ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:霊能者気取り

 
  楽山の感性鈍麻2
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(5)信者の反応3
 2020年10月31日 楽山日記(LD)
 (一部省略)
 
 
楽山は「鬼滅の刃」が、よっぽど好きなのでしょう。この映画をHSが批判していることで、矛先をHSに向けて、楽山自身の問題からどんどん話を逸らそうとしているようです。HSの、この映画への評価に関心はありません。このようなやり方で、楽山が、自身の問題から目を背けることを批判します。
 
 
*ダメ出し
 今日は、ツイッターで、遠江秀年氏の動画が流れて来たので見てみた。
・「鬼滅の刃」の黒鬼と、草津赤鬼の対決【大川隆法霊査】 - YouTube
 」
遠江氏は、ずいぶんボカした言い方をしているけれども、それでも幸福の科学(HS)では、「鬼滅の刃」にダメ出ししていることは十分に分かる。
そのためだろう。コメント欄では、信者らしき人たちが、「鬼滅の刃」をおとしめる発言を連発している。そのなかには、単なる感想ではすまされそうにないものもある。たとえば、これだ。
2020-10-31-06_40_36 女性の新人の作家にしては
 」
気持ち悪い、グロいというのは、個人の感想であろうけれども、女性にしては…みたいな言い方は、差別、名誉棄損とみなされ、糾弾されても文句はいえなかろう。
 
気持ち悪いのは、そして、宗教を駄目にするのは、楽山です。悪口をHSに向けて、安心して好きなように、いじっています。問題は、楽山が、宗教、特にキリスト教をおとしめて、今も平気でいることなのです。楽山は、無反省であるために修正と学習機能が働きません。ゆえに、成長がないのです。
 
つまり、楽山が、批判されても全く弁明できないのに、後悔もせず、反省もせず、ゆえに、修正することもなく、学習することもなく、何事もなかったかのように、無責任な発言を、今も平気で出来ることこそ、人間として異常であることの証拠になっています。
 
楽山の、自らの置かれた状況を弁えない精神こそ、ほぼ恒常的で体質的な高等感情の鈍麻であり、誰よりもグロテスクなホラーなのです。楽山に、他者のことを言う資格はありません。どうか、楽山の言うことを真に受けないでください。どうか、楽山を相手にしないでください。
 
 
*右向け右
それにしても、こういう信者たちを見ると、大川隆法の言葉(および霊言)によって、信者はみんな一斉に同じ方を向くというのがよく分かるなあ。そうではない信者もいるのだろうけど、それはあくまで少数派であり、稀な存在にすぎないだろう。
 
まるで、自分が批判されていることの腹いせのように、HSを責めています。楽山は、自分と同じ方向を向かないもの、例えば、キリスト教を、おとしめたり、また、逆に持ち上げる芝居をしたり、実に、いい加減なやり方で、批判したつもりになる人です。本気というものが存在しない楽山です。
 
「鬼滅の刃」という鬼退治のヒーローものの映画を、ホラー的要素で感想を書き、そのいちばん大切な人間的な共感を全く受け取っていないことが明らかであり、楽山の感受性が、超常・魔術・ホラーを楽しむ趣味にしか向いていないことを露呈してきました。楽山は、泣けない人なのでしょう。
 
 
以前、宏洋氏は、HSでは何でも大川隆法の言う通りにしなければならない、大川隆法が誰それがかわいいと言ったら、そのように思わないといけない、「いいえ、自分はそうは思わない、××の方がかわいいと思う」と反対するのは許されないという主旨の発言をしていたけれども、今回の件を見れば、これは当たらずとも遠からずということは言えそうだ。
 
こういう「言う通りにしなければならない」「反対するのは許されない」といった、きわめて単純な言い方の批判しか出来ないのは、楽山自身が、無反省や無責任、反社会であり、不感不応、冷淡であるために、人間性に関することについて、まるで、感受性がないからなのです。
 
ゆえに、楽山らしい「当たらずとも遠からず」などという遠回しのボンヤリ言語の言い方で、責任回避が表れてくるわけわけです。自己批判の内省ができない楽山に、誰かを批判する資格はありません。
 
 
*過去
ちなみに自分は、会員だったころは、上の信者たちと大して変わらなかった。たとえば、ずいぶん古い話ではあるけれど、フライデー騒動のときに、支部で、「フライデーはけしからん。講談社の本は読んでいかん。現代の悪魔は、活字から入ってくる。だから講談社の出版物は読んではいかん」という話を聞けば、自分はそれに従っていた。
 
楽山は、元々の欠陥から、主体性も自立性もなくて、カルトにも、世評にも、ひょろひょろ乗ってしまうくせに、そのことを、全く自覚せずに、他者を批判するわけですから、書けば書くほど、自己中心で他者を責めるだけの病質が明らかとなって積み重なってゆくわけです。
 
批判というのは、ある種、恥を覚悟で、真実と正義を追求することですが、楽山が違うのは、最初から、おのれを悪の範囲外において、真実と正義が既に確保された気分から物を言っていることです。そこは、恥を知らない、実に、おぞましいところなのです。
 
 
だから、本を買うときは、必ずどこの出版社かを確認し、もし講談社のものであれば買うのは断念した。どうしても読みたい本であれば、講談社のものでも買ってしまったけれども、そういう時は辺りを見回して、誰からも見られていないことを確認した上で、後ろめたさを感じつつ買ったのだった。
 
批判が単純なら、その行為も単純になります。その結果、盗人のように、こそこそと、動く、というより、だんだん、虫のように、這うように、目立たないことを確認しながら、じめじめと、蠢(うごめ)くしかなくなってゆきます。
 
 
あとは、当時のHSでは、ロックは地獄的なものとされていたので、ロックを聴いたり、バンドをやるのにはうしろめたさがあり、早くこういうことは止めなければ…という思いを常に抱えていたのだった。
こういうことは、今にして思えば、じつにバカバカしいことではあるが、信者、会員でいるうちは切実な悩みであったのだ。
 
うしろめたさを、どう考えているのでしょう。あの頃は・・で、振り返ることができるのは、後悔している人です。楽山には、あの頃のせいにして、HSのせいにして、何でもかんでも他者のせいにして、本当の悔いとか反省とかを知らない態度と姿勢が、書く文章に表れてしまいます。
 
楽山は、妄想さえも信じ込む人なのでしょう。そして、今は、自分が、妄想して、柔らかさに見せかけたボンヤリ言語やトホホ言語で、信じ込ませようとしているのです。中身は、浅く、自己正当化に過ぎないものです。しかも、楽山は、当たり前のはずの、責任感がありません。
 
 
というわけで自分は、もともとは「鬼滅の刃」ファンだったにもかかわらず、教団の方針によって、それを嫌いにならなければならない状況に陥っている信者がいるとしたら、本当に気の毒に思う。
 
このように、悪いことは人のせいにして、反省せず、上から見下ろして、信者を哀れむ態度のみが表れています。楽山は、自分が、上にいて、何事か教え、憐れむ主体である前提でしか、物が言えなくなっているようです。真実追求とは、真逆であります。
 
 
まだ未確認ながら、ツイッターでは、信者同士がフェイスブック上で「鬼滅の刃」のことで喧嘩したという話がながれてるけど、もし今回の鬼の霊言が原因でそういうことが起きたとしたら、これも気の毒であるし、残念なことだと思う。
 
こういう人は、自分は正義の立場にいる、という前提で、他者を、気の毒、残念、などと言うことになります。ボクは大丈夫だけどね・・という高慢な楽山が見えているのです。これからも、楽山から、偽善の臭い憐れみを向けられる人々が増えてくるでしょう。
 
一見、同情しているように見えて、病質者というのは、心の真実の豊かさが育っておらず、弁えも節操もないために、物を言えば、高慢、傲慢、自慢、というのが、表れてくるのでしょう。愛と同情と共感に見せかけていますが、これは、実に陰湿な、そして婉曲的な、軽蔑、侮辱の類なのです。
 
「殴られるより悪いことがある(三島由紀夫)」を、私が、しばしば引用するのは、まさに、この楽山のような人がいるからです。楽山の対象は、同情されているのではなく、軽蔑されているのです。それが、楽山の快感なのです。体よく誉めることが侮辱になる・・あり得ることなのです。
 
    「殴られるより悪いことがある」
 (三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞字幕)
 
 
鈍感 無力

鈍感 無力
 
 
(2020年)
(2022年11月25日、再録+加筆)
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の特徴
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
Wiki
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を上手に読む女性の声が
芸術作品を説明している
 
骨を上手に覆い隠す
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
 
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
すり替えられた名前は上手だ
 
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
 
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
 
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
 
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  青春と反骨
 
青春
青い 春
これは明らかに老人臭さが
昔を懐かしむ名だ
青は未熟
春は陽気
青春は未熟に浮かれる
 
青春
青い春
これは明らかに生きる欲求に満ち溢れた
人の季節の名だ
青は新芽
春は芽吹き
青春は新しく活(い)きる
 
肉体はとっくの昔
青春の嗅覚も色も失っているが
懐(ふところ)のどこかに
欠片(かけら)のように熱(ほとぼり)のように
否(いや)だと言える尖端を欲しがっている
肉はなくても血の通う骨はありたいと
糸屑のように温もりのように
関わりの緒(いとぐち)を求めている
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
>>引用ツイート
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。(『聖書に見る人間の罪』)
<<
午後3:15 · 2022年11月23日
 
楽山は「自分のほうが正しいと思って」固定する、訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山の正当化は嘘と詭弁に満ちています。何でも引用して、上から、単純に評価して、歪曲して、言えた気になり、不祥事を他者のせいにしてきます。
 
「当たってる」で同意し「気がする」で曖昧にして刷り込んできます。実際には、何かを本気で考えたという実績は皆無であります。楽山は、人の言うことを受け取って考えるということが出来ないからです。出力だけで満悦したいのです。さらに、思慮深い人と思われたいのです。実際は、真逆です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分の欠点を認めないということは、人生において不祥事に結びついてきます。しかも、自覚がなく、反省しないために、進歩がなく、訂正不能になり、決めつけの偏見だけになり、真・善・美・信などの大切なテーマについて、何も成り立たず、迷惑なだけの、未熟な自我を形成してしまいます。
 
このコメントを見るたびに、楽山の悪性度の高さを確認します。保身だけの卑怯者です。そのために、平気で嘘を吐き、印象操作の引用をして刷り込もうとします。もはや、過去3年以上の負の実績によって、楽山の言は、汚染した灰のように、質量もなく、見苦しく虚空を舞っているだけです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の霊能遊び2
 
 霊言と、本人の言葉との関係(傲慢、蔑視)
 2014年11月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、数日、記事を書いていないと思っても、また書いてきて、また批判するということが、最近もありました。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)から書かずにはおれない自己顕示欲の体質のようです。
 
頭ごなしに言うのでなくても、新しい人からの、好意的に見える誘いには注意しておくべきです。例えば、読んでいて、どうも、心に響くところがない、こっちの話を聞いていない、・・などと思った相手は、要注意です。
 
かなり前の楽山の記事ですが、有名人も、楽山が扱うと、オモチャ以下に悪用され、もてあそばれるようで、そういうところが、楽山は、何も変わっていないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には成長がないのでしょう。
 
 
*高慢、蔑視
民主主義っちゅうのは、建前や理想は美しいが、本音は、「こんなやつらに頭下げないかんのか」というのが、まあ、本心やろ。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年3月17日初版第8刷、p.34)
 」
この霊言を読んで思い出すのは、大川隆法氏が街頭演説で語ったとされる言葉である。
 
楽山は、世辞と芝居以外では、人に礼を取ることはありませんでした。世辞と芝居で、やさしい人柄という好感を得て、丁寧語で、誘導してゆくというやり方です。その証拠となる詭弁と嘘が、私の記事に、たくさん残っています。高慢・蔑視が、楽山の本性です。
 
「大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』」というのは、いわゆる霊言の類でしょう。楽山は、HS批判者であるはずが、ORの発言を信じているらしいことが表れています。松下幸之助を実在のように扱っているからです。霊言を信じ、霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山です。
 
 
人間様に投票で選ばれるなんて、もう神様、仏様、頭から、もう火を噴きそうなくらい、腹の立つことではございますけれども、これが、時代が時代であるので、こういう時代もあるかな、と、今思っておるんです。
 <21日街宣Part-2の総裁先生街頭演説 高松市内>
 」
どちらも、その根底には同じような発想が潜んでいるように思える。どうしてそんなに傲慢になることができるのか、人を見下すことができるのか、不思議だ。
 
これこそ、楽山に対して感じていることです。実に白々しい。自分が言われそうなことを、他者に向けている狡猾さと矛盾が、楽山には平気なのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDならではの特徴なのでしょう。人の振り見て我が振りを直さず、嘲笑って上機嫌な楽山です。
 
 
*追記
次の言葉を見つけたので、追記しておく。
民主主義ってのは、基本的には、〝阿呆の祭り〟なんだよ、君。  
(大川隆法『龍馬降臨』幸福の科学出版、2010年、p.194)
 」
民主主義の根底には、多数決には神の意志が現れるという考え方があると聞いたことがあるが、大川隆法氏にも、大川隆法氏に降りてくる霊にも、そんな考えはまったくなさそうではある。
 
多数決に神の意志が表れるとは限らない、というのは、常識であります。多数は、流される場合があるということです。ゆえに、警鐘や批判が、言論の自由として、大切なのです。自由が身勝手となり責任を負わない楽山は、ここでも、自らの知識の欠陥を露呈しています。
 
楽山が、勉強したつもりでも都合のよい言葉しか受け取らず、学習になっていないことが表れています。楽山には、辻褄合わせだけのために、部分で全体を語る、全体の曖昧さで部分を決めつける、というような詭弁が随所に見られてきました。
 
 
*追記
下の言葉を見つけたので、メモしておきたい。
実際に大臣をしている人たちも、テレビに映ったら偉く見えるだけで、大したアイデアなど持っていないのです。
(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.283)
 」
氏は、一般大衆に対してばかりでなく、地位、名誉のある人物に対しては、この手の発言は度々あるようだ。現代では政治家だからといって無条件に尊敬されることもないだろうけれども、それだからといって、これだけ無造作に人をバカにした発言をし、それを活字にするというのは珍しいのではないか。
 
楽山は、鋭さがなく、無造作に、人をバカにして、下に見て、教える態度、評論家気取り、インテリ気取りを見せてきます。嘘と詭弁の荒らし的な本性を、ずっと隠しながら、誘導してきたのです。結果として、他者に、恐ろしく無駄な疲労の時間を負わせてしまう病質なのです。
 
 
 霊言と、本人との関係(個人崇拝)
 2014年11月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、霊能者気取りと、雑な筆致から、今までのことも併せて、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしい自己満足の文章になっています。
 
 
*崇拝を求める高級霊?
わしは、ほんまは神社ぐらい建ててもらわないかんと思うとる。軍人さんとかは、東郷神社とか乃木神社とか建っとるけども、松下幸之助神社ぐらいは、ほんまは、あってもええんや。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.118)
 」
とある方が指摘されていたのだが、実はすでに、松下幸之助の社はあるらしい。検索してみると容易に出てくるが、どうやらこのことは、松下幸之助(霊)は知らなかったらしい。
それはともかく、自分を祀れという発想は、下記の発想に似ているようだ。
 
こういうことは、宗教を語る上で重要なことなのでしょうか。楽山は、茶化しているだけではないのでしょうか。松下幸之助は、自分を神としていたのでしょうか。神社が建つくらいは、貢献に報いるための記念碑的なものではないのでしょうか。無分別に話を偏見に導いています。
 
このように、本筋ではないところの、ゴシップのような枝葉末節のエピソードを、宗教の重要度の分け方も考えずに、並列してくるのは、いちゃもんの言い方なのです。ゴシップで笑いたい楽山らしい書き方ではありますが、そこで短絡して「発想に似ている」などと言うのは、論旨を乱すだけです。
 
 
池田大作守護霊 ああ、抑えてるんだ。「信濃町の駅を降りたところに、三十メートルぐらいの池田大作像を建てて、みんなに参拝させたい」という気持ちは、もう十二分にあるよ、だけど、理性で抑えてるんだ。
(大川隆法『宗教イノベーションの時代 目からウロコの宗教選び②』幸福の科学出版、2010年、p.258)
 」
松下幸之助(霊)と、池田大作守護霊が、似たような発想をしているところはもちろん、池田大作守護霊の方が、松下幸之助(霊)よりも、自制的であるというところがおもしろい。
 
「おもしろ」がっているようだが、松下幸之助が自分を拝めと言ったのでしょうか。楽山のフィルターを通すと、話の軽重が、ごちゃごちゃにな霊の話になり、有名人を、不必要に侮辱することになるでしょう。楽山自身の、楽山大社にでも祭られたいという妬みでもあるのでしょうか。
 
こういう人の悪口の類を、面白おかしく揶揄することで、楽山は、不遇の身を慰めているのでしょうか。自慰行為を人に見せて楽しいのでしょうか。ふつうは、もっと、自身のことを省みて考えるものです。楽山は、特徴的に、他者のことを云々することだけに執着し続けているのです。
 
 
ちなみに、大川隆法氏は、自分の写真や、自分そっくりの像をつくって信者に拝ませていた(る)という。大川隆法氏も、松下幸之助(霊)も、池田大作守護霊も、それぞれ別人格のはずだが、三者ともに、人々に自分を拝ませたいと考えているらしいことは、とても興味深いことである。
 
宗教の二人はともかく、松下幸之助は、実業家ですから「自分を拝ませたいと考えて」いては務まらないと思います。そういうことも考えずに、極めて、粗暴に、有名人を、ひとまとめにしてゆく楽山の心性のためには、神社どころか、墓も立ててもらえないのではないかと思います。
 
松下幸之助の「(霊)」とは、どういうことでしょう。証拠が示せないから責任逃れのつもりではないでしょうか。どんなに、人を侮辱しても、傷つけても、人に疲労と徒労を与えても、罪悪感を感じず、恥を知らず、平気でいられる自己愛性パーソナリティ障害を、楽山は表しているだけなのです。
 
 
*追記
大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想をしているらしい原因については、いろいろと考えられる。
・大川隆法氏が行っている霊言とは、大川隆法氏本人の考えを発表する際の表現形式にすぎないため。
・大川隆法氏と霊人たちとの意見が、たまたま偶然に同じようなものだったというだけのこと。
・霊人たちが霊言する際は、大川隆法氏の言語中枢を使用するのだが、そのとき、たまたま霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまうことがある。そのため霊人たちと大川隆法氏との考えが似たものになることがあるのかもしれない。
 
「大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想」・・と、本人と、霊言で語られた霊を、同じに扱っている楽山です。ORの「表現形式」と言いながら、「霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまう」・・と、楽山の超常心霊信仰?を、あらわにしています。
 
気は確かか。何でも、心で感じるところがないものだから、霊で辻褄を合わせる思考であり、根拠が無く、理路がなく、自分の中で自滅的に燃え上がる衝動的発想によって、無益な屁理屈を並べています。殆ど、カルト教祖の霊を気取る妄想だと思います。
 
 
その他、いろいろな可能性が考えられるが、こういう場合はもっともシンプルなものが正解であるような気はする。
 
楽山が「いろいろな可能性が考えられる」のに、「シンプルなものが正解であるような気」がするのは、シンプルなものしか受け取れないからでしょう。根拠もなく、自分の欲するものが正解だと言って、願望と真理を混同している楽山です。そして、人間の真実に、全く目を向けません。
 
楽山の文章は、平易な顔を持ち、曖昧に婉曲にボンヤリした筆致で書いて、時々、専門用語を入れて、格上げを謀り、読む人が、反発しないように、謙虚芝居や、トホホなどと、恥ずかし遊びを入れてきます。正直さが皆無です。
 
楽山の文章は、全体に締まりがなく、姑息的に、その時、その場の、良い気分を求めて書いてきます。総じて、中身のない無駄話であり、真に受けると、異常な疲労が待っているだけの毒性の高い文章です。さらに、一切、責任を負わず、反省もしません。自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
妄想の無理路

妄想の無理路
 
 
(2021年)
(2022年11月24日、最高+加筆)
 
 
 
  自由の祈り
 
涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
 
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
 
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
 
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
 
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる方向を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。それが、ふつうに、"身の程を弁えて"、即ち、能力と適性に応じて、進路を判断するということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の零の話2
 
 宗教のはじまりは、神の啓示ではなく、人々の営みによる!?
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月29日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の精神障害は、病的な体質なので、医者にも、宗教家にも、治せません。かつ、このような自己満に生きている者は、書くことをやめません。書けば書くほど、批判の対象として資料となります。不変・停滞したままの楽山のほうが、ボロボロになってゆくことに、まるで気づかないからです。
 
楽山は、"霊"の話をしたつもりでしょうが、空想と思い込みに過ぎず、中身がゼロなので、"零"の話というテーマにしています。楽山が、情けないほど人間について、特に自分について、無理解なのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるものだと思います。
 
 
*宗教のはじまり
巷では、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」という話があるが、中村圭志氏の著作にもそれと似た考え方が書いてあった。
そもそも、一つの思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべてを、その最初にある起源の一点、一人の偉大な開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザの功績に帰すことはできないでしょう。いかなる思想的潮流の立ち上げも、英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.36)
 
「人が神をつくったのだ」と言う無神論の記事を楽山は、同じ狙いで引用しているようです。人は神を作ることは出来ない。しかし、人が、神のような存在を想うことはあります。あまりに悲劇が多い地上だからです。そういう魂の癒しに、まるで感受性のない者たちが、神の不在を説いてくるのです。
 
「思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべて」の起源について、すべて知っている人はいません。楽山と、引用されている学者らしい人は、とても、いい加減なことを言っています。長期にわたるプロセスの、その起源だけを否定したいようですが、遠すぎることです。
 
「開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザ」の開祖とは、キリストのことを言っているのでしょうか。キリストは、奇跡のチカラワザだけだったでしょうか。違います。この二人は、いちばん大切な、キリストの洞察と共感のことを書いていません。本質を理解していないのです。
 
「英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません」・・英雄とか独創性とかではなく、人間が生きるために、なくてはならないことを、数々の抵抗と嘲笑に遭いながら、命を賭して語ったのが、イエス・キリストであります。二人の無神論者には、なくてはならない共感する心が、ないのです。
 
どうも、この学者は、キリスト者ではないようです。反キリストかもしれません。あるいは、楽山の恣意的な選択による引用でしょうか。旧約があり、キリストが宣べ伝え、後の、信仰者や学者が、解釈や体験談を積み上げてきたわけです。キリスト信仰の心を語れない楽山は知る由もありません。
 
キリスト者が一枚岩ではないとしても、いちばん大事な信仰の心を疎かにしている学者や、何にも分かっていない楽山が、否定できることではありません。キリストの敵というのは、パリサイ人のように、命と心を救う術を持たない者たちです。楽山は、その典型的な精神病質者です。
 
 
思想や習慣に一個の中心があると捉えるのは、あくまでも当事者にとっての「心の要請」であって、「客観的事実」ではありません。歴史上の起源の一点として開祖物語の事実性を想定しなければならない論理的な必然性はないのです。私たちは、当事者の心の問題は公共的な知識にはならない、と肝に命じておく必要があるでしょう。
(同上、p.37)
 」
 
信仰は、客観的事実ではありません。心の要請に応えるのが信仰であります。この学者は、楽山と同様の反キリストだと思います。「当事者の心の問題は公共的な知識にはならない」と言っていますが、個人の心を救う信仰は、元々公共的な知識ではありません。
 
開祖物語の事実性は、キリストの、人の心への共感性に比べると、人間にとって、おおよそ、分かち合うことのできない神のわざについては保留するべきだと言っているのです。学者か何か知らないが、信仰の本質をすり替えるところは、楽山に、よく似ています。
 
 
これは確かにその通りだ。新しい宗教は、特別な能力を持つ一人の天才的な宗教家が悟りを開いただとか、神の啓示を受けたなどと称してはじめるものだという印象があるが、宗教の歴史を調べれば調べるほどそれはあくまで印象にすぎず、実際は著者の言う通りだと認めざるを得なくなるものだ。
 
いつもの太鼓持ち楽山のセリフ「確かにその通りだ」と言って、学者を理解したような顔をしているらしい楽山は、"ひょっとこ"顔に過ぎません。キリストの特別な能力のうち、人に理解可能なのは、人に対する洞察力と共感力です。いずれも楽山には全くないものです。
 
楽山は、歴史の事実性にこだわり、心の救済を、どんどん遠ざける者です。物や肉体の奇跡は、現代では滅多に起こっていないのだから、それを信じ込むことは、人を生かす信仰ではありません。しかし、終生の同伴者の共感は、人を生かします。それを、楽山は語ったことがないのです。
 
共感ということが、言葉だけ書いても、楽山には分からないのです。共感、同情、罪悪感、羞恥心などの高等感情が、楽山にはないのだろうと思います。だから、事実や史実や辻褄にこだわり、そこで、総てを語ろうとするのですが、大事なことについて、全くの無知の無恥であります。
 
 
どんなに革命的で新奇に感じられる宗教、思想であっても、それ以前の歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない。この意味で、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのは冗談のようでありながらも言い得て妙である。
 
「歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない」・・だからといって、独創的な考えをもって扉を開ける者がいなくては成り立ちません。それが救いとなった人々が古今にいるわけですから、救い主と言われているのです。
 
聖書を読んでも、話を聞いても、楽山が、救いにつながるものを何も見出せないのは、共感性を育て損なっているからでしょう。なのに、知ったかぶりして、洞察力も共感力もないのに、科学と同じような方法論みたいなことを口走る愚かさで邪魔だけしてくる楽山は、とても迷惑です。
 
信仰においては、文化的影響や、学問的発達もまた、神の導きという視点を持っていて、それが、神を恐れることにつながります。そういったことを、全く考える能力も視野もないのが、楽山であり、ゆえに、屁・理屈屋は、屁・理屈学者の言を利用して、その通りだと、はやし立てるのです。
 
神が人を造るのを見た者はいません。神が人を造るのは、その人生においてであり、どこがそうだと言えないような神の秘密、これこそが神秘なのです。そういう恐れへの感受性を全く持たない自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、ゆえに、反キリストになっているのでしょう。
 
楽山は、好きなだけ、信仰者の心の秘密のエリアを、傷つけ、侮辱してきます。それが快感で、生き甲斐なのだろうと思います。宗教の堕落による弊害に隠されている、かけがえのない福音を、知っている者は知っていて、それなしでは生きられないのに、魂の殺人を企む無神教カルトがいるのです。
 
 
*宗教は人から生まれたものなのか?
とはいえ、スピリチュアルな方面からは、「新たな思想宗教は、この世を超えた世界の存在を信じない唯物論者には人々の営みの中から生まれたように見えるかも知れないが、実際には人々の霊性を向上させようとする神の計画に基づき地上に展開されているのである。世界宗教の開祖などはそのような使命を担って生まれた存在なのである」云々という反論があるかもしれぬ。
 
インチキだけの楽山がスピリチュアルを語るのでしょうか。霊性を向上させるという言い方は、スピリチュアルの宣伝でしょうか。聖書を学んで人間として成長するのが、信仰であります。"霊" という言葉は、恐らく、楽山が、気取るために悪用した最初の材料なのでしょう。
 
 
これはこれでスピリチュアルな世界観の内側ではそれなりに筋が通っているようにも思われる。けれどもこの考え方の背景にあるのは「人の本質は霊であり、輪廻転生をくり返してさまざまな経験を積み、霊性を向上させることを目指している」という霊性進化論であり、これはダーウィンの進化論の影響を受けて生まれた思想であるという見方があるのだ。
 
私はキリスト者のつもりですが、霊性進化論などという超常の論理については、聞いたことがないし、むしろ、霊に興味があるのは、教祖願望の楽山のほうでしょう。しかし、楽山の教えには、いちゃもんはあっても、救いにつながる何ものも見い出すことは出来ないのです。
 
霊から、超常の輪廻転生に、話が行くのでしょうか。さらに、「霊性進化論」という言葉さえも利用して、学問だという箔を付けて、さらに、ダーウィンの進化論まで結びつけるに至っては、食傷というか食中毒とでも言うべきでしょう。ゆえに、楽山は、ネットにブログに吐いているのです。
 
このように、楽山は、学問や学者を引用~悪用して、実質がないのに、言葉の面構えを作ります。これを、知性であるかのように受け取ってしまうと、実は、楽山の、欺瞞に満ちた架空の、霊が分かるっぽい幼児体験から、右翼思想にまで、誘導されてしまうという悲劇が待っているのです。
 
不思議なことですが、神の超常奇跡を否定する楽山は、自らの、仏様の気持ちが分かるっぽい?ということに始まるところの霊を信じているのです。唯物的なことを言えば言うほど、ほころんでゆく宿命を持っていますから、今後も壊れてゆく楽山を相手にしてはいけないと思います。
 
 
もしこの見方に真実があるなら上の考え方は一人の天才が悟りを得るなり神の啓示を受けるなりして突然に言い始めたのではなくて、先行する思想宗教等の影響下において生まれたものであり、新たな思想宗教は人々の営みの中から生まれるという見方の正しさをますます補強するものでしかなくなるだろう。
 
「新たな思想宗教」は、人間において、一挙に完成されるものではなく、数多の先人の真摯な努力と実践の中で、一人の優れた洞察によって開かれるのでしょう。そこに働く神の秘密の導きを、恐れもなく否定する楽山には、恐らく、別の近道、つまり、暗闇へと滑り落ちる勾配への引導が渡されるでしょう。
 
「人々の営み」という曖昧な表現が使えるところではないのです。さらに、この「人々」の中に、決定的に、楽山は含まれません。楽山は、人の営みを妨害する作用しか持っていないからです。ゆえに、楽山の味方も、何をも補強せず、ただただ、堕落が堕落を呼んでいるだけです。
 
 
こうしてみるとどうやら現時点においては、宗教というものは、地上の人々の間から生まれたものだとは言えても、地上の人々の手には届かないこの世を超えた世界で生まれたものであるとは言い難いものだと言わざるを得ないように思う。
 
このように、詭弁を進めて、何の説得力もないのに、説得したつもりになって、"現時点においては"、という免罪符まで付けて、超常の神も、地上に降りたキリストも、無視して、自身の悪魔性の霊だけは分かるっぽくない楽山の性根が、臭気を放ってきます。
 
「言わざるを得ないように思う」・・無責任の楽山の婉曲ボンヤリ言語も、どんどん退化してゆくのは、こちらが、楽山の文章から楽山の偽善を知り、信頼度がゼロになり、なおも書いてくる楽山の、根底にある病魔に気づくに至っているからです。楽山に近寄ってはいけません。
 
 
きなくさい霊障

きなくさい霊障
 
 
(2021年)
(2022年08月05日、再録+加筆)
 
 
 
 昔書いた聖霊の話
 
聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の話に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
聖三位は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、良心による反省力などの、人間性が育っていません。だから、反省も後悔もしない、責任を負わない、他者の言うことを受け取って考えることが出来ない、という修正不能の故障を来たして、自覚のない無病識のまま慢心して、しゃしゃり出てくる厚顔無恥となっています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「光の天使は、みな詩人である」という言葉は、何の本に書かれてあったのか失念していたが、ここにあったか…。
どうやら、若干の記憶の変換もおきていたようだ。
この言葉を念頭におきつつ、愛のあとさき、格はいく集を読むと感慨深いものがあるなあ。
「(引用)
ryuho-okawa.org
天使たちが人々を導く方法
言葉というのは非常に大きな力を持っているわけです。 そして、言葉というのが、言葉および言葉に備わっているところの霊力というのが、天使たちが人々を導くときの最大の方法論の一つであります。これが、宗教家がみな詩人であることの事実そのものであります。
 」
午後7:42 · 2022年8月4日·Twitter Web App
 
HS教祖ORの引用で「天使」「霊力」というのが方法論で「宗教家がみな詩人であることの事実」で、楽山は「感慨深い」と言っています。アンチではないことの証明です。我もかくありたい・・とでも言いたいのでしょうか。楽山の、嘘と詭弁と猿芝居で惑わしたい教祖願望でしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  人のことばかり語る楽山2
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を短絡した空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
楽山のように自分の罪と偽善を棚に上げて、他者のことを批判することは、偽善者の罪業であり、どんなに、もっともらしいことを書いても、もっともらしい文言の分、むしろ詐欺性は増すのであります。悪を悔い改めないまま、善を上塗りしても、際立つのは、偽善性という最悪だけなのです。
 
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約3年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と言わざるを得ませんが、楽山の学者気取りと、訂正不能の反キリストぶりは、理路もなく、良心もなく、いつも自分のほうが上という自覚から、反省も後悔もなく、放たれ続ける毒矢であります。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が、詭弁で正当化する間、症状が表れてくる成り行きなのです。
 
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
それで「変えさせることはできない」から好きにさせろとでも言うのでしょうか。楽山を変えることは、とうに諦めています。批判によって楽山の詭弁や嘘を指摘して否定すること自体が、楽山に対して為すべきこととなっているわけで、そういうことも書いてきたのに、まるで理解できない楽山です。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常霊能フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
神と宗教と信仰を、人間には分からないはずの神秘体験で語れると思っていること自体が、楽山の最初から今に至るまでの、理路と直感の貧困というべきでしょう。宗教が必要ないなら、分かりもしないのに宗教を、安い先入観で語るべきではないのです。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように捨てられるべき経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、誰にとっても、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、伝わることもなく、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。自己中のために、いたるところで矛盾してくる楽山の言です。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの病質者なのです。
 
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、神秘体験どころか、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という安易な言い方にだまされないでください。こういう気安い言葉の企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」て?人をだまそうとしてくるのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
楽山は、どう「乗り越える」と言うのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、柔和な自分、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。幼稚な騙し文句です。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える重い不治の要素なのです。
 
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい?楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知になり、感性が不感になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
分からないと言えない病質者の成り行きを見ています。つまり、罪の意識がなく、ゆえに、反省の必要性も感じず、キレイごとを並べて言い得た気分に浸る悪癖は、楽山自身の人格を、結局、病理に沿うて低く低く、ぬめりながら、崩壊に導いてゆくでしょう。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくい筆致で、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどでの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚と真実の言論から、はてしなく遠ざかって、持病を見せてくるのでしょう。
 
楽山のような人は、他者を利用するだけで、無反省だから学習せず、無責任だから何もはっきり言えず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないからバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、良心と責任感のある自立した人間とは逆の方向です。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、真実の代わりに嘘、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
血だまりが塒(ねぐら)

血だまりが塒(ねぐら)
 
 
(2021年)
(2022年07月20日、再録+加筆)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
  塒(ねぐら)
 
見てわかる星座は三つだけ
オリオンと
玄関先から
晴れた夜には
北斗七星かカシオペアか
どちらかが見える
やあ見える
北極星だ
便利な星座を覚えたものだ
ということは
我が家は北向きだ
田舎
という理由だけではなかったか
他の団地より安かった
 
最初案内された所は
もっと安かった
片方が崖
それを言ったら
家は道路寄りに建てますから・・・
遠慮しといた
 
この家だって
私にとっては塒に過ぎなくなったが
住む人が住めば立派なマイホーム
私は塒の方を選んだはずだ
 
学生時代のアパートを思い出す
狭い路地の行き止まり
ベニヤ板の壁に
ナメクジが這い上がってくる部屋
高い窓を開ければ墓場だった
この立派な塒が望みだったはずだ
 
 
  虚々・日々
 
何者でもなくなる
という事実だけが残る虚無へと
志向するかのように老いてゆきながら
実は虚数のような実があり
肉体と空腹は生きていて
日々は流れ
風通しを拒みながらも
ときに遊びさえする
 
実益や価値とは無縁なことばかり
何かやっている日はまだ増しなうち
に宿る時間は
自分のものであるべきだろうか
肉体よ
この日お前を外へ駆り立てたのは
流れ費(つい)える日々の惰性か
それともお前に残された情性か
 
暑い・・
 
異常な陽気に
汗を滲(にじ)ませ
濡れた額を何故か恥じて
絡み付いてくる前髪を
手を以(もっ)て汗ごと撥ね上げても
肉体よ
濡れた手で拭える実体があろうか
 
取って返すように虚しく
塒(ねぐら)へ向かえば
肉体を微かに掠めて過ぎる風の時
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
巨悪は、大方、偽善を伴います。隠蔽偽装を謀るからです。ゆえに、偽善こそが最悪であります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の人間離れ進行2
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 
 
*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。
神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、
 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の、超常夢想の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 
神秘からは、どう見ても、嫌われるだけだろうと思われる、身勝手な楽山が、自分こそと言いたげに、神秘を振り回しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)になると、ここまで醜い人格の変質~破壊に至るのでしょうか。
 
 
*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)
 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。もはや、そこは、条件反射を繰り返す鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。楽山は、既に離れているのでしょうか。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、楽山に表れているように、人間として、おしまいになります。おぞましいことです。
 
 
これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。
 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、どっぷり浸かって、仲間を求めています。
 
 
またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。
 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 
恐らく、楽山は、自らの神秘体験が、いくらなんでも貧弱なために、神秘をもっと身近なものにして、楽山が扱いやすいものにしたいのでしょう。特別じゃないが、楽山が自分も体験者ということで、結局、教祖にでもなりたいのでしょうか。
 
 
自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。
 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 
 
*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。
 
やはり、楽山は、既視感も含めて、有名人の神秘体験という方向に誘導して、霊が分かるっぽい体験をひけらかしたいのでしょう。自分を誇大化して、霊的リーダーにでもなりたいのでしょうか。もしそうなら、心霊どころか、汚い汚い欲望の下種だということです。
 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 
 
さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。
 
このように、死んだ人を、どこまでも、神秘のほうに、話を引っ張ってゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの哀悼の共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行しているのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない高等感情鈍麻であります。超常趣味というより超常依存~中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をして、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、ボンヤリ疲労感を感じたことがあります。その反省から、楽山批判を続けています。
 
楽山は、子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。よく読めば、理解力も読解力も共感性も鈍く壊れていて、安っぽいペテン話しか出来ない人です。楽山の詭弁は、奇弁であり、危弁であり、危便であり、鬼便であります。どうか近寄らないでください。
 
 
偏執の変質の末路が行く

偏執の変質の末路が行く
 
 
(2021年)
(2022年07月16日、再録+加筆)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
 
  太陽に抜かれて
 
見なければ抜かれることはなかったのに
じかに目を合わせて 見てしまった
あわてて瞳孔をしぼっても
もう遅い
 
見てしまった
形の 秘密を 守るために
見なければ抜かれることはなかった
剣の 一つが
瞳をつらぬいて
焼き付けた残像が
視界をさえぎり
やがて 頭痛を呼んできた
 
見たものは
抜かれた魂の幻と
めまいと
歪んだ形から
まるで不治の病のように
守りようもなく残されて
脈を打って光る
暗点
 
直接 見ては
ならないものがあるらしい
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた夏の蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  口笛の頃
 
もしそんなところがあったら
耳鳴りの今を去って
口笛の頃へ帰りたい
目に写る
錆びた刃物の
耳鳴りの
闇の
ざわめきを去って
 
口笛の
その吹かれたところから
小川を渡り
水音も風音も
野原と空の
ゆるやかな
うつりになって
音がしないほどの
肌に触れないほどの
気の流れ
草の揺れ
口笛の
音色の消えていく
少し先
空に召されていく
口笛が
口笛でなくなる
あらゆる見えないものと
いっしょになるあたり
 
いっしょに遊んだ
幻の少年が
消えていった
名前を与えられ
こめられたものたちすべて
名前を失い
解き放たれるところ
 
広い
ひろい
ひろ・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、楽山が目指してきたものは、真実の追求とは全然違って、思いつきの心霊~超常話を、趣味的な空想だけで、自分を飾る具材にしてきただけのようです。超常に拘(こだわ)る者は、日常を疎かにする典型となり、もはや、人間の大切なものなど、何も分からなくなっているのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ