しむという感情を持たない楽山のように、あげつらって自己満足の沼に嵌ってゆく反キリストにならないように、この楽山の記事という惨劇があるとも言えるでしょう。楽山を相手にしてはいけません。
 
結局、楽山の狙いは、神の責任、神の責任、自分の不遇も神の責任と、言い張りたいのです。神の責任と言って、何か解決するのでしょうか。神はいないという自分信仰が救われるでしょうか、否です。ゆえに、楽山は、人をおとしめるだけで、何の救いももたらさない反キリストになってきたのです。
 
 
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
神義論ではなく、神は与え、また、取りたもう、という神の全能と、人間の弱さと限界についての大きなテーマの、ヨブ記なのです。神義、即ち、神の正しさを、地上で、人が理解することはないでしょう。信仰者は、キリストの共感に捉えられ、共にいたいから、祈り続けています。
 
敵意と悪意ある楽山が、知性も感性もなく、人間としての共感もなく、単純に、神はこんなに残酷だぞ・・という先入観を刷り込もうとしています。実に、良心のない、罪悪感のない、問題の大きさを感じ取れない、ボンヤリ鈍感の楽山らしい引用と記事です。
 
ヨブの悲劇は大きいですが、悲劇というのは誰にでも起こり得るものです。その時、人は、信仰者は、どう考えるかという重要な問題を投げかけています。理解も感受も拙劣な楽山のような者が、いちゃもんの材料にするような軽薄な話ではないのです。楽山は、何の解答もヒントも救いも用意していません。
 
著者は、思い上がった人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけて、さらに、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたとしか言えない話です。
 
人が、神の責任を問う、などということは、神を恐れない者の発言です。人は、不当だと思う成り行きについて、なぜ、どうして・・と、正直に祈る他はないのです。そこに、人の作る辻褄など、全く成り立つ余地はないのです。人が、神と、同格に、責任問題を語れるという傲慢の所業であります。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
著者は、楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。悲劇からのサディズムもマゾヒズムも、人間には、いつ起こっても不思議はないだろうが、欠片ほどの信仰が残るかどうかという話です。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも聖書を理解できない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、深く理解するべきところです。
 
記事全体としては、楽山というサタンのような者が近くにいて、追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないかということを強く暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも、楽山という悪意の者の謀(はかりごと)を暗示するだけの記事を、楽山が書いているわけです。。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。信仰について、何一つ理解していないのが、楽山です。決して関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
悲劇と信仰・・

悲劇と信仰
 
 
(2022年)
(2023年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
 
むかし通って
洗礼を受けたのは
プロテスタントの教会だから
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛るイメージの戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
 
真実は、事実と違って、心を、共感をもって揺り動かす原動力であります。神について「客観的根拠」などと言っている時点でアウトなのです。何も分かっていないのに、思い上がりだけで、上から目線で、ケチだけを付けてくる楽山は、恐らく、一生涯、何の幸いも知らずに終わるのでしょう。
 
心の問題に「客観的根拠」などはありません。上の考え方は、楽山と同じように、とても幼稚です。神は、人にとって、論や証明の対象にはなりません。信仰は、神と、神を必要とする個人との関係です。神を客観的に見るには、神以上の次元が必要ですが、それを持っている人間はいないのです。
 
無神論などと言って論になる学問は、正当には存在しません。神を信じるに至る体験もない非信仰者や背教者に、とやかく言えることではありません。神は、人の論では語れません。楽山は、インテリぶりたいがための屁理屈を集めたものを無神論と呼んで、気晴らししたいようです。
 
神の問題は、決して「基本的なモラルの問題」ではありません。そう見せかけて、客観的根拠があるはず、答えるのが当然、答えられないなら、神はいない、と誘導するための詭弁です。こういう成り立たない組み立てで、怖い話にしてゆくのは、勝ちを欲しがる偽善者の手段です。
 
神が存在する客観的根拠は、人の側にはありません。希望に対する感受性のない無神論者は、引っ掛け論法として、この疑問を、いつまでも、ぶつけてくるでしょう。しかし、神がいないという客観的根拠もないということです。無神教カルトには永遠に根拠など無いのです。
 
サイコパスが跋扈(ばっこ)するような地上を生きるために神を必要とする人には、証明も根拠も要らないのです。楽山のような無神教カルトだけが、根拠、根拠と、問うてくるのは、無神論者には、神もなく、正義もなく、生きる根拠も欲望以外にはないので、自らの不幸の憂さ晴らしに過ぎません。
 
思うとおりにならないと怒り出したり、恨みを募らせるのは、サイコパスの特徴です。しんみりと反省するような悲しみの高等感情がないからです。サイコパスに理路はありません。嘘と詭弁と誘導だけです。楽山がその例となっています。楽山に、真っ当な理路はありません。実感がないからです。
 
神の存在は、史実によっても、論理によっても、証明できません。信じた人の心の変化に表れることです。絶望から希望へ、死から命へ、無思考から思考へ、闇から光へ、氷結から温もりと潤いへ・・この変化は、楽山などの無神教カルトには、起こらなかったし、これからも起こることはないでしょう。
 
楽山などの反キリストを無神教カルトと呼んでいます。高ぶりだけがあって、根拠、根拠と、同じことを言ってきます。カルトの豪語に似ています。証明できないから、平気で言って、追いつめたつもりなのでしょう。神は人の論理にはなりません。ということは、無神論も論理にはならないのです。
 
「「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない」「客観的根拠を提出しなさい」に、決して乗ってはいけません。無神教カルトは、根拠と史実の証明しか考えられないのです。それで、信仰を、神の存在を、示せるでしょうか、否です。客観的根拠があれば信じる必要はないのです。
 
論理的に、または、史実において、神は存在する根拠はこれだ、などという説明で、神を信じることはないのです。全くプロセスが違います。無神教徒は、心で受け取ることができないので、信仰を感じずに、決まり文句のように、神はいない、いるなら根拠を示せと、意味もなく問い続けるのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても誤っても何も気にしない楽山です。嘘で欺き詭弁で保身しデタラメを刷り込んできます。訂正も反省もせず、人間性を、ネチネチと否定し続けます。それを誰にでもあることのように「人間の性」で済ませようとするに至っては、もはや、サディストの、人でなしとしか言いようがないのです。
 
サイコパス、自己愛性または反社会性人格障害、精神病質と呼ばれる異常人格は、好都合に笑い、不都合に怒る、という単純な原始反応で生きています。悲哀への共感がなく、反省せず、責任を負わず、人の言うことを無視し、悲しむことがなく、悔いることがなく、ゆえに、犯罪に結びつきやすいのです。
 
 
 
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  とほほ?・・3
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
  を改めて批判。
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言葉の災いが表れています。素直に受け入れでもしたら、真実ではなく、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向きません。
 
いつのまにか、知らず知らず、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。楽山こそは、反キリストの典型として、こうなってはいけない、こうなったらおしまい、という例として、語り継ぐべき対象であります。
 
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき憎悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意ある扱いとなり、誘導の詭弁であります。
 
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験者と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を安く軽く見ているかが表れています。発想が貧弱で乱暴です。したがって、敬意は嘘であり、いつもの受け狙いの世辞なのです。このように、楽山は、非常識の偽善者です。
 
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。「完全の基準は、人それぞれ」ではありません。自らを完全と見なすとき、パリサイ人と同じように、信仰の義は、なくなります。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。神聖でない人間には、正直な祈りへの賜物として、信仰の義が与えられます。
 
楽山は、正義というと、ヒーロー物語の完全な正義しか想起できないのでしょう。その小学校レベルの理解では "信仰の義" などということが理解できるわけがないのです。不完全・未熟の自覚がないということの災いという典型例が、楽山なのです。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の自意識から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、どれだけ拙劣を極めても、不感不応の楽山は、全く気にしないで無視できるほどの、哀れな無反省の病質しか持っていないのです。
 
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て、神に勧められて災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、貶められると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。つまり、災厄は、全部、神のせいじゃ!・・と言いたいわけです。
 
こういう楽山のような、神憎しに固まっている人は、自らの悪と偽善の罪を認めない、ということが表れています。知性と知識と感性と高等感情のない楽山は、いつも、妄想的に短絡します。その発言は、信頼度はゼロであり、好ましさも真実の欠片も含まれてはいません。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。楽山が軽々しく決めつけるのは、楽山が反キリストだからです。サタン、というのと、楽山、というのが、近くなってゆきます。楽山は、それが、むしろ快感なのでしょうか。サタンは醜さの象徴でもあるのですが。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。ここでも妄想的に訂正不能の悪意の短絡です。
 
こういう幼稚な発想を、前にも書いて、また、今も、書いている楽山は、神を恐れず、神?を、自らの観念の中において、貶めようとしてきたのです。他でもなく、堕ちてゆくのは、いつまでも身の程を弁えない無節操の楽山であります。
 
超常の存在であるところの、神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことです。神とサタンのストーリーを勝手に決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということです。
 
楽山は、批判に反応せず、平気で同じことを繰り返したり、テーマについてではなく、幼稚な論理遊びの迷路に誘導してきて、相手が疲労するのを狙っています。それ以外に、手段を持っていないのです。とても、みすぼらしい理論家気取りの嘘つきが、楽山です。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしているのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。楽山の言は、誰に役にも、何の役にも、立たないのです。
 
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することは出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
さらに、大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、聖書と信仰の理解がなく、人間として必要な人間らしい共感もないゆえに、ヨブの妻を庇(かば)う資格もないのです。楽山のように、身の程を知らないでいると、こういう醜態になる、ということが表れているだけです。
 
楽山は、裁き主であるかのように、ヨブの妻を無罪としたいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の醜悪な恣意は顔を出してきます。楽山という、極めて程度の低い病質的人格は、いったい、どこまで、節操もなく、思い上がるのでしょう。
 
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
ストーリーも文脈も読み取れない楽山は、また、読み違いで、「三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかった」ヨブを、勝手に描いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情言葉で信仰は語れない、ということを、浅はかな楽山が、明らかにしています。
 
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
楽山が、神を憎む勘違いのプロセスを、楽山が表しています。いわゆる、勘繰りとか、曲解とかいうものです。被害妄想的とも言えるでしょう。理解と共感のない者は、我欲に走って、我欲という物差しから、不都合を、悪と決めつけますが、自らの悪にだけは気づかない習性を持っています。
 
というのは、本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をするような、今までの高慢な発言も、神否定も、無かったはずです。恐らく、本当にそう思っているのではなく、反キリストの筋書きに利用しているだけなのです。
 
したがって、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、「合点が行く」という、楽山の言は、大嘘だということです。このように、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を、だまして誘導するのが、楽山のやり方です。あらゆる良心の敵です。
 
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
「すべてに意味がある」ということが、頼れる思考になるでしょうか、そもそも、思考の内容を示していない言葉です。厚かましい楽山だから、気取りだけで言っているのでしょう。意味が、目的が、いちいち、納得できるように、人に、いつも、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。楽山は、安楽以外を選択しません。無反省と無責任も、楽山が選んだ、楽な生き方なのです。そして、その選択が、大きな迷惑と害をもたらします。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。楽山の読書には、そして、楽山の言葉には、このように、必ず、魂胆があるのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。影響を受けないでください。
 
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
楽山が、反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な理路は、楽山から、一度も見られたことがありません。褒めるも、けなすも、楽山の作為の恣意の芝居だと思っておいたほうがよいでしょう。
 
今までの記事で、好きなように、キリスト教と神への呪いのような悪口を、執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁なのです。こういう嘘の同情を誘う言葉を、トホホ言語と呼んでいます。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、理路は、散乱、分解して、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した意見など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、そもそも記事を書くなと言いたいのです。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストなのでしょう。このような滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
ホラーなどの超常は、趣味にしかなりません。信仰は、現実を考える人に与えられます。キリスト者は後者を選び、楽山は前者を選びました。
 
したがって、楽山が悔い改めの言葉を言っても、それは嘘だと見なされてゆきます。それを責める資格は、楽山にはなくなるということです。「とほほ」は、その典型ですが、ゆくゆく、楽山にとって、大変なことになるでしょう。書くたびにバレてゆくのです。こうはなりたくないものです。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己中ですから訂正不能だと思います。楽山とは、誰も、対話は成立しません。ふつうに対話している、あるいは、対話が成立していると思っている人は、既に、楽山による破壊が始まっていることを考えるべきです。
 
「狼と少年」のことを時々書いてきましたが、要は、狼が来た!と嘘ばかりついていると、本当に狼が来ても、誰も信じなくなるということです。楽山に対しては、関係を断ち、逃げてください。嘘吐きだけでなく、楽山こそが、狼です。
 
 
嘘しか言えない狼が来た

嘘しか言えない狼が来た
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月10日、再録+加筆)
 
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
ということを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
ということを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
ということを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
いつも成長しうるということであり
超然とすることではないから
決めつけないことである。
 
信仰は人を
決めつけや思い込みから自由にする道である。
神の前で
決めつけを語ることの罪を知るからである。
 
 
聖書を読んで
人間として受け取れることを受け取るのが信仰です。
 
人間として理解も共感もできないゆえに
人間として受け取れないことは
すなわち超常のことは
人間としては保留して
神にお任せするのが信仰です。
 
あったなかった・・を決めつけて、
そこに、こだわるのは、信仰ではありません。
 
信仰は、人間の温かい感性に響くものです。
 
日常しか知らない人間にとって
超常への方向性は、人間の感受性を鈍らせてゆきます。
能力の限られた人間としての領分を弁えるべきです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
幸福探検隊
@KOU529529
·11時間
【二世問題】親は自分の価値観を子どもに押しつけます。そのうえ正しい信仰で教育しているという意識が、いま苦しんでいる人の姿を見えなくしてしまいます。教団の外での人間関係を築くことも困難にしています。二世問題を真剣に考えましょう。救いの手を差し出している人が待っています。
午後8:28 · 2021年5月31日·Twitter Web App
 
引用元ではなく、引用~利用~悪用している楽山を批判しています。正義の味方気取りで、アンチを装う楽山に、決して近づかないでください。楽山は、「正しい信仰」を何も知りません。なのに、正しいことを教えているつもりの悪意~霊能者妄想によって、HSもアンチも、だましています。
 
楽山は、例えば自己中など、人それぞれでないことを、人それぞれと思わせる詭弁によって、楽山自作の反信仰の固定観念を宣伝してきました。楽山の生き方は、その固定した偽善のハナタカによって、人を人とも思わず、人を苦しめ、疲労させてゆくのが快感、という、サディストの汚い欲望です。
 
楽山の汚い欲望は、引用にも表れてきます。引用を止めることは出来ないのでしょうけれど、その都度、楽山の引用の動機が、楽山の欲望の悪意であることを指摘し、批判して、警鐘としています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、批判に対して、決めつけだけを返してきました。それは、返しにはなりません。楽山は、偽りを言う口だけを持ち、聞く耳を持ちません。こういう人を相手にしてはいけません。楽山を真に受けると、疲労し、感性が鈍くなり、人格が破壊されてゆくでしょう。入り口でブロックするべき人です。
 
 
 
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  的外れの批判(2)
 
 
一応、コピペできた文章について、批判してゆきます。対象となるブロガーは、佐倉哲という人です。
 
筆致が楽山に似ていますが、今の時点では、断定はできません。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
無理に、信条や教理を信じ込むことが信仰だという主張のようですが、そこで、既に、間違っていると思います。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、キリストを好きになり、生きる縁(よすが)とすることです。
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要かどうかで判断され、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではなく、今生きている自分にとってですから、人間としての必須の共通や共有はありうると思いますが、個人によって、救いや癒しの言葉が、異なってくるのは不可避であります。
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということもあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、正否を理屈で、決められる問題ではないのです。
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で大事な言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。訂正不能にならなければよいと思います。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。誤りも何も、あるのは、聖書ではなく、私たちなのです。
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は完全になることはありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが、間違いなのです。何も出来ないのではなく、言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。少し、呆れます。永遠の命を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、想像、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、佐倉氏は、相当なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴化道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、著しく落ちます。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、悪い例ばかり、重ねてきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種は、いったい誰なのでしょう。
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
こういう謎解きみたいな考え方をするところ、楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について、何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲なのか。言い方だけ、学者風だが、思想の程度が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる縁とすることです。「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、教祖願望の強い、プロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞を隠している、とんでもない人のようです。楽山と同様の病質と呼ぶ日も近いでしょう。
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを再確認しています。それこそ、ドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私などが、単一の信仰者になっています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も、恐らく嘘だと思います。もっともっと裏の顔が、いずれ明らかになってゆくでしょう。
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。こんなところにも、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、ひょっとしたら成りすましの、カルト教祖マニアがいるようです。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉氏は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。
 
 
教祖願望の詭弁

教祖願望の詭弁
 
 
(2021年12月30日)
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
 
 
(近況)
発熱で入院していた母は、12月29日、総合病院を退院して、元の老人ホームに戻りました。
私は、明けて、1月4日、入院費を払いに行きます。
 
 
 
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