ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:霊言

 
  楽山の霊能遊び
 
 霊言と、本人の言葉との関係(傲慢、蔑視)
 2014年11月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、数日、記事を書いていないと思っても、また書いてきて、また批判するということが、最近もありました。書かずにはおれない自己顕示欲の体質のようです。
 
頭ごなしに言うのでなくても、新しい人からの、好意的に見える誘いには注意しておくべきです。例えば、読んでいて、どうも、心に響くところがない、こっちの話を聞いていない、・・などと思った相手は、要注意です。
 
かなり前の楽山の記事ですが、有名人も、楽山が扱うと、オモチャ以下に悪用され、もてあそばれるようで、そういうところが、楽山は、何も変わっていないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には成長がないのでしょう。
 
*高慢、蔑視
民主主義っちゅうのは、建前や理想は美しいが、本音は、「こんなやつらに頭下げないかんのか」というのが、まあ、本心やろ。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年3月17日初版第8刷、p.34)
 」
この霊言を読んで思い出すのは、大川隆法氏が街頭演説で語ったとされる言葉である。
 
楽山は、世辞と芝居以外では、人に礼を取ることはありませんでした。世辞と芝居で、やさしい人柄という好感を得て、丁寧語で、誘導してゆくというやり方です。その証拠となる詭弁と嘘が、私の記事に、たくさん残っています。高慢・蔑視は、楽山の心性です。
 
「大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』」というのは、いわゆる霊言の類でしょう。楽山は、HS批判者であるはずが、ORの発言を信じているらしいことが表れています。松下幸之助を実在のように扱っているからです。霊言を信じ、霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山が表れています。
 
人間様に投票で選ばれるなんて、もう神様、仏様、頭から、もう火を噴きそうなくらい、腹の立つことではございますけれども、これが、時代が時代であるので、こういう時代もあるかな、と、今思っておるんです。
 <21日街宣Part-2の総裁先生街頭演説 高松市内>
 」
どちらも、その根底には同じような発想が潜んでいるように思える。どうしてそんなに傲慢になることができるのか、人を見下すことができるのか、不思議だ。
 
これこそ、楽山に対して感じていることです。実に白々しい。自分が言われそうなことを、他者に向けている狡猾さと矛盾が、楽山には平気なのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDならではの特徴なのでしょう。人の振り見て我が振りを直さず、嘲笑って上機嫌な楽山です。
 
*追記
次の言葉を見つけたので、追記しておく。
民主主義ってのは、基本的には、〝阿呆の祭り〟なんだよ、君。  
(大川隆法『龍馬降臨』幸福の科学出版、2010年、p.194)
 」
民主主義の根底には、多数決には神の意志が現れるという考え方があると聞いたことがあるが、大川隆法氏にも、大川隆法氏に降りてくる霊にも、そんな考えはまったくなさそうではある。
 
多数決に神の意志が表れるとは限らない、というのは、常識であります。多数は、流される場合があるということです。ゆえに、警鐘や批判が、言論の自由として、大切なのです。楽山は、ここでも、自らの知識の欠陥を露呈しています。
 
楽山が、勉強したつもりでも都合のよい言葉しか受け取らず、学習になっていないことが表れています。楽山には、辻褄合わせだけのために、部分で全体を語る、全体の曖昧さで部分を決めつける、というような詭弁が随所に見られてきました。
 
*追記
下の言葉を見つけたので、メモしておきたい。
実際に大臣をしている人たちも、テレビに映ったら偉く見えるだけで、大したアイデアなど持っていないのです。
(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.283)
 」
氏は、一般大衆に対してばかりでなく、地位、名誉のある人物に対しては、この手の発言は度々あるようだ。現代では政治家だからといって無条件に尊敬されることもないだろうけれども、それだからといって、これだけ無造作に人をバカにした発言をし、それを活字にするというのは珍しいのではないか。
 
楽山は、鋭さがなく、無造作に、人をバカにして、下に見て、教える態度、評論家気取り、インテリ気取りを見せてきます。嘘と詭弁の荒らし的な本性を、ずっと隠しながら、誘導してきたのです。結果として、他者の人生に、恐ろしく無駄な疲労の時間を負わせてしまう病質なのです。
 
 
 霊言と、本人との関係(個人崇拝)
 2014年11月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、霊能者気取りと、雑な筆致から、今までのことも併せて、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしい自己満足の文章になっています。
 
*崇拝を求める高級霊?
わしは、ほんまは神社ぐらい建ててもらわないかんと思うとる。軍人さんとかは、東郷神社とか乃木神社とか建っとるけども、松下幸之助神社ぐらいは、ほんまは、あってもええんや。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.118)
 」
とある方が指摘されていたのだが、実はすでに、松下幸之助の社はあるらしい。検索してみると容易に出てくるが、どうやらこのことは、松下幸之助(霊)は知らなかったらしい。
それはともかく、自分を祀れという発想は、下記の発想に似ているようだ。
 
こういうことは、宗教を語る上で重要なことなのでしょうか。楽山は、茶化しているだけではないのでしょうか。松下幸之助は、自分を神としていたのでしょうか。神社が建つくらいは、貢献に報いるための記念碑的なものではないのでしょうか。無分別に話を複雑にしています。
 
このように、本筋ではないところの、ゴシップのような枝葉末節のエピソードを、宗教の重要度の分け方も考えずに、並列してくるのは、いちゃもんの言い方なのです。ゴシップで笑いたい楽山らしい書き方ではありますが、「発想に似ている」などと言うのは、論旨を乱すだけです。
 
池田大作守護霊 ああ、抑えてるんだ。「信濃町の駅を降りたところに、三十メートルぐらいの池田大作像を建てて、みんなに参拝させたい」という気持ちは、もう十二分にあるよ、だけど、理性で抑えてるんだ。
(大川隆法『宗教イノベーションの時代 目からウロコの宗教選び②』幸福の科学出版、2010年、p.258)
 」
松下幸之助(霊)と、池田大作守護霊が、似たような発想をしているところはもちろん、池田大作守護霊の方が、松下幸之助(霊)よりも、自制的であるというところがおもしろい。
 
「おもしろ」がっているようだが、松下幸之助が自分を拝めと言ったのでしょうか。楽山のフィルターを通すと、話の軽重が、ごちゃごちゃになり、有名人を、不必要に侮辱することになるでしょう。楽山自身の、楽山大社にでも祭られたいのに・・という妬みでもあるのでしょうか。
 
こういう人の悪口の類を、面白おかしく揶揄することで、楽山は、不遇の身を慰めているのでしょうか。自慰行為を人に見せて楽しいのでしょうか。ふつうは、もっと、自身のことを省みて考えるものです。楽山は、特徴的に、他者のことを云々することに執着し続けているのです。
 
ちなみに、大川隆法氏は、自分の写真や、自分そっくりの像をつくって信者に拝ませていた(る)という。大川隆法氏も、松下幸之助(霊)も、池田大作守護霊も、それぞれ別人格のはずだが、三者ともに、人々に自分を拝ませたいと考えているらしいことは、とても興味深いことである。
 
宗教の二人はともかく、松下幸之助は、実業家ですから、「自分を拝ませたいと考えて」いては務まらないと思います。そういうことも考えずに、極めて、粗暴に、有名人を、ひとまとめにしてゆく楽山の心性のためには、神社どころか、墓も立ててもらえないのではないかと思います。
 
松下幸之助の「(霊)」とは、どういうことでしょう。証拠が示せないから責任逃れのつもりではないでしょうか。どんなに、人を侮辱しても、傷つけても、人に疲労と徒労を与えても、罪悪感を感じず、恥を知らず、平気でいられる自己愛性パーソナリティ障害を、楽山は表しているだけです。
 
*追記
大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想をしているらしい原因については、いろいろと考えられる。
・大川隆法氏が行っている霊言とは、大川隆法氏本人の考えを発表する際の表現形式にすぎないため。
・大川隆法氏と霊人たちとの意見が、たまたま偶然に同じようなものだったというだけのこと。
・霊人たちが霊言する際は、大川隆法氏の言語中枢を使用するのだが、そのとき、たまたま霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまうことがある。そのため霊人たちと大川隆法氏との考えが似たものになることがあるのかもしれない。
 
「大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想」・・と、本人と、霊言で語られた霊を、同じに扱っている楽山です。ORの「表現形式」と言いながら、「霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまう」・・と、楽山の超常心霊信仰?を、あらわにしています。
 
その他、いろいろな可能性が考えられるが、こういう場合はもっともシンプルなものが正解であるような気はする。
 
楽山が「いろいろな可能性が考えられる」のに、「シンプルなものが正解であるような気」がするのは、シンプルなものしか受け取れないからでしょう。根拠もなく、自分の欲するものが正解だと言って、願望と真理を混同している楽山です。
 
楽山の文章は、平易な顔を持ち、曖昧に婉曲にボンヤリした筆致で書いて、時々、専門用語を入れて、格上げを謀り、読む人が、反発しないように、謙虚芝居や、トホホなどと、恥ずかし遊びを入れてきます。正直さが皆無です。
 
楽山の文章は、全体に締まりがなく、姑息的に、その時、その場の、良い気分を求めて書いてきます。総じて、中身のない無駄話であり、真に受けると、異常な疲労が待っているだけの毒性の高い文章です。さらに、一切、責任を負わず、反省もしません。自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
楽山のオモチャ

楽山のオモチャ
 
 
(2021年11月02日)
 
 
 
  自由の祈り
 
涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
 
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
 
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
 
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
 
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる方向を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。それが、ふつうに、"身の程を弁えて"、即ち、能力と適性に応じて、進路を判断するということです。
 
 
 
 
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  楽山の無理の路2(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
つづきです。楽山の、ハッとさせられるものが皆無の記事です。
 
*愛と利己主義
この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。
愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。
 
酷い利己主義と自己中心の、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山が言っています。決して真に受けてはいけません。
 
たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。
 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、実に軽く、同じ利己主義と見なしたいようです。言葉と意味についての分別のない証拠と言ってよいでしょう。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。理路にも論理にも理屈にもなっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。楽山は、いつも、自分を高めて、よく見せようとするナルシスト・エゴイストであります。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。分からないのに書いてくるところが、楽山の病質だと思っています。
 
多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。
 
以前から、呆れているのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、自己愛の利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 
ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。
 
訂正不能の自己愛の病質で、利他から最も遠い楽山が、こういう引用をしても、説得力は皆無であります。
 
自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。
 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて引き寄せて満悦するという特徴があります。
 
*真理を押し付けないこと
これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。
 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、また、丁寧語の曖昧なボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で誘導するという、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 
でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。
 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。
 
人の言葉尻を捕らえて、HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。信仰は、見えない導きという神秘性と、努力と学習という自主性とが、不可分になっています。人間に、意識して出来るのは、後者であります。
 
他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。
 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。それは、だんだん、著しくなってゆくでしょう。無反省では、成長しないからです。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になって、好きなように語っているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 
他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。
 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 
この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。
 
テレビなどで「ノストラダムスの大予言ブーム」は、70年代~遅くとも20世紀の間だったと思います。それが、楽山の「子供時代」なら、今、楽山は、30~50代ででしょうか。それにしては、文章が稚拙過ぎるとも思います。
 
しかも、自分の不覚と未熟を、今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 
*信仰者と無神論者
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。
 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
「無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 
特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。
 
まだ「地獄」のことを言っています。「公平ではない」というのは、単純すぎる言葉です。一方、「スピリチャアル的な真理」という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つを並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 
そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。
 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象操作による刷り込みの汚い手口です。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうなのです。
 
人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。
 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想と職業を並べています。本質において違うと思います。また、職業という言葉は浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。説明がありません。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たない楽山です。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう粗雑な理路は、乱暴者の特徴です。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という個人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。差別と区別を、言葉遣いにおいて、ちゃんと分けていないようです。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。説明はしないか、できないのに、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。先入観だけの差別主義者は楽山でしょう。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が具体的にいるかどうかにかかわらず、自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。楽山のように、自分の言い分を書くだけの場合、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 
光無き誘導

光無き誘導
 
 
(2021年10月28日)
 
 
 
  視線と刃先
 
人ごみは
人ではない
人ごみは
ごみではない
 
知恵をつけ始めた子供が
はじめて手にするナイフの刃先のように
さまよう視線
ときに動きは素早くても
しばしば明確な目標を定めていない
 
目標が定まる刃先に至るとき
切り裂かれる道理が生まれ
無理が生まれるまでは
 
人ごみは人ごみである間
切る道理も切られる無理もなく
情もなく無情もなく
計られる明確さによって切り取られ
分けられてゆく
 
 
  永遠と絶対
 
永遠や絶対を求めたりするのは
それらに近づこうとするのも
人間だけ
 
動物は限りある命を
生きられるだけ生きて果てる
だから動物には
ゆとりはあっても無駄のように見えても
無駄なことをする必要もなく
無駄なことをする時間もない
 
身近なところに
その眼差しにさえ
永遠と絶対に連なる僕(しもべ)
人間も動物であるのに
 
痩せ犬が首を振り振り通り過ぎる
信じてもいい しかし
久遠
 
それは最初から届かないものとして
水晶の遙か彼方に
捨て去ったのでもなく
捨て去られたのでもなく
光の速度で止まっている
見捨てたのでもなく
見捨てられたのでもなく
 
 
 
楽山日記のコメントです。誰かは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山の無理の路2
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
去年の記事ですが、楽山は、だらだらと長い記事を書いています。内容は、殆ど空疎であります。自慢に過ぎないと指摘しても、執拗に、飾りのように貼りつけて、文脈から浮いている謙虚芝居のトホホ言語と、整わない理路と、欠落した高等感情の有り様を見ることになります。
 
*シルバー・バーチの霊訓
最近、スピ系のツイートを見るようになったせいか、にわかにその方面への興味が復活してきたので、
 
以前から、楽山は、霊が分かるっぽい自覚だけの人です。超常の辻褄だけをあげつらって、人間について考え学ぶことを疎かにすると、人間離れ、現実離れして、楽山のようになるのでしょう。
 
『シルバー・バーチの霊訓(一)』を読んでみた。ものの考え方だとか、人はいかに生きるべきかという話には、思わずハッとさせられる箇所があって面白い。
 
「人はいかに生きるべきか」ということを、霊訓?から学んで「思わずハッとさせられる」のだそうです。自分で考えることはできないのでしょうか。一気に分かったことにしたい自己顕示の霊能への欲望が表れています。
 
スピリチュアル、即ち、霊から得たものだから悦んで信頼して、人からの言葉は信頼できないのでしょう。人間の世界の怪しさのランキングが逆になっているようです。
 
恐らく、自分も霊能者という自覚があり、教祖願望があり、霊が分かるっぽいから、霊でないと信じない、になっているのかもしれません。努力をしたくない怠慢と、人間嫌いで人間離れしたがる傾向が、楽山の特徴なのでしょう。
 
年を取って感性が鈍ったせいもあってか、
 
元は感性が鋭かったかのような書き方です。
 
今はもう霊がどうしたこうしたという話にはさほどリアリティは感じなくなったのだが、
 
昔は、霊がどうしたこうしたという話にリアリティを感じていたのでしょうか。気味の悪い人です。良心的なスピリチュアルは、人間を見ることを忘れないでしょうに、霊にばかりこだわってきた楽山には、良心も良識もあるとは思われず、人間らしい感性の名残すらも見られないのです。
 
人生論だとか、価値観の話には今でも心を動かされるというのはうれしい。
そんなわけで、今回の読書でハッとさせられた部分について書いておきたい。
 
楽山は、人生論と価値観とスピリチュアルが、同質になっているようです。怖いことです。楽山にとって、心霊の話は、楽をして、お山に登りたい欲望だと思います。楽山が「ハッとさせられ」ることは、恐らく、一度もなかったのではないかと思います。
 
*ものごとには時期があるということ
まず本書では、霊的な思想を他人に押し付けてはいけないということが繰り返されているの印象的だ。
真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(一)』アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳、潮文社、平成3年、p.55)
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(同上、p.35)
 」
実をいえば、以前の自分はこのことが全然分かっておらず、とある新興宗教の影響を受けて、真理を受け入れない人がいると、下根だとみなしていたのだった。
 
「以前の自分はこのことが全然分かっておらず」・・今は分かっているような口ぶりです。楽山は、人間にとって大切なことが何も分かっていないと思います。だから、発言の信用度はゼロです。
 
(ネットより)
げ‐こん【下根】 の解説
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機 (げき) 。下機根。→上根 →中根
 
楽山は、しっかりした自らの思想を持っておらず、もっと邪悪な妄想や先入観のほうを選んで、自らの思想を詭弁によって執拗に刷り込もうとしてきたのです。私のブログに、いっぱい楽山の妄念が引用として表れています。ここもそうです。
 
楽山は、今までの経過から、他者を下根と見なしていたが、自らに、下根を当てはめる、罪や偽善を当てはめる、ということがないようです。評論家気取りの文章で、他者を見下ろす姿勢は、今も変わりません。訂正不能の自己愛の表れであります。
 
でもさすがに今はもういい年なので、
 
反省は、いい年だからする、というものではありません。若いときからの積み重ねであることが、全く分かっていないようで、相変わらず、いい加減なことしか言わない楽山です。書けば書くほど、いたるところに、自己愛、慢心、いい加減さが、漏れ出てくる楽山です。
 
そんなことは思わず、シルバー・バーチと同じ考え方になってきている。霊的なことを受け入れない人がいたとしたら、その人にとってその時期が来ていないか、はたまたその人の個性に応じて他の方面での役割があるということなのだ。下根だとか、上根だとかとは別のことだ。
 
「シルバー・バーチと同じ考え方になって」・・これが、高ぶりの霊能者気取りだということが分からない楽山です。詭弁を弄してきたことに、何の反省もないほどに悪質な楽山です。しかも、責任逃れに、教訓的でもあるシルバーバーチの霊言を悪用しています。
 
時期が来ていない、個性に応じて、という言い方は、いい加減で、思いついた体のいいことを書いただけだと思います。楽山は、恐らく、真摯に反省することさえできない人だろうと思います。「下根だとか、上根だとかとは別」・・上根ということなら、批判に答えられるはずです。
 
*真理の独占?
これは耳に痛い言葉だ。
人間はとかく自分のかかわった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。
(同上、p.79)
 」
いつも書いている如く、かつて自分はとある新興宗教の信者だったのだが、その教団ではまるで自分たちが真理を専有しているかのように主張していたのだった。
 
楽山が、今、霊力を占有しているつもりがないなら、本当に謙虚であったなら、批判を無視することはなかったでしょう。偽牧師シャロームshalomに無条件賛同もしなかったでしょう。またしても、邪悪な作為です。過去がどんどん追いかけてきて、無反省の楽山を斬っているのです。
 
つまり、楽山の、昔は専有、今は違う、という嘘です。楽山の今までの発言が、否定しています。言論の履歴によって、今の言論の嘘が表れてくる例なのです。真理を占有することを批判している楽山こそが、今までの経過から、訂正不能の自己中だということが明らかになっています。
 
教団の創成期のうちは、他にも真理にかなった教団はあるとして、他教団にも一定の敬意を払っていたのではあるが、じきに当教団の教えは最高、最大、最強であって、天上界の高級諸神霊も当教団に集結しているとして、まるで自分たちだけが真理を独占しているかのような主張をするようになり、自分はそういう教祖、教団の主張を信じて、他宗教を低く見ていたわけである。これは今となっては実に恥ずかしいし、自分史としてはまさに黒歴史である。とほほ。
 
ならば、キリスト教への、難癖、いちゃもん、一方で、ほめ言葉、そして、今、他宗教を低く見ていた、などと言う、ばらばらの反省は、芝居でしかありません。「黒歴史」「とほほ」、これも嘘、そのまま、嘘吐きの謙虚芝居のトホホ言語と呼んでいます。楽山の成り立たない正当化です。
 
楽山の言は、粘着して収まるところがないようで、このことが、楽山の、他者を見下ろす自己愛と自己顕示の無反省による訂正不能なのです。しかも、しつこく何度も、自分を出して、グリグリと押してくるように繰り返すのは、自己愛性人格障害のサディスティックな体質の表れなのでしょう。
 
*善と悪
これは勇気ある発言だ。
私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。
(同上、p.83)
 」
悪を捨てて善を取れ、闇から離れて光を求めよと説くのは、ある意味、楽である。これなら多くの人々が納得できる話であろうし、余計な波風も経たず、面倒がなくてよい。
 
善人となることは、それほど楽ではありません。完全な善人は、一人もいません。楽山は、納得できないことが多く、波風が寄せてきて、面倒なことの多い、この地上の世界を、すべて無視して言っているということを覚えてください。低劣な短絡なのです。
 
善だけでなく、悪にも神の存在が宿る、と楽山は、言いたいようです。楽山には、神と悪魔の区別がつかないことが分かります。どちらも目に見えない存在ですが、目に見えて、楽山は、自らの悪の正当化を、こともあろうに、神という言葉によって企んでいるのです。
 
神が悪に宿るというのは、悪も救われるかのような、誤解を招きやすい言い方です。早速、楽山に利用されています。神が、悔い改めない悪に及ぼすことは、結局、裁きしかないのです。どうして、訂正不能の悪を救う神?がいるでしょうか。どうして、そういう神?が信じられるでしょうか。
 
楽山に、神が宿っていたら、楽山が、悪そして偽善者でなかったら、善または偽悪者であったなら、今までのような嘘と詭弁の経過はなかったはずです。楽山に宿っているのは、一時的な悪以上の、嘘と詭弁の、偽善の最悪でしかないのです。罪悪感がなく反省しないことが証拠です。
 
でも、善と悪、光と闇、神の絶対性などについて思案すれば、ことはそう単純でないことはすぐわかるし、上のような考えに行き着くのも道理ではある。
こういうところは、シルバー・バーチの霊言は、単純な二元論を語るそこいらの新興宗教よりも、よほど思想的である。
 
善を勧め、悪を離れよ、というだけの説教は、言うだけなら誰にでもできる、という、はっきり言って、何も言っていないのと同じです。そこに、人間の闇の部分を考察しなければ、空疎で幼稚な説教であります。その典型的な幼稚さが、楽山を通して、霊言の解釈にも、表れています。
 
楽山は、妄想的であって、思想的ではありません。ゆえに、楽山は、単純な言葉では表せないところを、一度も説明できたことがありません。逆説的な香りに、興味本位の原始反応を加えて、自己顕示欲から、言っているだけなのです。
 
それが、楽山のような、自己愛からの自己顕示欲という、反省できない者の宿命なのです。そして、楽山が、実質の深さも示すことのないまま、資格も能力もなく、霊言を褒め讃えているのは、個人でありながら、有害なカルト性を示していることにしかならないのです。
 
善と悪には、二元論以前に、既に、良識からの直観的な区別があります。楽山は、そこに欠陥があり、単純な二元論などと、知ってるふうを装いますが、実際には、自分を正当化し、結果として、悪だけを勧める者でしかありません。良心のない者、心ない者は、こういうことしか言えないのです。
 
 
(2)に、つづく
 
 
詭弁の空 無理の暴走

詭弁の空、無理の暴走
 
 
(2020年08月12日、同日一部修正)
(2021年10月26日、再録+)
 
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりして
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  委ねるとき
 
たとえば癒しの御言葉
「思い煩うな」が
ときに無理強いの「してはならない」に
否定の「べき」になってはいないか
自分で自分に強いてはいないか
 
すでに思い煩っているのだが
思い煩え
と試しに言ってみる
思い
わずらってみる
すると思い煩うこと
に耐えられない自分しか残っていない
そういう時ではないかと・・・
 
いかなる優れた言葉も
自分の持ち物のように使えば使うほど
持ち物のように磨(す)り減って
死んでゆく性質を持っているようです
そういうときには
そのたびに改めて正直に悔いて祈り
新品として頂くしかないようで・・・
 
 
 
楽山日記にある、誰からか分からないコメントです。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
「人間の性」のせいにしています。一般化という詭弁です。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山の心霊主義2
 
 組織の奴隷になってはいけないということ
 2020年08月01日 楽山日記(LD) 今回は抜粋です。
  を改めて批判。
 
 
楽山の、人間を超えたい欲望である心霊主義が、明らかになっています。証拠といってよいでしょう。楽山には、聖書など、キリストなど、どうでもよいのです。もう、ごまかせないです。聖書と、心霊主義の超常カルトとに、同時に従うことは出来ません。
 
楽山は、人間が嫌で嫌で、超常の心霊に、ワープでもして、一気に、霊的?超人?にでもなりたいのでしょう。考えること、感じることが、苦手で、嫌になった者が、陥りやすいカルトへの誘惑、そして、教祖願望です。楽山が気取って書いて、楽山が自己満の悪意と不備をさらすことになります。
 
心霊現象というものが、全然ないのかどうか、私は知りません。しかし、そこだけに拘泥して、人間性を失うのであれば、それは、カルトの非人間としか言いようがないのです。楽山に、思慮と高等感情が見られないのは、そのせいかもしれません。
 
*組織の奴隷になってはいけないこと
ツイッターで、次のツイートを見た。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。
午前6:00 · 2020年8月1日
 」
恥ずかしながら自分は、とある新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る言葉だ。
 
「新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る」ならば、霊界からのメッセージなるものを、自身のブログの記事にするでしょうか。楽山は、今も、超常カルトの信奉者だということです。
 
組織に縛られる、古いお決まりの教説、これは、人間の限界を表しています。それが、かえって、罪になることもあります。しかし、その問題を、一気に、目新しい言説をもって、飛び越えようとするところに、カルトは生まれてくるのです。
 
そして、自分がそのようなカルト教祖になりたいと、霊が分かるっぽい楽山は、欲望しているからこそ、前の、キリスト教の聖書のヨブ記についての記事から、軽々と、霊界の話に移れるのです。
 
幽霊の正体見たり枯れ尾花、楽山の正体見たり自己顕示。楽山は、霊能者気取り、現実より霊の世界に親和する者。空想非科学、空想非宗教、空想非人間が、楽山の正体でしょう。
 
(ネットより)
幽霊(ゆうれい)の正体見たり枯(か)れ尾花(おばな):恐ろしいと思っていると、何でもないものまで恐ろしく見えてくるという意味
 
「組織の歯車とはなるな!」「組織の奴隷になってはいけない!」などというのは、誰しも承知していることであり、分かりきったことだろうし、自分もこれは分かっているつもりだった。
でもそれでいながら自分は、とある新興宗教の物語…ノストラダムスが予言した世紀末の天変地異が迫っている、このままでは人類は滅亡しかねない、この危機を乗り越えるために仏陀が地上に降りた、志ある者たちは仏陀の下に集い、救世のために力を合わせるのだ、みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語に飲み込まれてしまったのだった。はじめは救世活動に励んでいる会員たちを、冷ややかに見ていたのだが、そういう人たちと付き合ううちに、朱に染まれば紅くなるように自分もだんだんのめり込んでいってしまった。
 
「みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語」という話に賛同して、どうして、他者を無視できると言うのでしょう。飲み込まれてしまったというのは、楽山の特徴としての、不都合を人のせいにする卑怯な他罰的被害者意識に他ならないのです。
 
楽山が組織の歯車になるのではなく、楽山が、人を、歯車のような道具として使い捨てているということです。楽山は、のめり込んだのではなく、楽山は、なんとなく、人を、のめりこませて、疲れさせ、抵抗力を失わせる、というカルトの手法を使っています。
 
楽山は、他者を、自分のための歯車にしたいのでしょう。だから、宗教など、あちこちにすり寄り、半端な知識をもって、分かったことにして、それらを、凌駕したと思いたいのでしょう。地道な努力をしたくない者が走る短絡であり、これこそが、他者を落とし入れて腐らせる罠であります。
 
そして最終的には、仏陀を自称する教祖と教団の都合がよいように動くロボットになってしまった。仮に教祖や教団に疑問を感じることがあっても、「自分の小さな頭で考えたって何が分かるものか。教祖と教団は、自分には分からない先の先を考えた上で判断なさっているのだ、自分はただ信じてついて行くだけだ」という風に自分の頭で考えることを放棄するようになってしまっていた。
 
楽山は、今もロボットです。質が悪く、整わず、単調な丁寧語をもって、人を、だましています。楽山は、小さな頭という自覚がなく、いつも利用する側にいるつもりで、大きな、そしてガラクタに満たされた頭を、ガタガタと揺らして、部品が跳ぶのもお構いなしに、自己顕示してきます。
 
楽山は、自分の頭と心で、自立して感じたり考えたりすることが出来ません。にもかかわらず、キリスト教を浅薄な屁理屈で批判し否定しようとしてきたのは、恐らく、血の通った人間的な物の見方を放棄してきたからなのでしょう。その結果が、霊能者気取りになっているのです。
 
いやはや、「組織の奴隷になるな」という教訓を学ぶためとしては、いささか高い授業料を払ってしまったものである。でもこのおかげで、権威主義だとか、太いものには巻かれろという発想からは、うんと距離を取ることが出来るようになったのはよかった。
 
楽山は、自分の権威主義にだけは気づきもせず、太いものになりたいと今も思い続けて、人を支配して巻き添えにするためにブログを書いているわけです。その偏った自己中人格が、刷り込みのボンヤリ言語と、同情をひくトホホ言語の悪習によって、人を巻き添えにしようとしてきました。
 
楽山は、それこそ、自分が太いものになって、他者を巻き込みたいだけだと思います。被害から解放されたのではなく、被害者から、加害者に変わってきたのでしょう。最後には、双方から、いちばん酷い目に遭わされることを考えないのが、自己愛性パーソナリティ障害なのでしょうか。
 
*霊界からのメッセージ
この他にも、「霊界からのメッセージ」さんのツイートをいろいろ読んでいて、なぜか懐かしい感じがして不思議だったのだが、プロフィールを読んで納得である。スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じるのも道理である。
 
楽山のルーツは、スピリチュアルではなく、霊が分かるっぽい世界、即ち、超常カルトだと思います。楽山にルーツなどはなく、根無し草で、生まれ育ちからの人格障害の瓦礫を背負って生きている人だと思います。
 
「スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じる」・・証拠といってよいでしょう。楽山は、人間性の深い情緒にではなく、超常の霊の世界に郷愁を感じるそうです。
 
以下は、霊に囚われた楽山という霊媒志向の超常カルトが、尊敬?するお仲間?の霊的?心理?を宣伝しています。ずいぶん、「?」が付く話です。
 
「霊界からのメッセージ」さんは、固定ツイートで、シルバー・バーチの関連書籍へのリンクを貼っておられる。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
😃お知らせ😃
シルバーバーチは宗教ではありません。霊的真理を説いています。
シルバーバーチの関連本が、「シルバーバーチ読書会・かつしか」さんのホームページ上で無料で公開されています。
⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️
https://kokorodou.p-kit.com/page199127.html
皆さんも霊言をリツイートして霊的真理の普及にご協力を🙇‍♂
午前11:20 · 2019年11月19日
 」
ふと思い出したのだが、随分前に、幸福の科学(HS)に愛想を尽かして退会したあと、シルバー・バーチに回帰し、その思想の普及活動をしたいといっていた方がおられたのだった。その後は宣言通りにHPを作っているのを拝見したが、今も元気でおられるといいな。
・シルバーバーチの霊訓 全十二巻
それにしても全十二巻を公開というのはすごい。これはちょこっとずつ読みたいと思う。スピリチュアルな方面については、しばらく前から遠退いていたのだが、そろそろまた読んでみるべき時期かもしれぬ。
 
楽山が、いくら、読みたい、読んでみる、などと、読むことを書いて、読書家アピールをしても、読解が、自己愛性パーソナリティ障害と、理路の不整と、共感性の欠如によって、自己中に偏っているなら、読めば読むほど、さらに、偏るだけなのです。
 
霊のメッセージ、霊訓を、霊的真理と呼ぶ人の言を、すごいと言っている楽山です。こういうのを、いわゆる、心霊主義というのでしょう。人間の大切な共感性を無視して、心霊主義の世界から、キリスト教・キリスト信仰・聖書について書かれたのでは、質朴な信徒はたまりません。
 
楽山を聞き入れたら、求道者も、道を誤るでしょう。楽山の非人間的なカルト性が、いかんなく表れています。霊という言葉は、聖霊など、キリスト教でも使われますが、霊的○○といえば、宗教的な特別な何か、というような見方は、間違っていると思います。
 
シルバーバーチについて:
(ネットより)
モーリス・バーバネル(Maurice Barbanell、1902年5月3日 - 1981年7月17日)は、イギリスの心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』の編集者。1932年の創刊時から同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった[1][2]。バーバネル自身も霊媒であり、「シルバーバーチ」という霊のメッセージ(霊訓、霊言、霊界通信)を伝えたとされている[3]。交霊は1920年から60年近く続き、広い影響を与えた。
ウィキペディア
 
私の立場から言えば、心霊主義の、霊的メッセージに脅かされて、人間性よりも超常に従って、それを聞けば救われ、聞かなければ滅びるかのような恐怖から、誘惑に乗るくらいなら、人間のまま、地上で死にたいと思います。
 
楽山のような人間性を捨てた者が救われるわけですから、そのような世界に生存することを、私は、激しく嫌悪し、存在する意味がないと判断するからです。楽山は、以上のような人です。そうでない楽山を、楽山は表したことがないというのが根拠です。
 
だから、批判を続けています。自分を人格崩壊から守り、誰も悪影響を受けないためであり、ことの是非を考える人間でありたいからであります。同時に、楽山のような人が、増殖して幅を利かせるようになってほしくないからでもあります。
 
欲望の悪しき誘惑を、根拠のない妄想を、そして、遊び半分の思い付きを、心霊主義と呼んでいる楽山のような者が、世の中には、いるということです。間違っても、真実の追求や、人間の救済や、キリスト教などの宗教について、楽山が語ることを、真に受けてはいけません。
 
 
霊を信じる化け物

霊を信じる化け物
 
 
(2020年08月03日)
(2021年09月日02日、再録+)
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
 
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
(はっきりしたイメージではないのですが、
 教会で、小さく丸く俯いて座って
 祈っていた高齢女性の姿が今も忘れられません。
 楽山とは、真逆の姿勢です。)
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う時が
短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
(昔の、今の・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ここは「僕なりの正義」という風に、限定的に書いてるから、そこまで否定しなくてもいいんじゃないかと思います。
信者のなかには、自分は「神の正義」に則って行動してると思い込んで、他を裁きまくる人がいるし、これよりは余程いいです。
午前7:02 · 2021年9月1日
 
楽山の「僕なりの正義」は、限定どころではなく、人を人とも思わない自己中のことです。どこまでも否定し続けなければいけません。それにしても、自己正当化のためには、誰の意見だろうが、好きなように言葉尻を利用してくるから、本当に、恐ろしい男です。
 
楽山は、手段を選ばず、人のものでも、都合のよいことは何でも勝手に盗んで利用するので、決して信用してはいけません。「神の正義」ではなく、楽山は、人間の常識と良心に反しています。楽山の思想ほど、悪質なペテンを、今まで見たことがありません。人間とは思えません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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  楽山の零言
 
 星野源 守護霊の霊言が話題になっていた
 2021年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
ゴシップ好きの楽山は、こういう話が大好きなのでしょう。真剣ということが全く成り立たない楽山は、キリスト教と神さえも、ゴシップのように興味本位で扱って、根拠が無くても、平気で、おとしめ、否定してきました。
 
根無し草で無反省で無責任の軽口を、あたかも、真理であるかのように語る楽山を、決して信頼しないでください。楽山には、自己愛からの虚言と妄想と固定観念しかありません。
 
楽山は、霊言が大好きなのです。楽山は、記事にもしばしば取り上げていました。
 
*守護霊の霊言というけれど…
新垣結衣と星野源が結婚したとのことで、アンチHS界隈では改めて星野源守護霊の霊言が話題になっていた。そのなかで次の記事をツイートしている方もいた。
・幸福の科学・大川隆法の「星野源」守護霊インタビューを読んでみたら驚愕の内容が...いまも童貞、風呂の鼻歌で曲作り (2017年2月16日) - エキサイトニュース
(リンク省略)
教団は霊言は真実であり、宗教的秘儀だとかいうけれど、こういう記事を読む限りは、たちの悪い冗談だとしか思えないというのが正直なところだ。
 
霊言について、ここでは、批判していますが、楽山は、今まで、憧れであるかのように、書いてきました。無根拠で受け取れるかのような、インスタントな超常が大好きな楽山です。こういう心霊好みの人の意見を受け入れるべきではありません。自分で判断してください。
 
*他の評価は…
この霊言について他ではどう評価されているのか気になったので、とりあえずAmazonを見てみた。
・俳優・星野源 守護霊メッセージ「君は、35歳童貞男を演じられるか。」 (OR books) | 大川 隆法 |本 | 通販 | Amazon
(リンク省略)
カスタマーレビューをみると、星4つをつけている人もいるけれども、ほとんどの方が強く憤慨している。本人の著作と間違えて購入しないようにという注意もある。それはそうだろうな。
 
「それはそうだろうな」と楽しんでいる楽山を信用しないでください。まともを装う楽山は、ゴシップと同じ視野で、宗教と信仰の真実を知ろうともしないで、否定してきました。無知であるのに、恥を感じない無恥であります。話が、散乱して、また、"人それぞれ" になってゆくからです。
 
大きなお世話かもしれないが、HSはこれらの意見を尊重し、霊言集の表紙、売り方について再考してみてはどうだろうか。
 
「大きなお世話」ではなく、何のお世話にもなりえないのが、楽山です。何か世話をしようとか、助けようとか、糧を提供するとか、生産的な意志が、楽山にはないのです。軽いことも、重いことも、雑談しか出来ません。だから、「大きなお世話かもしれない」ではなく、迷惑にしかなりません。
 
楽山は、確かアンチHSを気取っていたはずですが、「再考してみてはどうだろうか」と、ご丁寧な言い方で、まるで、ご意見番のように、アドバイスのように書いています。真摯だから?紳士だから?・・違います。責任をもって、一貫した文脈を構成する、ということが出来ないのです。
 
興味本位だけなので、主張が、散乱するからでしょう。楽山は、きっぱり否定したり、全否定したりが、出来ない人です。いかなる宗教も真剣に考えたことのない、いい加減さが、今まで表れてきた楽山です。感性が鈍く、知性がまとまらず、責任を負う気がないから、はっきり書けないのです。
 
このように、誰もが、おかしいと思うような他者の不都合を、楽山は、喜んで記事にして、楽しんで、おとしめてきます。自分以外の、自分と同じ意見以外の、他の意見を、考察することが出来ないのです。結論から始まって、結論に終始します。こういう者が、煽動屋ということです。
 
自分単独では何も考えることが出来ない、理路が成り立たない、心に響くことがない、心に響かせる文章が書けない、だから、無根拠に、当たり前でしょ・・ということに飛びついて、丁寧語でカモフラージュしながら、はやし立てるわけです。
 
そのくせ、楽山は、責任を負わせられては、たまらないのでしょう。八方美人というか、曖昧というか、煙に巻くというか、何を書いても、言い訳や、責任回避がついてきます。責任を負う気がないなら、書くべきではないのですが、自己顕示と自己愛が、粘りついて、結局、ずっと、卑怯者です。
 
霧雨の、くもりガラスの、煙が目に染みるのではなく鼻に突く、そういうことしか書けないので、オブラートに包んで、すぐに破れて粉のように散乱してゆく、それが、楽山の言であり、その時点で、既に、楽山は、言論者ではなく、口さがない軽口のゴシップマニアです。
 
(ネットより)
くち‐さがな・い【口さがない】 の解説
[形][文]くちさがな・し[ク]他人のうわさや批評を無責任・無遠慮にするさま。「―・い世間の人々」
 
小鳥のさえずり twitter は、聞いて気持ちがよいこともありますが、楽山の無責任な記事とツイートは、みるたびに、うんざりします。
 
(ネットより)
Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典
twitter
(小鳥の)さえずり、興奮、身震い
tweet
チッチッと鳴く
 
楽山の霊言についての話は、零言です。チッチッではなく、ピヨピヨでもなく、
耳鳴りのような、シーシー、キーンキーン、チェックソ、・・の類です。
 
 
災い

わざわい
 
 
(2021年05月23日)
 
 
 
  止めてごらん
 
焼いてごらん この網膜
裂いてごらん この硬膜
切ってごらん この動脈
湧き水だよ 面白いよ
戻してごらん この食欲
晒してごらん この性欲
潰してごらん この贅沢
どんよりだよ 眠たいよ
殺してごらん この希望
殺してごらん この無謀
殺してごらん この骸(むくろ)
どんよりと曇った日の
山奥の涌き水を止めてごらん
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
 
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
 
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
(90年代か)
 
 
 
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